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62-2.仏教伝来538年の源は『法王帝説』 [62.仏教が伝来したのはいつか?]

仏教伝来を戊午の年(538年)とする『元興寺縁起』と『法王帝説』の史料としての信頼性を検討する。『元興寺縁起』の原文・訳文を読んでいくと、奇妙に思える文章が何ヶ所も出てくる。まずは冒頭に、「桜井豊浦宮で天下を治められた豊御食炊屋姫命(推古天皇)が生まれてから百年目の癸酉(613年)正月九日に、聖徳太子が天皇の勅を受けて、元興寺等の本縁及び推古天皇の発願を記したものである。」とある。また後半にも、「大々王天皇(推古天皇)が天下を治められたとき、天皇がお生まれになってから百年目の癸酉の年(613年)の春正月元旦に、善事を仰せになった。同日、聡耳皇子が申された。今、我らが天朝の生年を数えると、まさに百の位に達し、・・・」と、同じことが書いてある。推古天皇が百歳以上であったことに疑念が残る。

 

それでは『元興寺縁起』の年代はデタラメかと言えば、そうでもない。欽明天皇の崩御は辛夘の年(571年)、敏達天皇の崩御は乙巳の年(585年)、用明天皇の崩御は丁未の年(597年)、推古天皇の即位は癸丑の年(593年)となっており、『書紀』と一致している。『書紀』には、推古天皇は敏達天皇が崩御されたとき34歳であったとあり、誕生は552年となる。『元興寺縁起』に従うと推古天皇の誕生は514年となり、その差は39年となる。『元興寺縁起』が、なぜ推古天皇の誕生を約40年も遡らせなければならなかったのだろうか。

 

吉田一彦氏の「元興寺伽藍縁起并流記資財帳の研究」の論文を読んで、その疑問が解けた。『元興寺縁起』の大部分は元興寺(法興寺、飛鳥寺)の縁起が書かれたものでなく、豊浦寺(建興寺)の縁起が書かれている。平安時代の元慶6年(882年)頃、豊浦寺の帰属をめぐって、宗岳氏(蘇我氏に繋がる石川氏が改名)と元興寺が争っている。豊浦寺は蘇我稲目の作った寺で蘇我氏の氏寺であると主張したのが宗岳氏であり、豊浦寺は推古天皇の発願した寺であると主張したのが元興寺である。『元興寺縁起』は元興寺がその証拠書類として提出したもので、『建興寺縁起』をもとにして捏造したものであった。『建興寺縁起』は現存しないが、その逸文が鎌倉時代の『天王寺秘決』という文章に残っている。

「建興寺縁起云、広庭天皇御世治天下、七年十月十二日、百済国主明王、太子像并灌仏器一具及説仏起書巻一送度□□云々(後略)」

 

Z210.仏教公伝.png表Z210に『法王帝説』『日本書紀』『法王帝説』『建興寺縁起』『元興寺縁起』に記載された仏教公伝に関する記事を比較した。『元興寺縁起』は基本的に『建興寺縁起』をもとにしているが、「干支」は『法王帝説』から、「百済王名」は『日本書紀』から引用しており、「月日」は転記ミスであると思え、一番新しい史料であると考える。『建興寺縁起』では、聖明王から献上された仏像が、「太子像」となっている。「太子像」は聖徳太子を救世観音とみる太子信仰が定着した奈良時代以降に生まれた言葉である。『法王帝説』には、聖徳太子の経歴・業績・人柄・知性は書かれているが、宗教的な信仰対象としては書かれていない。これらより『法王帝説』が『建興寺縁起』よりも先に成立していたことが分かる。仏教伝来を戊午の年(538年)の源は『上宮聖徳法王帝説』であると考える。


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62-1.仏教の伝来の年はまだ確定していない [62.仏教が伝来したのはいつか?]

古墳時代と飛鳥時代の大きな画期は仏教伝来である。しかし、仏教が公伝された年月については、まだ明確になっていない。『日本書紀』の欽明13年(552年)10月の記事には、「百済の聖明王が金堂仏像一体と幡蓋若干・経論若干を献じ、仏を広く礼拝する功徳を上表した。」とある。『上宮聖徳法王帝説』(以後、『法王帝説』と表記)には「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年(538年)十月十二日、百済国の主(聖)明王、始めて仏像・経典、併せて僧等を渡り来て奉る。勅して蘇我稲目宿祢大臣に授け興隆させしむ。」とあり、また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後、『元興寺縁起』と表記)には、「大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年、戊午の年(538年)十二月、渡り来たるよりはじまれる。」とある。

 

欽明天皇の御世に百済の聖明王から仏教が伝わったことは、『書紀』と『法王帝説』・『元興寺縁起』は同じだが、伝わった年が「壬申」(552年)と「戊午」(538年)と違っている。『三国史記』によれば、百済国の聖王(聖明王)の治世は523年から554年で、「戊午」の年(538年)、「壬申」の年(552年)の両者は存在している。なお、聖明王の父の武寧王の陵墓が忠清南道公州市の宋山里古墳群から発見され、出土した墓誌には523年に崩御したとあり、『三国史記』の聖明王の在位は正しいことが分かっている。『書紀』の編年によれば、欽明天皇の治世は540年から571年で、「壬申」の年は存在するが、「戊午」の年は存在しない。

