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64-3.古墳の情報をウエブサイトから収集する [64.古墳の年代をエクセルで決める]

Z229.埴輪Ⅰ式検索.png古墳年代の決定は143種の遺構・遺物の有無を示す古墳コードと、143種の遺構・遺物の編年コードとを付き合せて行っている。ウエブサイトの「遺跡ウォーカー」には、約10万基の古墳の情報が収められており、目的の古墳名・遺構名・遺物名で古墳の情報を抽出することが出来る。古墳の年代を調べるためには、埴輪型式と須恵器形式のデータを全て収集することが必須である。例えば埴輪I式のデータは「遺跡ウォーカー」の「遺物概要」の欄に「埴輪I式」(「I」は文字のⅠでなく、半角の英文字Iアイ)を記入すると、Z229のように21件の古墳が抽出できる。この一覧から1件ずつ「詳細情報」をクリックすると、Z230に示されるような画面で情報が出てくる。

 


Z230.遺跡ウォーカー詳細情報.pngこの「詳細情報」をエクセルに取り込み、古墳コードを作成する。「詳細情報」の「古墳名」から「遺物概要」までをコピーして、「貼り付オプション」の「形式を選択して貼り付ける」をクリックして「テキスト」を選択して、Sheet4[古墳リスト作成]のA列1行に貼り付ける。そうすると1行のセルに「古墳名」が、2行のセルに「データ(ふりがな~遺物概要)」が貼り付けられるので、2行の「データ」セルを切り取り、B列1行に貼り付ければ、一つの古墳のデータが収集されたことになる。次の古墳の場合は、A列2行に貼り付け、3行の「データ」をB列2行に貼り付ける。この作業を繰り返し行い、埴輪I式のデータを取り込む。

 


古墳のデータが集まると、C列1行に「= SEARCH("所在地" ,B1,1)」、D列1行に「= SEARCH("緯度" ,B1,1)」、E列1行に「=MID(B1,C1+3,D1-C1-3)」を、F列1行に「=LEFT(E1,2)」の命令を入れ、C列1行からF列1行までをコピーして、最後の古墳まで貼り付ける。E列に所在地が、F列に都道府県名が表示される。A列~F列をコピーして、どこかの列に「値」のみコピーし、SEARCH命令の2列を削除すると、埴輪I式の「古墳名」「データ」「所在地」「都道府県名」のリストが作成できる。

 

Sheet5[古墳リスト]の先頭行に、A列「通しNo」、B列「編年要素」、C列「整理No」、D列「古墳名」、E列「データ」、F列「所在地」、G列「都道府県」、H列「古墳コード」を記入しておく。Sheet4[古墳リスト作成]の「古墳名」「データ」「所在地」のリストをコピーし、D列2行に貼り付け、A列~C列を記入し古墳リストを作成する。なお、Sheet4[古墳リスト作成]のA列・B列は消去して、次のデータ収集に使用し、Sheet5[古墳リスト]にデータを溜め込む。Z231に古墳リストの一例を示したが、「データ」のセルは短いが、このなかにデータ(ふりがな~遺物概要)の全てが入っている。この「データ」のセルから情報を引き出し、古墳の遺構・遺物の有無をコード化する。

Z231.古墳リスト.png

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64-2. 遺構・遺物の編年をコード化 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

古墳年代の決定に用いた143種の遺構・遺物の編年表(Z226)を巻末に示した。この編年表の年代は、3294基の古墳の年代を決める中で、幾度も修正を加えながら決定したものであり、「悪魔の証明」を乗り越えたものである。古墳の年代をエクセルで決定をするために、遺構・遺物の編年表をコード化している。興味のある方は、とりあえず私の手法で作成して、それを修正・追加・削除していただければよいと思う。ブログの表Z226を印刷しておくと作業がし易い。

 

はじめに、エクセルのSheet1[編年表]に、遺構・遺物の編年表(Z226)から、A列に「No」を、B列に「編年要素」、C列・D列に「年代」を1行から143行までインプットする。なお、「編年要素」で赤字は後で役に立つので赤色で記入すると良い。Sheet1のA列・B列の143行までをコピーして、Sheet2[編年コード作成]に、「形式を選択して貼り付ける」をクリックして「行列を入れ替えるテキスト」にマークを入れ貼り付ける。Sheet2の1行・2行を縦書きにするために、1行目を選定して右クリック、「セルの書式設定」の「配置」を選び、「方向」の「度」を「-90」にする。2行目は1行と同じで「方向」の「文字列」をクリックする。2行目の須恵器形式の英数字が書かれたセルは「方向」の「度」を「-90」にすると見やすい。

