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57.蘇我氏の系譜と興亡 ブログトップ

57-1.蘇我氏の本拠地は何処か [57.蘇我氏の系譜と興亡]

飛鳥時代は、古墳時代と奈良時代の間にあって、崇峻天皇5年(592年)に推古天皇が豊浦宮(高市郡明日香村)で即位してから、和銅3年(710年)に平城京に遷都するまでの118年間にかけて、飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指すとされている。ただし、孝徳天皇の難波長柄豊崎宮(大阪市)、天智天皇の近江大津宮(大津市)、持統・文武天皇の藤原宮(橿原市)に遷都されていた時代も含まれている。この飛鳥時代にあって、645年の大化改新(乙巳の変)まで、大和朝廷の中枢を担っていたのが蘇我氏である。

蘇我氏が『日本書紀』に始めて登場するのは応神3年(356年)の記事で、「百濟の辰斯王が立って、貴国の天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰を遣わして、その礼のないことを叱責した。それによって、百濟国は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花を王に立て帰国した。」とある。石川宿禰が蘇我石川宿禰であり、『古事記』では建內(武内)宿禰の子として、蘇賀石河宿禰が登場している。蘇我氏の系譜は、わが国神代以降の公卿記録(貴族の職員録)として知られている『公卿補任』には、下記のように記されている。
  武内宿禰→蘇我石川宿禰→蘇我満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿

蘇我氏の本拠地については、河内国石川郡とする説、大和国高市郡曽我とする説、大和国葛城郡とする説、百済系渡来人とする説がある。百済系渡来人は後述するとして、大和国葛城郡説から述べてみる。大和国葛城郡説が提唱されたのは、「57-7.武内宿禰の本拠地は葛城の葛上郡」で述べたように、推古32年(624年)に、蘇我大臣馬子が推古天皇に「葛城縣はもともと臣(蘇我臣)の本居(本拠地)である。だからその縣にちなんで姓名としている。そこで永久にこの縣を賜って、臣の封縣としたいと思います。」と要求したことと、皇極元年(642年)に、蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を建てて、八佾(やつら)の舞(8列64人の群舞)をしたことの二つの事例を以て、蘇我氏が葛城氏の流れをくむ氏族と考えられている。この説がまかり通るのは、武内宿禰は伝説上の人物であるとしているからである。武内宿禰は実在し、その本拠地は葛城地域の南半分を占める葛上郡であったと考えれば、蘇我氏が葛城に拘った謎が氷解する。

蘇我氏の本拠地を河内国石川郡とする説は、平安時代に編纂された『日本三代実録』に「始祖大臣武内宿禰の男宗我石川、河内国石川別業に生まれる。故に石川を以って名と為す。宗我大家を賜り居と為す。因りて姓宗我宿禰を賜る。」の記事に由来している。河内国石川郡とは、大和川の支流・石川の東側で、金剛山地の西側(南河内郡・富田林市一部)にあたる。一方、大和国高市郡曽我とする説は、平安時代に作られた『紀氏家牒』に「曽我石河宿禰の家、大倭国高市県曽我里、故に名を蘇我石河宿祢という。蘇我臣は・川辺臣の祖なり。」の記事に由来している。大和国高市郡曽我とは、現在の奈良県橿原市曽我町あたりで、曽我町の西北にある宗我都比古神社は蘇我石川宿禰を祀る神社で、石川宿禰より第5世の蘇我馬子の頃、推古天皇の御世に創建されたと伝えられている。

Z122.大和の豪族.png蘇我氏が全盛であった6世紀の半ばから7世紀の半ば、蘇我稲目・馬子・蝦夷の時代、蘇我氏の本拠地は飛鳥(現在の橿原市・明日香村)にあったということは間違いないであろうが、蘇我石川宿禰の時代(5世紀初め)に蘇我氏の本拠地は、河内国石川郡にあったか大和国高市郡曽我にあったか定かではない。図Z122に見られるように、武内宿禰の本拠地は葛城の葛上郡とすると、その息子の氏族、葛城氏・平群氏・蘇我氏・羽田氏・巨勢氏は、武内宿禰の葛上郡を取り囲むようにあり、武内宿禰が息子の姻戚関係から勢力範囲を拡大したようにも見受けられる。なお、蘇我氏の本拠地が河内国石川郡(南河内郡・富田林一部)の地であっても、葛上郡からは二上山の南にある竹内峠、あるいは葛城山の南にある水越峠を通ると近く、武内宿禰の葛上郡を取り囲む位置にある。

蘇我氏の本拠地が河内国石川郡であるか、それとも大和国高市郡曽我であったかを文献史料から結論を導き出すことは困難なので、視点を変えて検討した。大和川は、水源を笠置山地に発して初瀬川渓谷を下り、奈良盆地周辺の山地より南流する4支流、北流する4支流を合わせて西に流れ、大阪府と奈良県の府県境にある亀の瀬狭窄部を経て河内平野に入っている。この亀の瀬の現在の標高は40m程度で、奈良盆地の最も低い斑鳩町近辺と同じである。亀の瀬は奈良湖の扇の要であり、標高によって奈良盆地には奈良湖(大和湖)が出来ている。

Z123.古代奈良湖.png縄文期6000年前頃の奈良湖の水面は標高約70㍍と推定され、弥生期2500年前頃には標高50㍍ほどになり、湖岸に弥生文化が発達したとみられている。図Z123は、ホームページ「古代で遊ぼ」に掲載されている奈良湖推定図である。国土交通省近畿整備局の大和川地形図と比較すると、紺色は標高40m以下、青色は50m以下、水色は60m以下であることがわかる。黒色の家形は縄文遺跡、白色の家形は弥生遺跡、黄色の丸・四角は古墳である。国土地理院・5万分の1集成図「奈良」によると、文奈良盆地は奈良時代までには、紺色の部分を除いて陸地化されていた模様である。しかし、奈良湖の扇の要である亀の瀬(図Z123の大和川川床開削)は日本有数の地すべり地帯で、「地すべり面」が大和川の河床の下に広がる特殊な地形で、現在でも国土交通省により大規模な地すべり対策工事がなされている。もし、この地で次で大規模場な地すべりが発生した場合、大和川の流れを堰き止めて、奈良盆地が古代のように水で浸されることになる。奈良盆地が陸化された後も、亀の瀬は「畏(かしこ)の坂」として万葉集にも登場するほど、地すべりで恐れられてきた。

図Z123で奈良湖の中央にある島の山古墳は、標高50mの地にある。島の山古墳からは円筒埴輪Ⅲ型(370-409)、二重口縁壷(290-389)、車輪石・鍬形石(300-399)、馬具(390- )が出土し、古墳年代は385~395年に比定している。島の山古墳の西にある河合大塚山古墳は標高43mにあり、円筒埴輪Ⅳ型(400-479)の存在から築造年代は400~479年である。一概には言えないが、奈良盆地は5世紀の初めには標高40m以上は陸地化していたのであろう。ただ、島の山古墳の名のごとく、亀の瀬の地すべりにより、標高50m程度までは水没することもあったのではないかと想像する。因みに、最も古い前方後円墳である桜井市纏向にある箸墓古墳(260~289年)は標高72mにある。奈良盆地にあって、標高が低くかつ古い古墳と言えば広陵町大塚にある新山古墳(320~339年)で標高60mにある。新山古墳からは円筒埴輪Ⅰ型(280-339)や三角縁神獣鏡などが出土している。

奈良盆地の標高60m以下の地は、陸地化されたのが4世紀程度と考えられ、川筋も定まっておらず洪水に見まわれることが多く、天皇の宮、氏族の邸宅には適さない土地であった。崇神天皇から崇峻天皇の古墳時代(251~592年)において、図Z123の水色(標高60m以下)の地域に天皇の宮が置かれたことはない。最も標高の低い場所に建てられた宮は、安閑天皇(534~535年)の勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で奈良県橿原市曲川町にあったとされている。図Z123で、勾金橋宮(赤丸)の北東に接する中曽司遺跡は宗我都比古神社(標高57m)を中心に、東西200m、南北300mに広がる遺跡で弥生時代前・中・後期をはじめ古墳時代前期までの遺構である。この地域が蘇我氏の本拠地とされる大和国高市郡曽我の地であり、これらの地域は蘇我稲目の時代に開発された地域だと考える。5世紀初め、蘇我石川宿禰の時代に蘇我氏の本拠地は、河内国石川郡にあり、6世紀中頃、蘇我稲目の時代に大和国高市郡曽我の地に進出したと考える。