 

『書紀』の欽明13年の仏教伝来の記事にある、仏を広く礼拝する功徳をのべた文章、「この法は諸法の中で最も勝れております。解かり難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無情の菩提を成し。」が、唐の義浄が長安3年(703年)に漢訳した『金光明最勝王経』をもとに記述されており、欽明13年(552年)当時には存在していなかったことから、記事の信憑性が疑われ、仏教公伝の年は『法王帝説』・『元興寺縁起』にある戊午の年(538年)が有力視されている。

『日本書紀』   :「是法於諸法中最爲殊勝難解難入。周公・孔子、尚不能知

           能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提

『金光明最勝王経』:「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝難解難入。聲聞獨覚、所不能知

           能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提

 

戊午の年(538年)が仏教伝来の年となると、『書紀』の編年に従えば仏教伝来は宣化3年となり、欽明朝に仏教が伝来したという大前提が崩れてしまう。また、『元興寺縁起』にある「(欽明)七年、戊午」を採用すると、欽明即位は継体天皇崩御の年531年(継体25年、辛亥)の翌年の532年となり、安閑天皇・宣化天皇は存在しないことになる。それを補うため、安閑天皇・宣化天皇と欽明天皇は異母兄弟であり、継体天皇が崩御された直後に、天皇出自を背景として安閑・宣化朝と欽明朝が並立していたとする説がある。こんな説でも考えなければ「欽明天皇の戊午の年(538年)に仏教が公伝した」とする『法王帝説』・『元興寺縁起』の整合性が取れないのである。仏教伝来は538年とすることに、軍配はまだ上がっていないと思える。


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61-14.桑原遺跡が阿武山古墳の年代を解明した [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

阿武山古墳から南西に山を下った安威川の側に桑原遺跡・桑原西古墳群がある。この古墳群からは6枚の塼を敷いた竪穴式小石室が発見さされた。また、安威川の対岸には横穴石室に20枚の塼を敷き詰めた横穴石室を持つ、一辺が約10mの方墳である初田1号墳があった。これらの塼は阿武山古墳の塼と多くの特徴を共有しており、同じ窯で焼かれた同時代のものであると見られている。

 

安威川が大きく屈曲する微高地にある桑原遺跡は、安威川ダム建設に伴い平成16年度から大阪府教育委員会により発掘調査が開始され、古墳時代終末期を中心とする桑原西古墳群の姿が現れた。古墳群では少なくとも21基の古墳が確認され、その多くは周溝を共有した状態で密集して築造されていた。墳丘は方墳か円墳で一基のみ八角墳である。埋葬施設のほとんどが無袖式の横穴式石室で、玄室が墓道に直接繋がっていた。

 

大阪府埋蔵文化財調査報告2007-4『桑原遺跡』によると、8基の石室は非常に良好な残存状況にあり、杯や平瓶など飛鳥時代前後の須恵器が多数出土している。横穴式石室の形状および石室内より出土する副葬土器から、造墓は7世紀初頭から7世紀第3四半期までの短い期間に集中的に形成されたとしている。調査報告書では形成過程を桑原Ⅰ期~Ⅴ期に分類しているが、Ⅱ期からⅤ期は極めて短期間であるとされていることから、桑原前期(Ⅰ期)・桑原後期(Ⅱ~Ⅴ期)として見て行くことにした。

 

Z208.桑原遺跡H杯セット.png調査報告書『桑原遺跡』には、杯(杯蓋・杯身)の種別(H杯・G杯・B杯)、直径・口径と器高、図面が記載されていた。杯身の口径と器高の測定箇所は「60-3.須恵器の杯は年代のものさし」で示した植田隆司氏の図表157と同じであった。また、大阪府教育委員会は高槻教育委員会より阿武山古墳出土のH杯、杯身1点・杯蓋3点の須恵器を借り受け、その測定値を記載している。杯蓋の直径と器高に対応する杯身の口径と器高を求めることが出来れば、阿武山古墳出土の杯の年代がより明確にできる。桑原遺跡から出土したH杯には、杯身と杯蓋がセットになったものが11セットある。杯蓋と杯身と直径と口径の差、器高の差の平均(MaxとMinを除く)は、それぞれ1.6cmと0.3cmであった。この値を使って、阿武山古墳出土の杯蓋に対応する杯身の口径・器高を換算した。表Z208に示すように、出土した杯身の口径と器高は3点の杯蓋より換算した杯身の口径と器高の範囲に入っていた。

 

Z209.阿武山杯身法量.png桑原前期(青)と桑原後期(緑)のH杯の杯身、阿武山古墳出土のH杯の杯身(赤)、H杯の杯蓋より換算した杯身(ピンク)の口径と器高を、植田隆司氏の「杯身法量の変遷」にプロットしZ209を作成した。これらから見ると阿武山古墳の杯身は桑原後期と同じで、須恵器の型式はTK217新段階(飛鳥Ⅱ)であることが分かる。私が定めた須恵器の編年表によれば、TK217新段階(飛鳥Ⅱ)は640年~670年となる。

