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55.武内宿禰は実在した ブログトップ

55-1.ヤマト王権の中枢を担った武内宿禰 [55.武内宿禰は実在した]

応神天皇以前のヤマト王権(古墳時代前期、3世紀中頃から4世紀末)は大和国を盟主国とする連合国家であり、仁徳天皇の時代になって大王(天皇)を頂点とする統一国家が誕生した。それを私は大和王権(古墳時代中期以降、5世紀以降)と表現している。大和王権の中枢で執政を担ったのが、大化の改新前代は大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)であった。表Z96に、『日本書紀』に記載されている大臣大連の人物名を示した。黄色は天皇が即位したとき、「為大臣」「為大連」と正式に任命を受けたものであり、(氏名)は任命を受けてないが大臣大連と称されている人物で、[氏名]は大臣大連の地位ではないが国政に携わったが人物である。大臣大連は大王(天皇)を補佐して政務に携わる役職であるが、大臣は姓(かばね)が臣(おみ)である氏族から選ばれ、大連は姓が連(むらじ)である氏族から選ばれている。

Z96.大臣・大連.png


『日本書紀』で「大臣」の文字が登場する初見は、成務天皇3年の記事で「武内宿禰を大臣と為す。」とある。しかし、それ以前の景行51年には「武
宿禰に命じて、棟梁之臣と為す。」とある。「棟梁之臣」とは、棟木と梁のように重圧に耐える臣、すなわち大臣のことであり、武内宿禰は景行天皇の時代から「大臣」に相当する役職に付いていた。『日本書紀』の文章は時代考証されていないので、成務朝に「大臣」と名付けた役職が存在したとは言えないが、「大臣」に相当する役職があったと考える。しかし、武内宿禰宿は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕えた人物であるが、『日本書紀』の通りに計算すると武内宿禰の年齢が265歳余りになり、伝説上の人物として考えられている。「縮900年表」で計算してみても、113歳余りとなり実在の可能性が無いといえる。

『日本書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれて、武内宿禰に問われた。武内宿禰は『わが大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、倭の国では雁が産卵することは、私は聞いておりません。』と歌を返した。」とある。

この歌謡は万葉仮名で書かれており、天皇が詠まれた歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞である。「阿曾」が「朝臣」を示す用例は、万葉集に3首ある。「池田乃阿曽(池田の朝臣)」(
16/3841)、「穂積乃阿曽(穂積の朝臣)」(16/3842)、「平群乃阿曽(平群の朝臣)」(16/3843)である。

『日本書紀』で「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『日本書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、『日本書紀』に挿入されている歌謡は伝承そのものであり、万葉仮名で書かれているのもそのためである。そのため、歌謡には『日本書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は、八色姓で朝臣の姓が出来た以後に作られたことがわかる。仁徳50年(413年)に茨田堤に雁が子を産んだことは史実であろうが、「たまきはる 内の朝臣」で始まる歌謡は、その時に詠われた歌ではないとすることが出来る。武内宿禰が実在したとすれば、その年齢は引き延ばされている。


55-2.武内宿禰は実在し、誕生は302年 [55.武内宿禰は実在した]

仁徳紀で武内宿禰の名前が出てくるのは、仁徳元年と仁徳50年である。仁徳50年の「たまきはる 内の朝臣」で始まる歌は、「朝臣」という言葉より、八色姓で朝臣の姓が出来た以後に作られたことがわかり、仁徳50年まで、武内宿禰の年齢が引き延ばされていることが分る。仁徳元年(381年)の記事は、「応神天皇の御子(仁徳天皇)が生まれたとき産殿に木菟(ミミズク)が入ってきた。同じ日に生まれた武内宿禰の子の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が入ってきた。これは吉兆の印なので、鳥の名を相互に交換して子供の名としようと、応神天皇が仰せられた。太子は大鷦鷯(おおさざき)皇子、大臣の子は木菟(つく)宿禰と名付けられた。木菟宿禰は平群臣の始祖である。」とある。この話は応神天皇の時代の話であり、仁徳天皇の時代に武内宿禰が生存していたとは言えない。


応神紀で武
宿禰の名前が出てくる最後の記事は、応神9年(362年)の武宿禰に謀反の嫌疑がかけられた記事である。武宿禰を筑紫に遣わして百姓(人民)を監察させた。その時、武宿禰の弟の甘美宿禰が兄を廃しようとして、天皇に「武宿禰は常に天下望む野心があります。今筑紫において、筑紫を割いて、三韓を招き、自分に従わせれば、天下が取れると密に謀っていると讒言した。そこで天皇はただちに使いを遣わして、武宿禰を殺すことを命じた。その時、武内宿禰に容姿が似ていた壹伎直の祖の眞根子が身代わりとなって自決した。武宿禰は筑紫を脱出し、朝廷に参上して罪の無いことを弁明した。天皇は武宿禰と甘美宿禰とを対決させて問われたが、決着がつかなかった。天皇の勅命により、探湯が行われて武宿禰が勝った。武宿禰は甘美宿禰を殺そうとしたが、天皇の勅命で許され、紀伊直等の先祖に賜ったとある。武宿禰が362年には生存していたことは確かである。

神功皇后46年から65年までの記事は、百済の肖古王・貴須王・枕流王・辰斯王が登場しており、
『日本書紀』の編年を干支2廻り、120年下らせば、正規の編年になることが分っている。この間に武内宿禰の名が出てくるのは神功47年(367年)と神功51年(371年)で、両者とも応神天皇の時代のことになる。ちなみに、神功52年(372年)には百済の肖古王から七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝が献上されている。

