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66-8.製錬滓・精錬滓・鍛錬滓の判定基準を発見 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

鉄滓(スラグ)が、砂鉄や鉱石を製錬する工程で出来た製錬滓か、製錬で取り出された鉄塊を鉄の地金にする精錬鍛冶の工程で出来た精錬鍛冶滓か、それとも鉄の地金から利器・武器を作る鍛造鍛冶の工程で出来た鍛錬鍛冶滓か見分ける指標としては、鉄滓に含まれる鉄の成分%(T・Fe)が有効である。また、酸化チタン(Ti2)は炉壁の粘土や木炭の灰分に含まれてなく、原料に含まれていた酸化チタンの大部分が、鉄滓により排出されるため、鉄滓の分類の重要な指標の一つである。酸化チタンは砂鉄に多く含まれており、砂鉄を原料とした鉄滓の見分けには有効であるが、その含有量が少ない磁鉄鉱では、磁鉄鉱由来の製錬滓の酸化チタン量と、砂鉄由来の精錬滓・鍛錬滓の酸化チタン量が良く似た値となり、鉄滓の素性を明確に分類することが出来ていない。

 

Z275.TiO2とMnO.png酸化チタンと同じように、炉壁の粘土や木炭の灰分に含まれてなく、原料に含まれて、そして鉄滓として排出され地金に残らない成分に酸化マンガンがある。ただ、酸化マンガンの含有量は酸化チタンの含有量に比較して一桁少ない。そこで、酸化マンガンの含有量を10倍し、原料の砂鉄・磁鉄鉱と鉄塊に含まれる酸化チタン(Ti2)と酸化マンガン(MnOx10)の量を図Z275に示した。なお、図を見やすくするために値は平方根(SQRT)としている。図を見ると両者共2個の異常値を除くとほぼ等価であることが分かる。酸化マンガンは磁鉄鉱に多く含まれており、酸化チタンを補って、鉄滓の素性を明確に分類するための指標となり得ることが分かる。

 

前章で用いた鉄滓の分析データ、砂鉄系製錬滓と判定されたもの162件、鉱石系製錬滓が58件、精錬鍛冶滓42件、鍛錬鍛冶滓93件について、横軸を鉄の成分%(T・Fe)とし、縦軸を(Ti2/5+MnO/0.)の平方根(以後「TiMn指数」と呼ぶ)とした。図Z276 にその結果を示す。製錬滓は直線y=0.04X-0.8(以後「製錬/鍛冶直線」と呼ぶ)の上の領域にあり、鍛冶滓は直線の下の領域にある。鍛冶滓の領域で、横線y=0.7(以後「精錬/鍛錬直線」と呼ぶ)の上の領域が精錬鍛冶滓、下の領域が鍛錬鍛冶滓である。大澤氏・天辰氏の判定とは製錬滓で93%と合致し、精錬鍛冶滓は72%、鍛錬鍛冶滓は85%が合致している(0.1以内の差は無視)。両氏の判定と合致しなかった41点について、私の判定をもとに両氏の判定基準にプロットした。図Z277で右下の精錬鍛冶滓2点を除いて、私の判定に矛盾が無いことを示している。私の判定基準は、鉄滓の素性を明確に分類することが出来ると確信する。

Z276.鉄滓の素性判定.pngZ277.判定基準の検証.png

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66-7.鉄滓の成分は製鉄の道しるべ [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

古代の製鉄遺構は、製鉄炉本体が残存していたことは殆どなく、土坑・焼土・羽口・鉄滓などで、その存在を確認している。もし弥生時代に製鉄がなされていたとしても、製鉄炉が繰り返し使用されたものでなければ、土坑・焼土が遺構として残存することもなく、また羽口が粘土で作られておれば、粘土で作られた製鉄炉本体が残存していないのと同じように、羽口は残存していないであろう。これらを考えると、弥生時代に製鉄が行われた証拠は、鉄滓に求めるしかないと言っても過言ではない。しかし、鉄滓が出るのは製錬の工程ばかりでなく、製錬で取り出された鉄塊を鉄の地金にする精錬鍛冶の工程でも、鉄の地金から利器・武器を作る鍛錬鍛冶の工程でも、鍛冶炉の中に鉄滓が出来る。出土した鉄滓が製錬滓か、精錬鍛冶滓か、鍛錬鍛冶滓かの見分けが科学的になされる必要がある。

 

Z272.Slog鉄量とTiO2.png鉄滓の分析の分野では第一人者であられる大澤正巳氏は、鉄滓が製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の判定において,図Z272を基準にしておられる。この図は、2005年に「出土鉄滓の化学成分評価による製鉄工程の分類」で天辰正義氏が提示した図に準じている。図をみると、重なった部分が多く、鉄滓を明確に見分けることが難しいのではないかと思えた。そこで両氏が鉄滓の判定に関わった分析データを集め、その判定と、図Z272の判定基準との関係を調べた。砂鉄系製錬滓と判定されたもの162点、鉱石系製錬滓が58点、精錬鍛冶滓42点、鍛錬鍛冶滓93点である。

