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59.聖徳太子は実在し伝承されていた ブログトップ

59-1.聖徳太子は架空の人物か [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

厩戸皇子(聖徳太子)は用明天皇と穴穂部間人皇后の長男として生まれた。父も母も蘇我稲目の孫であり、厩戸皇子には蘇我氏の血が半分流れている。『書紀』には厩戸皇子の生年については記載がないが、蘇我馬子が用明2年(587年)に物部守屋を滅ぼした戦に、束髪於額(ひさごはな:十五、六歳の小年の髪型)の厩戸皇子が加勢したと記載している。『法王帝説』には、上宮聖德法王は甲午の年に生まれたとあり、敏達3年(574年)に誕生したとしている。これからすると物部守屋を滅ぼした戦のあった用明2年には14歳であり、厩戸皇子の生年について、『書紀』と『法王帝説』は概ね合っている。

『書紀』は厩戸皇子について、「生まれてすぐ言葉を話され、優れた知恵があり、成人になると一度に十人の訴えを聞き分けることが出来き、先々の事まで見通された。仏教を高麗の僧慧慈に習い、儒教を博士覚哿に学んで、どちらもことごとく習得された。」とある。厩戸皇子が厩戸豊聡耳皇子と呼ばれ、別名に豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王・法主王とされているのは、これらの逸話からであろう。なお、『書紀』は厩戸皇子を「皇太子」「上宮太子」と表記しているが、「聖徳太子」の呼称は一切使用していない。『書紀』の厩戸皇子についての文章は、誇張があり、信用できる分けではないが、厩戸皇子が有能で仏教・儒教に精通していた「聖徳太子」に価する人物であったと考える。


推古元年(593年)に推古天皇が即位し、厩戸皇子は皇太子となり、
蘇我馬子が大臣となった。推古天皇は40歳、厩戸皇子は20歳、蘇我馬子は43歳であった。『書紀』は厩戸皇子が摂政となり、一切の政務を執り、国政をすべて委任されたと記しているが、「57-12.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供」で述べたように、推古天皇の蘇我馬子に対する信頼は厚く、年齢からしても国政を任されたのは馬子であったと思われる。推古天皇が始めての女帝であったため、また馬子が崇峻天皇を殺害した側面もあり、国政を牛耳っているというように見られたくないため、厩戸皇子が皇太子で摂政となった形をとったのであろう。ただ、厩戸皇子は有能であり、皇太子として大臣と共に推古天皇を支えたと考える。今後、皇太子となった厩戸皇子を聖徳太子と表記していく。

『書紀』は、聖徳太子が単独で行った事柄については、斑鳩宮を建て住んだこと、秦造河勝に仏像を授けたこと、憲法17条を定めたこと、勝鬘経・法華経を講じたこと、片岡の飢者を埋葬したことを挙げている。また斑鳩寺(法隆寺)・四天王寺を創建したことも、文章から推察することが出来る。冠位十二階の制定、小野妹子の遣隋使派遣は、聖徳太子と馬子大臣が共同で行ったのであろう。



1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、聖徳太子が制定したとする憲法十七条や、東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命などの聖徳太子を示す語句がある法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとして、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」とした。大山氏の発表以降、それまでに燻っていた聖徳太子に対する疑義に火が付き、多くの研究者が聖徳太子の実在を否定する論文を発表している。




59-2.「聖徳」は『書紀』以前から伝承されていた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『書紀』は厩戸皇子について、「生まれてすぐ言葉を話され、優れた知恵があり、成人になると一度に十人の訴えを聞き分けることが出来き、先々の事まで見通された。」とある。厩戸皇子は厩戸豊聡耳皇子と呼ばれ、別名に豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王とされている。『古事記』には「上宮之厩戸豊聡耳命」とあり、「豊聡耳」の名は『書紀』と同じである。「一度に十人の訴えを聞き分けることが出来きた」という逸話は、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。

 

『古事記』が712年に撰上された翌年に、風土記の編纂を諸国に命じている。現存している『風土記』は、常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五ヶ国で、その他の諸国の風土記は、他の書籍に引用されている逸文のみである。『播磨国風土記』に記載された地方の行政組織は国・郡・里である。地方の行政組織が国・郡・里から、国・郡・郷・里に代ったのは宝亀元年(715年)から宝亀3年(718年)であり、『播磨国風土記』は、『書紀』が撰上される720年以前に成立したことが分る。

 

Z138.風土記の天皇名.png『伊豫国風土記』は、鎌倉時代の『釈日本記』・『萬葉集注釈』に逸文が引用されている。『伊豫国風土記』の「湯の郡」の条では、天皇等の湯に行幸されたのは、大帯日子天皇(景行天皇)と大后八坂入姫、帯中日子天皇(仲哀天皇)と大后息長帯姫命(神功皇后)、上宮聖徳皇(聖徳太子)、岡本天皇(舒明天皇)と皇后、後岡本天皇(斉明天皇)、近江大津宮御宇天皇(天智天皇)、浄御原宮御宇天皇(天武天皇)を挙げている。『播磨風土記』・『伊豫国風土記』に記載された天皇の名称を『日本書紀』・」『古事記』の名称と比較し、表Z138に表わした。ただし、「宮」を冠した名称の天皇は省いている。表Z138から、『播磨国風土記』と『伊豫国風土記』逸文に記載された天皇名は『古事記』と一致することが分る。これらからしても、『播磨国風土記』と『伊豫国風土記』は『日本書紀』が撰上される以前に成立したことが明らかである。

 

『書紀』は推古3年に「高麗僧の恵慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)の師となった」、「仏教を高麗の僧恵慈に習い、儒教を博士覚哿に学んで、どちらもことごとく習得された。」とあり、別名に豊聡耳法大王・法主王とある。『伊豫国風土記』には、「上宮聖徳皇が高麗の僧恵慈と共に伊豫の湯に行幸した。」、「法興6年10月、丙辰の年(推古4年:596年)に、法王大王と恵慈の法師および葛城臣と、伊豫の村に遊び」とある。皇太子(聖徳太子)が高麗の僧恵慈から仏教を学んで習得し、仏法の最高位者であり、「法大王・法王大王」と呼ばれたことは、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。

 

『書紀』は厩戸皇子を「皇太子」「上宮太子」と表記し、「聖徳太子」の呼称は一切使用していないが、別名として「豊聡耳聖徳」があると記している。『播磨国風土記』には「聖徳王」、『伊豫国風土記』には「上宮聖徳皇」とあり、皇太子(聖徳太子)は聖人であり「聖徳」と称されていたことが、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。大山氏は「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」と主張しているが、少なくとも「聖徳太子は『日本書紀』の中で誕生した。」ということは、成り立たないことが分る。


59-3.聖徳太子実在の鍵は「天皇号」 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

大山氏を初めとする学者の方々は、法隆寺系史料の金石文が推古朝ではなく、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとしている。その根拠の第一は、薬師如来像光背銘・天寿国曼荼羅繡帳にある君主号の「天皇」、釈迦像光背銘にある「法皇」は、推古朝には存在しない。第二は、釈迦像光背銘にある「法興」という年号は実在しない。第三は天寿国曼荼羅繡帳にある孔部間人母王の命日が、持統4年(690年)から使用された儀鳳暦で記されていることであった。