Z227.遺構遺物コード作成.png 

Sheet2[編年コード作成]のA列3行目に「=RIGHT(A1,1)」の命令を入れNo143(EM列)までコピーする。A列を選択して「挿入」をクリックし、A列3行に「西暦」を記入、A列4行に「240」を記入、5行に「=A3+10」の命令を記入し、コピーして「610」まで作成する。始めに143編年要素の「240」から「610」までの全てのセルを「0」にしておく。遺構・遺物の編年表(Z226)を見ながら、それぞれの「編年要素」について、その存在した年代に「1」を記入していく。その一部を表Z227に示した。

 

遺構・遺物の年代のインプットが終わると「編年コード」の製作に取り掛かる。まず、EO列(143:銅椀の次の列)の3行に「=CONCATENATE( 」の命令を書き、B列(1:前方後円墳)の3行を左クリックしてから「,」をインピット、次にC列(2:前方後方墳)3行を左クリックしてから「,」をインプット、この作業をEN列(143:銅椀)まで繰り返し、「=CONCATENATE(B3,C3,D3,・・・・・EL3,EM3,EN3)」の命令を作成する。これをEO列の41行(A列「610」まで)コピーすれば、143の文字列からなる編年コード表が出来る。この命令が間違っていないか、EO列3行のコードが「1234567890」のセットが14個あり、最後が「123」となっているかで確認する。Sheet2をコピーして「値」のみをshee3[編年コード]に貼り付け、A列(西暦)とEO列(編年コード)以外を削除し、1行目・2行目を削除すれば、遺構遺物編年コード表(Z228)が完成する。

Z226.遺構・遺物の編年表.png
Z228.遺構遺物編年コード表.png

 


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64-1.遺構・遺物の編年には「悪魔の証明」が必要 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

 『日本書紀』に書かれた時代は、神代が弥生時代、神武天皇から崇峻天皇までが古墳時代、推古天皇から持統天皇までが飛鳥時代と解釈している。考古学的にみると、古墳時代は前方後円墳が築造された時代と定義されており、古墳時代を解明しようとすると、前方後円墳の年代を知る必要がある。この前方後円墳の年代は遺構・遺物(古墳形態・埋葬施設・副葬品)の編年に照らし合わせて決められる。遺構・遺物の編年において、それぞれの要素が始めて登場する時期は、2~3個の同じ資料があればよく、比較的簡単に求められる。問題はその遺構・遺物が消滅する時期である。消滅する時期が明確な遺構・遺物がなければ、古墳の年代は決定できない。しかし「ある事実・現象が全くない」ということを証明することは、非常に困難で「悪魔の証明」と呼ばれている。遺構・遺物が消滅する時期を決めることは非常に困難であり、多くのデータから紐解くしか無いのである。

 

Z225.円筒埴輪・須恵器編年.png古墳の年代を決める遺構・遺物の編年は、円筒埴輪・須恵器の編年を基準にして作成されており、これらの編年無しでは、古墳の年代は決められないと言っても過言ではない。円筒埴輪・須恵器の編年が古墳の年代決定に重要な役割を果たしているのは、消滅する時期が明確にされているからと考える。ただ円筒埴輪・須恵器の編年は、相対年代(型式の順序)は確かであるが、絶対年代(西暦○○年)は不確かである。近年、古墳年代の決定に年輪年代測定法や炭素14年代測定法などの科学的手法が取り入れられ、絶対年代の精度が上がって来ている。Z225に私が作成した円筒埴輪と須惠器の編年表を示した。

 

私はこれまでに1932基の古墳(前方後円墳994基)のデータを集め、70種の遺構・遺物の編年と照らし合わせて、古墳の年代を決定してきた。しかし、その古墳のデータと古墳年代決定のプログラムをパソコンの故障により消失した。それらのデータとプログラムを再構築することを試み、143種の遺構・遺物の編年を行い、3294基の古墳データ(前方後円()墳1922基)を集め、古墳年代を決定した。

 

古墳研究者にとってのバイブルの本である近藤義郎編『前方後円墳集成』(1992年、山川出版社)には、全国5200余基の前方後円()墳が記載されている。私が集めた前方後円墳のデータは37%である。現在、世の中は「ビッグデータ」を処理して新たな知見を得る時代である。考古学においても16万基あると言われている古墳をデータベース化して、遺構・遺物の編年を行い、古墳年代を決定する時代がやって来ると考える。私がエクセルを駆使して行ったのは、その片鱗にすぎない。私は運転免許の更新に、認知症検査を受けなければならない年齢に達している。先日幸い合格したが、その先はそれほど長くない。古代史の解明に何かの約に立てばと、その手法を公開しようと思う。