 

Z273.判定基準外.png砂鉄系製錬滓・鉱石系製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の判定基準の範囲外であっても、比定されていた比率を表Z273に示した。表の黄色の部分は、判定基準の範囲を広げなければ、データの信頼性が95%(2シグマ)を下回ってしまう項目で、図Z274の点線がその広げた範囲である。これをみれば重なった範囲が大きくなり、鉄滓が製錬滓か、精錬鍛冶滓か、鍛錬鍛冶滓か、鉄滓の素性を明確に見分けることが出来ないということが分かる。専門の方々は、鉄滓のガラス質成分比率や組織観察でその曖昧さを克服しているようである。しかし、鉄滓の判定の信頼性は高くなく、製錬滓の判定でもって我国の製鉄(製錬)開始年代を比定するまでには至ってないようである。

Z274.鉄滓判定基準と分布.png

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66-6.“目から鱗”、アフリカの鉄製錬 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z270.アフリカの鉄製錬.pngヨーロッパで鉄の歴史を研究されている学者は、アフリカの原住民の製鉄に興味を持っている。それは、原始的な製鉄方法が垣間見られるからであろう。You Tubeの「Smelting Iron in Africa」の映像がある。この映像は西アフリカのBurkinaで撮られたものであるが、この地方には紀元前にNok Cultureが栄え、製鉄(製錬)が行われていたそうだ。この映像を見ると、目から鱗、弥生人の知恵と工夫があれば、鉄の製錬は可能であったと推察できる。

 

製鉄の始まりは木炭作りから始まる。炭窯が無くとも簡単に木炭を作っている。初めに木を燃やし、周りから砂をかけて行き(1)、最終的には砂で覆ってしまうと(2)、火が消え蒸し焼きにされて木炭が出来上がる(3)

 

Z271-1.木炭造り.png

鉄鉱石の採集は手堀りで行っている(4)Burkinaの地方は磁鉄鉱(マグネタイト)と赤鉄鉱(ヘマタイト)の鉄鉱石が取れるが、デモには鉄含有量が43%から65%の磁鉄鉱が使われた。鉱石は目視で品位の高いのを撰び、大きさがこぶし大の半分くらいに揃えている(5)。次に採取したのがオークストーン(重晶石:BaSo4(6),スラグの流れを良くするフラックスと説明している。現在の製鉄で石灰石(CaCo3)を入れるのと同じ目的であろう。

 

Z271-2.鉱石の採取.png

炉を造る材料として粘土を採取し(7)、水を加えてスサ(8)を練りこむ。スサは木の葉(青い人の後ろにある)を利用している。炉の芯はヨシのような枝分かれしていな草の茎の下部の部分を、細い上部の部分で包んで作る(9)。下が大きく、上が小さい炉の形となる。

 

271-3.炉材作り.png

炉の芯を立て表面に粘土を貼り付けて行く(10)。1m程度の高さまで貼り付けたら表面をなで(11)、スサを貼り付け(12)、そして粘土をもう一層貼り付ける。炉の強度を確保するためにはスサが重要である。

 

271-4.炉体作り.png

粘土が乾燥し強度が出てきたら炉芯に使っていた茎を抜き(13)、下部に炉口を切る(14)。炉芯に使っていた茎などを燃やし、炉を乾燥させる。これで炉本体(15)の完成である。

 

271-5.炉口の製作.png

丸棒にスサ入りの粘土を巻き付け、羽口(16)・送風管(17)・フイゴ本体(18)を作る。

 

271-6.送風部品製作.png

炉に羽口・送風管・フイゴ本体を取り付け(19,20)、フイゴに革を張る(21)

 

Z271-7.送風機構の取付.png

炉に木炭を満杯に詰め、炉口より着火する(22)。木炭に火が付いたら羽口と炉口の隙間を粘土でふさぐ。木炭が燃え炉の頂上に隙間が出来ると、鉄鉱石と木炭を一籠ずつ交互に入れる(23,24)。オークストーンは木炭を入れた後に、一握りほど入れていた。

271-8.操業開始.png

 

フイゴの操作は一人が右手と左手で交互に行い(25)、人を交代させながら休みなく行われ、木炭・鉄鉱石・オークストーンの投入が行われる。所定の投入が終わると、羽口の周辺に覗きの口を開け、中の様子を伺いながら送風を行い、時期を見てノロ(鉄滓)が流し出さされる(26)。その後、もう少し送風を続け温度を上げると、鉄塊(Bloom)が半溶融状態となる(27)。操業開始から約10時間程度である。

 

271-9.スラグと鉄.png

製錬の工程が終わると鍛冶の工程にはいる。送風を止め、鉄塊を取り出す。取り出された鉄塊の表面はノロや木炭が付き凸凹している(28)。鉄塊を鉄床の上に置き、鏨を鉄鉗で挟んで鉄槌で打ち切り分ける(29)。表面は黒くなっていても中は赤く、溶岩とおなじである(30)