Z139.法隆寺薬師如来像.png 

法隆寺の金堂に安置されている国宝の薬師如来像の光背銘には「天皇」銘が3ヶ所刻まれている。その内容は「用明天皇が病気になら
れた時、丙午の年(586年)に推古天皇と聖徳太子を召して、病
気平癒のため寺を造り薬師像を作ることを請願されたが、それがか
なわぬまま亡くなられた。そこで、推古天皇と聖徳太子が丁卯の年(607年)に作り奉った。」とある。用明天皇は「池辺大宮治天下天皇」、推古天皇は「小治田大宮治天下大王天皇」・「大王天皇」、聖徳太子は「太子」・「東宮聖王」と刻まれている。

 

この銘文について大山氏は、「唐の高宗の上元元年(674年)に、君主の称号が「皇帝」から「天皇」に代ったが、その情報が天武朝(672~686年)に倭国に伝わり、持統3年(689年)に制定された浄飛鳥御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の「天皇」号が捧げられたというのが定説となっている。・・・・三度も天皇号を使用した薬師像の銘文は、天武・持統朝以後の成立で、607年(推古15年)のものとしては偽物ということにならざるを得ないのである。」と述べている。「天皇号の成立」という大命題を論破しなければ、「聖徳太子が実在した」ことを証明は出来ない。

 

『懐風藻』は日本で最古の漢詩集である。選者は不明だが、序文には天平勝宝3年(751年)に完成したとある。天智天皇の御代から奈良時代にいたるまでの作者64名、120編の詩文を治めている。その第一番目の詩が大友皇子の詩である。大友皇子は天智天皇の第一皇子で、壬申の乱において叔父・大海人皇子(天武天皇)に敗北し自害している。大友皇子の漢詩の現代訳は、『懐風藻』(講談社学術文庫)、江口 孝夫による。

  皇明光日月  天子の威光は日月のようにこの世に光り輝き

  帝徳載天地  天子の聖徳は天地に満ちあふれている

  三才並泰昌  天・地・人ともに太平で栄え

  万国表臣義  四方の国々は臣下の礼をつくしている

 

この詩が詠まれた年月の記載はないが、表題には「侍宴」とあり、天智天皇の宴で、天皇の徳をたたえ、威光をのべ、隆盛を祝福している。『書紀』によれば、天智天皇は斉明天皇が崩御されてから、即位式を挙げないで政務をとられていた。この間に白村江の海戦があり唐に敗れている。そして、天智7年(668年)1月3日に即位され、7日に内裏で群臣を集め宴が催されている。漢詩の内容からすれば、この宴で大友皇子が詠ったのであろう。この詩の「皇明」とは、天皇の威光という意味であると江口氏は解説しており、「皇」のみならず、「天皇」の称号も天智7年(668年)には存在していた可能性があると思われる。

 

唐の高宗皇帝(650~683年)が君主の称号を「皇帝」から「天皇」に替えたのは上元元年(674年)であり、天智7年(668年)に倭国で「天皇」の称号が使われていたことを証明するためには、倭国に「天皇」の語句が、高宗皇帝が「天皇」の称号を使う以前に伝わっていたことを証明しなければならない。

 


59-4.天智朝には「天皇」号が存在していた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z140.天皇木簡.png1998年に奈良国立文化財研究所が、飛鳥池遺跡から出土した木簡の中に、「天皇」の語が墨書きされたものがあると発表した。この木簡は飛鳥池遺跡の北地区の、持統朝を下限とした溝のさらに下層から出土しており、この遺構から伴出した木簡の「サト」表記は、すべて「五十戸」であった。飛鳥から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、681年から683年頃であることが分っている。これらより「天皇」の語が墨書きされた木簡は、683年(天武12年)以前に書かれたものであることがわかる。「天皇」木簡が出土した同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出しており、「天皇」号の表記が683年(天武12年)以前から使用されていたことは確かである。しかしながら「天皇」木簡の年代からは、「唐の高宗の上元元年(674年)に、君主の称号が『皇帝』から『天皇』に代ったが、その情報が天武朝(672~686年)に倭国に伝わった。」とする、従来の定説を覆すことは出来ない。

 

墓誌Z141.船氏王後.png三井記念美術館所蔵の国宝「船氏王後墓誌」は、江戸時代に大阪府柏原市国分の松岡山から出土したと伝えられ,その後長く西琳寺に蔵されてきた。墓誌の正確な出土地点や,埋納状況については全く不明である。墓誌は29x7x0.2センチの銅板で、表に4行86字、裏に4行76字が刻まれている。銘文の概要は「船氏の故、王後首は敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝廷で仕え、舒明天皇の代に至った。大仁の官位を賜った。舒明天皇の末年、辛丑(641年)12月3日に死亡した。そこで戊辰年(668年)12月、松岳山の上に葬った。」である。銘文にある「船氏」について『書紀』は、欽明14年(533年)に「蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し,その功で船長となり船氏の氏姓を与えられた。」と、敏達元年(572年)に「高麗の国書を誰も読みとれなかったが、船史の祖王辰爾のみ解読し、天皇が王辰爾を大いに賞讃した。」と、皇極天皇4年(645年)に「蘇我蝦夷が殺されたとき、船史恵尺が焼かれようとした国記をとり出して、中大兄皇子に奉献した。」と記載している。

 

戊辰の年(天智7年:668年)に成立した「船氏王後墓誌」には、乎娑陀宮天下治天皇(敏達天皇)、等由羅宮天下治天皇(推古天皇)阿須迦宮天下治天皇(舒明天皇)の銘が刻字され、天智7年(668年)に「天皇」号が使われていたという史実を伝えている。ただ、「船氏王後墓誌」の出土状況が明確でなく、天智朝に「天皇」号が使われていたという証拠になり得ていない。


59-5.野中寺の弥勒菩薩像に刻まれた天皇号 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z142.野中寺弥勒菩薩.png大阪府羽曳野市にある野中寺の境内には、古代寺院の礎石が残っており、塔心礎の支柱孔は円柱の周囲三方に添柱を付した形のもので、聖徳太子建立七大寺の1つとされている飛鳥橘寺の塔心礎の柱穴と同じ形をしている。野中寺からは、船橋廃寺式の素弁蓮華文瓦(630~640年)が出土しており、推古朝に建てられた46寺院の一つと見られている。野中寺には像高18.5cmの弥勒菩薩半跏像があり、弥勒象の台座には縦に2字、31行に銘文が刻字され、その中に「天皇」の文字がある。


「丙寅年四月大八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」

 