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63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』の編年を900年の短縮した「縮900年表」の編年が、正しいことを証明する記事が『古事記』にあった。『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は阿直岐に『お前よりも優れた学者がいるかどうか』といわれた。『王仁(わに)というすぐれた人がいます』と答えた。上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。

 

『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、「賢しき人あらば」=「優れた学者がいるかどうか」、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『古事記』は百済王を照古王(しようこおう)とあるが、『書紀』には百済国王の名がない。「縮900年表」によれ応神15年は368年となる。倭国は応神天皇(354~380年)で、百済は肖古王(346~375年)の時代である。『古事記』と『書紀』は、百済の肖古王が良馬2匹を応神天皇に献上したことを伝え、「縮900年表」は、それが368年のことであると解明した。

 七支刀.png

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌がある。その銘文を下記に示すが、表の象嵌は泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことをしるし、裏の象嵌は百済王が倭王のために造ったことをしるしている。
 「泰和四年五月十六日 丙午正陽 造百錬銕七支刀 生辟百兵宜供 供候王 □□□作」
 「先世以来 未有此刀 百滋王世□ 奇生聖音 故為倭王旨造 伝示後世」

『書紀』神功52年の記事には、「百済の肖古王が七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。」とある。「縮900年表」は神功紀・応神紀の「挿入記事」は、『書紀』の編年に120年プラスして、900年短縮した「縮900年表」に戻している。神功52年は『書紀』の編年に従えば252年であり、「縮900年表」では120年プラスした372年となる。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

『三国史記』によれば百済の肖古王は、368年に新羅に良馬2匹を奉っている。369年には3万の歩兵・騎兵を伴って南進してくる高句麗と雉壌(平壌とソウルの中間)で戦い勝利した。371年には高句麗が大挙して攻めてきたが、肖古王はそれに勝利すると、3万の軍を率いて平壌を攻め、高句麗の国原王は流れ矢にあたって戦死したので、軍隊を引き上げている。372年には使者を晋に派遣し朝貢している。このことは『晋書』武帝紀に記載がある。

 

百済の肖古王は、新羅に良馬2匹を奉った368年に、倭国の応神天皇にも良馬2匹を献じている。また、晋に朝貢の使者を派遣した372年に、倭国の応神天皇に七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝を奉っている。これらは、南下してくる高句麗に対処するためであり、また一国に偏らず、四方の国と好を通じておこうとする百済の外交戦略の巧みさが伺われる。900年短縮した「縮900年表」は、『宋書』や『三国史記』の編年と合い通じる精度であり、『書紀』に記載された記事が、潤色や誇張はあるが史実に基づいていることを浮かび上がらせた。


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63-12.神功皇后は実在し新羅遠征を行った [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「縮900年表」は、『書紀』の編年から「欠史8代」と呼ばれている綏靖天皇から開化天皇までの記事を取り除き、『魏志』倭人伝や『百済記』『百済新撰』『百済本記』から引用した記事と神功紀・応神紀にある百済・呉との関連記事を「挿入記事」として取り除き、そして記事と記事の間の空白の期間が4年以上のものを取り除いて、900年短縮して作成している。そして、神功紀・応神紀の「挿入記事」は『書紀』の編年に120年プラスして、900年短縮した「縮900年表」に戻している。

 

『書紀』の神功紀と応神紀にある百済記から引用された記事の年月が、『三国史記』に記載された年月と比較すると干支2廻り、120年違っていることは、明治時代の歴史学者、那珂通世氏により学問的に研究されて以来、定説となっている。一方、私が発見した900年の短縮は、『宋書』倭国伝や「好太王碑」銘文でも、その精度は干支2廻りの編年と同等であった。900年短縮した『書紀』の編年が語る歴史は、『書紀』は歴史書として信頼できないという従来の定説を覆す。『書紀』に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。その神功皇后がなした新羅征伐を信用する歴史学者は居ないであろう。しかし、「縮900年表」を通して『書紀』を読めば、意外な史実が浮かびあがってきた。

 

『書紀』神功前記(仲哀9年)には、「神功皇后が新羅に攻込んだ。新羅王の波沙寐錦は降伏し、人質と金銀や絹織物を差出し、馬飼いとして春秋に朝貢することを約束した。皇后は持っていた矛を新羅王の門に立て後世の印とした。高麗と百済は新羅が地図や戸籍を差し出して降伏したと聞いて、倭国の勢力を伺い朝貢を約束した。そこで屯倉を定めた。」とある。『古事記』も、神功皇后が新羅に攻込み新羅王が降伏したこと、新羅は馬飼いと定め、百済は海を渡った地の屯倉と定めたこと、新羅王の門に御杖を定めたことなど、ほぼ同じことを記載している。900年縮めた「縮900年表」では、仲哀9年は346年となる。