 

271-10.鉄塊.png

切り分けられた鉄片は鍛冶炉で加熱される(31)。鍛冶炉にも羽口・送風管・フイゴが取り付けられている。取り出された鉄は素早く連打され(32)、斧の素形が作られる(33)

 

271-11.鍛冶.png

鉄片が冷めると再び鍛冶炉で加熱し、斧のかたちに鍛造する(34)。製錬された鉄は炭素量の少ない延展性の良い錬鉄で、鍛造加工が容易である(35)。木の柄を取り付けると、鍛造鉄斧の完成である(36)

 

271-12.鉄斧.png

You Tubeの画像は、原材料の採取、炉・フイゴの製作、製錬、鍛冶と古代の製鉄の工程を垣間見ることが出来る。これらの工程の中で、現代の道具が使われていたのは、鍛冶に使用していた鉄鉗(やっとこ)である。弥生時代に鍛冶は存在していたとされているが、鍛冶に必要な道具の内、鉄床・鉄鎚は石で代用していたとしても、鉄鉗はどうしていたのだろうと考えさせられた。それに引き換え製錬までの工程は、弥生時代に全てがまかなう事が可能で、弥生時代に製鉄が行われていた可能性を伺わせるものである。


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66-5.我国の鉄製錬はいつ行われたか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

我国で製鉄が行われるようになったのは、古墳時代後期後半、6世紀の半ばからで、広島県東部から岡山県にまたがる古代の吉備地方であるというのが現在の定説である。現在、最古の製鉄遺跡と目されているのは、岡山県総社市のカナクロ谷遺跡、岡山県津山市の大蔵池南遺跡、広島県三次市の白ヶ迫遺跡、島根県邑南町の今佐屋山遺跡で、出土した須惠器から6世紀後半と見られている。当初の製鉄原料は朝鮮半島と同様に磁鉄鉱であったが、やがて砂鉄が使われるようになった。いわゆる「たたら製鉄」の始まりである。砂鉄は日本の各地で産出するために、製鉄が日本の各地で行われるようになった。

 

Z269.たたら製鉄炉.png我国の製鉄は19世紀半ばに高炉による製鉄技術が導入されるまで「たたら製鉄」であった。出雲の砂鉄による「たたら製鉄」は有名である。たたら製鉄では箱型の炉を使い、木炭と砂鉄を交互に投入し、炉の下部の羽口にフイゴ(蹈鞴:たたら)から送風する。炉の上部では砂鉄に含まれる酸化鉄が還元され鉄となり、炉の下部では砂鉄に含まれる酸化鉄と他の酸化物(SiO2Al2O3CaOMgOTiO2)が反応して溶融しノロ(Slag)となる。ノロには酸化鉄が多く含まれるので、鉄滓(金糞)と呼ばれている。還元された鉄は木炭と反応して炭素を吸収し鋼や鋳鉄の鉄塊となる。ノロは炉底から流れ出され、半溶融の鉄塊が炉を壊して取り出される。

 

鉄の含有率が高く酸化チタンが少ない砂鉄(真砂)の場合は、「鉧(けら)押し」と呼ばれる直接製錬法(1150℃前後)で鉧を造る。鉧は「精錬鍛冶」で鍛造されて不純物が取り除かれ錬鉄や鋼(玉鋼)となる。玉鋼からは日本刀が造られた。鉄の含有率が低く酸化チタンが多い砂鉄(赤目)の場合は、「銑(ずく)押し」と呼ばれる間接製錬法(1300℃前後)で銑(銑鉄)を造る。銑は炭素量4.3%で溶融温度が1135℃と低く鋳造され白鋳鉄となる。また、銑は「精錬鍛冶」で溶解処理されて炭素量を下げ可鍛鋳鉄・鋼・錬鉄の地金を造る。

 

弥生時代に鉄製錬が成されたという考えに対して、考古学者は否定的である。それは弥生時代の鉄製錬遺跡が発見されていないことは勿論のことであるが、それ以上に、鉄の製錬には高度の技術が必要であるとか、鉄の製錬には須恵器を焼成するくらいの高温が必要で、須恵器の生産が開始される古墳中期以前には困難であるとの考えが強いように思われる。もっと原始的な方法で、鉄鉱石から鉄を取り出すことが出来たと思うのだが。


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66-4.弥生後期後半、弁辰の鉄が輸入されていた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z-67.3世紀末朝鮮半島.png『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。図Z67に示すように、私は弁辰の地は洛東江の上流、慶尚北道の地であると解釈している。『魏志東夷伝』には「辰韓には秦の役を避けて韓国に亡命してきた人々が住んでいる。」としており、中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、洛東江の上流、慶尚北道の地で3世紀に製鉄が行われていたと推察する。

 