57-2.蘇我氏の出自、百済系渡来人説を斬る [57.蘇我氏の系譜と興亡]

蘇我氏の出自が百済系渡来人であるとの説は、1971年に門脇禎二氏により提唱された。門脇氏は『日本書紀』の応神25年(414年)の「百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。王は年が若かったので、木満致が国政を執った。王の母と通じて無礼が多かった。天皇はこれを聞いておよびになった。」の記事にある「木満致」と、『三国史記』百済蓋鹵王21年(475年)の「高句麗に王都漢城を攻撃されたとき、蓋鹵王は王子文周に避難を命じ、文周は木劦満致・祖彌桀取とともに南に行った。」の記事にある「南に行った」を倭国とし、「木劦満致」を木満致と同一人物として、「蘇我満智満致=木劦満致」としている。

『日本書紀』の応神25年は、書紀の編年通りに計算すると294年である。私は「縮900年表」で、百済の王の記載がある場合は干支2廻り120年下らせ414年(仁徳32年)としている。『三国史記』によると、腆支王(直支王)が薨じたのは420年であり、6年の差はあるが年代的には合っている。門脇氏は干支3廻り180年下らせ474年とし、「木満致」と「木劦満致」が同一人物としている。応神25年を干支3廻り180年下らせるのであれば、「直支王が薨じた」のも474年のことになってしまう。

『宋書』百済伝義熙12年(416年)の記事に「以百濟王餘、為使持節都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。」とある。また、大宰府天満宮所蔵の国宝『翰苑』(唐時代編纂)には、義熙12年に「以百濟王餘、為使持節督都百濟諸軍事、鎮東將軍。」とある。そして、『三国史記』支王12年(416年)に、「東晋の安帝が使者を派遣し、王を冊命して使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とした。」とある。416年に鎮東将軍に冊命された百済王は、『宋書』では「」、『翰苑』では「」、『三国史記』では、「支王」となっており、腆支王(直支王)であることに間違いないだろう。

『三国史記』には、「木満致」についての記載はないが、応神25年の記事の「百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。」の部分は干支2廻り120年下らせ、「木満致が国政を執った。」の部分は干支3廻り180年下らせて解釈することは、あまりにも飛躍があるかと思われる。門脇氏の説を支持する学者の中には、雄略記に登場すべき人物が、応神記に混入された指摘とする人もいるが、ご都合主義と言わざるをえない。門脇氏の説は、注目を浴び一時期学会を席巻したが、現在では完全に否定されている。このような説が一時期であれ注目を浴び、学会を席巻したということは、蘇我氏の出自について、未解決のままであるということであろう。


57-3.蘇我氏には百済人の血が流れている [57.蘇我氏の系譜と興亡]

私は門脇氏の蘇我満智・木満致・木劦満致が同一人物で、蘇我氏の出自が百済系渡来人説には組みしないが、蘇我満智と木満致の関係については注目に値すると考える。『日本書紀』は、応神25年の記事の後に「百済記によると、木満致は木羅斤資が新羅を討った時、その國の女を娶って生れた。その父の功を以って、任那を専らとした。我が國(百済)に来て、貴國(倭国)と往き来した。制を天朝(天皇)に承り、我が國(百済)の政を執った。権勢は盛んであったが、しかし、天朝(天皇)はその横暴をお聞きになって召された。」とある。

木満致の父・木羅斤資は、神功49年(369年)に、倭国の荒田別と鹿我別将軍が卓淳国に行き新羅を討とうとしたとき、百済の精兵を率いて参加した将軍である。倭国は百済の応援を得て新羅を打ち破り、任那7ヶ国を平定することが出来た。応神25年の記事と、神功49記事の記事から、木満致は370年ころに生まれ、任那で育ち、百済に行って官史に登用され、倭国を往き来し、420年に腆支王(直支王)が薨じて久尓辛王(久爾辛王)が即位したとき、50歳で国政を執ったと思われる。木満致は任那で育ったとき日本語を覚えたと想像する。

応神3年(392年)の記事には「百濟の辰斯王が立って、貴国の天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰を遣わして、その礼のないことを叱責した。それによって、百濟国は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花を王に立て帰国した。」とある。『三国史記』では、辰斯王8年(392年)「十月、王は狗原で田猟していたが、十日たっても帰ってこなかった。十一月王が狗原の行宮で薨去した。」とある。辰斯王は狗原で暗殺されたのかも知れない。百済は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の接待役として、日本語の喋れる官吏・木満致を付けたと考える。木満致の22歳の頃である。木満致と蘇我石川宿禰は面識が出来たのである。

『日本書紀』応神8年(397年)に「百濟記に云う 阿花王が立って貴國(倭国)に無礼をした。それで、わが枕彌多禮・峴南・支侵・谷那・東韓の地を奪われた。このため、王子・直支を天朝(天皇)に遣わし、先王の好を修交した。」とある。『三国史記』阿華王(阿花王)6年(397年)には、「王は倭国と好を結び、太子の腆支(直支)を人質とした。」とある。397年に腆支(直支)が人質として倭国に来たことは、『書紀』と『三国史記』は一致している。

また、応神16年(405年)に「百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王を呼んで、『国に帰って位につきなさい。』と仰せられ、東漢の地を賜わり遣わされた。」とある。『三国史記』では、阿華王(阿花王)が薨去したのは405年であり、『書紀』と年代は一致している。直支王が倭国に人質として滞在した397年(仁徳15年)から、百済に帰国した405年(仁徳23年)の8年間、木満致は直支王の付き人として倭国に滞在したと考える。『百済記』にある「倭国を往き来した」とはこの事を指すのであろう。木満致が27歳から35歳の頃である。

397年(仁徳15年)から8年間、木満致が直支王の付き人として倭国に滞在していたとき、百済で世話になった蘇我石川宿禰は、木満致を自らの館に招待したと想像する。そのようなことが幾度と重なるなかで、木満致は蘇我石川宿禰の娘と恋仲となり子供が生まれ、名を木満致に因んで蘇我満智と名付けられた。405年(仁徳23年)に、阿花王が薨じため直支王は急遽帰国することになった。木満致は直支王に従って妻子を倭国に残し帰国した。蘇我満智は祖父・蘇我石川宿禰のもとで育ったと想像する。

百済に帰国した木満致は直支王のもとで、直支王の片腕として国政に参画した。416年に腆支王(直支王)が東晋の安帝から鎮東将軍に冊命されたときも、木満致は関わっていた。420年(仁徳38年)、直支王が薨じて、年若き久爾辛が王となってからは、木満致は国政を執った。木満致の行う制度や施策は倭国に倣うものが多く、他の官史から評判悪く、横暴であるとか、王の母と通じているとか、あらぬ噂を流され、窮地に立たされていた。

その頃、仁徳天皇は中国の王朝と国交を開くことを模索していた。『日本書紀』応神28年の記事には「高麗(高句麗)の王が使いを送って朝貢してきた。その上表文には『高麗の王、日本国に教える。』とあった。」とある。『書紀』の編年を干支2廻り120年下らせると、417年(仁徳35年)のことで、「日本国に教える。」とは「東晋に朝貢しなさい。」ということであると考える。しかし、東晋の政権は混沌としており、418年には強大な権力を得た劉裕が安帝を殺してその弟の恭帝を擁立した。そして420年、劉裕は恭帝から禅譲を受けて宋朝が開かれ、東晋は滅亡している。