「丙寅年四月大」の「大」は、旧暦(太陰暦)で1ヶ月が30日の月である。ちなみに「小」は29日の月となる。「八日癸卯開」の「開」は、日々の吉凶を判断する十二直(暦注)で、「建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉」がある。我々が良く知っている「大安」とか「友引」というのは、六曜という暦注である。飛鳥寺の北西にある石神遺跡から円盤に書かれた具注暦の木簡が出土しているが、この暦は持統3年(689年)己丑の年もので、復元図(『飛鳥の木簡』市大樹、中央新書)をみると、「四月大」や「廿一日癸卯開」の文字がある。

 

Z143.野中寺銘文.png野中寺弥勒像の銘文「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」は、元嘉歴で天智5年(666年)4月8日のみが該当する。しかし「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」の間にある緑色マークの○の字(写真Z143)の読みには諸説がある。通説では「旧」と読んで、新しい暦(儀鳳歴)が使われる時代に、以前使用されていた「旧」の暦(元嘉暦)で記したことを示したものであると解釈している。そして儀鳳歴と元嘉暦が併用された持統4年(690年)、もしく儀鳳歴のみが用いられるようになった文武元年(697年)以降に、野中寺弥勒像の銘文が刻字されたと解釈している。

 

因みに丙寅年(666年)では、元嘉暦では4月8日が癸卯であるが、儀鳳歴では4月7日が癸卯であり、1日の違いでしかない。確かに緑色マークの○の字は「旧」の字に見えなくはないが、儀鳳歴が使われている時代に、元嘉暦が使われていた昔の時代の事を記録しておくのに、わざわざ「旧」の暦(元嘉暦)で記していることを表わす必然性があるようには思われない。まして銘文が後世に捏造されたものとするならば、その証拠となるような文字「旧」を入れることはしないであろう。このような説が通説としてまかりとっているのは、この説自身に説得性があるということでなく、天智朝には「天皇号」の使用がなかったという先入観があるためであろう。

 

緑色マークの○の字は「朔(ついたち)」の略字であるとの説がある。写真143を見ると、○の字のツクリの部分は「月」に見える。話は飛ぶが、1971年に韓国忠清南道公州市(百済の都)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、武寧王陵として王墓が特定された。墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、
癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」とあり、5月朔の干支「丙戌」を記載している。干支は丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰であり、5月7日の干支が「壬辰」であれば、5月1日が「丙戌」であることは自明の理であり、日常用いる暦では「丙戌朔」は省略されている。野中寺弥勒像の銘文は、「丙寅年四月大丙申朔八日癸卯開」の「丙申朔」を省略すべきところを、間違って「丙申」のみを省いたのであろう。野中寺弥勒像の銘文、天智5年(666年)4月8日に刻字されたものであると考える。

 

「中宮天皇」については該当の天皇がなく、像の成立年代から斉明天皇説・間人皇女説・天智天皇説がある。しかし『日本書紀』・『古事記』・『風土記』において、天皇名に「宮」を冠する場合、必ず宮を設けた地名が付いている。斉明7年(661年)斉明天皇が崩御されてから、天智6年(667年)に近江に都を遷し即位するまで、称制(即位の儀式を行わないで天皇の政務をとること)であった天智天皇は、660年に唐に破れた百済を復興させようと、都を長津宮(福岡市)に遷し軍政を執っている。天智天皇は長津宮天皇と呼ばれていたが、それが訛って(長津宮→那珂津宮→那珂宮→中宮)中宮天皇となったのであろう。

 

天智2年(663年)に倭国の水軍は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に破れてから、天智天皇は飛鳥に戻っていた。『書紀』によると天智5年3月に、天智天皇は乙巳の変で共に蘇我入鹿を斬った佐伯小麻呂連の家に病気見舞いに行っている。小麻呂は流行り病で天智天皇が感染し臥したと想像する。野中寺弥勒像の天智5年4月8日付けの銘文は、「中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也」とあるように、天智天皇の病気平癒を願って造られたものである。野中寺の弥勒菩薩半跏像にある銘文は、天智5年(666年)には天皇号が使われていたという史実を伝えている。

 

今年(2017年)1月、京都市左京区の妙伝寺が所蔵する江戸期の作とされていた本尊「半跏思惟像」(如意輪観音像:高さ50cm)が、金属成分の調査から、7世紀朝鮮半島で作られた可能性が高いとの報道が、新聞・テレビでなされた。この調査にあたった大阪大学の藤岡穣教授(東洋美術史)は、これまで日本・韓国・中国などで約400体の仏像を蛍光エックス線分析している。藤岡教授は2014年4月東京国立博物館研究誌『Museum』に、「野中寺弥勒菩薩像について―蛍光X線分析調査を踏まえて―」の論文を発表され、「銘記の丙寅年を666年と解釈し、それを制作ないし銘記鐫刻の時期とみなすのが妥当」と結論付けている。

 

船氏王後墓誌銘と野中寺の弥勒菩薩像台座銘は、天智朝に「天皇」号が使われたことを示しており、天智天皇の第一皇子である大友皇子が詠った漢詩にある「皇明」とは、天皇の威光という意味であることが分る。中国の唐の高宗皇帝が「天皇」の称号を使う以前から、倭国では「天皇」の語句が使われていた。


59-6.推古朝に「天皇」号が使われていた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

法隆寺金堂の内陣には「中の間」に釈迦三尊像、「東の間」に薬師如来像、「西の間」に阿弥陀三尊像が安置されている。法隆寺は現存する世界最古の木造建築であるが、現在の伽藍は天智天皇9年(670年)に焼失した後に再建されたものであるということが、旧伽藍(若草伽藍)の発掘調査以降定説になっている。創建(601年頃)当初の法隆寺に、釈迦三尊像があったとすれば、釈迦三尊像は法隆寺が全焼(670年)した際に、運び出されたと言う事になる。

 

Z144.釈迦三尊像.png国宝の釈迦三尊像は、木造二重の箱形台座の上に、中尊の釈迦如来坐像(釈迦像)と両脇侍菩薩立像が安置されている。釈迦三尊像の台座は幅202センチ、奥行き172センチで、台座の最下部から光背の最上部までの高さは382センチあり、総重量が400㎏を越えている。釈迦像と台座は一体になっており、火災の際に運び出したとは考えられない。釈迦三尊像は膳夫人の出身氏族である膳氏によって造られ、元来は膳氏ゆかりの法輪寺に安置されていたと推定されている。法隆寺が再建された際に、法輪寺から釈迦三尊像が献納されたのであろう。

 

Z145.釈迦三尊像光背銘.png迦像と一体となっている台座の補足材に「辛巳の年八月九月作□□
□□」等の墨書があることが、平成2、3年の解体修理で見つかっている。墨書が書かれた扉板は縦に切られ、補足材として台座の別々の場所に使われていることから、墨書銘は台座が組まれる前に書かれたことが確実であるとされている。釈迦像の光背銘には、「三主(聖徳太子・膳夫人・間人皇女)の浄土往生を願って、癸未の年(推古31年:623年)に仏師の司馬鞍首止利が造った。」とあり、台座の補足材の墨書にある「辛巳の年」は、釈迦像が造られた癸未の年の2年前の辛巳の年(推古29年、621年)のものであると推察されている。釈迦像台座の補足材にある墨書により、釈迦像の金石文は仏師の司馬鞍首止利により釈迦像が造られた癸未の年(推古31年:623年)に成立したものであることが明白となった。