『三国史記』では、「346年、倭軍が突然風島を襲い、辺境地帯を掠め犯した。倭軍はさらに進んで金城を包囲し激しく攻めた。王は城を出て戦おうとしたが、家臣康世の勧めで籠城した。賊軍は食糧がなくなり、退却しようとしたので、康世に命じて、精鋭な騎馬隊を率いて追撃し敗走させた。」とある。『三国史記』と「縮900年表」を通した『書紀』とは、戦の勝敗は摩逆であるが、346年に倭国が新羅の金城まで攻め込んだということは一致している。神功皇后の新羅遠征は史実であるが、これ以降新羅と百済が倭国に朝貢するようになったとは思えない。


中原高句麗碑.png
『書紀』神功前記では、新羅王を波沙寐錦と記している。「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも永楽十年(400年)の記事に「新羅寐錦」の刻字があったが、日中韓の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。『書紀』は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅遠征(346年)が史実であった証拠であると考えている。


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63-11.『書紀』は「好太王碑」と一致している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

好太王碑.png中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域、その昔高句麗の王都・丸都城のあったところにある好太王碑(広開土王碑)には、400年前後の高句麗・新羅・百済と倭国の関係が刻まれている。
 391年:辛卯の年よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、
            東方では新羅を□し、臣民にした。
 399年:百済は誓いを破って倭と和通したので、(高句麗)王は
      平壌に出向いた。新羅の使いが、倭が新羅の国境に満ち
      ていると救援を請願した。
 
400年:新羅救援のため5万の歩騎を派遣した。新羅城には倭軍
      が満ちていた。官軍が到着すると倭軍は退却した。これ
      を追撃して任那加羅の従抜城に至る。
 404年:倭が帯方に侵入してきたので、王は平壌に討って出て大敗させた。

「縮900年表」によると、仁徳天皇の治世は381年から431年で、好太王碑に刻まれた朝鮮半島に進出した倭国王は仁徳天皇であることがわかる。好太王碑に刻まれた内容は『書紀』には次のように記載されている。西暦は「縮900年表」によるもので、仁徳紀は900年縮めた年代、応神紀は120年加算した年代である。なお、『三国史記』によると百済の阿華王の在位は392年~405年となっており、120年の加算と合っている。
 391年:(仁徳11年)新羅人の朝貢があった。そこで茨田の堤の役に使われた。
 392年:(応神3年)百済の辰斯王が倭国の天皇に対して礼を失することが多く、紀角宿禰等4名
      派遣。百済国は陳謝し、辰斯王を殺し阿花王を立てる。
 397年:(応神8年)阿花王が立って倭国に無礼をした。それで枕彌多礼、峴南、支侵、谷那・東韓
      の地を奪われた。そのため王子・直支を天朝に遣わして先王の好を修好した。
 397年:(仁徳17年)新羅が朝貢しなかった。砥田宿禰と賢遣臣を新羅に派遣し詰問。新羅人は
      恐れ入って貢ぎ物を届けた。貢物は80艘あった。
 405年:(応神16年)百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王子に「国に帰り位につきなさい」と
      言われ、東韓の地を賜り帰国された。

『書紀』では397年に、百済は倭国に南部の地を奪われると、王子・直支を倭国に遣わし好を修好したと記し、新羅は倭国に朝貢しなかったと詰問されると、80艘の貢ぎものを倭国に届けたと記している。「好太王碑銘文」では399年に、百済は誓いを破って倭と和通したと記し、新羅は倭が新羅の国境に満ちていると救援を請願したと記している。「好太王碑」の391年から404年の銘文と、『書紀』の391年から405年の記事は同じ史実を述べているといえる。「縮900年表」を通してみると、『書紀』は「好太王碑銘文」と一致している。