420年(仁徳38年)、年若き久爾辛の後見人として国政を執った木満致が、四面楚歌の状況にあることを知った仁徳天皇は、中国の情勢を知るために、彼を召し挙げることにした。木満致も妻子のいる倭国にいくことに拘りはなかった。木満致は直支王12年(416年)に、東晋の安帝から使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王の冊命を受けたときの経験を持っている。木満致は仁徳天皇の外交顧問として活躍することになった。木満致50歳、蘇我満智22歳±3歳の頃である。『宋書』倭国伝には、永初二年(421年)に倭王・讃が朝貢し叙授を賜った。太祖の元嘉2年(425年)に、讃が司馬曹達を遣わして方物を献ずとある。『日本書紀』応神37年(426年:仁徳44年)の記事には「阿知使主・都加使主を呉に遣わした。」とある。421年(仁徳31年)の朝貢には、木満致が使者として遣わされたのかも知れない。木満致の尽力を得て、仁徳天皇は宋王朝に朝貢することが出来た。

蘇我満智宿禰履中2年(433年)に、平群木菟宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主らと共に国事を執っている。蘇我満智宿禰が35歳±3歳の頃であった。蘇我満智の息子の蘇我韓子宿禰が登場するのは、雄略9年(472年)で、この年韓子宿禰は新羅討伐に行き、同僚と諍いを起こし、討たれてかの地で亡くなっている。韓子宿禰の年齢を30歳から40歳とすると、蘇我満智が30歳から40歳の時に生まれた子となり、蘇我満智と蘇我韓子の親子関係は成り立つ。蘇我石川宿禰の娘と百済の官吏・木満致の子が、蘇我満智であるとすると、門脇禎二氏が注目した満致蘇我満智の関係が解けてくる。蘇我満智の息子の韓子と命名されているのも、祖父・木満致から来たもと理解できる。蘇我氏には、百済の官吏・木満致の血が流れている。


57-4.蘇我稲目は蘇我氏中興の祖 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

『新撰姓氏禄』には蘇我氏を始祖と仰ぐ8氏族があるが、その内の4氏族(田中・小墾田・岸田・久米)が始祖を「武内宿祢五世孫稲目宿祢」とし、2氏族(桜井・箭口)が「宗我石川宿祢四世孫稲目宿祢」としており、蘇我稲目を蘇我氏の始祖、中興の祖としている。『日本書紀』に蘇我稲目が初めて登場するのは、宣化元年(536年)で、「もとどおり大伴金村と物部麁鹿火を大連とした。また蘇我稻目宿禰を大臣とし、阿倍大麻呂臣を大夫とした。」とある。

欽明元年(540年)に蘇我稻目宿禰は大臣を拝命している。また、稲目の娘の堅塩媛と子姉君は欽明天皇の妃となり、堅塩媛は七男六女を産み、第一子が橘豊日尊(用明天皇)、第四子が豊御食炊屋姫尊(推古天皇)である。堅塩媛の妹・子姉君は四男一女を産み、第三子が穴穂部皇女(用明天皇皇后、聖徳太子の母)、第五子が泊瀬部皇子(崇峻天皇)である。蘇我稲目が蘇我氏の中興の祖とされているのは、稲目が蘇我氏としては初めて大臣の位に付き、蘇我氏が代々大臣を世襲する道を開いたこと、娘の堅塩媛と子姉君を欽明天皇の妃とし、娘らが後の用明天皇・崇峻天皇・推古天皇を産み、蘇我氏が天皇家と強い姻戚関係を作った事によっている。
X124.天皇家と蘇我氏.png

蘇我稻目の祖父・韓子は新羅討伐に派遣された最中に、同僚と諍いを起こして、討たれて亡くなっている。また、父親の高麗は記紀には一切登場していない。蘇我稻目は親の七光りがあったわけではないのに、宣化元年(536年)唐突に大臣を拝命している。稲目は安閑朝(534~535年)に功績を挙げたため出世したと考える。『書紀』の安閑紀のほとんどは、「屯倉」の記事で占められている。安閑元年には、不祥事や罪の贖罪として屯倉を献上した話、皇后や妃の為に屯倉をたてた話、天皇の求めに応じて屯倉を献上した話、争いの調停の代償として屯倉を献上した話など、全部で10屯倉(上総・武蔵・摂津三島・摂津・倭・河内・安芸)についての記載がある。また、安閑2年には、26屯倉(上ヶ野・駿河・尾張・近江・紀・丹波・播磨・備後・婀娜・阿波・筑紫・豊・火)を置いたとある。

『日本書紀』を「屯倉」で検索すると、安閑朝36ヶ所、欽明朝6ヶ所、顕宗朝・宣化朝5ヶ所と、安閑天皇の在位が2年間であるにも関わらず圧倒的に多いことが分る。安閑紀に集中的に屯倉記事が記載されている点については,津田左右吉以来,『日本書紀』編纂時に作為的に集めたとの見解が有力であるとされているが,私はそうは思わない。継体天皇の時代に上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を百済に割譲し、南加羅・㖨己呑国・卓淳の三ヶ国を新羅に奪われると、任那の官家からの調(税収入)が減り、大和王権の財政が悪化した。安閑天皇の時代には、大和王権の財政にとって、屯倉を増やすことは必然であった。

平安初期に成立した『古語拾遺』雄略天皇の段には、蘇我稲目の曽祖父・蘇我満智は、三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校(管理監督)し、秦氏をして財物の出納を、東・西文氏をして帳簿の勘録を、秦・漢二氏をして内蔵・大蔵の鑰(かぎ)を司らせたとある。蘇我氏は代々、三蔵や屯倉をはじめとする王権の財政に関わる任務に着いていたと思われる。蘇我稻目宿禰大臣は、宣化3年に尾張連を遣わして尾張國の屯倉の籾を運び、欽明16年には穗積磐弓臣等と、吉備五郡に白猪屯倉を置き、欽明17年には備前兒嶋郡に屯倉おき、また紀國に置海部の屯倉を置き、倭國の高市郡に、韓人を田部(屯倉の地を耕作する農民)とした大身狹の屯倉と高麗人を田部とした小身狹の屯倉を置いている。「身狹」は橿原市見瀬町に比定されている。これらからすると、蘇我稲目は安閑朝においても、屯倉の設置に貢献したと考える。


57-5.蘇我氏台頭の背景は飛鳥周辺の開発 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

蘇我氏の出自と台頭の背景については、色々の説があるが、まだ明らかにされていない。蘇我氏の出自については、前節「57-3.蘇我氏には百済人の血が流れている。」で、明らかにすることが出来た。蘇我氏台頭の背景、蘇我稲目が大臣になった背景を解き明かしてみる。そのヒントは、蘇我稲目が活躍した欽明朝にあると考えた。欽明13年に百済の聖明王が欽明天皇に仏像と経論を奉ったとき、蘇我稲目は天皇からそれらを授かり、仏像を小墾田の自宅に安置し、向原の家を寺としている。小墾田は大和国高市郡雷(明日香村雷)に、向原は大和国高市郡豊浦(明日香村豊浦)に比定されている。また、欽明23年、大将軍大伴連狭手彦が数万の兵を率いて高麗を撃破して戦利品を持ち帰り、七織帳を天皇に奉り、鎧や金飾の太刀などと共に、美女の媛と従女を蘇我稻目宿禰大臣に送っている。蘇我稻目はこの二人召して、妻として媛と従女を軽の曲殿に住まわせている。軽は大和国高市郡大軽(橿原市大軽町)に比定されており、明日香村豊浦の南隣にある。推古天皇が豊浦宮・小墾田宮を建てていることからすると、これらの地は蘇我稲目の領地ではなく、蘇我稲目が屯倉(屯家)として天皇に献上し、自分の管轄化に置いていたように思える。


Z125.稲目の関わった地.png明17年に蘇我稲目が倭國の高市郡に、韓人を田部とした大身狹の屯倉と高麗人を田部とした小身狹の屯倉を設置している。蘇我氏は百済の官史・木満致を先祖に持つこともあり、渡来人を束ねる立場にあったと思われる。継体朝の終わり頃、蘇我稲目は渡来人を使って奈良盆地の南部を流れる曽我川・飛鳥川の改修・排水・灌漑工事を行い、両河川に挟まれた大和国高市郡曽我(橿原市曽我町)の地、曽我川流域の大和国高市郡曲川(橿原市曲川町)の地、飛鳥川流域の大和国高市郡雷(明日香村雷)・豊浦(明日香村豊浦)の地を開発した。曽我の地を蘇我稲目の本拠地となし、曲川と雷・豊浦の地を屯倉(屯家)として安閑天皇に献上した。安閑天皇は曲川に勾金橋宮を建て、雷の地を妃・紗手媛に小墾田屯倉として賜っている。


