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59-4.天智朝には「天皇」号が存在していた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z140.天皇木簡.png1998年に奈良国立文化財研究所が、飛鳥池遺跡から出土した木簡の中に、「天皇」の語が墨書きされたものがあると発表した。この木簡は飛鳥池遺跡の北地区の、持統朝を下限とした溝のさらに下層から出土しており、この遺構から伴出した木簡の「サト」表記は、すべて「五十戸」であった。飛鳥から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、681年から683年頃であることが分っている。これらより「天皇」の語が墨書きされた木簡は、683年(天武12年)以前に書かれたものであることがわかる。「天皇」木簡が出土した同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出しており、「天皇」号の表記が683年(天武12年)以前から使用されていたことは確かである。しかしながら「天皇」木簡の年代からは、「唐の高宗の上元元年(674年)に、君主の称号が『皇帝』から『天皇』に代ったが、その情報が天武朝(672~686年)に倭国に伝わった。」とする、従来の定説を覆すことは出来ない。

 

墓誌Z141.船氏王後.png三井記念美術館所蔵の国宝「船氏王後墓誌」は、江戸時代に大阪府柏原市国分の松岡山から出土したと伝えられ,その後長く西琳寺に蔵されてきた。墓誌の正確な出土地点や,埋納状況については全く不明である。墓誌は29x7x0.2センチの銅板で、表に4行86字、裏に4行76字が刻まれている。銘文の概要は「船氏の故、王後首は敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝廷で仕え、舒明天皇の代に至った。大仁の官位を賜った。舒明天皇の末年、辛丑(641年)12月3日に死亡した。そこで戊辰年(668年)12月、松岳山の上に葬った。」である。銘文にある「船氏」について『書紀』は、欽明14年(533年)に「蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し,その功で船長となり船氏の氏姓を与えられた。」と、敏達元年(572年)に「高麗の国書を誰も読みとれなかったが、船史の祖王辰爾のみ解読し、天皇が王辰爾を大いに賞讃した。」と、皇極天皇4年(645年)に「蘇我蝦夷が殺されたとき、船史恵尺が焼かれようとした国記をとり出して、中大兄皇子に奉献した。」と記載している。

 

戊辰の年(天智7年:668年)に成立した「船氏王後墓誌」には、乎娑陀宮天下治天皇(敏達天皇)、等由羅宮天下治天皇(推古天皇)阿須迦宮天下治天皇(舒明天皇)の銘が刻字され、天智7年(668年)に「天皇」号が使われていたという史実を伝えている。ただ、「船氏王後墓誌」の出土状況が明確でなく、天智朝に「天皇」号が使われていたという証拠になり得ていない。


59-3.聖徳太子実在の鍵は「天皇号」 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

大山氏を初めとする学者の方々は、法隆寺系史料の金石文が推古朝ではなく、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとしている。その根拠の第一は、薬師如来像光背銘・天寿国曼荼羅繡帳にある君主号の「天皇」、釈迦像光背銘にある「法皇」は、推古朝には存在しない。第二は、釈迦像光背銘にある「法興」という年号は実在しない。第三は天寿国曼荼羅繡帳にある孔部間人母王の命日が、持統4年(690年)から使用された儀鳳暦で記されていることであった。

Z139.法隆寺薬師如来像.png 

法隆寺の金堂に安置されている国宝の薬師如来像の光背銘には「天皇」銘が3ヶ所刻まれている。その内容は「用明天皇が病気になら
れた時、丙午の年(586年)に推古天皇と聖徳太子を召して、病
気平癒のため寺を造り薬師像を作ることを請願されたが、それがか
なわぬまま亡くなられた。そこで、推古天皇と聖徳太子が丁卯の年(607年)に作り奉った。」とある。用明天皇は「池辺大宮治天下天皇」、推古天皇は「小治田大宮治天下大王天皇」・「大王天皇」、聖徳太子は「太子」・「東宮聖王」と刻まれている。

 

この銘文について大山氏は、「唐の高宗の上元元年(674年)に、君主の称号が「皇帝」から「天皇」に代ったが、その情報が天武朝(672~686年)に倭国に伝わり、持統3年(689年)に制定された浄飛鳥御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の「天皇」号が捧げられたというのが定説となっている。・・・・三度も天皇号を使用した薬師像の銘文は、天武・持統朝以後の成立で、607年(推古15年)のものとしては偽物ということにならざるを得ないのである。」と述べている。「天皇号の成立」という大命題を論破しなければ、「聖徳太子が実在した」ことを証明は出来ない。

 

『懐風藻』は日本で最古の漢詩集である。選者は不明だが、序文には天平勝宝3年(751年)に完成したとある。天智天皇の御代から奈良時代にいたるまでの作者64名、120編の詩文を治めている。その第一番目の詩が大友皇子の詩である。大友皇子は天智天皇の第一皇子で、壬申の乱において叔父・大海人皇子(天武天皇)に敗北し自害している。大友皇子の漢詩の現代訳は、『懐風藻』(講談社学術文庫)、江口 孝夫による。