 

桑原遺跡の調査では、桑原Ⅲ期とされるA3号の石室床面より検出された木棺材の一部と見られる炭化物の加速度質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定が行われている。その結果は68%の確立で645年~670年であり、95%の確立で635年~685年であった。桑原Ⅲ期は桑原後期(640年~670年)の中頃と考えると、須恵器から導きだした年代と、放射性炭素年代測定の値には矛盾がない。

 

桑原西古墳群の6枚の塼が敷かれていた竪穴式小石室は、桑原Ⅴ期とされており、塼の年代はTK217新段階(飛鳥Ⅱ)の終り頃、670年頃と見られる。この塼は阿武山古墳の塼と同じ窯で焼かれ、同時代のものであると見られており、阿武山古墳が670年頃に築造されたことが分かる。藤原鎌足が亡くなったのが天智8年(669年)であるから、阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓といえる。桑原西古墳群にはその築造時期が桑原Ⅳ期である八角墳が1基(C3)存在する。その築造時期は藤原鎌足の薨去の時期と重なっており、八角墳は鎌足の遺骸を阿武山古墳に本葬する前に、仮葬した古墳かも知れない。


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61-13.阿武山古墳の年代に疑問符 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z206.阿武山古墳、杯と塼.png昭和57年(1972年)高槻市教育委員会は、阿武山古墳を史跡に指定してもらおうと、古墳の範囲を明らかにするためのトレンチ調査を実施している。この調査において、排水溝から須恵器の蓋杯(杯蓋3点・杯身1点)と甕片と土師器片が出土した。須恵器の蓋杯は杯Hと呼ばれ、須恵器の年代決定には有用な器種で、杯蓋の直径あるは杯身の口径でその年代を決めることが出来る。杯蓋の直径でみると、山田寺下層の段階(11.8cm)、甘橿丘東麓遺跡の段階(11.5cm)、飛鳥池遺跡(10.6cm)、坂田寺池の段階(10.0+α)、水落遺跡の段階(9.5cm)と時代が降ると直径が小さくなっている。阿武山古墳の杯Hの法量は、杯蓋の直径は10.6~10.2cm(平均10.3cm)で、坂田寺池の段階から水落遺跡の段階にかけてのものと判定され、飛鳥Ⅱの中頃ないし半ば過ぎで、7世紀第2四半期(625年~650年)と考えられた。

 

Z207.須恵器の編年.pngこの須恵器の年代観からすると、藤原鎌足が亡くなったのが天智8年(669年)であるから、阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓ではないことになる。これを根拠に阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓ではないと主張する学者がいる一方、最近の多くの研究者は須恵器の年代基準を変え、阿武山古墳の須恵器の年代は660年頃ないし660年代であるとして、阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓の可能性はあると主張している。このような事が生ずるのは、須恵器の編年が確立されていないからであろう。「60-4.古墳後期と飛鳥の須恵器編年」で示した、私の須恵器編年表によれば、飛鳥ⅡはTK217新段階で640年~670年である。

 

同じ遺跡から出土する蓋杯の法量(杯身の口径、杯蓋の直径)にはバラツキがあり、そのバラツキの幅は年代間の差(約5mm)を越え10mm以上もある。このようなバラツキがあるもの同士を比較して、何れの集団と同じであるかを見極めるためには、統計的な有意差検定を行う必要があり、少ない資料での平均値の比較では判定は困難となる。阿武山古墳出土の年代決定には、もっと資料が必要である。


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61-12.阿武山古墳は藤原鎌足の墓か? [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z204.阿武山古墳埋葬施設.png大阪府高槻市にある阿武山古墳は、昭和9年に京都大学の地震研究所が地震計を設置するため縦坑を掘削中、偶然に発見された。地表から深さ50cmのところで塼を敷き詰めた層にあたり、さらに掘り進めたところ石積みに漆喰を詰めた埋葬施設が見つかった。阿武山古墳は墳丘の無い地下に造った墓で、埋葬施設は無袖式の横穴式石室(横口式石槨と考える説もある)、石室は花崗岩の割石で築き壁面を漆喰で塗っている。石室の床は塼を敷き中央に塼積みの棺台があって、黒漆塗りの夾紵棺が安置されていた。阿武山古墳は7世紀半ば以降の古墳であると考えられている。

 

Z205.冠帽と玉枕.png阿武山古墳は未盗掘の古墳であったので、棺内には埋葬時のままの遺骸が残っており、頭部付近には玉枕や多量の金糸があつた。この金糸は冠帽の縁の刺繍に使われたものであることがわかった。『書紀』大化3年(647年)に「七色十三階の冠の制を作った。」とあり、最上級の織冠と二番目の繍冠の冠帽の縁には刺繍が施されていた。中臣鎌足は死の直前の天智8年(669年)10月に藤原の姓とともに大織冠と大臣の位を授けられており、阿武山古墳の被葬者は中臣鎌足(藤原鎌足)ではないかと考えられた。

 