 

大山氏は『聖徳太子の真実』のなかで、「法隆寺釈迦三尊像台座の墨書銘」というコラムを書き、「釈迦像銘には、周知のように、戦前の福山敏男氏の研究依頼、多くの疑問が指摘されている。「法興元」という年号はなく、後世につくったもの。「法皇」は、法王と天皇号とを組み合わせた日本独自の語で、やはり後世のもの。・・・釈迦像銘の623年などという理解は、ほとんど否定されているのである。・・・この墨書銘が推古朝でなく、7世紀末以降のものであることは確実で、法隆寺の再建を考慮すれば、辛巳の年は681年(天武10年)とするのが妥当であろう。」と記している。

 

大山氏は、釈迦三尊像の台座にある墨書銘の「辛巳の年」が、天武朝であるとする具体的な根拠を示すことなく、天皇号は天武朝に作られたという、多くの研究者によって作り上げられた固定概念でもって、墨書銘が書かれた年を天武朝だと決め付けている。私には、釈迦像と一体となっている台座の補足材にある墨書銘の「辛巳の年」は、釈迦像光背銘にある「癸未の年」の2年前であり、釈迦像の金石文は仏師の司馬鞍首止利により釈迦像が造られた癸未の年(推古31年:623年)に成立したものであると考えるほうが事実に即しているように思える。

 

釈迦像と一体となっている台座の補足材に書かれた「辛巳の年」の墨書により、釈迦像光背銘は推古朝に成立していて、光背銘にある「法興」の年号と「法皇」の語句は、推古朝に存在していたと判断できる。「法皇」は、福山敏男氏の指摘するように法王と天皇号とを組み合わせであると考えると、「法皇」が推古朝に存在するということは、「法王」と「天皇」号が推古朝に存在したことになる。船氏王後墓誌銘と野中寺の弥勒菩薩像台座銘は、天智朝に「天皇」号が使われたことを示していたが、法隆寺の釈迦像光背銘は、それをさらに遡らせ、推古朝に「天皇」号が使われたこと証明している。


59-7.「天皇」の称号は聖徳太子が考案した [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

船氏王後墓誌銘と野中寺の弥勒菩薩像台座銘は、天智朝に「天皇」号が使われたことを示しており、法隆寺の釈迦像光背銘はそれをさらに遡らせ、推古朝(593~620年)に「天皇」号が使われたことを証明していた。これらより、唐の高宗皇帝が上元元年(674年)に「天皇」の君主称号を使う以前から、倭国では「天皇」の語句が使われていたことが分る。我が国の「天皇」号の源流は、どこに求められるのであろうか。

 

中国の戦国時代の終わりごろから発達した星占術的な天文学の中で、天体観測の最高基準になる北極星が神格化され、宇宙の最高神として太一神が生れた。紫宮にいる太一神を祀れば神仙になれると信じた前漢の武帝は、紫の幕を張りめぐらして太一神を祀っている。前漢の終わり頃になると、太一神は「天皇大帝」と呼ばれるようになり、星占術的な天文学を取り入れた讖緯(しんい:予言)書には「天皇大帝は北辰の星なり」、「紫宮は天皇の治むる所なり」の記述がある。

 

中国の国家は儒教を規範として統治されおり、儒家の経典『詩経』や『書経』には、帝王の行う国家祭祀の最高神は「昊天上帝」であったとしている。後漢末の儒教学者である鄭玄(127~200年)により、帝王の行う国家祭祀の対象としての「昊天上帝(皇天上帝)」と、宗教的な信仰の対象としての「天皇大帝」とが同一視されるようになった。「天皇大帝」が国家祭祀の対象とされたのは、南北朝時代の南朝の梁(502~557年)である。唐の時代の801年に完成した『通典』巻42には、梁の武帝が「天皇大帝」を主神として祀ったと記載している。

 

百済の武寧王(501~523年)、聖王(523~554年)は、度々中国の南朝の梁に朝貢し、特に聖王19年(541年)には、毛詩(詩経)博士・涅槃経義などを要請し許されている。これらより、6世紀後半の百済には「天皇大帝」という概念が伝わり、儒教・道教の師は知っていたと考える。聖徳太子は百済の覚哿博士に593年から儒教を習い、百済の僧観勒は602年に暦の本・天文地理の本・遁甲方術の本を奉っており、聖徳太子は「天皇大帝」という概念を知っていたと思われる。

 

『隋書』には、倭国からの国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあり、帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿曰く「蛮夷の書に無礼あり、再び聞くことなかれ」とある。「蛮夷の書に無礼あり」としたのは、皇帝と同じ「天子」の称号を使ったこと、「日出処天子」>「日没処天子」と判断したからである。国書には「中国の皇帝何するものぞ」との思いが込められていたのであろう。

 

『書紀』には推古16年(608年)の記事に「東の天皇、敬みて西の皇帝に申す。」とある。『書紀』は時代考証がされていないため、天皇が「大王(おおきみ)」と呼ばれている時代でも、「天皇」と表記している。もし推古朝に天皇号が使用されていなかったならば、「東の天皇」の表記は、「東の大王」であった。そうすると言葉の重みからすると、「東の大王」<「西の皇帝」であり、国書に表わした意思とは違ったものになる。推古朝に天皇号が使用されていたとすれば、表記は「東の天皇」であった。中国の儒教・道教の概念からすれば、「天子(皇帝)は天神(昊天上帝・天皇大帝)の命により天下を治める。」であり、「東の天皇」>「西の皇帝」となり、国書と同じ意思となる。これらからしても、推古朝には「天皇」号が使われていたと思われる。「天皇」の称号は聖徳太子が考案したものであろう。


59-8.「法興」の年号は実在した [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

大山氏を初めとする学者の方々は、法隆寺系史料の金石文が推古朝ではなく、厩戸王の死後一世紀後に捏造されたものであるとしている。後世の捏造のものとする根拠の第一は、薬師如来像光背銘・天寿国曼荼羅繡帳にある君主号の「天皇」、釈迦像光背銘にある「法皇」という語句である。第二は釈迦像光背銘にある「法興」という年号であり、第三は天寿国曼荼羅繡帳にある孔部間人母王の命日が持統4年(690年)から使用された儀鳳暦で記されていることであった。

 

釈迦三尊像光背の銘文の出だしには、「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」とある。「鬼前太后」は聖徳太子の母・穴穂部間人王(用明天皇皇后)のことであり、辛巳の年は推古29年(621年)にあたる。大山氏は、「法興元」というのは、法興寺(飛鳥寺)が始まった年を基準とした私年号(『日本書紀』に現れない年号)と考えられているが、「大化」という年号が定められて大化の改新以前に、日本国内で年号が使用された証拠はないとして、釈迦像の銘文は推古朝に成立したものでなく、後世に捏造されたものだという証拠の一つとしている。