  皇明光日月  天子の威光は日月のようにこの世に光り輝き

  帝徳載天地  天子の聖徳は天地に満ちあふれている

  三才並泰昌  天・地・人ともに太平で栄え

  万国表臣義  四方の国々は臣下の礼をつくしている

 

この詩が詠まれた年月の記載はないが、表題には「侍宴」とあり、天智天皇の宴で、天皇の徳をたたえ、威光をのべ、隆盛を祝福している。『書紀』によれば、天智天皇は斉明天皇が崩御されてから、即位式を挙げないで政務をとられていた。この間に白村江の海戦があり唐に敗れている。そして、天智7年(668年)1月3日に即位され、7日に内裏で群臣を集め宴が催されている。漢詩の内容からすれば、この宴で大友皇子が詠ったのであろう。この詩の「皇明」とは、天皇の威光という意味であると江口氏は解説しており、「皇」のみならず、「天皇」の称号も天智7年(668年)には存在していた可能性があると思われる。

 

唐の高宗皇帝(650~683年)が君主の称号を「皇帝」から「天皇」に替えたのは上元元年(674年)であり、天智7年(668年)に倭国で「天皇」の称号が使われていたことを証明するためには、倭国に「天皇」の語句が、高宗皇帝が「天皇」の称号を使う以前に伝わっていたことを証明しなければならない。

 


59-2.「聖徳」は『書紀』以前から伝承されていた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『書紀』は厩戸皇子について、「生まれてすぐ言葉を話され、優れた知恵があり、成人になると一度に十人の訴えを聞き分けることが出来き、先々の事まで見通された。」とある。厩戸皇子は厩戸豊聡耳皇子と呼ばれ、別名に豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王とされている。『古事記』には「上宮之厩戸豊聡耳命」とあり、「豊聡耳」の名は『書紀』と同じである。「一度に十人の訴えを聞き分けることが出来きた」という逸話は、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。

 

『古事記』が712年に撰上された翌年に、風土記の編纂を諸国に命じている。現存している『風土記』は、常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五ヶ国で、その他の諸国の風土記は、他の書籍に引用されている逸文のみである。『播磨国風土記』に記載された地方の行政組織は国・郡・里である。地方の行政組織が国・郡・里から、国・郡・郷・里に代ったのは宝亀元年(715年)から宝亀3年(718年)であり、『播磨国風土記』は、『書紀』が撰上される720年以前に成立したことが分る。

 

Z138.風土記の天皇名.png『伊豫国風土記』は、鎌倉時代の『釈日本記』・『萬葉集注釈』に逸文が引用されている。『伊豫国風土記』の「湯の郡」の条では、天皇等の湯に行幸されたのは、大帯日子天皇(景行天皇)と大后八坂入姫、帯中日子天皇(仲哀天皇)と大后息長帯姫命(神功皇后)、上宮聖徳皇(聖徳太子)、岡本天皇(舒明天皇)と皇后、後岡本天皇(斉明天皇)、近江大津宮御宇天皇(天智天皇)、浄御原宮御宇天皇(天武天皇)を挙げている。『播磨風土記』・『伊豫国風土記』に記載された天皇の名称を『日本書紀』・」『古事記』の名称と比較し、表Z138に表わした。ただし、「宮」を冠した名称の天皇は省いている。表Z138から、『播磨国風土記』と『伊豫国風土記』逸文に記載された天皇名は『古事記』と一致することが分る。これらからしても、『播磨国風土記』と『伊豫国風土記』は『日本書紀』が撰上される以前に成立したことが明らかである。

 

『書紀』は推古3年に「高麗僧の恵慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)の師となった」、「仏教を高麗の僧恵慈に習い、儒教を博士覚哿に学んで、どちらもことごとく習得された。」とあり、別名に豊聡耳法大王・法主王とある。『伊豫国風土記』には、「上宮聖徳皇が高麗の僧恵慈と共に伊豫の湯に行幸した。」、「法興6年10月、丙辰の年(推古4年:596年)に、法王大王と恵慈の法師および葛城臣と、伊豫の村に遊び」とある。皇太子(聖徳太子)が高麗の僧恵慈から仏教を学んで習得し、仏法の最高位者であり、「法大王・法王大王」と呼ばれたことは、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。

 

『書紀』は厩戸皇子を「皇太子」「上宮太子」と表記し、「聖徳太子」の呼称は一切使用していないが、別名として「豊聡耳聖徳」があると記している。『播磨国風土記』には「聖徳王」、『伊豫国風土記』には「上宮聖徳皇」とあり、皇太子(聖徳太子)は聖人であり「聖徳」と称されていたことが、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。大山氏は「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」と主張しているが、少なくとも「聖徳太子は『日本書紀』の中で誕生した。」ということは、成り立たないことが分る。


59-1.聖徳太子は架空の人物か [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

厩戸皇子(聖徳太子)は用明天皇と穴穂部間人皇后の長男として生まれた。父も母も蘇我稲目の孫であり、厩戸皇子には蘇我氏の血が半分流れている。『書紀』には厩戸皇子の生年については記載がないが、蘇我馬子が用明2年(587年)に物部守屋を滅ぼした戦に、束髪於額(ひさごはな:十五、六歳の小年の髪型)の厩戸皇子が加勢したと記載している。『法王帝説』には、上宮聖德法王は甲午の年に生まれたとあり、敏達3年(574年)に誕生したとしている。これからすると物部守屋を滅ぼした戦のあった用明2年には14歳であり、厩戸皇子の生年について、『書紀』と『法王帝説』は概ね合っている。