現在、中臣鎌足を祭神として祀っているのは奈良県桜井市にある談山神社(多武峯寺)である。唐に留学していた鎌足の長男定慧が帰国後、摂津島下郡「阿威山」の墓に葬られた鎌足の遺骸を多武峯に改葬したと、平安時代中頃に成立した『多武峯略記』に記載されている。茨木市西安威に「大織冠神社」がある。この神社は鳥居があり神社の体裁をなしているが社殿はなく、「藤原鎌足公古廟」(将軍塚古墳)とされる横穴式石室を持つ円墳のみがある。毎年10月16日(藤原鎌足の命日)には、京都の藤原氏末裔の九条家から反物二千匹を持参した使者が来て、お祭りをされていた。今でもこの日に例祭「大織冠神社祭」がおこなわれている。平安~鎌倉時代に藤原北家の九条兼実が安威の荘園を本所とした頃に、将軍塚古墳を鎌足公の「阿威山墓」に比定したのではないかと言われている。

 

Z205.阿武山古墳と周辺.png藤原鎌足の墓が摂津国嶋下郡阿威山にあるという伝承は史実であったが、鎌足の墓(阿武山古墳)には墳丘がなく地下式墓であったため忘れ去られてしまい、将軍塚古墳が藤原鎌足公古廟とされたのであろう。『延喜式』に藤原鎌足の息子不比等の墓・多武岑墓の記載があるのに、始祖である鎌足の墓の記載が無いのはこのためであろう。鎌足は「葬儀は簡素なものにしてください。」と、見舞いに来られた天智天皇に申し出ている。阿武山古墳は鎌足の遺言を実行し、造営されたのであろう。


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61-11.叡福寺古墳の夾紵棺に葬られたのは誰か [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

叡福寺古墳はもともと八角墳であって、白雉5年(654年)に崩御された孝徳天皇の大坂磯長陵であったと考える。Z203は、『延喜式』にある磯長谷の陵墓の兆域にそれを図示したものであが、孝徳天皇陵(叡福寺古墳)と聖徳太子墓(葉室塚古墳)の兆域に不自然さはない。叡福寺古墳は切石造りの横穴式石室を有するが、推古11年(603年)に亡くなった来目皇子の墓(塚穴古墳)の石室が切石造りの横穴式石室であることからすると、古墳の年代と孝徳天皇の崩御時期に矛盾はない。石室の奥にある家型石棺に孝徳天皇が葬られたとすると、問題はその手前にある二基の夾紵棺に葬られたのは誰かということになる。孝徳天皇の皇后は間人皇后で、母の斉明天皇と合葬されている。二基の夾紵棺に葬られたのは、孝徳天皇の妃の安部倉梯麻呂の娘・小足姫と、その子である長子・有間皇子であると考える。

 

Z203.聖徳太子墓と孝徳天皇陵.png

『書紀』斉明4年(658年)11月3日、斉明天皇が紀湯(白浜温泉)に行幸されているとき、有間皇子は蘇我赤兄臣の「斉明天皇の政事には三つの過ちがある。一つは大きな倉庫を建てて民の財産を集積したこと、二つは長い溝を掘って公の食料を浪費したこと、三つは舟で石を運び、それを積んで丘にしたことです。」という挑発に乗り、謀反決行を口走った。5日に有間皇子は赤兄臣の家で謀議を巡らしていると、不吉な予兆があつたので、謀を中止して家に帰った。その夜、蘇我赤兄臣は有間皇子の家を取り囲み、駅馬を遣って天皇に有間皇子が謀反と奏上した。

 

9日に有間皇子と守君・坂合部連・塩屋連・新田部連の4人は捕らえられ、紀湯へ護送された。皇太子(中大兄皇子)が自ら有間皇子に「どうして謀反を起そうと思ったのか。」と問われたが、有間皇子は「天と赤兄とが知っているでしょう。」と答えた。11日に藤代坂(海南市)にて

有間皇子は絞刑され、塩屋連・新田部連の二人は斬刑された。そして守君・坂合部連の二人は流罪となった。中大兄皇子33歳、有間皇子19歳の時である。

 

有間皇子が処刑された藤代坂(海南市)は、都の飛鳥から紀湯(白浜温泉)に行く行程の半分にも満たないところである。有間皇子は斉明天皇の裁断で処刑されたのではなく、皇太子(中大兄皇子)により処刑されたのである。後に蘇我赤兄臣は娘の常陸姫を天智天皇(中大兄皇子)の妃とし、天智朝において左大臣まで出世している。「有間皇子の変」は、中大兄皇子が蘇我赤兄臣に命じて挑発したと云われるのもこのためである。中大兄皇子には、謀反の疑いを掛けて政敵を排除するというきらいがある。大化元年に古人大兄皇子が謀反の疑いを掛けられたとき、大化5年に蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いを掛けられたときも、裏で中大兄皇子が画策したと考えられている。不思議なことに、古人大兄皇子の娘は皇后に、蘇我倉山田石川麻呂の二人の娘は妃に、阿部倉梯麻呂(有間皇子の祖父)の娘も妃としている。

 