「65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷」で示したように、372年、百済の肖古王は応神天皇に七枝刀を奉り「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。この「谷那の鉄山」が漢江上流にある月岳山付近で、その北側にある韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城から4世紀の鉄製錬炉11基と鉄鋌40枚が出土している。弁辰の地は月岳山の南側である。月岳山一帯の地層は花崗岩であり、その北側で鉄鉱石が採れたならば、南側でも鉄鉱石の鉱床が存在しただろうと想像する。

 

『魏志東夷伝』弁辰条の「二郡にも供給している」とは、鉄の地金であったと思われる。辰韓(慶尚北道)や弁韓(慶尚南道)を中心に出土している斧状鉄板(板状鉄製品)が、3世紀に弁辰で造られた鉄の地金であると考える。なお、この斧状鉄板は4世紀中葉ごろの百済・新羅・伽耶の墳墓や日本の古墳から出土する鉄鋌とは似て非なるものである。大澤正巳氏の「金属組織学からみた日本列島と朝鮮半島の鉄」によれば福岡の西新町遺跡、熊本県の二子塚遺跡、島根の上野Ⅱ遺跡・板屋Ⅲ遺跡、鳥取の妻木晩田遺跡、徳島の矢野遺跡、埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から錬鉄の板状鉄製品が出土している。この板状鉄製品は弁辰の鉄で、弥生後期後半に輸入されたものと考えられる。

 

弁辰の地(洛東江の上流)で行われた製鉄は、直接製錬で錬鉄が造られたと考えるが、残念なことに製鉄遺跡は出土していない。直接製錬とは低温(1150℃前後)で錬鉄(炭素量0.3%以下)を直接取り出す、最も原始的な製錬方法である。鉄の収率が悪いので鉄の含有率の高い鉱石・砂鉄に用いられる。我国では、この錬鉄の斧状鉄板(板状鉄製品)を輸入して、900~800℃に加熱し、鍛造して武器・利器・工具を製作したのであろう。3世紀(弥生後期後葉)に全国的に鍛造品の鉄器化が進展したのは、弁辰の錬鉄を使用して鍛冶(鍛造鍛冶)が行われたと考える。ただ輸入ばかりに頼らずに、我国で製鉄(製錬)が行われていたのではないかと疑問が残る。


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66-3.王は楽浪より鉄製武器を手に入れた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

鋳造鉄斧は甕棺から出土することがなかったが、鉄製の武器(剣・矛・戈)は中期後半の甕棺から出土している。最も早いのが福岡市の吉武樋渡遺跡で61号甕棺のKⅢa(前200~前100)から剣1が、次が飯塚市の立岩遺跡で35号のKⅢb(前100~前50)から剣1・戈1である。それに続くKⅢc(前50~前1)の時代には11遺跡の20基の甕棺から、素環頭大刀2、刀1、剣11、矛3、戈7、刀子1、鉇(ヤリガンナ)3が出土している。もちろん後期の甕棺からも鉄製武器が出土している。『漢書 地理志』には、「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来り献じ見ゆ」とある。甕棺墓・木棺墓などの墓に副葬された鉄製武器は、倭国の王や首長が紀元前108年に設置された楽浪郡から鏡と一緒に手に入れたものであろう。鉄製武器が倭国に入ってきたのは、弥生中期後葉(前125~1年)以降からである。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

広島大学の川越哲志氏は「弥生時代鉄器の研究」と題し、平成9年度までに刊行された発掘報告書から弥生時代鉄器資料を抽出して、1998年にその研究成果を報告している。なお、本研究は歴博がAMS法による炭素14年代測定法により、弥生時代の開始を500年遡った紀元前800年頃と発表した以前にまとめられたものであり、その後の広島大学の野島永氏の見解などを基に修正(黄色)している。

  1. 弥生時代の鉄器出土遺跡は、1800遺跡、鉄器数は約8000点以上になり、研究代表者が1970年に集成した201遺跡、542点にくらべると、大幅な増加である。

  2. とくに、3世紀(後期後半、終末期)の鉄器資料が多く、この時期に全国的に鉄器化が進展したといえる。

  3. 出土分布は北部九州が最多で、東にいくほど希薄になり、国内の鉄器やその技術の伝播が北部九州を基点に東方へ拡大したことが明らかである。

  4. 北部九州は弥生時代の開始時期(中期初頭)から鉄器が導入され、中国・四国・近畿地方は中期後葉、中部・関東以北は後期中葉に導入されるが、本州北端までは及ばなかった。

  5. 弥生時代の鉄器の大部分は鍛造品であるが、西日本では中期から中国戦国時代の燕、斉の系譜を引く舶載鋳造鉄器や、その一部分を加工した国産鉄工具があり、鋳造品は関東まで伝えられた。

  6. 生産用具の鉄器化は工具から始まり、農具の鉄器化は遅れて進行した。

  7. 鉄器化の段階には地域性があり、後期になると各地で鉄器の形態、種類、組成に地域性が生じた。

  8. 鉄製武器は中国前漢の馬弩関(馬・武器が関所外に出ることの禁止)の制約から解放された舶載品が中期後葉に北部九州に出現したが、国産の大型鉄剣、鉄刀は後期後半〜終末期に日本海沿岸部に多く、後期後半には関東でも国産小型武器が生産された。