 

『伊豫国風土記』逸文によると、「法興六年十月、歳丙辰に在り。我が法王大王と恵慈の法師及葛城臣と、夷與の村に遊び、神の井を観て、その妙験に感嘆して碑文を作った。・・・・」とある。『伊豫国風土記』の逸文にある「法興6年丙辰」は推古4年(596年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。釈迦像光背の銘文の「法興31年辛巳」は推古29年(621年)にあたり、法興元年は伊豫国の風土記と同じ崇峻4年(591年)である。全く関係の無い釈迦三蔵像光背銘文と『伊豫国風土記』に使われた「法興」の私年号の元年が、同じ年を示していることは、「法興」の年号が実際に存在していた証拠であると思える。


59-9.天寿国繡帳は推古朝に作られた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z146.天寿国繡帳.png天寿国曼荼羅繡帳(天寿国繡帳)は、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)で、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵し、国宝に指定されている。鎌倉時代に中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・信如により、法隆寺の蔵から再発見されたと伝えられている。現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦89センチ、横83センチの額装仕立てとなっており、4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍で表されている。制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであり、100個の亀形の甲羅に計400文字が刺繍されていたと推定されている。この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用されている。この銘文によると、天寿国繡帳は推古三十年に聖徳太子が薨去した後、妃である橘大郎女(推古天皇の孫)が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと発願し、推古天皇の詔で製作されたものである。

天寿国繡帳の銘文には、「辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半 太子崩」とある。聖徳太子の母・穴穂部間人王の命日「辛巳十二月廿一癸酉」は、辛巳の年が621年(推古29年)にあたることから、621年12月21日であり、聖徳太子の命日「翌年二月廿二日甲戌」は622年2月22日である。我が国に百済から伝わった暦法は元嘉暦であった。持統4年(690年)から元嘉暦と儀鳳歴が併用され、文武元年(697年)以降は儀鳳歴のみが用いられるようになった。天寿国繡帳が推古朝に製作されたとするならば、その銘文にある年月日の干支は、元嘉暦で記していなければならない。元嘉暦でみると、穴穂部間人王の命日621年12月21日の干支は、銘文と違って「甲戌」となり、聖徳太子の命日622年2月22日の干支は、銘文通りの「甲戌」となる。

2001年に「天寿国繡帳の成立年代」の論文を発表された金沢英之氏は、儀鳳歴による計算結果から、穴穂部間人王の命日の621年12月21日の干支は「癸酉」となり、聖徳太子の命日の622年年2月22日の干支は「甲戌」となり、両者とも天寿国繡帳に記載された干支と一致することを発見された。そして、天寿国繡帳銘の成立は、早くても儀鳳歴と元嘉暦の併用が詔された持統4年以降、もしくは儀鳳歴が単独で用いられた文武朝以降であるとされた。この論文により、法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものである確実な証拠とされ、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。」との説が勢い付いている。

天寿国繡帳が儀鳳歴で記載されているとしたら、天寿国繡帳は推古朝に成立したものでないことは確実である。しかし、私には引っかかることがある。それは釈迦像光背銘の「辛巳十二月 鬼前太后薨 明年正月廿二日 上宮法皇枕病弗悆 干食王后仍以労疾・・・・二月廿一日癸酉 王后即世 翌日法皇登遐。」である。鬼前太后は穴穂部間人王、上宮法皇は聖徳太子、干食王后は膳夫人である。釈迦像光背銘でも聖徳太子の命日は、622年年2月22日で同じである。私が注目したのは、釈迦像光背銘の膳夫人の薨去の「二月廿一日癸酉」と、天寿国繡帳の穴穂部間人王の薨去の「辛巳十二月廿一癸酉日入」と、黄色マーカーのところが全く同一であることだ。

天寿国繍帳と釈迦像光背銘の「二月廿一日癸酉」は全く同一であることは、偶然ではなく作為があるように思える。聖徳太子は多くの人に看取られて、惜しまれ亡くなったのであろうから「甲戌夜半」と時刻まで記録されていたのであろう。『法王帝説』によると、用明天皇の皇后であった穴穂部間人王は、天皇が崩御された後、義理の息子・多米王と結婚し、佐富女王を産んでいる。穴穂部間人王の置かれた立場からすると、内内の人に看取られた最後であったと思われる。聖徳太子も病気で臨終に立ち会えなかったのかもしれない。穴穂部間人王が亡くなった日が「癸酉日入」と時刻まで記録されるのは不自然である。「癸酉日入」に亡くなったのは、聖徳太子の前日に亡くなった膳夫人であると考える。間人母王・膳夫人・聖徳太子の薨去した日は、前太后(間人母王)は「辛巳十二月」、王后(膳夫人)は「明年二月廿一日癸酉日入」、法皇(聖徳太子)は「翌日二月廿二日甲戌夜半」であったと考える。

これを文章にすると下記の上段になる。上段から青の「王后即世 翌日二月」を取り除き、緑色の「間人母王崩 明年二月」を挿入すると下段の天寿国繍帳の文章となる。天寿国繍帳は亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍するデザインで、字数を合わせるため「廿一癸酉日入」とピンクの「日」の字を抜いている。
「辛巳十二月間人母王崩 明年二月廿一日癸酉日入王后即世  翌日二月廿二日甲戌夜半太子崩」
「辛巳十二月          廿一癸酉日入間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」

天寿国繡帳は、聖徳太子の妃である橘大郎女が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと願い、祖母の推古天皇の詔で製作されたものである。聖徳太子が前日に亡くなった膳夫人と天寿国で一緒であっては、橘大郎女が天寿国繡帳を見るたび嫉妬の心が起こり、心穏やかではなくなる。膳夫人の命日の記載を削除したため、日時・干支が間人母王の命日に紛れ込んだと考える。

膳夫人の命日は622年年2月21日で干支は、元嘉暦・儀鳳歴ともに、釈迦三尊像光背銘の通りの「癸酉」である。もちろん翌日に亡くなった聖徳太子の命日は622年年2月21日で、干支は元嘉暦・儀鳳歴ともに天寿国繡帳に記載された通りの「甲戌」である。天寿国繡帳・釈迦三尊像光背銘に齟齬は起こらず、元嘉暦の問題も起こらない。天寿国繡帳は釈迦三尊像と同様、推古朝に作られたものである。




59-10.「憲法十七条」は聖徳太子が制定したか [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『書紀』は推古12年(604年)4月3日に、聖徳太子が自ら始めて「憲法十七条」を作ったとしている。上宮聖徳法王帝説には、推古天皇の御世乙丑の年(605年)7月、「十七余の法」を作ったとある。ただ、「憲法十七条」の文章が引用され残っているのは、『書紀』だけである。その主な条文の出だしを下記に示した。

第1条、和を以って貴しとなす。争いごと無きを旨とせよ。(略)

第2条、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。(略)

第3条、詔は必ず謹んで承れ。君を則ち天とし、臣を則ち地とす。(略)