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63-10.『書紀』に書かれた宋への朝献 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「倭の五王」の時代、中国は南北朝の時代と言われ、南朝と北朝の二つに分かれていた。北朝は三国時代の魏の領地を支配し、南朝は呉・蜀の領地を支配していた。南朝は東晋(317~420年)を滅ぼした武帝が建国した宋(420~479年)から始まり、斉・梁・陳の国が起こり、その後隋(581~618年)が南北朝を統一している。文末に示す表Z223は、『書紀』の全ての記事の年代を「縮900年表」の年代に変換している。これをみると、宋の時代は仁徳天皇から雄略天皇の時代にあたる。Z224に示すように、「縮900年表」の天皇の元年・崩御の年は、『宋書』倭国伝・帝紀に記され記事と密接に関係している。『書紀』では宋は「呉」と呼ばれ、しばしば登場している。『宋書』に登場する「倭の五王」の記事が、『書紀』にどのように記載されているか、「縮900年表」の年代をもとに探ってみた。なお、『書紀』の記事の年代は、断らないかぎり「縮900年表」による年代である。

 

Z224.倭の五王.png『宋書』倭国伝では、倭王が最初に宋に朝貢した記事は、永初2年(421年)「倭王讃朝貢し叙綬を賜う」とある。一方『書紀』の仁徳58年(421年)の記事は「呉国・高麗国が朝貢した」とあり、呉国(宋)が文帝の即位(420年)に際して、高麗国と一緒に倭国に使者を派遣して、「宋に朝貢せよ」との上表書を持ってきたと考えることが出来る。そう考えると、仁徳天皇は倭国を訪れた宋の使者に付けて、朝貢の使者を派遣したことになる。『書紀』は強弱・正悪・主従を反対にしている場合があり、仁徳58年の記事は、「倭国が高麗国と一緒に呉国に朝貢した」ということの潤色であるのかも知れない。いずれにしても『書紀』は、『宋書』倭国伝永初2年(421年)の記事の通り、仁徳天皇(讃)が呉(宋)に朝貢したことを記載している。

 

『宋書』倭国伝の元嘉2年(425年)に「讃又遣司馬曹達 奉表献方物」とあり、『宋書』文帝紀の元嘉7年(430年)に「倭国王使いを遣わし方物を献ず」とある。『書紀』の応神37年(426年:306+120)には「阿知使主・都加使主を呉に遣して、縫工女を求めさせた。阿知使主らは高麗に渡って、呉に行こうと思ったが道が分らず、道を知っているものを高麗に求めた。高麗王は久礼波・久礼志の二人をつけて道案内させた。これによって呉に行くことが出来た。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた。」とあり、応神41年(430年:310+120)の記事には、阿知使主が呉の王から授かった四人の縫女を伴い筑紫に帰国したと記している。『宋書』の元嘉2年と元嘉7年の倭王讃の朝貢の記事と、『書紀』の応神37年と応神41年の阿知使主が呉に遣わされた記事はその年代がほぼ合っている。

 

応神37年の阿知使主が呉に渡った記事を120年繰り下げて426年のこととして、『宋書』倭国伝の元嘉2年(425年)と結びつけた学者はいる。これにより、「讃」が応神天皇であると主張する学者もいれば、この記事を仁徳天皇の時代にスライドさせ、「讃」が仁徳天皇とする考えに合わせた学者もいる。私は後者の考えであるが、恣意的に仁徳天皇の時代に合わせたのではない。表Z223に示すように、神功紀・応神紀にある百済・呉との関連記事を120年繰り下げて「縮900年表」に戻すと、自動的に応神37年(426年)と応神41年(430年)の記事が仁徳朝の記事であったことになり、仁徳天皇(讃)が始めて宋に朝貢した仁徳58年(421年)の記事の後に収まってくる。「縮900年表」の正確さがここにも現れている。

 

『宋書』順帝紀、昇明元年(477年)には「倭国使いを遣わし方物を献ず。」とあり、倭国伝の昇明2年(478年)には「倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す」とある。『書紀』は、雄略天皇の治世の雄略6年と雄略8年に身狭村主青らを呉に遣わされているが、雄略10年(473年)には、まだ築素に滞在している。それは『三国史記』新羅本紀の474年の記事に「高句麗王が百済を攻めた。百済王は救援を求めてきた。新羅王は救援しようとしたが、到着する前に百済の王都は陥落し、百済王も殺害された。」見られるように、高句麗が百済を攻めたこともあって、身狭村主青らは呉国には渡っていないようだ。そして、雄略12年(475年)に身狭村主青らを呉に派遣したとあり、雄略14年(477年)に身狭村主青らが、呉国の使いと共に帰国したとある。『宋書』倭国伝の昇明2年の武の上表文には「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳していることと、『書紀』が記す身狭村主青らの呉への派遣記事は、見事に一致している。

 