有間皇子が処刑されたことを知った母・小足姫は悲しみの余り、自殺を図ったと想像する。斉明天皇はこの事件は図られたことであると全てお見通しで、有間皇子と小足姫を夾紵棺に納め、孝徳天皇の墓に合葬したと考える。高級な夾紵棺に納棺したのは、大きなこと・派手なことが好きな、斉明天皇の性癖からであろう。有間皇子の埋葬については、小足姫の姉妹の中大兄皇子の妃・橘娘、孝徳天皇・斉明天皇の内臣であった中臣鎌足、当時蝦夷征伐で功績を挙げていた阿部臣比羅夫等の懇願があったのかも知れない。叡福寺古墳の二基の夾紵棺に葬られたのは孝徳妃の安部倉梯麻呂の娘・小足姫と、その子である孝徳天皇の長子・有間皇子であると考えると、夾紵棺の年代も合致してくる。叡福寺古墳は孝徳天皇の大坂磯長陵であると言える。


61-10.叡福寺古墳は孝徳天皇陵 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z201.磯長墓.png私は、聖徳太子墓は葉室塚古墳、叡福寺古墳は孝徳天皇陵(大阪磯長陵)であると考えている。しかし、叡福寺古墳が孝徳天皇陵とするには、クリアーしなければならないハードルが二つある。一つは叡福寺古墳が八角墳でなければならないこと、一つは叡福寺古墳の石室にある二つ夾紵棺には、誰が葬られていたかを明らかにしなければならないことである。宮内庁陵墓調査室は平成18年に、「聖徳太子磯長墓の中段結界石の保存処理及び調査報告」を発表している。この報告書の初めには「聖徳太子(厩戸皇子)の磯長墓は大阪府南河内郡太子町太子に所在する。叡福寺の境内に営まれ、通常径52~54m、高さ7mの円墳として理解されることが多い。しかし、近年では二段築成で下段を多角形、上段を径35mの円形とみる見解が提起されたり、八角墳の可能性も指摘されている。」とある。調査の「まとめ」では、「墳丘の規模は今まで想定されていた52~54mよりひとまわり小さくなるといえよう。墳形については、多角形や八角形とする明確な根拠は見いだせなかった。」としている。

 

聖徳太子磯長墓を取巻く結界石(聖界と俗界を区分する石)は二段あり、下段にある結界石は江戸時代に寄進されたものであるが、中段の結界石は弘法大師が寄進したとの伝説があるが、いつ製作・樹立されたものであるか明確な時期は分かっていない。田岡香逸氏は中段結界石に刻まれた梵字一字のみの彫刻に注目し、畿内での造立年代は少なくとも文永前半(1264年~1270年)頃を降らないとされている。

 

宮内庁陵墓調査室は中段結界石の付近に数個のトレンチを行っている。その第3トレンチからは、中段結界石を据えた地層(Ⅵ層)の直上に凹面を上にした瓦が出土している。瓦の下からは木炭粉や骨片が出土し、瓦の上には61点の貫銭が置かれていた。唐銭3枚、北宋銭53枚、遼銭1枚、南宋銭4枚で、最も新しい銭貨は1225年に作られた南宋の「大宋元宝」であった。

 

永井久美男氏は全国75遺跡、総数200万枚の出土銭をもとに『中世の出土銭』を著し、埋納銭の埋納時期を8期に区分している。その第1期は13世紀第2四半期から14世紀第1四半期までとしている。そして第1期の属する決定銭として、最新銭が南宋の淳祐元寶(1241年)から咸淳元寶(1261年)までの5種の南宋銭を挙げている。中段結界石を据えた地層から出土した貫銭は、最も新しい銭貨が南宋の大宋元宝(1225年)で、南宋銭としては比較的流通量の多い紹定通宝(1228年)や淳祐元宝(1241年)が無いことからすると、永井氏の定めた第1期でも初期の頃、1250年代に埋納されたと考える。これらより、中段結界石は1250年以前に立てられていたと予想できる。

 

Z202.叡福寺絵図.png叡福寺の南方にある西方院が所蔵する『建久四年古図』に描かれた磯長墓には、中段結界石らしき石柱が周囲をめぐっているように見える。現存の絵図は模写であり、建久4年の絵図として見なすことは出来ないとされる意見もあるが、「中段結界石に刻まれた梵字」、「中段結界石を据えた地層にあった渡来銭」からして、絵図の通りとおり建久4年(1193年)には中段結界石はあったと考えられる。

 

聖徳太子磯長墓の墓前寺である叡福寺が創建されたのは、天喜2年(1054年)に「太子御記文」が出土した以降のことで、11世紀の中頃から12世紀の中頃と考えられている。叡福寺からは平安後期(11~12世紀)以降の瓦が多く出土いている。そして、聖徳太子磯長墓を巡る中段結界石は、叡福寺が創建されてまもなく立てられたものと思われる。結界石を立てる段階で、叡福寺古墳は八角墳から円墳に整形されたと考える。平安時代の皇統は天智天皇系であり、京都山科にある天智天皇陵は八角墳である。当時の人は八角墳が天皇陵であることを知っており、聖徳太子の墓前寺として創建された叡福寺にとっては、古墳を聖徳太子磯長墓にするために、円墳に整形せねばならなかったのであろう。