第4条、群卿百寮、礼をもって本とせよ。民を治める本は、必ず礼にあり。(略)

第8条、群卿百寮、朝早く、遅く退け。公事暇なし、終日にも尽し難し。(略)

第12条、国司国造、百姓にむさぼるなかれ。国に二君なく、民に両主なし。(略)

第15条、私に背きて、公に向うは、これ臣の道なり。(略)

 

戦時中に『書紀』を否定した罪で弾圧を受け、戦後華々しく蘇り高い評価を受けた津田左右吉氏は、憲法十七条が推古朝のものとしては不自然であると指摘して、「奈良時代に太子の名をかりて、このような訓戒を作り、官僚に知らしめようとしたものである」と結論付けている。その根拠の第一は、「第12条に「国司」という語が見えるが、国司は国を単位に行政的支配を行う官人のことで、大化改新前にはありえない。」であった。

 

『書紀』には古墳時代の天皇の記事に、「国司」の表記が8ヶ所出て来るが、その内の5ヶ所は清寧・顕宗・仁賢天皇紀にある「播磨國司 來目部小楯」である。『古事記』の清寧天皇記では、「山部連小楯、任針間國之宰」とあり、「国司」が「国宰」となっている。「国宰」・「宰」の表記は、『常陸国風土記』では久慈郡・行方郡・多可郡の3郡で、『播磨国風土記』では讃容郡・飾磨郡の2郡で使われている。また、藤原宮跡の南面内濠からは、「粟道(あわじ)宰熊鳥」の木簡が出土している。「国宰(くにのみこともり)」は、「国司(くにのつかさ)」に先行して地方官司の呼称として使われていたと見られる。『書紀』には一切出てこない「国宰」の表記が、『古事記』・『風土記』に記載されているのは、両者が口伝を記録したものであるからであろう。

 

大和朝廷は全国を統一していく段階で、地方の王(豪族)を「国造」とすることで、地方での領地の支配を認め、朝廷の支配下に組み入れたと考える。朝廷側からみれば、国造の領地を朝廷の権限がおよぶ領地とし、官吏に運営させたいと考えたに違いない。だから、江戸時代に幕府が外様大名に行った施策と同じように、後継者や権力争いで問題を起こした「国造」を取り潰し、「国宰」を派遣したと考えられ、聖徳太子の時代には「国宰」と「国造」の両方が存在していたと思える。時代考証感覚のない書紀の編纂者は、憲法十七条に「国宰・国造」と書くべきところを、同じ役回りである後世の「国司」を使い、「国司・国造」と表記しただけのことである。

 

憲法十七条が推古朝の時代のものでないとする根拠の第二は、「憲法の全体が君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれているが、推古朝はまだ氏族制度の時代でありふさわしくない。」である。確かに、憲法十七条は群卿・群臣・百寮の語があり、官僚への戒めが多く書かれている。『随書』倭国伝には「内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信、官員には定員がない。」とある。あきらかに、推古朝の時代に大和朝廷に直接使える内官(官僚)がいたことは確かである。氏族制度下においても、律令制度下の「臣」「卿」「寮」に相当する官僚としての職務があったのであろう。大和朝廷に直接使える者への戒めが憲法十七条に書かれていたのである。

 

第三は、「中国の古典からの引用語句が多く、『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ている。」である。『書紀』の編纂者は、歴史のストーリーを漢文で書き残そうとしたのであって、過去に用いられた言葉・語句を歴史史料としてそのまま書き残そうとしたのではない。『書紀』は天皇に撰上されるものであり、天皇が読んで解かる文章でなければならない。たとえ、憲法十七条の記録が残っていたとしても、それをただ単に書き写すのではなく、編纂当時の言葉・語句で書き直すほうが、読み手にとっては理解し易いからである。

 

歴史学者は原史料として原文の語句をそのままを残すことを歴史書として求めるであろうが、『書紀』の編纂者は歴史学者ではない。文章を編纂当時の言葉・語句に書き直したからと言って、歴史を捏造しているわけではない。こう考えると、「憲法十七条」は聖徳太子が制定したということを、否定する要素は無いように思える。「史料批判」の名の下に、『書紀』を全て否定したのでは、我が国の歴史は何も語れなくなってしまう。ただ、『書紀』は歴史をストーリーとして残すための、脚色・潤色が多いのも否めない事実である。だからこそ、『書紀』から史実をあぶり出すことが求められていると思う。

 

推古11年(603年)12月に冠位制度が創設され、翌年の正月には、始めて諸侯に冠位を賜っている。冠位は徳・仁・礼・信・義・智の六階に、それぞれ大・小の二階あって、全部で十二階である「憲法十七条」は推古天皇の時代に創られたものでないとする学者も、推古朝の冠位十二階は史実であると認めている。それは、『隋書』に冠位十二階の事が記載されているからだ。もし、『隋書』に記載がなかったならば、冠位十二階も後世の捏造であると、憲法十七条と同じ運命をたどったのかも知れない。聖徳太子は仏法を高麗の僧恵慈に、儒教の経典を覚哿博士に習ったと『書紀』は記載しているが、僧観勒により道教・五行思想を習ったのではないかと思われる。聖徳太子は儒教・仏教・道教の三教を習得し、その知識を基にしで、冠位十二階制度と憲法十七条を創設したと考える。

 

1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、聖徳太子が制定したとする憲法十七条や、聖徳太子の実在を示す語句(東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命)がある法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとして、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」としているが、これまで述べてきたように、これら大山氏の根拠の全てを覆すことが出来、「聖徳太子は実在した。」と言うことができる。


59-11.文部省学習指導要領「聖徳太子 表記変えず」 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

平成29年3月21日日本経済新聞は、「聖徳太子 表記変えず 次期指導要領 文部省が検討」の見出しで、次の記事が記載されていた。

「文部科学省が2月に公表した中学校社会の次期学習指導要領で「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」などとした表記について、今月末に告示予定の最終版で「聖徳太子」に修正するよう検討していることが20日分った。「鎖国」を「幕府の対外政策」と変えた表記なども、もとに戻す方向で検討している。

 最近の歴史研究などを反映させた変更だったが、一般からの意見公募で、「表記が変わると教えづらい」といった声が教員などから多く寄せられたという。

 文部省は新指導要領案公表時、小学校では伝記を読む機会が多いことや、聖徳太子は死後につけられた称号であることから、小学校社会は「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」と教えると説明していた。現行の指導要領は小中学校とも「聖徳太子」と表記している。」

 

文部省はこの件に関し、一般からの意見公募(パブリックコメント)を3月15日締め切りで行っていた。私は聖徳太子に関する「最近の歴史研究」が、必ずしも史実ではないとの思いから、パブリックコメントに応募していた。応募要領には2000字以内と制限されていたので、思いを分り易く説明できていないが、これまで私のブログを読んでいただいた方には、理解していただけると思う。

 