 

我国に燕国から鋳造鉄斧が伝わったのは、弥生中期前葉の紀元前350年頃であり、その鋳造鉄斧は庶民の手に渡っている。王が洛陽から鏡と一緒に鉄製武器を手に入れたのは弥生中期後葉の紀元前100年頃である。我国で製鉄(製錬)が行われるようになったのは、古墳時代後期後半の550年頃であるというのが定説で、鉄の存在を知ってから鉄を産み出すまでに900年かかり、王が鉄器の有用性を知ってからでも、650年もかかったことになる。「弥生時代に製鉄はなされたか?」この議論も火花を散らしている。


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66-2.我国の鉄器の初現は紀元前4世紀後半 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

北部九州の弥生中期の甕棺墓からは、鏡・青銅器・鉄・ガラスなどの遺物が出土する。甕棺の型式別編年はなされており、その相対編年は信頼がおけるが、絶対年代(暦年:西暦)はあまり信頼が置けない。甕棺と日用土器の接点は少なく、炭素14年代測定による日用土器の編年もすんなりとはあてはまらない。私は、歴博の炭素14年代による日用土器の編年と甕棺の編年をマッチングさせることを試みた(Z265)。

 

Z265-Z267.甕棺編年.png

九州大学では型式が明確な甕棺から出土した人骨の炭素14年代測定を行っている(Z266)。歴博が調べた日本産樹木の年輪年代(較正年代:西暦)と炭素14年代のグラフを、私が定めた甕棺型式の編年で区分し、人骨の炭素14年代値をその甕棺型式の範囲の中で当てはめてみた(Z267)。6個の測定置が全て、日本産樹木の炭素14年代値と合致するところにプロット出来た。このことは、甕棺の編年が合っている証であるといえる。そして、弥生時代中期の始まりを紀元前375年と定めることが出来た。甕棺の型式の年代を明確にすることで、北部九州の弥生中期・後期の墳墓に副葬された遺物の出現期・消滅期の暦年が明確にすることが出来た(図Z268)。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

我国の初期の鉄器(鋳造鉄斧)の多くは、竪穴式住居に近隣する袋状土坑(貯蔵穴)から見つかる場合が多く、甕棺墓・木棺墓などの墓から出土することは無い。北部九州で城ノ越式土器(前350~300年)と鋳造鉄斧が共伴したのは、北九州市の中伏遺跡、新吉富村の中桑野遺跡、小郡市の北松尾口遺跡、朝倉市の上ノ原遺跡などであり、須玖Ⅰ式土器(前300年~200年)との共伴は、北九州市の馬場山遺跡、小郡市の一ノ口遺跡・若山遺跡・中尾遺跡・大板井遺跡、朝倉市の東小田遺跡などである。城ノ越式土器・須玖Ⅰ式土器の時代は、細形青銅武器(剣・矛・戈)と多鈕細文鏡が甕棺墓に副葬される時代である。韓国で鋳造鉄斧が出現するのは、多鈕粗文鏡が多鈕細文鏡に変わった直後で、合松里遺跡(忠清南道扶余郡)・素素里遺跡(忠清南道唐津郡)の木棺墓から細形銅剣・多鈕細文鏡と鋳造鉄斧が共伴して出土している。韓国と我国の鋳造鉄斧の形状は異なるが、出現する年代はほぼ同じであると考えられる。

 

多くの鉄器の分析を手がけられた大澤正巳氏は、城ノ越式土器と共伴した北九州市の中伏遺跡の二条突帯鋳造鉄斧の破片を分析され、白鋳鉄の表面が脱炭処理された白心加鍛鋳鉄と判定されている。愛媛大学の村上恭通氏は、『東アジア青銅器の系譜』の「東アジアにおける鉄器の起源」の中で、「燕国では戦国時代前期から鋳造鉄器が存在した。前期は硬くて脆い白鋳鉄のみ、後期になってねずみ鋳鉄・可鍛鋳鉄など利器に適した鋳鉄が増加する。しかも、後期には鋳鉄を脱炭する技術も確立されており、強靭な刃物の鍛造が可能となっている。」と述べておられる。中国の戦国時代は、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでとされている。私の編年では城ノ越式土器は350年~300年で戦国時代前期後半である、村上氏の見解に従えば、その時期燕国では脱炭の技術は確立していない。

 

『春秋時代 燕国の考古学』を著した石川岳彦氏は、小林青樹氏との共同で「春秋戦国期の燕国における初期鉄器と東方への拡散」を発表し、燕国では遅くとも紀元前5世紀前半から鉄斧などの日用利器が出現しており、朝鮮半島における鉄器の出現は紀元前5世紀後半であるとしている。従来、燕国での鉄器の出現は戦国時代の初め、紀元前400年頃と考えられていたものが、100年遡り春秋時代、紀元前500年頃と考えられるようになった。こう考えると、燕国で脱炭の技術が確立したのも100年遡り、戦国時代の初めの紀元前400年頃と考えることが出来る。弥生中期の初めの城ノ越式土器(前350~300年)と共伴した鋳造鉄器に脱炭処理がされていても齟齬はない。