『書紀』は厩戸皇子について、「生まれてすぐ言葉を話され、優れた知恵があり、成人になると一度に十人の訴えを聞き分けることが出来き、先々の事まで見通された。仏教を高麗の僧慧慈に習い、儒教を博士覚哿に学んで、どちらもことごとく習得された。」とある。厩戸皇子が厩戸豊聡耳皇子と呼ばれ、別名に豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王・法主王とされているのは、これらの逸話からであろう。なお、『書紀』は厩戸皇子を「皇太子」「上宮太子」と表記しているが、「聖徳太子」の呼称は一切使用していない。『書紀』の厩戸皇子についての文章は、誇張があり、信用できる分けではないが、厩戸皇子が有能で仏教・儒教に精通していた「聖徳太子」に価する人物であったと考える。


推古元年(593年)に推古天皇が即位し、厩戸皇子は皇太子となり、
蘇我馬子が大臣となった。推古天皇は40歳、厩戸皇子は20歳、蘇我馬子は43歳であった。『書紀』は厩戸皇子が摂政となり、一切の政務を執り、国政をすべて委任されたと記しているが、「57-12.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供」で述べたように、推古天皇の蘇我馬子に対する信頼は厚く、年齢からしても国政を任されたのは馬子であったと思われる。推古天皇が始めての女帝であったため、また馬子が崇峻天皇を殺害した側面もあり、国政を牛耳っているというように見られたくないため、厩戸皇子が皇太子で摂政となった形をとったのであろう。ただ、厩戸皇子は有能であり、皇太子として大臣と共に推古天皇を支えたと考える。今後、皇太子となった厩戸皇子を聖徳太子と表記していく。

『書紀』は、聖徳太子が単独で行った事柄については、斑鳩宮を建て住んだこと、秦造河勝に仏像を授けたこと、憲法17条を定めたこと、勝鬘経・法華経を講じたこと、片岡の飢者を埋葬したことを挙げている。また斑鳩寺(法隆寺)・四天王寺を創建したことも、文章から推察することが出来る。冠位十二階の制定、小野妹子の遣隋使派遣は、聖徳太子と馬子大臣が共同で行ったのであろう。



1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、聖徳太子が制定したとする憲法十七条や、東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命などの聖徳太子を示す語句がある法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとして、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」とした。大山氏の発表以降、それまでに燻っていた聖徳太子に対する疑義に火が付き、多くの研究者が聖徳太子の実在を否定する論文を発表している。




58-4.蘇我氏は石川氏に改姓し生き残った [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

「乙巳の変」で蘇我本宗家が滅び、蘇我氏で生き残ったのは、中大兄皇子・中臣鎌子らに味方した蘇我倉山田石川麻呂とその兄弟(蘇我倉麻呂の息子)だけである。蘇我倉山田石川麻呂は大化元年(645年)右大臣となるが、大化5年(649年)に異母弟の蘇我日向に謀反を企てていると密告され、天皇の軍に追われて長男・興志のいた山田寺に逃げ込み、息子ともども自殺した。後に蘇我倉山田石川麻呂は冤罪だったことが判明し、蘇我日向は筑紫に左遷された。そして、蘇我倉山田石川麻呂の弟の蘇我連子は、天智天皇のもとで大紫の冠位を賜り、右大臣を務めたが、天智3年5月に亡くなっている。

 

『続日本紀』天平元年(729年)八月に「左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也。」とある。蘇我連子の息子の安麻呂は「少納言小花下」である。「小花下」の冠位は、大化5年(649年)2月の冠位19階の制で、以前の冠位「小錦」を「小花」として、上・下に2分割したうちの一つである。天智天皇3年(664年)2月の冠位26階の制では「小花」という呼び方を「小錦」に戻した上で、上・中・下に3分割している。安麻呂の官位が「小花下」と後世に残っていることは、天智天皇3年の冠位26階の制では「小花下」より格下になったからであろう。大紫の冠位を賜り、右大臣を務めた父・蘇我連子が亡くなり、息子の安麻呂は冷や飯を食わされたのかもしれない。

 

天智10年(671年)1月、蘇我連子の兄弟の蘇我赤兄臣が左大臣に、蘇我果安が御史大夫(大納言)に就任している。天智10年10月に天智天皇が病に伏し大海人皇子を召したとき、天智天皇に仕えていた蘇我連子の息子の蘇我臣安麻呂は、大海人皇子に「用心してお話しなさいませ」と耳打ちした。大海人皇子は陰謀を察知して、天皇が皇位を授けようとされたのを辞退し、出家して吉野に入った。天智天皇に仕えていた蘇我臣安麻呂が、大海人皇子に見方したのは、処遇に不満を持っていたからであろう。

 