「大山氏を初めとする聖徳太子を否定する学者は、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『書紀』の中で誕生した架空の人物である。」と主張している。しかし、『書紀』より早く編纂された『播磨国風土記』には「聖徳王」、『伊豫国風土記』には「上宮聖徳皇」とあり、『書紀』が撰上される以前から、聖人である聖徳太子が伝承されていたことが分る。

 

聖徳太子を否定する学者は、聖徳太子(太子・東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命)が記された国宝の薬師如来像・釈迦像・天寿国繍帳の金石文には、天武朝に作られた天皇号、実在しない法興という年号、持統4年から使われた儀鳳暦が記されており、厩戸王の死後一世紀後に捏造されたとしている。

 

日本最古の漢詩集である『懐風藻』の第一番目は天智天皇の長男・大友皇子の詩で「皇明光日月」の語句がある。「皇明」とは天皇の威光という意味であり、「天皇」の称号が天智朝には存在していた可能性を示す。

 

国宝・船氏王後墓誌には乎娑陀宮天皇(敏達天皇)、等由羅宮天皇(推古天皇)、阿須迦宮天皇(舒明天皇)の天皇銘があるが、墓誌には戊辰の年(天智7年:668年)に成立したと刻字されている。

 

野中寺の重要文化財・弥勒像の台座には「丙寅年四月大○八日癸卯開記」と「中宮天皇」の刻字がある。「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」は、元嘉歴で天智5年(666年)4月8日のみが該当する。通説では「○」の字を「旧」と読み、旧の暦(元嘉暦)で記したと解釈し、儀鳳歴と元嘉暦が併用された持統4年(690年)以降に、銘文が刻字されたとしている。韓国公州市で出土した武寧王の墓誌には「癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」とあり、朔の干支を記載している。野中寺弥勒像の銘文の「○」の字は「朔」で、「丙申朔」を省略する時、「朔」を省き忘れている。弥勒像の銘文は天智5年に刻字されたと考える。大友皇子の漢詩、船氏王後墓誌、野中寺の弥勒象の銘文は、天智朝には天皇号があったことを示している。

 

法隆寺の釈迦三尊像は箱形台座の上に釈迦像と両脇侍像が安置されている。台座の補足材に「辛巳の年八月九月作」等の墨書があることが、平成3年の解体修理で見つかった。台座は釈迦像と一体となっており、墨書銘は台座が組まれる前に書かれている。墨書銘にある「辛巳の年」は、釈迦像光背銘にある「癸未の年に仏師の司馬鞍首止利が造った。」の2年前にあたる。釈迦像の金石文は推古31年(癸未:623年)に成立しており、推古朝に天皇号が使われたこと証明している。天皇号は天武朝に作られたという、多くの研究者によって作り上げられた固定概念は否定することが出来る。

 

釈迦像光背銘の出だしには、「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」とある。辛巳の年は推古29年(621年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。『伊豫国風土記』逸文には「法興六年十月、歳丙辰に在り。我が法王大王と恵慈の法師・・・」とある。「法興6年丙辰」は推古4年(596年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。全く関係の無い釈迦三蔵像光背銘と『伊豫国風土記』とに使われた「法興」の私年号の元年が同じ年であることは、「法興」の年号が実際に存在していた証拠である。

 

天寿国繍帳の銘文には、「辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」とある。この命日は持統4年から使われた儀鳳暦で記されており、天寿国繍帳は推古朝のものでない証拠とされている。釈迦像光背銘には「辛巳十二月鬼前太后崩、明年二月廿一癸酉王后即世、翌日法皇登遐」とある。天寿国繍帳と釈迦像光背銘の「二月廿一日癸酉」は全く同一であることに注目し、前太后(間人母王)の薨去は「辛巳十二月」、王后(膳夫人)の薨去は「明年二月廿一日癸酉日入」、法皇(太子)の薨去は「翌日二月廿二日甲戌夜半」と考える。日入・夜半と時刻まで記録が残されているのは、薨去が1日違いであったためである。膳夫人と聖徳太子の命日の干支は、元嘉暦で記されている。天寿国繍帳は、聖徳太子の妃・橘大郎女が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと推古天皇に願い製作された。橘大郎女は、聖徳太子と膳夫人が天寿国で一緒であることを望まず、膳夫人の命日の記載を削除したため、日時・干支が間人母王の命日に紛れ込んだと考える。天寿国繍帳は推古朝に作られたものである。

 

大山氏を初めとする聖徳太子を否定する学者の説は絶対ではない。律令国家の確立にいたるまでの過程において、推古朝で皇太子として活躍したのは、厩戸王ではなく、聖徳太子と認識すべきである。日本人のアイデンティティ「和を以って貴しとなす」を創ったのは、聖徳太子でなければならない。」

 

文部省の学習指導要領で聖徳太子が取り上げられたことを契機に、聖徳太子に関する新たな研究が盛んになり、「聖徳太子は捏造された」という聖徳太子の存在を否定する学者の説、「最近の歴史研究」なるものが払拭されることを願うものである。そうなれば、法隆寺の薬師如来像や釈迦三尊像、中宮寺の天寿国曼荼羅繡帳、野中寺の弥勒菩薩、船氏王後墓誌などが歴史遺産として、より輝きを放つであろう。


59-12.聖徳太子は道後温泉に浸かったか! [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『伊豫国風土記』には、上宮聖徳皇が高麗の僧恵慈と共に伊豫の湯に行幸し、湯の岡(伊社邇波の岡)の側に碑文を立てたとある。その碑文の一首は、梅原猛氏の著『聖徳太子』(集英社)に「思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」と訳されている。


Z147.道後温泉本館.png碑文を立てた湯の岡(伊社邇波の岡)は、
道後温泉本館に隣接する湯築城跡(元の伊佐爾波神社)とされている。道後温泉本館の湯釜には山部赤人が伊予の温泉に至り詠んだ長歌(万葉集:巻3の323)「神である天皇がお治めになっている国のいたるところに、温泉は多くあるけれども、その中でも島と山の立派な国である。険しくそそり立つ伊予の高嶺の、射狭庭の岡にお立ちになって、歌の想いを練り、詞の想いを練られた。出で湯の上の林を見ると、臣(もみ)木絶えることなく生い茂り、鳴く鳥の声も昔と変わらない。遠い末の世まで、ますます神々しくなってゆくだろう、この行幸のあった場所は。」が彫られている。山部赤人は「ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年のしらなく」と短歌も歌っている。

山部赤人の長歌・短歌には、『伊豫国風土記』に記載されている、聖徳太子が伊社邇波(射狭庭)の岡に碑文を立てた話、舒明天皇が木に稲穂を掛けて鳥に与えた話、斉明天皇が再び伊豫の湯を訪れた話が含まれている。また『書紀』には、斉明7年(661年)に斉明天皇が百済からの援軍要請に応えて九州に向かう途中に、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊ったとある。このとき作られた歌、「熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」(万葉集:巻1の0008)は、額田王の作とされているが、山部赤人は斉明天皇の作と考えているようだ。山部赤人は、険しくそそり立つ伊予の高嶺の、射狭庭の岡にお立ちになって、歌の想いを練ったのが斉明天皇であり、詞の想いを練ったのが聖徳太子であると、長歌に歌い込んだのであろう。