Z126.蘇我稲目と馬子.png平安時代に編纂された『扶桑略記』には、蘇我稲目は享年65歳、蘇我馬子は享年76歳としてあり、それをもとに二人の経歴を『日本書紀』に基づいて表126に示した。蘇我稲目は宣化元年(536年)に31歳の若さで大臣となっている。蘇我稲目が若くして大臣に成り得たのは曽我川・飛鳥川の改修・排水・灌漑工事で開発した曲川・雷・豊浦・大軽の地を屯倉(屯家)として天皇に献上し、その屯倉(屯家)の管理・監督を行ったからだと思える。また、蘇我馬子が敏達元年(572年)に22歳で大臣に就任したのは、欽明天皇の妃で七男六女を生んだ堅塩媛(蘇我稲目の娘)が、蘇我氏の繁栄を願い、弟の馬子を大臣に推挙したのであろう。
蘇我氏が蘇我稲目の時代に突然に台頭した背景は、稲目が飛鳥周辺の開発を行い、朝廷の屯倉(屯家)として献上したことにあると思われる。



 


57-6.古墳後期、飛鳥は渡来人居住の地 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

『日本書紀』応神20年の記事に、「倭漢直の先祖、阿知使主がその子の都加使主、並びに十七県の自分の党類(同族)を率いてやってきた。」とある。『書紀』の編年に従うと応神20年は289年だが、干支2廻り120年下らすと409年となり、「縮900年表」で仁徳27年にあたる。応神37年(426年:仁徳44年)の記事には「阿知使主・都加使主を呉に遣わした。」とある。『宋書』倭国伝には「太祖の元嘉2年(425年)に、讃が司馬曹達を遣わして方物を献ず。」とあり、「讃」は仁徳天皇で、「司馬曹達」が阿知使主にあたる。阿知使主が倭漢直の先祖である。

 

『続日本紀』宝亀3年(772年)には、坂上大忌寸刈田麻呂の奏上に、「檜前忌寸をもって、大和国高市郡司に任ずる由来は、先祖阿智使主。軽島豊明宮に駆宇天皇(応神天皇)の御世、十七県の人夫を率いて帰化せり。詔して、高市郡の檜前村を賜いて居らしむ。およそ高市郡内の者、檜前忌寸および十七県の人夫が地に満ちて居る。他の姓の者は十に一か二である。」とある。刈田麻呂は征夷大将軍・坂上田村麻呂の父親である。坂上氏も檜前氏も東漢氏の系統であり、先祖に阿智使主(阿知使主)を持つ。倭漢(やまとのあや)氏と東漢(やまとのあや)氏は同じ氏族とされている。

 

『日本書紀』雄略7年(470年)の記事には「天皇は大伴大連室屋に詔して、東漢直掬に命じ、新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・眞神原の三ヶ所に居住させた。」とある。「新漢」とは新来漢人(今来漢人)のことで、「陶部」は土器を焼く陶工、「鞍部」は馬具の製作、「画部」は画士、「錦部」は錦織の文様を織る工人、「訳語」は通訳のことである。雄略の時代に陶・鞍・画・錦・訳語の先進技術・文化を携えた渡来人が、大和国高市郡檜前(明日香村檜前)を本拠地とする東漢氏(倭漢氏)の管轄下のもと上桃原・下桃原・眞神原の三ヶ所に居住していたことになる。

 

上桃原・下桃原・眞神原の3ヶ所の内、「眞神原」は『日本書紀』崇峻元年(588年)に「蘇我馬子が飛鳥衣縫造の祖の樹葉の家を壊し、始めて法興寺を造った。此の地を飛鳥の眞神原と名付けた。または飛鳥の苫田という。」と出てくる。『万葉集』には柿本人麻呂が高市皇子の殯宮で詠った長歌に「明日香の真神の原に ひさかたの天つ御門を かしこくも定めたまひて 神さぶと磐隠ります やすみしし我が大君の」とある。「大君」は天武天皇で、「天つ御門」は宮殿であり、天武天皇の飛鳥浄御原宮が明日香の真神原にあったことが分かる。真神原は飛鳥盆地(明日香村飛鳥・岡・川原)に比定されている。

 

「桃原」については、推古34年(626年)の記事に「蘇我馬子大臣が薨じ、桃原墓に葬った。大臣は稻目宿禰の子で、性格は武略や辨才があり、三寶(仏法)を敬った。家は飛鳥河の傍にあり、庭の中に小さな池を開き、池の中に小嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣といった。」とある。桃原墓は明日香村島庄にある石舞台古墳とする説がほぼ確定している。石舞台古墳の近くで、飛鳥川の傍に島庄遺跡がある。島庄遺跡から7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池が見つかっている。小島は見つかっていないが、その規模や築造時期からみて、大臣馬子の邸宅内にあった池と判断されている。和田萃氏の「飛鳥の苑池―嶋宮の池と舎人達の歌―」を読むと、この方形の池から多量の桃の種が出土しているそうだ。明日香村島庄は桃原の一部の地域にあたるのであろう。

 

Z127.飛鳥は渡来人の地.png雄略14年(477年)に「見狭村主青らが、呉国の使者と共に、呉の献上した手末の才伎、漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津に停泊した。・・・そして呉人を檜隈野においた。そこで呉原と名づけた。衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の先祖である。」とある。この記事より、漢織・呉織の裁縫(衣縫)の技術職人(手末の才伎)が明日香村檜前(檜隈)の東にある明日香村栗原(呉原)に居住していたことが分かる。図127にみるように古墳後期(470~590年)には、飛鳥の大部分(明日香村、雷・豊浦以北を除く)は渡来人の居住する地であり、倭漢(東漢)氏の管轄する地域であった。『続日本紀』宝亀3年の「およそ高市郡内の者、檜前忌寸および十七県の人夫が地に満ちて居る。他の姓の者は十に一か二である。」とある記事はこのことを示している。

 

Z128.高取町遺跡.png平成13年に明日香村檜前から約2km南にある高取町清水谷の清水谷
遺跡から、床に
煙の熱で暖をとる「煙道」(オンドル)を備え、何本も
の柱を壁土で塗り固めた「大壁建物」と呼ばれる朝鮮半島系の
6棟の建
物跡が出土した。また、韓国南部の伽耶地域の陶質土器破片数十点も見
つかり、時期は5世紀後半と考えられている。清水谷遺跡の近くには、
ホラント遺跡・観覚寺遺跡・森カシ谷遺跡など渡来人の痕跡を残した遺
跡がある。ただ、大壁・オンドル・陶質土器の三点セットが揃ったのは、
清水谷遺跡のみである。清水谷遺跡よって、
5世紀後半に高取町に渡来
人が居住していたことが明確となり
5世紀後半に渡来系氏族を飛鳥地
域に住まわせたとする
『日本書紀』の記述が、史実であったことが証明
された。高取町も飛鳥の範疇に入るのであろう。古墳後期(470~590年)、飛鳥は渡来人居住の地であり、その渡来人を束ねていたのが倭漢(東漢)氏であった。


57-7.蘇我稲目と倭漢(東漢)氏との関わり [57.蘇我氏の系譜と興亡]