天智10年12月に近江宮で天智天皇が亡くなり、大友皇子が跡を継ぐと、大海人皇子は吉野を出て挙兵して壬申の乱を起こし、大友皇子率いる朝廷軍を破り、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。大友皇子の側についた蘇我果安は戦に敗れ自殺し、蘇我赤兄は流罪となった。壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)は、武勲のあったものに冠位の加増している。大海人皇子の窮地を救った蘇我臣安麻呂の冠位が「小花下」と後世に残っていることは、安麻呂は壬申の乱の最中、あるいは直後に亡くなっていて、冠位の加増に預からなかったのであろう。

 

『続日本紀』天平元年(729年)八月に「左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也。」とあり、蘇我安麻呂の息子の石足が、石川氏と改姓したことが窺がえる。天武13年(684年)11月に52氏が朝臣の姓を賜ったとき、52氏の中には蘇我臣の名は無く、石川臣が朝臣を賜与されている。これらより、蘇我氏から石川氏に改姓したのは、天武13年(684年)以前であったことが分る。天武2年(673年) 2月、天武天皇は飛鳥浄御原宮で即位し、正妃・鸕野讃良皇女(持統天皇)を皇后とした。鸕野讃良皇女は天智天皇の第二女で、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である。皇后の支援を得て、蘇我氏から石川氏に改姓し、朝臣の姓を賜ったのであろう。

 

『懐風藻』に石川朝臣石足の漢詩「春苑応詔」が収められており、「従三位左大弁石川朝臣石足 一首 年六十三」とある。「年六十三」は享年と考えられており、天平元年(729年)に63歳で薨去したことから、生年は天智天皇6年(667年)になる。石川臣が朝臣を賜与された天武13年(684年)に、石川石足は18歳であったことが分る。蘇我連子の娘である蘇我娼子が藤原不比等の正妻となっていたこともあり、石川朝臣石足は不比等政権において、和銅元年(708年)正五位上・河内守に叙任され、和銅7年(714年)従四位下、養老3年(719年)従四位上と昇進している。大阪府高槻市真上町の酒垂山より発見された国宝の「金銅石川年足墓誌」には、石川年足は石足の長子で、天平宝字六年(762)9月1日に75歳で薨去したとある。年足の最終官位は御史大夫正三位で、曽祖父・蘇我連子の賜った大紫の冠位と同等の地位まで上り詰めている。蘇我氏本宗家は滅び、生き残ったのは石川氏のみであった。


58-3.「乙巳の変」の舞台裏、中臣鎌足の策謀 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

「乙巳の変」は、その2年前の皇極2年(643年)に、蘇我入鹿が聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族を滅ぼしたことに端を発している。蘇我入鹿に遣わされて、山背大兄王を襲い死に至らしめた巨勢徳太臣は、「乙巳の変」の後に蘇我氏に組した者として、断罪されてもおかしくない人物である。しかし、巨勢徳太臣は大化5年(649年)に、大紫(十九階冠位の第五)を授けられ左大臣に出世している。これには何か陰謀が隠されている気がする。

 

平安時代初期に書かれた『上宮聖徳太子伝補闕記』には、「宗我大臣并びに林臣入鹿、致奴王子の兒・名は軽王、巨勢德太古臣、大臣大伴馬甘連公、中臣鹽屋枚夫等六人、悪逆を発し太子が子孫を計るに至る。男女廿三王、罪無くして害さる。」とある。『上宮聖徳太子伝補闕記』が史料として信頼できるかどうかは別として、少なくとも平安時代初期に、山背大兄王の殺害に、直接的・間接的に関わった人物として、蘇我蝦夷・入鹿以外に、軽皇子・巨勢德太・大伴馬甘(馬飼)・中臣鹽屋枚夫に疑いの目を向けていたことは事実である。軽皇子は後の孝徳天皇であり、大伴馬甘は大伴馬飼(長徳)で、巨勢徳太臣と同様大化5年に小紫を授けられ右大臣となっている。平安時代の人も、蘇我入鹿が山背大兄王を殺し、上宮一族が滅んだ事件には、裏があると感じたのであろう。

 

山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた3ヶ月後で、中臣鎌足が中大兄皇子と親密になる以前の皇極3年1月の記事に、「中臣鎌足と軽皇子は以前から親交があった。鎌足が皇子の宮に参上して宿直したとき、妃から丁重なもてなしを受け、舎人に『皇子が天下の王となるのに、いったい誰が逆らえましょうか』と言い、それを聞いた軽皇子は、たいそう喜ばれた。」とある。中臣鎌足は軽皇子(孝徳天皇)を天皇にして、自分自身が蘇我氏に代わり政権の中枢に座そうと考えた。そのための策略の第一が、巨勢德太臣を使って入鹿をそそのかし、入鹿に山背大兄王を殺させることであった。次の天皇を目指している山背大兄王を消し、蘇我入鹿・蝦夷を滅ぼす大義名分を得る、一挙両得の策略であった。蘇我入鹿はまんまと、その策略にはまった。入鹿が山背大兄王を殺したことを聞いて、蝦夷が「入鹿はなんと馬鹿なことをしたのだ。お前の命も危うい。」と怒り罵ったのは、その策略を感じていたのであろう。