射狭庭(伊社邇波)の岡から見える「険しくそそり立つ伊予の高嶺」は、四国の最高峰・石鎚山(1982m)とされている。聖徳太子と斉明天皇、そして山部赤人が見たであろう石鎚山は、道後温泉本館に隣接する湯築城跡(元の伊佐爾波神社)からは見えないのである。「険しくそそり立つ伊予の高嶺」が石鎚山かどうかの喧々諤々の論争がある。

Z148.石鎚山.jpg『釈日本記』にある『伊豫国風土記』逸文に「伊豫の郡。郡家より東北のかたに天山あり、天山と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。因りて天山と謂う。」とある。この天山(標高51m)からは石鎚山の山頂が見える。特に冬の晴れた日、冠雪の石鎚山は近くに感じる。天山こそ「湯の岡」・「伊社邇波(射狭庭)の岡」であると考える。

山の南東1.7kmには、飛鳥~奈良時代の役所跡である「久米郡衛(かんが)遺跡」がある。遺跡が飛鳥時代に遡るとされたのは「久米評」銘の須恵器が出土したからだ。藤原宮から発掘された木簡によって、大宝律令制定(701年)以前は「評」と表現される地方行政組織があったことが明らかになっている。また遺跡からは7世紀中葉に比定される単弁十葉蓮華文軒丸瓦が出土しており、斉明天皇の石湯行宮は「久米郡衛遺跡」と考えられるようになった。

天山の南東1.5kmに椿神社がある。正式には伊豫豆比古命神社で、延喜式神名帳にも記載されている。「伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱の神様が境内にある舟山に御舟を寄せた。」との伝承があるように、往古神社周辺は一面の海原であり、「津の脇(つわき)神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と訛ったとの学説の一方、境内一帯に藪椿が自生していることから「椿神社」と呼ばれるようになったとの民間伝承がある。椿神社の近辺の海が熟田津であった。

Z149。石鎚山.png

斉明天皇の伊豫の熟田津の石湯行宮が久米郡衛遺跡とするならば、その近くにある鷹の子温泉あたりに「熟田津の石湯」があったと考えられ、聖徳太子の湯岡の碑文に記された、椿の茂った「伊豫の湯」であるといえる。『書紀』によると、天武13年(684年)に大地震があり、「伊豫の温泉、没して出でず」とある。この白鳳地震で湯脈が変わり、その後、現在の道後の地から新たに温泉が湧き出したのではないだろうか。なお、現在の鷹の子温泉はボーリングより湧出している温泉である。聖徳太子や斉明天皇が浸かった「伊豫の湯」は鷹の子温泉あたりで、山部赤人が浸かった「伊豫の湯」は道後温泉であったと考える。

山部赤人の先祖は伊豫来目(久米)部小楯といい、清寧2年(488年)播磨の国の巡察使の時に、明石で世をのがれていた皇子兄弟(後の顕宗・仁賢天皇)を見つけ出した。小楯はその功績によって山部連に任ぜられている。伊豫来目(久米)部小楯の墓の伝承がある播磨塚古墳が、天山から石鎚山を見る方向にある。山部赤人は射狭庭の岡に登り、伊豫の高嶺を見ながら、先祖への想いを巡らし、先祖の地を「遠い末の世まで神々しくなる場所」と詠ったのであろう。




59-13.聖徳太子の命日を解く [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

聖徳太子の薨日については、『書紀』は推古29年(621年)2月5日としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘は、推古30年(622年)2月22日となっている。『法隆寺東院縁起』には、天平8年(736年)2月22日の聖徳太子の忌日に、太子のために法隆寺で法華経講会がはじめて開催していることが記載してある。これらより、聖徳太子の薨日は推古30年(622年)2月22日が定説化している。


『書紀』は何故、推古29年2月5日を聖徳太子の薨日としたのであろうか。聖徳太子の薨去の記事には、「この時、既に高麗に帰国していた恵慈が、上宮皇太子が薨じたことを聞き、僧を集め斎会を設け、経を説き請願した。『日本国に聖人有り、上宮豊聡耳皇子という。天から奥深い聖の徳をもって、日本国に生れた。中国の夏・殷・周三代を包み越えるほどの立派な聖王である。三宝を恭敬し、もろもろの厄のもとを救い、実に大聖なり。太子が薨じたいま、我は国を異にするとは言え、心の絆は断ち難い。独り生き残っても何の益もない。我は来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めよう。』と言った。そして、恵慈はその期日通りに亡くなったので、人々は『上宮太子だけでなく、恵慈もまた聖である。』と言った。」と記載されている。


この文章が史実であったとは思えない。云うまでもないことであるが、「来年の2月5日に必ず死に」がなされるためには、上宮皇太子が薨じた情報が、その年のうちに高麗(高句麗)まで届いていなければならない。そのような往来があったような史料はない。だからと言って、これらは『書紀』編纂者が、聖徳太子を偉大なる聖人とするために捏造したとも思わない。これらの文章には、史実が隠されている気がする。

『書紀』には、推古33年(625年)1月7日に、高麗王が僧恵灌をたてまつったので僧上に任じられたとある。この月日は「正月壬申朔戌寅」と記載されている。『三正綜覧』で確認すると、推古33年(625年)1月朔の干支は「丙申」で、1月朔が「壬申」であるのは、推古32年(624年)である。聖徳太子が亡くなった推古30年(622年)2月22日から、2年後の推古32年1月7日に、高麗から僧恵灌が来日しているのである。恵灌は聖徳太子の恩師であった僧恵慈のことを知っており、また来日して聖徳太子が亡くなったことも知ったのであろう。

推古32年1月7日に、高句麗の僧恵灌が来日した時の話を、私は以下のように空想した。「高句麗におりましたとき僧恵慈から、『日本国に聖人有り、上宮豊聡耳皇子という。天から奥深い聖の徳をもって、日本国に生れた。中国の夏・殷・周三代を包み越えるほどの立派な聖王である。三宝を恭敬し、もろもろの厄のもとを救い、実に大聖なり。』と聞いておりました。来日して、その上宮太子が推古30年2月22日に薨去されたと知り、残念でなりません。実は、僧恵慈も上宮太子が薨去された1年前、推古29年2月5日にお亡くなりになっております。お二人の師弟の間柄は、国を異にするとは言え、心の絆は断ち難く、相次いでお亡くなりになったのでしょう。きっと、浄土に於いて恵慈と上宮太子はお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めておられるでしょう。」

この話が伝承されていたが、『書紀』編纂者により、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われ、恵慈が聖徳太子を追慕して、「来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」という文言が作りだされ、偉大なる聖人としての聖徳太子を演出したと考える。これは、『書紀』編纂者が歴史を捏造したのではなく、史実を物語化するために潤色したのであろう。聖徳太子の薨日は、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘に記された、推古30年(622年)2月22日が正しいと考える。


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