蘇我氏の出自については、「57-3.蘇我氏には百済人の血が流れている」の節で述べたように、百済の官吏・木満致の血が流れている。そのいきさつは、応神3年(392年)に百済に遣わされた蘇我石川宿禰は、百済の接待役であった木満致と面識をもった。百済の直支王が倭国の人質となっていた397年から405年の9年間、木満致は付き人として倭国に滞在した。その間に木満致は蘇我石川宿禰の娘と出会い、子供が生まれ蘇我満知と名づけられた。木満致は直支王に従い妻子を残して帰国し、国政に携わった。420年直支王が亡くなり、幼い久爾辛が王となってからは、木満致は国政を執ったが、四面楚歌にあい窮地に陥っていた。その頃、中国の王朝と国交を開くことを模索していた仁徳天皇は、直支王が東晋の安帝から爵号を授けられたときの外交経験を持つ木満致を、外交顧問として招聘した。木満致としても、妻子の待つ倭国に行くことに拘りは無かった。そして、木満致は使者として421年に宋に朝貢した。『宋書』倭国伝には「永初二年(421年)に倭王・讃が朝貢し叙授を賜った。」とある。

 

一方、倭漢(東漢)氏の出自については、409年(仁徳27年)に倭漢直の先祖、阿知使主はその子の都加使主、並びに十七県の自分の党類(同族)を率いてやって来ている。そして、426年(仁徳44年)には、阿知使主と都加使主は呉に遣わされている。『宋書』倭国伝には「太祖の元嘉2年(425年)に、讃が司馬曹達を遣わして方物を献ず。」とある。「讃」は仁徳天皇であり、「司馬曹達」が阿知使主にあたる。420年から仁徳天皇に遣わされて宋に朝貢した木満致は、425年に宋に遣わされた阿知使主に、色々のアドバイスをしたことであろう。その後、木満致と阿知使主は付き合うようになり、蘇我氏と倭漢氏との親しい関係が生まれた。

 

Z125.稲目の関わった地.png蘇我稲目は倭漢氏の協力を得て曽我川・飛鳥川の流域の開発を行い、曽我(橿原市曽我町)の地を本拠地とし、曲川(橿原市曲川町)の地を安閑天皇に屯倉(屯家)として献上し、宣化元年(536年)に31歳の若さで大臣となった。蘇我稲目の出世は倭漢氏のお陰であった。蘇我稲目は倭漢氏に、本拠地である飛鳥の檜隈(明日香村檜前)の檜隈廬野を屯倉(屯家)として天皇に献上することを薦めた。倭漢氏の束ねる渡来人は、陶部・鞍部・画部・錦部・訳語・衣縫部の先進技術・文化を携えた人々であり、その生業は宮廷に関するものである。倭漢氏にとって、宮()が本拠地の傍にあるということは、朝廷での仕事が増え、メリットは大きい。蘇我稲目は倭漢氏の発展を考え、檜隈廬野の献上を薦めたのであった。

 

宣化天皇が檜隈廬野に宮()を遷してから、倭漢氏の朝廷での働きも多くなり、地位も高まった。欽明朝に東漢氏直糠児と東漢坂上直子麻呂が外国使臣の接待役として活躍したのは、蘇我稲目の推挙があったのであろう。また、欽明17年(556年)に蘇我稲目が高市郡身狹(橿原市見瀬町)に、大身狹屯倉と小身狹の屯倉を置くことが出来たのは、倭漢氏の協力あってのことである。蘇我稲目の時代、蘇我氏と倭漢(東漢)氏の結びつきはより強固なものとなった。


57-8.飛鳥時代の宮都は真神原 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z129.石舞台古墳.png『日本書紀』推古34年(626年)の記事に「(蘇我馬子)大臣が薨じ、桃原墓に葬った。大臣は稻目宿禰の子で、性格は武略や辨才があり、三寶(仏法)を敬った。家は飛鳥河の傍にあり、庭の中に小さな池を開き、池の中に小嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣といった。」とある。桃原墓は明日香村島庄にある石舞台古墳とする説がほぼ確定している。石舞台古墳の近くで、飛鳥川の傍にある島庄遺跡がある。島庄遺跡は橿原考古学研究所による発掘調査が度々行われ、平成16年には7世紀前期、中期、後期の3つの時代の大型の建物跡が見つかっている。前期の建物跡は、幅7.2m、長さ13m以上、柱の直径が約40cmもあり、この規模から蘇我馬子の邸宅跡ではないかと推測されている。なお、中期の建物跡は、皇極4年(645年)の「乙巳の変」の後の記事に「中大兄皇子が宮殿を嶋大臣の家に接して建て、中臣鎌足と密かに入鹿を殺す計画を練った。」とあることから中大兄皇子の邸宅、後期の建物跡は、天武天皇(672~686年)の皇太子であった草壁皇子の東宮「嶋宮」と考えられている

 

Z130.島庄遺跡方形池.pngまた、昭和47年に島庄遺跡から7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池が見つかっている。池は7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池で、池の底には径20cmほどの川原石が敷きつめられており、西北の護岸の石組は豪壮なものである。宣化天皇の檜隈入野宮があったとされる明日香村檜前の檜隈寺跡から1km南にある高取町の観覚寺遺跡は、3棟の朝鮮半島系の「大壁建物」の建物跡が見つかり、6世紀代の遺構とみられている。また、観覚寺遺跡からは石組みの人工池跡(6世紀)が出土している。東西約5m、南北約4m、深さ約40cmの方形で池の岸や縁は人頭大の石で組まれ、底にも石が敷かれていた。町教委は、蘇我馬子邸があったとされる明日香村の島庄遺跡(7世紀)で見つかった石組みの方形池跡(約42メートル四方)の原形とみている。蘇我馬子の邸宅を造ることにも倭漢(東漢)氏が関わっていると考える。

 

蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(桃原墓)から南東約400mの明日香村阪田に都塚古墳がある。平成26年の調査では一辺が40mの方墳で、約30~60cmの石積みの階段が4段以上あり、国内に例がない階段ピラミッド状の形をしていることが分かった。段積みの石は拳から人頭大の川原石で、古墳の高さは7メートル以上と推定されている。埋葬施設は全長12mの両袖式横穴式石室があり、長さ2.2mの刳り抜き式家形石棺が収められていた。石棺の蓋には6個の縄掛式突起を持ち、その形状から古墳の築造年代は6世紀後半から6世紀末と比定され、蘇我馬子とされる石舞台古墳に近いことから、欽明31年(570年)に亡くなった蘇我稲目の墓でないかと考えられている。都塚古墳のルーツを高句麗の王陵・将軍塚古墳や百済の階段ピラミッド状の古墳に求める説があるが、都塚古墳の築造には、蘇我馬子の邸宅の方形池の石組みを行った、倭漢(東漢)氏の配下の渡来人が関わったのではないかと考える。

 

用明2年(587年)の記事に、「天皇の疱瘡が重くなり、亡くなられようとしたとき、鞍作多須奈が進み出て、『私は天皇のために出家して仏道を修め、丈六の仏像と寺とをお造りいたします。』と奏上した。・・・今、南淵(明日香村稲渕・坂田)の坂田寺にある木の丈六の仏像、脇侍の菩薩がこれである。」とある。明日香村坂田には坂田寺跡があり、奈良時代の金堂や回廊の礎石が出土しているが、創建当時の寺跡はまだ見つかっていない。明日香村稲渕・坂田は鞍作氏の本拠地で、「上桃原」の地である。都塚古墳・石舞台古墳・島庄遺跡(馬子邸宅)のある「下桃原」の地も、もともとは鞍作氏の本拠地であったが、馬子に譲られたのであろう。

 

なお、鞍作多須奈は鞍部村主司馬達等の子である。司馬達等は、蘇我馬子が仏教の師とした恵便を探し出し、娘の嶋を日本最初の尼僧(善信尼)として馬子に仕えさせた人物であり、雄略7年(470年)に飛鳥に居住した鞍部堅貴の子孫である。推古13年(605年)に丈六の仏像を造った鞍作鳥(鞍作止利)は司馬達等の孫にあたる。蘇我馬子は仏教においても、倭漢(東漢)氏と深く関わっている。

 