 

中臣鎌足の策略の第二は、中大兄皇子を隠れ蓑として、蘇我入鹿・蝦夷を殺害することであった。その振る舞いが横暴な蘇我氏を滅ぼすことで、その主役となる中大兄皇子が、群臣の信を得たとしても、年齢が二十歳前であり天皇になるには程遠い。また、蘇我氏滅亡で古人大兄皇子は後ろ盾を無くすることになり、これもまた一挙両得の策略であった。中臣鎌足は中大兄皇子に近づき親密となり、蘇我氏打倒の計画を打ち明けた。まず初めに行ったのが、蘇我倉山田麻呂を見方に引き入れ、蘇我氏を分断させるために、中大兄皇子が蘇我倉山田麻呂の娘・遠智女を嬪として娶ることであった。蘇我倉山田麻呂は「乙巳の変」において、上表文を読み上げる役目を果たした。

 

また、中臣鎌足は古人大兄皇子を蘇我氏から離反させるために、中大兄皇子に古人大兄皇子の娘・倭姫を娶ることを勧めている。中皇極4年(645年)6月、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を斬殺したとき、皇極天皇の傍にいた古人大兄皇子が私邸に帰り、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。」と人に語ったのは、娘婿・中大兄皇子への配慮であった。しかし、大化元年9月に古人大兄皇子は謀反の疑いをかけられて中大兄皇子に殺された。古人大兄皇子の娘・倭姫は天智天皇(中大兄皇子)の皇后となっている。

 

「乙巳の変」の後、皇極天皇は中大兄皇子に譲位しようとしたが、中大兄皇子は中臣鎌足の助言により、叔父(皇極天皇の弟)の軽皇子を推した。軽皇子は「古人大兄皇子は先の天皇の皇子であり、年長である。」と言って固辞したが、古人大兄皇子は「私は出家して吉野に入り、仏道を修めて、天皇をお助けします。」と辞退した。結局、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、年号を大化元年(645年)とした。中臣鎌足のもくろみ通りであった。蘇我氏滅亡の全てを中臣鎌足が策謀した。

 

新政権で中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足は内大臣となっている。蘇我倉山田麻呂は右大臣となったが、大化4年に謀反の疑いをかけられ殺されている。中臣鎌足は、孝徳天皇・斉明天皇(皇極天皇)・天智天皇の三代に内大臣として仕え、政権の中枢にいて権力を行使した。鎌足は蘇我氏に取って代わることができたのである。天智8年(669年)10月に天皇は鎌足の病気を見舞い、大織の冠(冠位二十六階の最高階)と「藤原」の姓を授けられた。その翌日に鎌足は薨去した。中臣鎌足の次男、藤原不比等は元明天皇の和銅元年(708年)に大臣に就任し、藤原氏の黄金時代を築いた。

 

ここで「乙巳の変」の登場人物の年齢を明らかにしておく。「57-2.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供」の表Z133で示したように、蝦夷は「乙巳の変」で殺された時は56歳であり、入鹿は36歳前後であったと考えられる。中大兄皇子については、舒明13年(641年)に舒明天皇が崩御されたとき、殯宮で中大兄皇子が16歳で誄を読んだと、『書紀』は記載してあり、これらから「乙巳の変」(645年)を起したとき、中大兄皇子の年齢は20歳であることが分る。

 

一方、中臣鎌足の年齢については、天智8年(669年)の記事には、「藤原内大臣(中臣鎌足)が薨じた。日本世記には『五十歳で私邸にて薨じた。碑は五十六歳で薨じたという。』」とある。鎌足が50歳で薨去したとすれば生年は620年である。鎌足の長男・定恵は白雉4年(653年)に遣唐使の学問僧として中国に渡っており、この時の年齢を18歳以上であったとすると、定恵は鎌足が17歳以下の時に生まれたことになり無理がある。鎌足の享年は56歳で、生誕は614年であったと考える。「乙巳の変」を起したとき、鎌足は32歳で、中大兄皇子より12歳年上である。「乙巳の変」は中臣鎌足が仕切っていたことが明らかである。


58-2.「乙巳の変」で滅んだのは蘇我氏本宗家 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

皇極3年(644年)、中臣鎌子連(中臣鎌足)は蘇我臣入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家を我がものにする野望を抱いていることを憤り、王家の人々と接触し、企てを成し遂げることの出来る英知の人を求めた。そして中大兄皇子に心を寄せたが、心中を打ち明ける機会がなかった。たまたま中大兄が法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で蹴鞠をした時、その仲間に加わった。中臣鎌足は中大兄の皮鞋が鞠とともに脱げ落ちたのを拾い、跪いて差し出した。これより二人は親密になって、互いに隠し立てすることなく、心中を語りあった。また、頻繁に接するのを他人に疑われるのを恐れて、周公・孔子の教えを南淵先生の所で学び、その往還に計画を立てた。そこで鎌足は、中大兄が蘇我倉山田麻呂(入鹿の従兄弟)の娘・遠智娘を妃とすることで、倉山田麻呂臣を助力者としようと提案した。中大兄は大変喜び、それに従った。鎌足は佐伯連小麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に推挙した。