雄略12年に呉国に遣わされ、雄略14年に呉国から帰国した身狭村主青を、『宋書』順帝紀・倭国伝にある武王の使いと考える学者は多くいる。しかし、『書紀』の編年に従えば、雄略14年は470年で『宋書』倭国伝の昇明2年(478年)とは8年も異なっており、この説を肯定する大きな壁となっていた。しかし、「縮900年表」の年代に従えば、その壁も一挙に乗り越えることが出来る。『書紀』は900年延長されていた。その中で歴史(編年)が史実であった時代、安康天皇以降の天皇紀で、延長がなされていたのは、26代の継体紀のみで、その延長された年数は7年であった。この7年は雄略天皇が「武」、安康天皇が「興」、允恭天皇が「済」であることを確定したばかりか、雄略天皇より呉国に遣わされ身狭村主青が、雄略天皇(武)の上表文を携えて宋に朝献した使いであることを明らかにした。

 

『書紀』は時間軸を引き延ばしていたり、物語化していたり、誇張があったりして潤色されており、また後世に使われた語句を使用したりしていて、歴史書として信頼されていない。私は引き延ばされた時間軸を元に戻す作業を、エクセルを使用して行い、「縮900年表」を作成した。そして、この「縮900年表」で変換した『書紀』の記事の年代と、『宋書』倭国伝の記事の年代がピッタリと合致することを証明した。その正確さは、歴史・考古学者の考える編年をはるかに超えた精度であった。




Z223-1.年代変換表.pngZ223-2.年代変換表.png

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63-9.「縮900年表」で「倭の五王」を解明 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

日本の古代史を明らかにする手がかりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『魏志』倭人伝であり、そしてもう一冊が、「倭の五王」が登場する『宋書』倭国伝である。『宋書』は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、五世紀に倭より中国に朝献した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について詳しく書いてある。この「倭の五王」については、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まって、明治・大正・昭和の多数の学者・研究者が「魏志倭人伝」と同様『宋書』宋書倭国伝の解釈に頭を悩まし続けてきたが、まだ明確な「解」は見つかっていない。「エクセル作成の年表」が何の矛盾も無く通用するかが試される登竜門である。

 

「エクセル作成の年表」による「倭の五王」について検討する前に「エクセル作成の年表」を1ヶ所だけ、允恭元年444年を443年と手直しする。「エクセル作成の年表」の年代に従って『書紀』を読めば、442年1月に反正天皇が崩御したあと、群卿は反正天皇の同母弟であった稚子宿禰皇子(允恭天皇)に皇位に付くよう懇願したが、皇子は「国家を任されることは重大なことである。自分は病いの身で、とても堪えることは出来ない。」と承知しなかった。妃の忍坂大中媛命の懇願で皇位に付いたのが444年12月であり、443年は空位となっている。

 

稚子宿禰皇子の皇位辞退は胡散(うさん)臭さを感じる。そもそも、反正天皇が即位のあと何の記事もなく、在位5年で突然崩御されていること自体が不自然で、反正天皇が允恭天皇によるクーデターで亡くなった感じがする。それを隠すための美化が、稚子宿禰皇子の皇位辞退の物語であると想像する。反正・允恭天皇の父親である仁徳天皇も、皇位継承が美化されている。応神天皇は大鷦鷯尊(仁徳天皇)の弟・菟道稚郎子を寵愛し皇太子とした。応神天皇が崩御したあと、菟道稚郎子は「兄を越えて位をつぎ、天業を統べることは出来ない。兄は仁孝の徳もあり、私は不肖でとても及ばない。」と皇位を大鷦鷯尊に譲ろうとした。大鷦鷯尊は「先帝は明徳な人を選び皇太子に立てられた。私は不肖で、先帝の命に背いて、弟王の願いに従うことは出来ない。」と辞退し続けた。空位が3年経ち、菟道稚郎子は「兄の志が変らないことを知った。天下を煩わすのは忍びない。」と自殺している。これらは仁徳天皇のクーデターを隠すための美化された物語であると考える。

 

Z222.縮900年表.png仁徳天皇・允恭天皇の皇位継承についての美化された物語は、『書紀』の編纂者が行ったのではなく、伝承されていたものと思われる。反正天皇が崩御したのが442年1月で、同年の12月に允恭天皇が即位し、允恭元年は443年となる。即位が元年の前年にあることは、良くある事例である。この手直しした年表Z222を「縮900年表」と呼ぶ。

 

「縮900年表」と『宋書』倭国伝に記載された「倭の五王」と比較し、「讃」は仁徳天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇に比定した。仁徳天皇は在位の途中で朝貢を始めたのであるが、反正・允恭・安康天皇については、元年の年または翌年に朝貢している。しかし、雄略天皇は14年経っての朝貢となっている。武は上表文の中で「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳をしており、雄略元年の年代と矛盾しない。