61-9.聖徳太子墓は磯長谷にある長方墳 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z200.叡福寺北古墳の石室.png聖徳太子墓(叡福寺古墳)の石室は明治初めまでは中に入れ、色々な記録が残っている。それによると石室は両袖式の横穴石室で、花崗岩の切石造りである。石室には三つの棺があって、奥の棺は刳抜式の家形石棺で、その手前二つの棺は石の棺台に夾紵棺が置かれていたと見られている。奥の棺は母の穴穂部間人皇女、手前の右側の棺が聖徳太子、左側の棺が膳夫人とされており、中世では三棺合葬の形を阿弥陀三尊信仰と結びつけ、「三骨一廟」と呼び信仰の対象としていた。

 

平安前期に成立したと考えられている『上宮聖徳法王帝説』によると、間人女王(穴穂部間人皇女)は、用明天皇が崩御された後、義理の息子・多米王と結婚し、佐富女王を産んでいる。間人女王は聖徳太子からも疎んじられていたとの指摘もあり、聖徳太子と間人女王が合葬されているとは思われない。『延喜式』の「諸陵寮」によると、間人女王の墓・龍田清水墓は大和國平群郡に在るとしている。『書紀』に登場する間人皇女は二人いる。一人が用明天皇の皇后で聖徳太子の母である。もう一人の間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の皇后で、天智6年(667年)2月の記事に「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女を小市(おち)崗上陵に合葬した。」とあるように、斉明天皇の越智崗上陵に合葬されている。『延喜式』の間人女王の墓は聖徳太子の母の墓と考えられる。

 

叡福寺古墳の二つの棺は、麻布を漆で何重にも貼り重ねて作った夾紵棺である。夾紵棺が出土した古墳は、叡福寺古墳を含めて5例しかない。牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)、阿武山古墳(藤原鎌足)、野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)、平野塚穴山古墳である。牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であり、阿武山古墳が藤原鎌足の墓であることは、多くの学者の唱えるところである。また、天武・持統天皇陵は被葬者が確定できる古墳の一つである。

 

夾紵棺の破片が出土している平野塚穴山古墳は、奈良県香芝市平野にある一辺21mの方墳で、凝灰岩切石の横口式石槨を持つ、玄室は長さ1.7mx幅1.5mx高さ1.7mで、唐尺で設計されており、7世紀末から8世紀初めの古墳と考えられている。夾紵棺の存在が確認された古墳の被葬者からみると、聖徳太子の薨去621年頃、斉明天皇の崩御は661年、藤原鎌足の薨去が669年、天武天皇の崩御は686年、平野塚穴山古墳の築造年代は7世紀末から8世紀初めとなる。夾紵棺の存在からみると、叡福寺古墳を聖徳太子墓とするには、無理があるように感じられる。

 

前方後円墳が終焉した後に築造された大型方墳は、蘇我氏との関わり、あるいは仏教・寺院との関わりがあると指摘されている。聖徳太子の父母は二人とも蘇我稲目の孫で、二人の妃も稲目の孫と曽孫であり、聖徳太子は蘇我氏と最も関わりの深い人物である。また、聖徳太子は推古天皇の皇太子として、蘇我馬子と共に仏教の興隆に貢献している。Z193の「天皇家と蘇我氏の系譜」に見られるように、聖徳太子墓は方墳であることが相応しい。聖徳太子墓に治定されている叡福寺古墳は円墳であること、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が合葬されていること、二基の夾紵棺の年代が合わないこと、どれをとっても叡福寺古墳が聖徳太子墓であることに否定的である。

 

Z193.天皇家と蘇我氏の墳墓.png

磯長谷には葉室塚古墳(越前塚古墳)がある。東西75mx南北55mの長方墳で、2基の横穴石室がある。古墳の規模は推古天皇陵(59mx55m)・用明天皇陵(65mx60m)より大きく天皇陵クラスである。『書紀』崇峻4年の記事に「敏達天皇を磯長墓に葬りまつった。これは亡母の皇后が葬られている陵である。」とあることから、葉室塚古墳にある2基の横穴式石室に、敏達天皇と亡母・欽明天皇の皇后石姫が葬られているとして、敏達天皇陵の候補であるとする意見もある。私は、葉室塚古墳は聖徳太子墓で、2基の横穴式石室は聖徳太子と前日に亡くなった膳夫人であると考える。『延喜式』には、磯長墓(聖徳太子墓)の兆域は東西三町,南北二町となっており、葉室塚古墳(越前塚古墳)の東西75mx南北55mの長方墳に似合う兆域である。

 


61-8.叡福寺古墳はいつ聖徳太子墓になったか [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z199.叡福寺と聖徳太子御廟.png聖徳太子墓(磯長墓)は大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある叡福寺古墳(円墳:径54mx高さ7m)に治定されている。叡福寺は聖徳太子墓の墓前寺であるとされており、聖徳太子墓が叡福寺古墳であると比定された年代は、叡福寺の創建まで遡る。一方、九条家本『諸寺縁起集』(鎌倉年代成立)に引用されている『天王寺事』の「聖徳太子御墓」の項には、「治安四年6月14日記す、聖徳太子の墓所を訪ねることが出来ない。墓の所在が不明となっている。河内国普光寺の僧・慈円が古文書『延喜式』を見つけ出した。それには<聖徳太子の磯長墓は河内国石川郡に在る>と書かれている。」とある。これにより、治安四年(1024年)には叡福寺はまだ創建されていなかったことが分かる。