 

皇極4年(乙巳、645年)6月8日、中大兄は倉山田麻呂臣に密かに「三韓が調(みつぎ)をする日に、その上表文を読み上げてもらいたい。」と語り、入鹿(43歳)惨殺の謀略を打ち明け、麻呂臣は承諾した。6月12日、天皇は大極殿にお出ましになり、古人大兄がその傍らに控えた。鎌足は俳優を使って、入鹿が剣をはずして座すように仕向けた。麻呂臣は進み出て三韓の上表文を読み上げた。その時、中大兄は衛門府に十二の通門を閉めさせ、衛門府に賞禄を与える振りをして、彼らを一箇所に集めた。そして、中大兄は長槍を取って大極殿のわきに隠れ、鎌足は弓矢を持って警護した。

 

Z137.乙巳の変.png中大兄は小麻呂と網田に剣を授け、「一気に切れ」と指示した。倉山田麻呂は上表文が終わろうとしているのに、小麻呂が現れないので不安になり、声を乱し手が震えた。入鹿はそれを不審に思い「どうして震えるのか」と尋ねた。中大兄は小麻呂らが入鹿の威勢に萎縮して、たじろいでいるのを見て「ヤア」と掛声もろとも小麻呂らとともに、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は転がって玉座にたどりつき、「皇位に座すべきは天の御子です。私は何も罪を犯していません。」と申し上げた。天皇は驚き、「何事があってのことか」と尋ねられ、中大兄は「鞍作り(入鹿)は、天の御子をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとした。どうして天孫をもって、鞍作りに代えられましょうか。」と答えた。

 

天皇は立って殿中にお入りになった。皇極天皇の傍にいた古人大兄皇子は私邸に帰り、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。」と、人に語り外には出なかった。小麻呂と網田は入鹿を斬り殺した。中大兄は法興寺に入って蝦夷を討つべく準備した。諸々の皇子・王・大夫・臣・連・伴造・国造がこれに従った。中大兄は鞍作臣の屍を蝦夷大人に引き渡した。漢直らが大臣を助けるべく、甲を着け武器を持ち軍陣を設営しようとしたが、高向臣に説得され逃げ去った。蝦夷は誅殺されるにあたり、天皇記・国記・珍宝を焼いたが、船史恵尺が国記を取り中大兄に奉った。中大兄は蝦夷と鞍作の屍を葬ることを許した。14日、皇極天皇は軽皇子(皇極天皇の弟)に譲位した。軽皇子は即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子に、安部内麻呂臣を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣に、中臣鎌子連(鎌足)を内臣とした。皇極4年を改め大化元年(乙巳:645年)とした。


58-1.聖徳太子の息子・山背大兄王の運命 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

推古34年(626年)に蘇我馬子大臣が72歳で薨去し、息子の蘇我蝦夷が大臣を引き継いだ。推古36年(628年)推古天皇が75歳で崩御された。皇位の継承についての遺言が曖昧であったこともあって、田村皇子(敏達天皇の孫、蝦夷の妹婿)と山背大兄王(聖徳太子の長男、蝦夷の甥)の対立が起こった。山背大兄王は、父の聖徳太子が用明天皇の嫡男(正室の長男)で、推古天皇の皇太子であり、次の天皇に最も近い立場にありながら、推古29年(推古30年?)に亡くなったこともあって、皇位に就きたい気持ちが強かったのであろう。大臣の蘇我蝦夷は独断で皇嗣を決めようと思ったが、群臣が承服しないことを恐れ、夫々の意見を聞いたが、その見解は割れた。最終的には、蝦夷が肩入れをした田村皇子が即位して舒明天皇となった。山背大兄王が天皇になれなかったのは、年齢が田村皇子より若かったためと思われる。皇位を争ったことからすれば、このとき山背大兄王は、少なくとも30歳前後であったのであろう。

 

舒明天皇が崩御された舒明13年(641年)に、再び皇位継承の問題が起こった。天皇家の系譜からすれば、皇位を継承するのは舒明天皇の嫡男である中大兄皇子であったが、16歳で皇位を継げる年齢ではなかった。舒明天皇の長男である古人大兄皇子も、皇位を継げる年齢には達していなかったのだろう。山背大兄王は43歳前後となっており、皇位に付くには十分な年であった。しかしながら、舒明天皇の皇后(敏達天皇の曽孫)が即位して皇極天皇となった。『書紀』は皇極天皇が即位した経緯について記載していないが、蘇我蝦夷大臣の差し金と考えられる。山背大兄王はフラストレーションが溜まったのであろう。

 

皇極天皇のもと蘇我蝦夷は引き続き大臣となったが、息子の入鹿が国政を執り、その権勢は父以上であった。皇極2年(643年)、病気のため朝廷に出仕できない蝦夷は、勝手に紫冠を入鹿に授け、大臣の位であるかのようにさせた。入鹿は独断で古人大兄皇子(舒明天皇の息子)を天皇にしようと謀り、山背大兄王を廃しておかなければ、古人大兄皇子を天皇にすることが出来ないと、皇極2年11月に巨勢徳太臣・土師娑婆連を遣わして、斑鳩の山背大兄王を襲わせた。山背大兄王は妃や子弟を連れ、一旦生駒山に逃れたが、斑鳩寺に帰り自害した。蝦夷は山背大兄王とその一族がすべて滅ぼされたことを聞いて、「入鹿はなんと馬鹿なことをしたのだ。お前の命も危うい。」と怒り罵った。