 

これらを総合して考えると、我国に燕国の鉄器(鋳造鉄斧)が流入したのは、弥生中期前葉、紀元前4世紀後半(前350年~300年)、戦国時代前期後半と考える。弥生中期になって朝鮮半島から入ってきた細形青銅武器や多鈕細文鏡は威信財として墓に副葬されたが、鋳造鉄斧は墓に埋葬されることがなかった。細形青銅武器や多鈕細文鏡は王や首長の手に渡り、鋳造鉄斧は庶民の手に渡ったことを示している。

 


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66-1.我国に鉄器が出現したのはいつか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

私は歴史好きの仲間と年2回ほど日本全国の遺跡を巡る旅を行っている。昨年の暮れは、琵琶湖周辺の遺跡を巡る旅であったが、この旅を通じて琵琶湖周辺には製鉄遺跡が多いことを始めて知った。旅の企画をしてくれた友人の計らいで、立命館大学びわこ・くさつキヤンパスの陸上競技場の地下にある、木爪原遺跡という7~8世紀の製鉄遺跡も見学することが出来た。友人の説明では、近江は鉄鉱石が産出するため、マキノ・瀬田を中心として約60ヶ所の製鉄遺跡が在り、7世紀~8世紀における近畿地方最大の鉄生産国であったそうだ。ただ、鉱石から製鉄した鉄は脆く、砂鉄から製鉄した強靭な鉄に比較して品位が劣るため、9世紀になると砂鉄製鉄に押されて急激に衰退していったそうだ。私は学生時代に金属学を学び、長年金属に関わる仕事に従事して来たこともあって、我国の製鉄の歴史に興味を覚えた。

 

2003年5月、国立歴史民俗博物館(歴博)は日用土器に付着した”おこげ“のAMS法による炭素14年代測定を行い、日用土器の編年と照らし合わせて、弥生時代の前期の始まりは従来よりも500年遡った紀元前800年頃に、中期の始まりは200年遡った紀元前400年頃になると発表した。弥生時代開始年代が500年遡ることの衝撃はあまりにも大きく、この年代感は多くの考古学者から“あまりにも古すぎる”と受け入れられなかった。その反対意見が集中したのが鉄器の問題であった。

 

我国における鉄器の出現は、弥生早期とされる福岡県糸島市の曲り田遺跡から鉄斧が、また弥生時代初頭の熊本県玉名市の斉藤山遺跡からも鉄斧が、そして弥生前期初めの福岡県津福市の今川遺跡から鉄鏃が発見され、弥生時代の当初から鉄器が存在したと考えられていた。弥生時代の始まりが紀元前300年頃と考えられていた時代、考古学者はそれを納得していた。弥生時代が紀元前800年から始まるとすると、鉄器も紀元前800年頃に我国に存在していたことになる。中国での鉄の生産は春秋末から戦国早期、紀元前6・5世紀の頃と見られており、紀元前800年頃に我国に鉄器が存在することは有り得ない話しである。弥生開始年代は紀元前800年頃との説を主張する歴博の春成秀爾氏は、弥生早期・前期に出土したとされる鉄器の出土状況を詳細に検討し、これらの鉄器が弥生早期・前期のものである確証はないと反論している。「我国に鉄器が出現したのはいつか?」、この論議が火花を散らしている。

 

Z263.鋳造鉄斧.png春成氏は「弥生時代と鉄器」の中で、我国に始めてもたらされた鉄器は袋部に二条突帯をもつ鋳造鉄斧であるとし、これらが出土した8遺跡を取り上げ、その上限年代は中期初めとしている(前期後半・前期末は採用していない)。そして、弥生中期初め~中頃つまり戦国中期後半~後期に、主として鋳造鉄斧の破片が我国に入ってきて、弥生中期中頃つまり戦国後期頃に完全品が入ってきたという、鋳造鉄斧流入の二つの段階を設定することが出来るとしている。

   1.中伏遺跡   福岡県北九州市 中期初め
 2.比恵遺跡   福岡県福岡市  中期後半
  3.上の原遺跡  福岡県朝倉町  中期中頃
  4.下稗田遺跡  福岡県行橋市  前期後半~中期中頃
  5.庄原遺跡   福岡県添田町  中期中頃
 Z264.鋳造轍鮒の分布.png 6.大久保遺跡  愛媛県小松町  前期末~中期前葉
  7.西川津遺跡  鳥取県松江市  中期
  8.青谷上寺地遺跡 鳥取県鳥取市 中期中頃~古墳初め


二条突帯鋳造鉄斧は春秋戦国時代に中国東北部の燕国の地域で製作されたものであると考えられている。朝鮮半島から出土する鋳造鉄斧は二条突帯が無いタイプがほとんどであることから、我国の二条突帯鋳造鉄斧の起源は中国東北部の燕国の領域に求められている。Z264のは戦国時代に燕国で流通した明刀銭、は二条突帯鋳造鉄斧である。