 天皇  元年   倭王  朝貢の年    記載事項     

 仁徳 381年  讃  421年  倭王讃朝貢し叙綬を賜う

          讃  425年  讃、表を奉りて方物献ず

 履中 432年

 反正 438年  珍  438年  讃死し弟珍立つ。珍遣使貢献

 允恭 443年  済  443年  倭国王済、遣使貢献す

          済  451年  倭王済、号を安東大将軍に進む      

 安康 461年  興  462年  済死す。世子興。遣使貢献す

 雄略 464年  武  478年  興死し弟武立つ。武遣使上表   

 

系譜でみると、「済」と「興」、允恭天皇と安康天皇、両方とも親子で合っており、「興」と「武」、安康天皇と雄略天皇、両方とも兄弟と合っている。しかし、問題は「讃死し弟珍立つ」である。「縮900年表」で讃を仁徳天皇、珍を反正天皇としたとき、讃と珍の関係は親子であり、兄弟の関係にはない。これに関しては、私は次のように考える。438年反正天皇の使いが宋に朝貢して、「昨年、兄の前王(履中天皇)が亡くなり、弟(反正天皇)が王に即位した。倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王の称号を頂きたい」と要求した。宋は王(反正天皇)を「珍」と称し、「安東将軍倭国王」の称号を与えている。

 

宋からすれば、天子(皇帝)が倭国王を冊命するのだから、一度も朝貢しなかった履中天皇の存在は認知しておらず、兄の前王は讃と理解し、「倭王讃死し、弟珍立つ、珍遣使献ず」の文章が記録されたと考える。本来「子」と記載すべきところが「弟」となったのは、履中天皇が一度も宋に朝貢していなかったことに因る。江戸時代から現在までの300年間、「倭の五王」の比定が解決しないのは、「讃死し弟珍立つ」の文章のためであると言っても過言ではない。しかし、「縮900年表」が示す履中・反正・允恭・安康天皇の年代から、最難関のハードルをすんなりと越える答えを導き出すことが出来た。それにしても、珍・済・興の朝貢が反正・允恭・安康天皇の元年または翌年とする「縮900年表」の正確さは驚きである。


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63-8.神武建国は241年、辛酉の年 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』編年の原点というべき、900年の延長の期間を除いた年表の作成に取り掛かる。Sheet4のA列からM列までをドラッグして、最優先キーを「皇紀」に「昇順」に並び替える。B列「西暦」、C列「干支」、D列「年号」をコピーしてN列・O列・P列に貼り付け、表題を「新西暦」・「新干支」・「新年号」に変更し、N列・O列・P列の値を皇紀1年から皇紀1200年(欽明元年)の行まで消しスペースにしておく。N列の皇紀1200年行に「=Nxx-1」(xxは皇紀1201年の行No)の命令をインプットして、コピーして2行(皇紀1)まで貼り付ける。

 

Z221.エクセル作成年表.pngそうすると、神武元年(皇紀1年)が241年となる。241年の干支は「辛酉」である。皇紀1201年のO列の干支が「辛酉」であるので、「辛酉」から「庚申」まで(皇紀1201~1260)コピーして、皇紀1から貼り付ける。5回貼り付ければ欽明元年の干支が「庚申」となる。P列の2行目に「1」を書き、3行に「=P2+1」と命令をインプットし、コピーして皇紀1200年まで貼り付け、各天皇の元年に「1」を書き込むと、各天皇の「新年号」が出来る。空位の期間が生じるのは、神武天皇3年、成務天皇1年、応神天皇2年、反正天皇1年、継体天皇2年である。N列・O列・P列をコピーして、どこかの列に「値」だけ貼り付け、それを切り取りもとの位置に貼り付け固定化する。A列からP列までドラックして、最優先キーを「元年/崩御」にして、並び替え、F列に元年・譲位・崩御の記載がある行をコピーして、Sheet7に貼り付け整理すると、表Z221の「エクセル作成の年表」が出来る。ただし、皇極天皇の在位4年、孝徳天皇の在位10年、天武天皇の在位15年は書き改める。

 

邪馬台国の卑弥呼は景初3年(239年)に魏に使者を遣わし朝貢している。正始元年(240年)魏の明帝は使者に詔書や印綬をもたせ、倭国に遣わしている。私は、魏志倭人伝に書かれた方角と距離の通り辿ることにより、邪馬台国は日向にあるとした。その日向より、234年(甲寅)に磐余彦尊は東征に出発し、241年(辛酉)に橿原宮で建国し、即位して神武天皇となっている。なんとも出来すぎの編年である。しかし、この編年を導き出した操作は、エクセルの機能を使って行われたもので、恣意的な選定が入る余地は全くない。「事実は小説より奇なり」まさにこの通りであった。