57-13.蘇我氏が仏教の興隆を成した [57.蘇我氏の系譜と興亡]

推古元年(593年)に推古天皇が即位し、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とした。蘇我馬子は引き続き大臣であった。崇仏派の三人が政権の中枢に就いたことで、一気に仏教の興隆が加速した。推古元年(593年)、正月に法興寺の仏塔の心柱の礎の中に仏舎利を置き、心柱を立てた。難波の荒陵に四天王寺を起工した。2年に推古天皇は皇太子と蘇我馬子大臣に「三宝を興隆させるように。」と詔を発している。多くの臣・連は天皇と先祖に報いるために競って仏舎(寺)を建造した。4年11月に法興寺が完成した。大臣の子・善徳臣を寺司に任じた。高麗の僧・慧慈と百済の僧・慧聡は法興寺に住んだ。この二人の僧は仏教を広め、三宝の棟梁(中心人物)となった。12年に皇太子により制定された憲法17条の第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧である。」とある。

 

Z136.飛鳥大仏.png推古13年(605年)、天皇は皇太子・大臣と諸王・諸臣に、銅・繡の二体の丈六の仏像を作るようにと命じ、鞍作鳥に命じて仏像を造る匠とした。14年4月に銅・繡の二体の丈六の仏像が完成した。丈六の銅の像を元興寺(法興寺・飛鳥寺)の金堂に安置しようとしたが、金堂の戸より高く収めることが出来なかったが、鞍作鳥は戸を壊すことなく修めた。天皇は鞍作鳥の功績を称え、近江の国の坂田郡の田二十町を与えた。鞍作鳥は天皇のために金剛寺を造った。これが南淵(明日香村坂田)の坂田尼寺である。14年7月、天皇は皇太子に『勝鬘経』を講じるように仰せられ、皇太子は3日間で説き終えられた。この年皇太子は、また『法華経』を岡本宮で講じた。天皇は喜ばれ播磨国の水田百町を与えられた。皇太子は喜ばれて斑鳩寺(法隆寺)に修めた。

 

推古32年(624年)9月の記事には、「寺と僧尼とを調べて、その寺を造った由来や、僧尼の入道の理由と得度の年月日を詳細に記録した。この時、寺46ヶ所、僧816人、尼569人、合わせて1385人であった。」とある。推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子大臣に、「三宝を興隆させるように」と仰せになってから30年間の間に、仏教が急速に広まり、寺院・僧尼が多大に増加した様子が伺える。近つ飛鳥博物館の『考古学からみた推古朝』によると、推古朝の寺院遺跡から出土する瓦の文様は、素弁蓮華文の内、飛鳥寺式・奥山廃寺式・豊浦廃寺式であるそうだ。これらの文様の瓦が出土する寺院遺跡は、大和24・河内12・山背7・和泉4・摂津1・近江2・武蔵1の51ヶ所あるという。『書紀』の記す、寺46ヶ所も史実である。

 

仏教の興隆は推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三人で成し得たものである。厩戸豊聡耳皇子尊(聖徳太子)は推古29年(621年)2月5日に薨去し磯長陵に葬られ、蘇我馬子大臣が34年(626年)5月20日に薨去し桃原墓に葬られ、推古天皇が36年(628年)3月7日崩御し遺言により竹田皇子の陵に葬られ、三人は極楽浄土の天寿国に旅立っている。蘇我馬子は稲目の嫡男、推古天皇は蘇我稲目の孫であり、聖徳太子も蘇我稲目の曽孫である。仏教興隆は蘇我氏が成したと言える。


57-12.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z126.蘇我稲目と馬子.png蘇我稲目・馬子が薨去した年は『日本書紀』に記載されているが、享年については記載がない。『扶桑略歴』には稲目も享年65歳、馬子の享年76歳と記載されている。この享年は稲目・馬子の経歴と齟齬がなかった。蘇我蝦夷が「乙巳の変」皇極4年(645年)で亡くなったときの年齢は、『扶桑略歴』には「蝦夷臨誅自殺。【年□十六。】」とあり、明確ではない。多分、46歳・56歳・66歳の何れかであろう。なお、門脇禎二氏の『蘇我蝦夷・入鹿』に「推古18年(610年)当時の毛人(蝦夷)の年齢は、『扶桑略歴』の諸伝を信ずるならば25歳、父の馬子は60歳であったという。」とあるのは、『扶桑略歴』の「(推古卅四年)同年。蘇我宿祢蝦夷任大臣。卌。」を、「推古34年に40歳で大臣に任ずる。」と解釈して計算している。