 

広島大学の野島永氏の「研究史からみた弥生時代の鉄器文化」によれば、鉄器出現期の遺跡として、扇谷遺跡(京都府丹後市)・中山遺跡(広島県広島市)・大久保遺跡(愛媛県小松町)・綾羅木郷遺跡(山口県下関市)・山の神遺跡(山口県下関市)・下稗田遺跡(福岡県行橋市)・一ノ口遺跡(福岡県小郡市)の七つの遺跡を挙げ、最古段階の舶載鉄器(鋳造鉄斧)は前期末葉頃に出現した可能性が高い。中期前葉には戦国時代後期、中国東北地方を故地とする定型化した二条突帯斧が舶載鋳造鉄器の代表格となる。すでにこの段階の鉄器の多くが二条突帯斧などの鋳造鉄器の破片を再加工したものであるとしている。

 

私は博物館を見学すると、その博物館の年代観を知るために、必ず年表を見ることにしている。最近、弥生時代の開始を紀元前800年頃とする博物館が多くなった感じがする。その新しい年代観に従えば、我国に鉄器が出現したのは、弥生前期末葉あるいは中期の初め頃に、中国の東北部にある燕国から二条突帯鋳造鉄斧、あるいはその再加工された破片が持ち込まれたことに始まると言える。弥生時代の年代観が変わる中で、鉄の歴史も大きく変わろうとしている。


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65-7.韓国に存在する前方後円墳 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

『書紀』雄略23年の記事に「百済の文斤王が亡くなった。天皇は昆支王の五人の子の中で、末多王が若いのに聡明なのを見て、詔して内裏に呼ばれた。・・・その国の王とされ、兵器を与えられ、筑紫の国の兵士五百人を遣わして、国へ届けられた。これが東城王である。この年百済の貢物は、例年よりも勝っていた。筑紫の安致臣・馬飼臣らは舟軍を率いて高麗を討った。」とある。雄略23年の記事は挿入記事であり、「縮900年表」では『書紀』の編年の通りの479年で、雄略天皇(武)が「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号を与えられた翌年のことである。

 

『三国史記』によれば、百済は蓋鹵王21年(475年)に高句麗によって漢城(ソウル)が陥落した。蓋鹵王の子の文周が即位し、都を熊津(公州)移している。477年に文周王は重臣の解仇により殺害され、子の十三歳の三斤が位を継いだ。478年に解仇が反乱を起し、三斤王側の二千人の軍隊も勝てなかったが、五百人の精鋭な軍隊により解仇を撃ち殺すことが出来た。479年に三斤王が薨去し、文周王の弟の昆支の子である東城王が即位した。王は胆力が人よりまさり、弓が上手で百発百中であったとある。

 

『三国史記』は、478年に解仇が撃ち殺され、479年に三斤王が薨去したとしているが、史実は478年に解仇が三斤王を殺し、479年に解仇が五百人の精鋭な軍隊により撃ち殺されたと考える。五百人の精鋭な軍隊こそ、『書紀』雄略23年(479年)の記事にある「兵器を与えられて帰国した東城王と筑紫の国の兵士五百人」であったと思える。その後、倭国は百済の弱体化に乗じて「慕韓」の地を支配化に入れた。東城王は高句麗に対抗するためには倭国の後ろ盾が必要で、それを認めざるを得なかったということではないかと考える。

 

継体6年(519年)に、百済の使者が調を奉り、上表文で任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を欲しいと願った。哆唎の国守、穂積臣押山は「この4県は百済に連なっており、百済に賜って同国とすればこの地を保つためにこれに過るものはない。」と百済を援護している。大伴大連金村はこれらの意見に同調して天皇に奏上し、4県が百済に与えられている。これらからすると、雄略23年(479年)から継体6年(519年)の間、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県は倭国の支配下にあり、倭人の国守や官吏が赴任していたと考えられる。

 

Z261.Z262.韓国四県.jpg

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の比定地については諸説あるが、田中俊明氏は『古代の日本と伽耶』の中で、図461に示すように韓国南西部の全羅南道の栄山江流域に定めておられる。の栄山江流域には図462(ピンクは前方後円墳)に示すように13基の前方後円墳が存在する。1980年の発見当初は、韓国において日本の前方後円墳の起源になる古墳として注目されたこともあったが、埋葬施設が横穴式石室で、玄室は百済の方形で穹窿状(ドーム状)の天井とは異なり長方形で平天井であることから、倭国の前方後円墳の影響を受け造られたものであり、その築造年代は5世紀末から6世紀前半であるとされている。私の遺構・遺物の編年では、横穴式石室は470年からであり、倭国で横穴式石室が造られ出した時代に、韓国で造られたことになる。

 