 

叡福寺は「太子御記文」という碑文のある大理石(45x21x7cm)を所蔵している。「太子御記文」とは、聖徳太子が書かれとされる予言文書である。この碑文については鎌倉初期の説話集である『古事談』(1215年編)に記載されている。大筋は、天喜2年(1054年)9月20日に、聖徳太子御廟近辺の坤(ひつじ)の方に石塔を立てようとしたら、長さ1尺5寸、幅7寸の筥(はこ)石が地中から出てきた。身と蓋があり、開けてみると御記文があったので、四天王寺を通じてことの次第を奏上した。御記文の上石文には「今年歳次辛巳、河内国石川郡磯長の里に、最も優れ称美に足りる地があり、故に墓所と定めた。吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや、その時の国王・大臣は寺塔を発起し、仏法を願求していること。」とある。

 

また『古事談』には「小野宮右府記」の引用文を記載している。四天王寺別当の桓舜僧都が関白の仰せにより、御廟に参向し事情聴取をした。其の地の住僧が私堂を建てようと整地したが、その夜の夢に「此の地に堂舎を建ててはならない。早く停止しなさい。この傍の地が良い。」とのお告げがあったので、初めの地を止め他所に建立した。今年になって初めの地を整地した時、石の函(はこ)を掘り出した。函は身と蓋があり、針のようなもので銘が刻まれている。「彼の年より今年に及び、四百三十六年云々と。」

 

この「太子御記文」については、法隆寺僧の顕真が著した『聖徳太子伝私記』(1238年著)にも同様のことが書かれているが、『古事談』には書かれていない内容もある。「太子御記文」を発見した僧は忠禅という僧侶であること、天喜2年9月に忠禅が聖徳太子の御廟の中に入り「不可思議な作法」を行ったので、太子の舎利が破損していないかを確かめるために、勅宣(天皇の詔)でもって法隆寺の三興(僧官)康仁が御廟の中に入り三つの棺を拝見したこと、忠禅は法を談じたことが露顕し、康平6年(1063年)に禁獄されたことなどが記載されている。

 

「太子御記文」にある「今年歳次辛巳」とは、推古29年(621年)の辛巳の年で、聖徳太子が薨去した年にあたる。御記文が発見された天喜2年(1054年)は、聖徳太子が薨去してから433年であり、御記文の「吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや」と全く一致している。余りにも出来すぎた話で、これは偽物であることは明らかだ。

 

四天王寺は「太子御記文」が偽物であるとすぐ見抜けるはずであるが、何故朝廷に奏上したのであろうか。四天王寺には寛弘4年(1007年)に、慈運という僧侶によって金堂から発見された『四天王寺縁起』(国宝)という書物がある。『四天王寺縁起』には「乙卯歳正月八日」の日付と「皇太子仏子勝鬘」の署名があり、手形まで押されてある。『四天王寺縁起』は、推古3年(595年)に聖徳太子自身が書いたことを示しており、人々の関心を集め、当時の権力者の藤原道長が参詣するまでになり、四天王寺の発展に大きく寄与した。『四天王寺縁起』には、「欽明天皇」「敏達天皇」の奈良時代末期から使われた漢風諡号があり、完全な偽書であることは明白だ。このような前科のある四天王寺にとっては、「太子御記文」を偽物と決め付ける訳にはいかなかったのであろう。

 

『古事談』・『太子伝私記』から、私は次のように考える。天喜元年(1053年)に河内国石川郡の磯長谷に私堂を建てた僧忠禅は、近くにある古墳の石室を発見した。石室は磨き上げた切石造りで、三基の棺があることから、忠禅はこの古墳が聖徳太子廟であると悟った。そこで、此の地に聖徳太子の墓前寺を建立しようと、大理石に国王・大臣が寺塔を発起するようにとの銘文を刻んで埋め、翌年の9月に掘り出して、「太子御記文」が出土したと、ことの次第を四天王寺に届け出た。

 

四天王寺から奏上のあつた朝廷は、「太子御記文」については四天王寺に、聖徳太子廟については法隆寺に調べさせた。四天王寺は「太子御記文」を本物とし、法隆寺は古墳を聖徳太子廟と治定した。四天王寺と法隆寺は、忠禅の画策を寺の繁栄のために利用したが、忠禅がのさばることを恐れ、理由をつけて投獄されるようにし向けた。叡福寺が創建されたのは、その後のことである。聖徳太子墓が叡福寺古墳であると比定された年代は、平安時代の中頃のことと考える。