崇峻元年(588年)に、蘇我馬子は飛鳥の真神原の飛鳥衣織造の先祖の樹葉の家を壊して、法興寺(飛鳥寺)を建てている。この樹葉は雄略14年(477年)に呉からやって来て、飛鳥の檜隈野(明日香村呉原)に居住した飛鳥衣縫部の子孫であり、倭漢(東漢)氏の管轄下にあった。倭漢(東漢)氏は蘇我馬子の薦めもあって、真神原(飛鳥盆地:明日香村飛鳥・岡・川原)を朝廷の屯倉(屯家)として献上したと考える。推古天皇は真神原の入り口に豊浦宮(明日香村豊浦)・小墾田宮(明日香村雷)を造ったが、その後の天皇は、舒明天皇と斉明天皇が飛鳥岡本宮、皇極天皇と孝徳天皇が飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮、天武天皇と持統天皇が飛鳥浄御原蓋宮と真神原(飛鳥盆地)に宮を設けている。

 

Z131.飛鳥盆地.png図Z131の地図に見られるように、飛鳥盆地(明日香村飛鳥・岡・川原)
には、
「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で国の史跡に指定された区域がある。この
地の発掘調査の結果、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかり、
最上層が飛鳥浄御原宮と斉明天皇の後飛鳥岡本宮、その下層が蘇我入鹿暗殺
の舞台となった飛鳥板蓋宮、さらに最下層が舒明天皇の飛鳥岡本宮の遺構で
あると考えられた。694年に持統天皇が藤原京に遷都するまで、
真神原
6人の天皇が繰り返し宮を営んだ地である。飛鳥時代の宮都が
真神原になっ
たのは、蘇我馬子と
倭漢(東漢)氏の貢献によるところが大きい。


57-9.蘇我稲目・馬子が仏教の礎を築いた [57.蘇我氏の系譜と興亡]


飛鳥時代は宮都が飛鳥に営まれた時代というだけでなく、我が国が仏教文化を受容した時代でもある。『日本書紀』の欽明13年(552年)の記事には、「百済の聖明王が金堂仏像一体と幡蓋若干・経論若干を献じ、仏を広く礼拝する功徳を上表した。」とある。仏教伝来については、『日本書紀』が552年とするのに対して、『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では538年としており、どちらが史実であるか議論がなされているが、ここでは、『日本書紀』に従って記してみる。

欽明13年(552年)10月、欽明天皇は百済の聖明王の上表を聞き、「西の国が献上した仏像の容貌は荘厳で美しい、礼拝すべきかどうか」と群臣に問うた。蘇我稲目大臣は「西の諸国はみな礼拝しています。我が国だけが背くわけにはいかないでしょう。」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿大連・中臣鎌子連らは「我が国の王(天皇)は、天地の百八十神を春夏秋冬にお祀りされてこられた。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りを受けるでしょう。」と反対した。欽明天皇が「稲目宿禰に試しに礼拝させてみよう。」と仰せになったので、蘇我稲目は小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を寺とした。小墾田は大和国高市郡雷(明日香村雷)に、向原は大和国高市郡豊浦(明日香村豊浦)に比定されている。

後に国に疫病が流行し、多くの人民が若死にした。物部尾輿・中臣鎌子は「このようなことが起こったのは、私どもの計を用いなかったからだ。」と奏上し、仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけて焼いた。『上宮聖徳法王帝説』には、「勅して蘇我稲目宿祢大臣に授け、興隆せしむ。庚寅の年、佛殿・佛像を焼き滅ばし、難波の堀江に流し却てき。」とある。庚寅の年は欽明31年(570年)で、蘇我稲目が亡くなった年である。物部尾輿が仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけて焼いたのは、稲目が亡くなった年であった。

明31年(570年)蘇我稲目が薨去し、欽明32年には欽明天皇が崩御された。敏達元年(572年)に敏達天皇が即位され、物部守屋が大連に、蘇我馬子が大臣に就任した。敏達13年(584年)9月、蘇我馬子は百済からもたらされた仏像二体を請い受け、鞍部村主司馬達等らが探し出した、播磨國の高麗から来た還俗者の惠便を仏法の師とした。また、司馬達等の女・嶋(11歳)を出家させて善信尼とし、二人尼を弟子に付けた。馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼を崇め尊んだ。仏殿を家の東方に造営して弥勒の石造を安置し、また石川の家にも仏殿を造った。仏法の初めは、ここから起こった。

敏達14年(585年)2月、蘇我馬子は塔を大野丘の北に建て、塔頭に舎利を納めた。蘇我馬子が病気になったとき、天皇から「卜者の言葉に従って、父の崇めた仏を祭れ。」との詔を得て、弥勒の石像を礼拝した。この時、国に疫病が流行って、人民がたくさん死んだ。物部守屋大連と中臣勝海大夫は「欽明天皇から陛下の御世に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えようとしているのは、蘇我臣が仏法を起こして信仰しているからです。」と奏上し、天皇は「明らかなことだ。仏法を止めよ。」と仰せになった。物部守屋は自ら寺に赴き、塔を倒し仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に棄てさせた。そして、役人は善信尼等の尼を鞭打ちの刑に処した。その後、疱瘡で死ぬものが国に満ちた。老いも若きも「仏像を焼いたせいだろう」と密かに語り合った。天皇は蘇我馬子に「お前一人だけは仏法を行ってもよい。他の人は禁止する。」と仰せになり、三人の尼をお返しになった。馬子は大変喜び、新たに精舎を造り、仏像を迎え入れ供養した。

話は少し下るが、皇極4年(645年)6月の「乙巳の変」で、蘇我入鹿と蝦夷が討たれ、蘇我氏本宗家が滅び、皇極天皇の譲位により孝徳天皇が即位して、元号が大化と始めて制定された。その大化元年8月に孝徳天皇は使いを大寺(百済大寺)に遣わして僧尼に「欽明天皇の13年に、百済の聖明王が仏法を我が大倭に伝え奉った。この時、群臣は広めることを欲しなかった。しかし、蘇我稲目宿禰だけが仏法を信じた。天皇は蘇我稲目に詔にて仏法を信奉させた。敏達天皇の世に蘇我馬子宿禰は父の態度を敬い、釈迦の教えを重んじた。しかし、他の臣は信じなかったので、仏法は危うく滅びそうになった。そこで、天皇は馬子宿禰に詔にて信奉させた。推古天皇の世に、馬子宿禰は天皇のために丈六の繡像(繡帳)と丈六の銅像を造って、仏教を興隆し僧尼を敬った。・・・」と仰せになっている。

中大兄皇子・中臣鎌子らによって蘇我氏本宗家が滅ぼされてから、たった2ヶ月後の大化元年(645年)8月に、孝徳天皇は「欽明13年(552年)に仏教が伝わってから約100年の間に、仏教がこれほどまでに広がったのは蘇我稲目と蘇我馬子の功績である。」と賞賛している。朝廷が仏教を保護し、仏教によって国家の安泰を念願する鎮護国家(国家仏教)の道を歩み始めようとする孝徳天皇にとっては、逆賊蘇我氏といえども、仏教の礎を築いた蘇我稲目と馬子の功績は、称えずにはおられなかったのであろう。


57-10.蘇我馬子と炊屋姫(推古天皇)は幼馴染み [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z132.推古天皇の生年.png『書紀』の推古前紀には、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)は、18歳で敏達天皇の皇后となり、34歳のとき敏達天皇が亡くなり、39歳のときに崇峻天皇が殺されたとある。また、推古36年には推古天皇は75歳で崩御されたとある。これらより炊屋姫の生年を算出し、表Z132にまとめた。炊屋姫が敏達天皇の皇后となった年の年齢から算出した生年が大きく違っている。これは、炊屋姫は皇后となる以前の欽明32年に、18歳で皇太子(敏達天皇)の妃となったことが、取り間違えられたと考える。炊屋姫(推古天皇)の誕生の年は554年と比定すると、敏達5年に炊屋姫が皇后になったのは23歳である。

 