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を倭国が支配下に置いた年代と、栄山江流域の前方後円墳の築造年代とが一致しており、前方後円墳に埋葬された被葬者は、4県に赴任していた倭人の国守や官吏と考えられる。栄山江流域の前方後円墳は、『書紀』が記す「任那四県割譲」が史実であったことを物語っている。


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65-6.韓国から出土する倭製の甲冑 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

近年、韓国の古墳から出土した甲冑が倭製であるとの報告が成されるようになってきた。短甲は総数34領で、方形板革綴短甲2点、帯金式革綴短甲の長方板革綴短甲5点、三角板革綴短甲10点、そして帯金式鋲留短甲の三角板鋲留短甲6点、横矧板鋲留短甲8点、その他3点である。冑は総数14領で、三角板革綴衝角付冑2点、三角板鋲留衝角付冑1点、横矧板鋲留衝角付冑2点、小札鋲留眉庇付冑4点、横矧板鋲留眉庇付冑2点、その他3点である。倭製であることは韓国の学者も認めているようだ。

Z260.韓国倭製短甲.pngこれらの出土地を図Z260に示した。赤が方形板革綴短甲、緑が帯金式革綴甲冑、青が帯金式鋲留甲冑である。丸一つが古墳1基であり、1基の古墳から二つの型式の甲冑が出土した場合は一つの丸に2色で示している。図をみてすぐ気が付くことは、洛東江の周辺、特に釜山・金海に丸が多いこと、緑は南部の海岸沿いに出土し、青は内陸部からも出土していることだ。韓国の古墳から出土する倭製の遺物は甲冑ばかりではない。筒形銅器と巴形銅器が洛東江の下流域の金海市・釜山市に集中して出土している。金海市では13基の古墳から筒形銅器が45個、巴形銅器が9個、釜山市では4基の古墳から筒形銅器が9個、威安郡は1基の古墳から筒形銅器が1個出土している。図Z260に、これらを赤で示しており、数字は筒形銅器が出土した古墳数である。この内、倭製甲冑と筒形銅器・巴形銅器が共伴したのは、赤方形板革綴短甲が出土した釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳だけである。福泉洞64号墳からは2個、大成洞1号墳は8個の筒形銅器が出土している。

Z255.4世紀末の朝鮮半島.png「縮900年表」によれば、366年に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まり、百済の肖古王は368年良馬2匹を、372年に七支刀を応神天皇に献上している。その間の369年にあたる『書紀』神功49年の記事には「倭国の荒田別と鹿我別の二人の将軍は兵を整え、百済の使者と共に卓淳国に至り、百済の木羅斤資の率いる精兵の応援も得て、新羅を打ち破った。そして比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国を平定した。・・・百済王の肖古と皇子の貴須は、荒田別・木羅斤資と意流村で一緒になり、相見て喜んだ。・・・百済王は春秋に朝貢しようと誓った。」とある。この比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国はZ255に示す加羅・任那・秦韓の地域の国々であり、伽耶諸国とされている国々である。『書紀』が記す「七ヶ国を平定」は潤色であり、倭国と伽耶諸国との同盟関係が出来たことを示していると考える。百済と伽耶諸国にとっては新羅・高句麗が脅威で、倭国の後ろ盾が必要であったのであろう。

 

私の古墳遺物の編年では、筒形銅器・巴形銅器が320~399年、方形板革綴短甲が340~369年、帯金式革綴甲冑が370~469年、帯金式鋲留甲冑が400~499年である。釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳から方形板革綴短甲(340~369年)が出土していることは、応神天皇(354~378年)の369年に倭国と伽耶諸国との同盟関係が始まったことを証明している。そして、帯金式革綴甲冑(370~469年)が伽耶諸国から多く出土していることは、仁徳天皇(381~431)の時代に、その同盟関係がより強くなり、特に任那(金海)・秦韓(釜山)は倭国との結びつきが強くなったことを意味している。

 

『宋書』倭国伝によれば、451年宋に朝献した済(允恭天皇:443~460年)に「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」が与えられている。順帝の昇明2年(478年)に朝献した武(雄略天皇:464~486年)にも同じ称号が与えられている。倭王に与えられた「使持節・都督・諸軍事」の意味は、軍事・内政面に支配権を与えるという称号であるが、倭国がこれらの国を支配しているという意味ではなく、宋に朝貢していない国々の支配権を認めたということに過ぎない。

 

応神天皇の369年に始まった伽耶諸国との同盟関係や、仁徳天皇の時代に結びつきが強くなった任那(金海)・秦韓(釜山)の関係は、宋の皇帝から「慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」の称号が与えられた允恭天皇(443~460年)・雄略天皇(464~486年)の時代には、加羅との関係を強め、慕韓を支配下に置こうとしたと思える。図260に見られるように、青帯金式鋲留甲冑(400~499年)が任那・秦韓だけでなく、加羅・慕韓の地からも出土しているのは、このことを物語っている。考古学から見た遺物の年代と、「縮900年表」を通してみた『書紀』の年代は、朝鮮半島でも見事に一致している。


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