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63-7.『書紀』は900年歴史(編年)を延長している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』は、神武天皇を釈迦より昔に我が国を建国した天皇であるとするために、綏靖天皇から開化天皇の崩御までの「欠史8代」と呼ばれる天皇を創作して、484年間を挿入している。それでは、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までの歴史(編年)が延長された時代は、何を目的に延長したのであろうか。『書紀』は、神武天皇を「始馭天下之天皇」(始めに国を統一した天皇)とし、崇神天皇を「御肇国天皇」(始めに国を治めた天皇)としている。崇神天皇の元年、紀元前97年も意味のある年のはずである。『書紀』が記した日本(倭国)の歴史で、朝鮮半島の三国(新羅・高句麗・百済)との関係が随所に出てくる。この三国の建国は、新羅が紀元前57年、高句麗が前37年、百済が前18年である。「御肇国天皇」とする崇神天皇元年を、朝鮮の三国で最も古い新羅の建国より前にしている。崇神天皇から允恭天皇までに、歴史(編年)が延長されているのは、このためであると考える。

 

『書紀』に記載された記事のうち、欠史8代と挿入記事を取り除いた記事には、潤色はあるだろうが、伝承されてきた事柄が記載されていると思う。『書紀』に記載された記事を信じるが、編年された年月は信用出来ない。この矛盾を解決する解は、記事と記事の間の空白期間で編年を延長していると考えることだ。空白期間を短くすることだけならば、『書紀』に記載された記事を恣意的に選別することなく、全ての記事を含んだ編年を作成することが出来る。

 

空白期間を調べる作業に取り掛かる。Sheet4のJ列の先頭行に「記事無」の見出しを付け、A列からJ列までをドラッグして、「並び替えフィルター」の「ユーザー設定並び替え」を選択。「先頭行をデータの見出しとして使用」にチェックをいれ、最優先キーに「記事有」を選び、「OK」をクリックする。すると「記事有」が「1」と「0」、そして「スペース(空白)」の3グループに分かれる。「0」と「スペース」のグループの「記事無」のJ列に「1」を書き込み、そのあと最優先キーを「皇紀」、順序を「昇順」にとして並び替える。K列の先頭行に「空白年数1」の見出しを入れ、2行目(皇紀1年)に「0」を書き込み、3行目に「=IF(J3=1,K2+1,0)」の命令をインプットし、それをコピーして最後の行(皇紀1357年)まで貼り付ける。K列をコピーして、どこかの列に値だけ貼り付け、その列を切り取ってK列に貼り付け固定化する。

 

A列からK列までをドラッグして、最優先キーに「皇紀」、順序を「降順」にして並び替えを行う。L列の先頭行に「空白年数2」の見出しを入れ、2行目(皇紀1357年)に「0」を書き込み、3行目に「=IF(J3=1,L2+1,0)」の命令をインプットし、それをコピーして最後の行(皇紀1年)まで貼り付ける。L列をコピーして、どこかの列に値だけ貼り付け、その列を切り取ってL列に貼り付け固定化する。最優先キーに「皇紀」、順序を「昇順」にして並び替えを行う。  

 

M列の先頭行に「空白期間」の見出しを書き込み、2行目に「=K2+L2」の命令をインプットし、コピーして最後の行(皇紀1357年)まで貼り付ける。A列からM列までをドラッグして、最優先キーに「空白期間」で順序「降順」、次に優先キーに「皇紀」で順序「昇順」として並び替えを行う。この作業によって、記事と記事の間の空白年数の大きい順に並ぶことになる。私は、空白の期間が4年以上(M列の値で5以上)は編年を延長している期間であると考えた。M列の値が「5」以上のものを切り取ってSheet6に貼り付ける。

Z220.編年延長の空白期間.png

 
Z219.延長された空白期間.pngheet6のJ列「記事無」の最後に「=SUM(J2:J417)」の命令を入れると416の答えが出て、延長された空白期間の合計が416年であることが分かる。Z219に天皇ごとの延長された空白期間を示す。「欠史8代」の期間が484年間で両者を合わせると、『書紀』が歴史(編年)を延長した年数は、驚くことに丁度900年となる。900年は干支の60で割り切れる値であり、偶然に積み上がった数字ではなく、『書紀』の編纂者が意図的に積み上げた数字であると思う。


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