Z126.蘇我稲目と馬子.png炊屋姫は父・欽明天皇と母・堅塩媛の第4子として、欽明14年(554年)に母の親元・蘇我稲目の館がある豊浦の地で生まれたと考える。一方、蘇我馬子は表126に示すように、蘇我稲目の嫡男として欽明12年(551年)に曽我の地で生まれた。炊屋姫の育った豊浦(明日香村豊浦)と馬子の育った曾我(橿原市曽我町)とは近くにあり、炊屋姫と三歳年上の馬子は一緒によく遊んだ幼馴染みであった。二人の遊び場所は、稲目が仏像を安置した小墾田の家(明日香村雷)であり、寺とした向原の家(明日香村豊浦)であった。そして二人は、幼い頃から仏を敬うようになっていた。蘇我稲目が薨じた欽明31年(570年)3月に、物部尾輿が小墾田の家の仏像を強奪し、向原の家の寺に火をつけて焼いたのを、炊屋姫と馬子は目の当たりにしたので、物部氏対する憎しみが心に宿っていた。炊屋姫は17歳、馬子は20歳の時である。

 

翌年の欽明32年3月に、炊屋姫は18歳で渟中倉太珠敷皇太子(敏達天皇)の妃となった。4月に欽明天皇が崩御され、敏達元年(572年)4月に渟中倉太珠敷皇太子は即位されて敏達天皇となった。敏達4年に敏達天皇の皇后・広姫が亡くなったため、敏達5年(576年)に炊屋姫は皇后となった。敏達14年(585年)8月、敏達天皇が崩御された。皇后の炊屋姫は32歳であり、皇太后と呼ばれるには若かったので、炊屋姫尊として崇められた。

 

一方、蘇我馬子は敏達元年に22歳で大臣に就任した。若くして大臣になったのは、欽明天皇の妃となり七男六女を生んだ堅塩媛(蘇我稲目の娘)が、蘇我氏の繁栄を願い、弟の馬子を大臣に推挙したからである。そして、馬子は大連の物部守屋の妹を妻に迎えた。これは、堅塩媛が蘇我氏と物部氏の和解を考え図ったものだった。蘇我馬子が物部守屋を討伐した用明2年の『書紀』の記事には、「蘇我(馬子)大臣の妻は、物部大連の妹である。大臣は妻の計略を用いて大連を殺した。」とある。馬子が守屋の妹を妻としたのは、用明2年(587年)以前であることがわかる。一方、蘇我稲目と物部尾興が対立しており、稲目が存命中(570年以前)に長男・馬子の嫁として、尾興の子供を妻に迎えることはなかったと考えられる。崇峻5年(592年)に、「崇峻天皇を殺害した東漢直駒が河上娘をさらい妻とした。」とある。このときの、馬子の長女・河上娘の年齢を18歳以上とすると、その誕生は575年以前となる。これらから、馬子は大連の物部守屋の妹を妻に迎えたのは、馬子が大臣になった敏達元年(572年)か、その翌年と考えられる。

 

馬子は父・稲目意思を継ぎ、仏殿を造営して百済からもたらされた仏像を安置し、高麗から来た還俗者の惠便を探し出して仏法の師とし、善信尼と二人尼を弟子に付け、塔頭に舎利を納めた塔を大野丘の北に建て、ひとり仏法に帰依した。しかしながら、国に疫病が流行り多くの人民が死んだことを理由に、物部守屋が詔を得て塔を倒し仏像と仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に棄て、善信尼等の尼を鞭打ちの刑に処した。その後、疱瘡で死ぬものが国に満ちたので「仏像を焼いたせいだろう」との噂が広がった。

 

天皇は馬子に「お前一人だけは仏法を行ってもよい。他の人は禁止する。」と仰せになり、三人の尼をお返しになった。馬子は新たに精舎を造り、仏像を迎え入れ供養した。敏達14年(585年)8月、敏達天皇の病気が重くなり崩御された。敏達天皇の殯宮で、馬子が刀を佩びて誄(しのびごと)を述べたとき、守屋は「矢で射られた雀のようだ。」とあざ笑ったので、守屋が手足を震わして誄を述べたとき、馬子は「鈴をつけるとよい。」と言い返した。蘇我馬子大臣と物部守屋大連の怨念は頂点に達した。馬子35歳のことである。


57-11.崇仏の蘇我氏 VS 排仏の物部氏 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

仏教の受容に対して、欽明朝では蘇我稲目と物部尾輿が、敏達朝では蘇我馬子と物部守屋が対立した。大臣である蘇我氏と大連である物部氏が、仏教の受容で対立する中で、天皇はその賛否に右往左往する状況であった。しかし、敏達天皇が崩御し皇位を継いだ用明天皇は、母の堅塩媛が蘇我稲目の娘であったこともあってか、仏法を信じられて、用明2年(587年)4月に「三宝(仏・法・僧)に帰依したいと思うが、お前たち群臣も協議せよ。」と仰せになった。蘇我馬子大臣はそれに賛同したが、物部守屋大連と中臣勝海連は「国神に背いて、他神を敬うのか。」と反対した。守屋は群臣に命を狙われていると聞き、河内の渋川に帰り武装した。勝海も武装して守屋に従ったが、崇仏派の舎人に殺された。このような状況のなか、用明天皇は病気が重くなり崩御された。

蘇我馬子と物部守屋は崇仏と排仏の対立に加え、用明天皇の後継者選びでも対立することになった。守屋は穴穂部皇子(用明天皇異母弟)を天皇にしようとしたが、馬子が炊屋姫尊(敏達天皇皇后)を奉じて、佐伯連・土師連・的臣に詔して、「穴穂部皇子を殺せ」と命じ、穴穂部皇子は殺されてしまった。炊屋姫尊にとって穴穂部皇子は異母兄弟で、両者の母は姉妹であり親近者である。それにも関わらず「刺殺の詔」を発したのは、穴穂部皇子が敏達天皇の殯宮に居た炊屋姫尊を犯そうとしたことによるだけでなく、昔から抱いていた物部氏が憎いとの気持ちがあり、排仏派の物部守屋と手を組む穴穂部皇子が許せなかったのであろう。蘇我馬子と炊屋姫尊が強く結びついたのは、両者は幼馴染みであり、幼い頃から仏を敬う気持ちと物部氏を憎む気持ちを二人が共有していたからである。

馬子は諸皇子と群臣にもちかけ、共に軍兵を率いて守屋の家のある渋川に向かった。馬子に味方した皇子には、泊瀬部皇子(穴穂部皇子弟)・竹田皇子(推古天皇の子)・厩戸皇子(聖徳太子)がいる。守屋の軍勢は強豪で、皇子と群臣の軍は三度退却した。厩戸皇子は白膠木(ぬるで:ウルシ科落葉樹)を切り取って四天王像を作り、「敵に勝たせてくれたら寺塔を建立します。」と請願し、蘇我馬子は仏法の守護神に、「戦に勝たせてくれたら寺塔を建立し、三宝を広めます。」と請願して進撃し、守屋とその子を誅殺した。


57-12.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z126.蘇我稲目と馬子.png蘇我稲目・馬子が薨去した年は『日本書紀』に記載されているが、享年については記載がない。『扶桑略歴』には稲目も享年65歳、馬子の享年76歳と記載されている。この享年は稲目・馬子の経歴と齟齬がなかった。蘇我蝦夷が「乙巳の変」皇極4年(645年)で亡くなったときの年齢は、『扶桑略歴』には「蝦夷臨誅自殺。【年□十六。】」とあり、明確ではない。多分、46歳・56歳・66歳の何れかであろう。なお、門脇禎二氏の『蘇我蝦夷・入鹿』に「推古18年(610年)当時の毛人(蝦夷)の年齢は、『扶桑略歴』の諸伝を信ずるならば25歳、父の馬子は60歳であったという。」とあるのは、『扶桑略歴』の「(推古卅四年)同年。蘇我宿祢蝦夷任大臣。卌。」を、「推古34年に40歳で大臣に任ずる。」と解釈して計算している。


Z133.蘇我蝦夷.png表Z133に示すように、蝦夷の享年を46歳・56歳・66歳として、蝦夷の経歴を辿ってみた。蝦夷が『書紀』に登場する初見は推古18年(610年)10月で、新羅・任那の使者が朝廷に拝謁したとき、蘇我豊浦蝦夷臣・大伴咋連・坂本糠手臣・安部鳥子の四人の大夫が使者の奏上を聞き、蘇我馬子大臣に伝える役を果たしている。享年を46歳とすると、蝦夷が大夫の役を成したとき11歳である。親の七光りがあろうとも、11歳では大臣に続く大夫の役は務まらない。