61-7.孝徳天皇陵はなぜ円墳に治定されたか? [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

「天皇家と蘇我氏の系譜」(Z193)には、継体天皇から天智天皇までの天皇家14代と蘇我稲目から蝦夷・入鹿までの系譜と陵墓の墳形を示している。ただし、崇峻天皇陵は赤坂天王山古墳、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳、蘇我稲目は都塚古墳、蘇我馬子は石舞台古墳、聖徳太子は叡福寺北古墳、来目皇子は塚穴古墳と通説に従っている。また、蘇我蝦夷・入鹿の墓は「61-4.小山田・菖蒲池古墳は蘇我蝦夷・入鹿の双墓」に依っている。飛鳥時代の舒明天皇以降の天皇陵は、孝徳天皇以外全て八角墳である。難波豊崎宮に八角殿を造った孝徳天皇の御陵は、八角墳であることが相応しいと思われるが、孝徳天皇陵に治定されている山田上ノ山古墳は円墳である。一方、聖徳太子の父母は二人とも蘇我稲目の孫で、二人の妃も稲目の孫と曽孫であり、蘇我氏と最も関わりの深い人物である。また、聖徳太子は推古天皇の皇太子として、蘇我馬子と共に仏教の興隆に貢献している。これらからすると、聖徳太子墓は方墳であることが相応しいが、聖徳太子墓に治定されている叡福寺北古墳は円墳である。孝徳天皇陵と聖徳太子墓が円墳であることに疑問を持つ。

 

Z193.天皇家と蘇我氏の墳墓.png

『書紀』によると孝徳天皇は白雉5年(654年)10月に崩御し、12月に大阪磯長陵に葬られている。孝徳天皇の大阪磯長陵は大阪府南河内郡太子町大字山田にある円墳、山田上ノ山古墳に治定されている。江戸幕末期に文久の修陵(1862年)が行われ、修陵前(荒蕪)と修陵後(成功)の天皇陵の絵図「文久山陵図」が残されている。『文久山陵図』(学生社)から、大阪磯長陵の荒蕪(Z194)と成功(Z195)を引用した。また『陵墓地形図集成』(宮内庁書陵部編)にある孝徳天皇陵の現在の地形図をZ196に示した。これらの3図を見ると、文久の修陵で山頂を利用して、径約35mx高さ約7mの円墳が成形され、孝徳天皇陵(大阪磯長陵)が造られたことが分かる。

Z194-Z196.大阪磯長陵.png

 

『河内国陵墓図』(天保12年:1841年)の大阪磯長陵には、「石棺露頭ノ所高三尺余幅六尺余アリ」とある。確かにZ195には石棺らしきものが露頭しているところが描かれている。石棺と云われているのは、刳抜式の横口石槨の蓋石で、幅1.8mx高さ0.9mであると理解する。奈良県斑鳩町の御坊山3号墳の刳抜式の横口石槨、蓋石は長さ約2.7mx幅約1.6mx高さ約0.9mで、山田上ノ山古墳の蓋石と幅と高さはほぼ同じである。御坊山3号墳は径8mx高さ2.5mの小さな円墳であり、山田上ノ山古墳も現在の円墳よりも、もっと小さな円墳だったと思われる。

 

Z197.磯長谷の延喜式陵墓.png表197は、大阪府太子町の磯長谷にある天皇陵・聖徳太子墓の墳丘規模と、平安時代に編纂された延喜式諸陵寮に記載された陵墓の兆域(陵墓域)と守戸(墓守)の戸数を記載している。兆域は町の単位で表わされており、平安時代は1町=107mである。陵墓の治定が確かと思われる仁徳天皇陵(8町x8町)と応神天皇陵(5町x5町)では、兆域の範囲が、前方後円墳の周濠を含めた範囲にほぼ収まっている。天智天皇陵(14町X14町)では、後背の山を含めた広大な地域が兆域に含まれており、現在でもその範囲には「御陵○○」との地名が見られる。

 

延喜式諸陵寮には、毎年2月10日に陵墓の定例巡検をおこない、兆域の垣溝が損壊すればこれを修理し、さらに検分することなどの規定があり、延喜式諸陵寮で治定された陵墓は、その治定が正しいかどうかは別として、陵墓の兆域は正確に把握されていたと思われる。Z198は磯長谷にある陵墓の兆域を図示したものである。左上隅には応神天皇陵(5町x5町)の兆域を挿入している。これらからすると孝徳天皇陵の兆域は、不自然に大きいことが分かる。現在、孝徳天皇陵と治定されている大阪磯長陵は、延喜式諸陵寮に定めた大阪磯長陵と違っているように思える。

 

Z198.磯長谷の陵墓の兆域.png

『書紀』は大化の改新の薄葬令において、孝徳天皇が「自分も墳丘を耕作不能の地につくり、代がかわった後にはどこにあるのかわからないようにしたい。」と述べており、王(皇族)以上の墓の規格として、「内(玄室)の長さ九尺(2.7m)、広さ(幅と高さ)五尺(1.5m)、外域は方九尋(一辺約16m)、高さ五尋(9m)、一千人を役し、七日でその工を終わらせる。」と定めている。元禄10年(1697年)の陵墓の探索の時に、『書紀』の「大化の改新の薄葬令」の記述を参考にして、磯長谷の山田の山上にある、横口石槨を持つ小さな円墳を見つけ出し、孝徳天皇の大阪磯長陵と治定し、文久の修陵で現在の形に成形したものであり、延喜式諸陵寮に定めた大阪磯長陵ではないと推察する。それでは、八角墳と考えられる孝徳天皇陵は、磯長谷の何処にあるのであろうか。