Z133.蘇我蝦夷.png表Z133に示すように、蝦夷の享年を46歳・56歳・66歳として、蝦夷の経歴を辿ってみた。蝦夷が『書紀』に登場する初見は推古18年(610年)10月で、新羅・任那の使者が朝廷に拝謁したとき、蘇我豊浦蝦夷臣・大伴咋連・坂本糠手臣・安部鳥子の四人の大夫が使者の奏上を聞き、蘇我馬子大臣に伝える役を果たしている。享年を46歳とすると、蝦夷が大夫の役を成したとき11歳である。親の七光りがあろうとも、11歳では大臣に続く大夫の役は務まらない。

 

蝦夷が享年66歳とすると、皇極元年(642年)に63歳で大臣を拝命したことになり、朝廷に仕える官吏の年齢としては限界の年である。蝦夷が大臣になったとき、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。このため盗賊は恐れて、道に落ちているものも拾わなかった。」と述べている。これらより、入鹿は大臣が勤まる年齢であり、63歳の蝦夷が大臣に就任することも無いように思える。

 

蝦夷が享年56歳とすると、推古18年に大夫の役を勤めた時は21歳であり、親の七光りを考えれば可能な年齢である。蝦夷の享年は56歳で、誕生は590年となる。たとえば、蝦夷が20歳のときに入鹿を生んだとするならば、蝦夷が大臣になった皇極元年(642年)には、入鹿は34齢であり、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。」の文章と齟齬はない。

 

Z134・Z135.蝦夷・入鹿系譜.png皇極2年(643年)の記事に「蘇我大臣蝦夷は、病気のため参朝しなかった。ひそかに紫冠を子入鹿に授けて大臣の位に擬した。また、入鹿の弟を物部大臣と呼んだ。大臣(弟)の祖母は物部弓削(守屋)大連の妹である。」とある。この文章は、入鹿の弟・物部大臣の祖母は物部守屋の妹であるが、入鹿の祖母は物部守屋の妹ではないと言っているように思われる。Z136の蘇我馬子・蝦夷の系譜を見ると、入鹿と物部大臣は異母兄弟である。また、物部大臣は物部守屋の妹の孫であるが、入鹿は物部守屋の妹の孫でないと、皇極2年の記事の通りになっている。Z137は欽明天皇と敏達天皇の系譜である。史実の事例がZ136の蘇我馬子・蝦夷の系譜とまったく同じであり、皇極2年の記事は信憑性があると考える。それでは、入鹿の祖母、蝦夷の母、馬子の妻であるMsXは誰であろうか。

 

用明2年(587年)八月、炊屋姫尊と群臣の勧めにより、崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位された。蘇我馬子も前の通り大臣となった。崇峻元年(588年)、百済から仏舎利が献上され、同時に僧6名、寺工(寺院建築の技術者)2名、鑢盤博士(塔の露盤などの金属鋳造技術者)、瓦博士(瓦製作の技術者)4名、画工(仏画製作の画家)1名が献上された。蘇我馬子大臣は百済の僧らに受戒の法を問い、善信尼らを百済に学問をするために遣わし、飛鳥の真神原に法興寺(飛鳥寺)を建て始めた。

 

物部守屋を討伐し、法興寺の建築が始まり、仏法が急速に広がりだしたことは、崇仏派の炊屋姫尊と蘇我馬子大臣にとって大きな喜びであった。二人は幼馴染であり、また炊屋姫尊が3年前に敏達天皇を亡くし独り身(寡婦)であったこともあり、結ばれて崇峻3年(590年)に蝦夷が豊浦の地で生まれた。蝦夷が豊浦大臣と呼ばれるのもこのためである。

炊屋姫尊は35歳、蘇我馬子は38歳であった。

 

崇峻5年(592年)11月、蘇我馬子は崇峻天皇が自分を殺そうと謀っているのを知り、東漢直駒を使って天皇を弑殺させた。群臣が炊屋姫尊に即位してくださるように請うたが、炊屋姫尊は辞退された。百官が上表文を奉ってなおも勧めたところ、3度目にやっと承諾され、12月に炊屋姫尊は豊浦宮で即位して推古天皇となった。宮を豊浦に置いたのは、我が子・蝦夷がいたからである。蘇我馬子は引き続き大臣であった。このことからすると、蘇我馬子は崇峻天皇の弑殺について、事前に炊屋姫尊の了解を得て、炊屋姫尊が皇位に就くよう要請していたのであろう。ある意味においては、崇峻天皇の弑殺は蘇我馬子大臣と炊屋姫尊によるクーデターであった。

 

『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子の母・穴穂部間人皇后は、用明天皇が崩御された後、聖徳太子の異母兄の多米王と結婚し、佐富女王を生んだ。」とある。これからすると、「炊屋姫皇后は、敏達天皇が崩御された後、叔父の蘇我馬子と結婚し、蘇我蝦夷が生まれた。」とあっても、問題はないように思えるが、炊屋姫皇后が推古天皇に即位したことから、蝦夷が炊屋姫皇后の子供であることは秘密裏にされ、馬子と物部守屋の妹の子として育てられた。天皇家の長い歴史のなかで、女帝は8人いるが、全員生涯独身か寡婦(夫と死別後再婚していない)である。