 

蝦夷が享年66歳とすると、皇極元年(642年)に63歳で大臣を拝命したことになり、朝廷に仕える官吏の年齢としては限界の年である。蝦夷が大臣になったとき、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。このため盗賊は恐れて、道に落ちているものも拾わなかった。」と述べている。これらより、入鹿は大臣が勤まる年齢であり、63歳の蝦夷が大臣に就任することも無いように思える。

 

蝦夷が享年56歳とすると、推古18年に大夫の役を勤めた時は21歳であり、親の七光りを考えれば可能な年齢である。蝦夷の享年は56歳で、誕生は590年となる。たとえば、蝦夷が20歳のときに入鹿を生んだとするならば、蝦夷が大臣になった皇極元年(642年)には、入鹿は34齢であり、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。」の文章と齟齬はない。

 

Z134・Z135.蝦夷・入鹿系譜.png皇極2年(643年)の記事に「蘇我大臣蝦夷は、病気のため参朝しなかった。ひそかに紫冠を子入鹿に授けて大臣の位に擬した。また、入鹿の弟を物部大臣と呼んだ。大臣(弟)の祖母は物部弓削(守屋)大連の妹である。」とある。この文章は、入鹿の弟・物部大臣の祖母は物部守屋の妹であるが、入鹿の祖母は物部守屋の妹ではないと言っているように思われる。Z136の蘇我馬子・蝦夷の系譜を見ると、入鹿と物部大臣は異母兄弟である。また、物部大臣は物部守屋の妹の孫であるが、入鹿は物部守屋の妹の孫でないと、皇極2年の記事の通りになっている。Z137は欽明天皇と敏達天皇の系譜である。史実の事例がZ136の蘇我馬子・蝦夷の系譜とまったく同じであり、皇極2年の記事は信憑性があると考える。それでは、入鹿の祖母、蝦夷の母、馬子の妻であるMsXは誰であろうか。

 

用明2年(587年)八月、炊屋姫尊と群臣の勧めにより、崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位された。蘇我馬子も前の通り大臣となった。崇峻元年(588年)、百済から仏舎利が献上され、同時に僧6名、寺工(寺院建築の技術者)2名、鑢盤博士(塔の露盤などの金属鋳造技術者)、瓦博士(瓦製作の技術者)4名、画工(仏画製作の画家)1名が献上された。蘇我馬子大臣は百済の僧らに受戒の法を問い、善信尼らを百済に学問をするために遣わし、飛鳥の真神原に法興寺(飛鳥寺)を建て始めた。

 

物部守屋を討伐し、法興寺の建築が始まり、仏法が急速に広がりだしたことは、崇仏派の炊屋姫尊と蘇我馬子大臣にとって大きな喜びであった。二人は幼馴染であり、また炊屋姫尊が3年前に敏達天皇を亡くし独り身(寡婦)であったこともあり、結ばれて崇峻3年(590年)に蝦夷が豊浦の地で生まれた。蝦夷が豊浦大臣と呼ばれるのもこのためである。

炊屋姫尊は35歳、蘇我馬子は38歳であった。

 

崇峻5年(592年)11月、蘇我馬子は崇峻天皇が自分を殺そうと謀っているのを知り、東漢直駒を使って天皇を弑殺させた。群臣が炊屋姫尊に即位してくださるように請うたが、炊屋姫尊は辞退された。百官が上表文を奉ってなおも勧めたところ、3度目にやっと承諾され、12月に炊屋姫尊は豊浦宮で即位して推古天皇となった。宮を豊浦に置いたのは、我が子・蝦夷がいたからである。蘇我馬子は引き続き大臣であった。このことからすると、蘇我馬子は崇峻天皇の弑殺について、事前に炊屋姫尊の了解を得て、炊屋姫尊が皇位に就くよう要請していたのであろう。ある意味においては、崇峻天皇の弑殺は蘇我馬子大臣と炊屋姫尊によるクーデターであった。

 

『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子の母・穴穂部間人皇后は、用明天皇が崩御された後、聖徳太子の異母兄の多米王と結婚し、佐富女王を生んだ。」とある。これからすると、「炊屋姫皇后は、敏達天皇が崩御された後、叔父の蘇我馬子と結婚し、蘇我蝦夷が生まれた。」とあっても、問題はないように思えるが、炊屋姫皇后が推古天皇に即位したことから、蝦夷が炊屋姫皇后の子供であることは秘密裏にされ、馬子と物部守屋の妹の子として育てられた。天皇家の長い歴史のなかで、女帝は8人いるが、全員生涯独身か寡婦(夫と死別後再婚していない)である。


57-13.蘇我氏が仏教の興隆を成した [57.蘇我氏の系譜と興亡]

推古元年(593年)に推古天皇が即位し、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とした。蘇我馬子は引き続き大臣であった。崇仏派の三人が政権の中枢に就いたことで、一気に仏教の興隆が加速した。推古元年(593年)、正月に法興寺の仏塔の心柱の礎の中に仏舎利を置き、心柱を立てた。難波の荒陵に四天王寺を起工した。2年に推古天皇は皇太子と蘇我馬子大臣に「三宝を興隆させるように。」と詔を発している。多くの臣・連は天皇と先祖に報いるために競って仏舎(寺)を建造した。4年11月に法興寺が完成した。大臣の子・善徳臣を寺司に任じた。高麗の僧・慧慈と百済の僧・慧聡は法興寺に住んだ。この二人の僧は仏教を広め、三宝の棟梁(中心人物)となった。12年に皇太子により制定された憲法17条の第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧である。」とある。

 

Z136.飛鳥大仏.png推古13年(605年)、天皇は皇太子・大臣と諸王・諸臣に、銅・繡の二体の丈六の仏像を作るようにと命じ、鞍作鳥に命じて仏像を造る匠とした。14年4月に銅・繡の二体の丈六の仏像が完成した。丈六の銅の像を元興寺(法興寺・飛鳥寺)の金堂に安置しようとしたが、金堂の戸より高く収めることが出来なかったが、鞍作鳥は戸を壊すことなく修めた。天皇は鞍作鳥の功績を称え、近江の国の坂田郡の田二十町を与えた。鞍作鳥は天皇のために金剛寺を造った。これが南淵(明日香村坂田)の坂田尼寺である。14年7月、天皇は皇太子に『勝鬘経』を講じるように仰せられ、皇太子は3日間で説き終えられた。この年皇太子は、また『法華経』を岡本宮で講じた。天皇は喜ばれ播磨国の水田百町を与えられた。皇太子は喜ばれて斑鳩寺(法隆寺)に修めた。

 

推古32年(624年)9月の記事には、「寺と僧尼とを調べて、その寺を造った由来や、僧尼の入道の理由と得度の年月日を詳細に記録した。この時、寺46ヶ所、僧816人、尼569人、合わせて1385人であった。」とある。推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子大臣に、「三宝を興隆させるように」と仰せになってから30年間の間に、仏教が急速に広まり、寺院・僧尼が多大に増加した様子が伺える。近つ飛鳥博物館の『考古学からみた推古朝』によると、推古朝の寺院遺跡から出土する瓦の文様は、素弁蓮華文の内、飛鳥寺式・奥山廃寺式・豊浦廃寺式であるそうだ。これらの文様の瓦が出土する寺院遺跡は、大和24・河内12・山背7・和泉4・摂津1・近江2・武蔵1の51ヶ所あるという。『書紀』の記す、寺46ヶ所も史実である。

 

仏教の興隆は推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三人で成し得たものである。厩戸豊聡耳皇子尊(聖徳太子)は推古29年(621年)2月5日に薨去し磯長陵に葬られ、蘇我馬子大臣が34年(626年)5月20日に薨去し桃原墓に葬られ、推古天皇が36年(628年)3月7日崩御し遺言により竹田皇子の陵に葬られ、三人は極楽浄土の天寿国に旅立っている。蘇我馬子は稲目の嫡男、推古天皇は蘇我稲目の孫であり、聖徳太子も蘇我稲目の曽孫である。仏教興隆は蘇我氏が成したと言える。


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