371年に武内宿禰が生存していたとして、武内宿禰の年齢を計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、景行天皇の即位の2年前である。成務天皇の母の八坂入姫は景行4年(307年)に妃とされたと記載されており、成務天皇の誕生と矛盾しているが、即位前に妃としていたのを、
『日本書紀』の述作者が、皇后を娶った後に妃を召されたように書いたのであろう。武内宿禰の誕生が302年とすれば、371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。武内宿禰は302年に誕生し、325年(景行52年)に24歳で棟梁之臣となって以降、大臣として景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕え活躍した。

歴史上の人物で、肖像として一番長く使われた紙幣は武内宿禰で、1889年(明治22年)5月1日から1958年(昭和33年)10月1日まで発行され、法律上は現在も使用できる。武内宿禰はお札の中で128年以上も生きている。

 A100-2.武内宿禰紙幣.png


55-3.武内宿禰七人の息子の検証 [55.武内宿禰は実在した]

武内宿禰の宿禰が実在し、その誕生は302年であった。大臣として景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕えて活躍した。武内宿禰の子供については、『日本書紀』には平群木菟宿禰のみの記載しかないが、『古事記』には「建宿禰の子は、男七人・女二人の九名。波多八代宿禰、次に許勢小柄宿禰、次に蘇賀石河宿禰、次に平群都久宿禰者、次に木角宿禰、次に久米能摩伊刀比賣、次に怒能伊呂比賣、次に葛城長江曾都毘古、又若子宿禰。」とある。『新撰姓氏録』には、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65の氏族があり、全体の5.5%を占めている。

『古事記』の武内宿禰の息子達の記事が正しいか「縮900年表」でもって検証してみる。その手掛かりは、男性に子供が生まれる時の年齢は18歳から53歳まで、孫が生まれる時の年齢は38歳から100歳まで、職務に携わる年齢は、国政を担うのは23歳から63歳まで、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳まで、女性が皇后・妃となるのは18歳か30歳までと仮定した。『日本書紀』に記載された年号は、最後部に示している
「縮900年表による日本書紀年号の西暦変換表」(表Z83)により西暦に変換している。

Z97.武内宿禰息子.png『古事記』で武内宿禰の息子としてある七人のうち、『日本書紀』に登場するのは、羽田矢代宿禰(波多八代宿禰)、石川宿禰(蘇賀石河宿禰)、平群木菟宿禰(平群都久宿禰者)、紀角宿禰(木角宿禰)、葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)の五人である。この五人が『日本書紀』に登場する年代を表 Z97に示す。〇は本人の活躍を示し、*は名前のみの記載を示す。応神3年の記事には「百濟の辰斯王が立って、貴国の天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰を遣わして、その礼のないことを叱責した。それによって、百濟国は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花を王に立て帰国した。」とある。五人のうち四人が392年(応神3年)に百済に派遣されている。

『三国史記』百済本紀の392年には、「辰斯王は狗原で田猟していたが十日経っても帰ってこなかった。王が狗原の行宮で薨去した。辰斯王が薨去したので阿華王(阿花王)が即位した。」とある。応神3年は『日本書紀』の編年では272年になるが、干支2廻り120年戻すと392年となり、『日本書紀』の記事と『三国史記』の記事が一致する。二つの記事を合わせれば、辰斯王は狗原で殺害されたことが読み取れる。紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の四人が、392年に百済に派遣された時の年齢を23歳から57歳として誕生の年を求め、そのとき武内宿禰(誕生302年)が何歳であるかを表98に示した。表Z98からは、四人が百済に派遣された時の年齢が40歳以上であれば、武内宿禰の息子であると言えることが読み取れる。

Z98.百済派遣4人.png葛城襲津彦は、351年(神功5年)に新羅に派遣されている。『日本書紀』神功5年の記事は、「新羅王(波沙寐錦)は三人の使者を遣わして朝貢して来た。そして、人質の微叱許智旱岐の一時帰国を願い出た。神功皇后はそれを許し葛城襲津彦を付き添わせ遣わした。新羅の使者は対馬で襲津彦を欺き、微叱許智を奪還して、配していた船で新羅に逃れさせた。襲津彦は新羅に行き蹈鞴津(多大浦)に泊り、草羅城を攻め落として帰還した。この時の捕虜は桑原・佐糜・高宮・忍海などの四っの邑の漢人らの始祖である。」とある。

『日本書紀』は、仲哀9年(346年)に神功皇后が攻め込んだ新羅の王の名を「波沙寐錦」と書いている。「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも永楽十年
(400年)の記事に「新羅寐錦」の刻字があったが、日中韓の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。日本書紀は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅征伐が史実であった証拠であると考える。それゆえ、神功5年(351年)の記事も史実であると考える

武内宿禰の六男である
葛城襲津彦が351年に23歳で新羅に派遣されたとすると、兄の紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の四人が百済に派遣された392年には、葛城襲津彦は64歳である。当然、兄の四人も64歳以上となる。そうなると、四人と武内宿禰の親子関係は成り立つが、百済・加羅・新羅に派遣されるのは57歳までとする仮定に反する。もちろん例外はあるだろうが、四人全員となると『古事記』の記述を疑いたくなる。羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰・紀角宿禰・葛城襲津彦が、武内宿禰の息子ならば兄弟関係(長男から七男)の順序が違うとか、五人の中には武内宿禰の息子でなく孫が入っているとか、『古事記』の記述に間違いがあるのであろう。

Z83.縮年表西暦変換表.png

 


55-4.武内宿禰の息子、平群木菟宿禰の検証 [55.武内宿禰は実在した]

『日本書紀』では武内宿禰の子供については、平群木菟宿禰のみの記載しかない。仁徳元年(381年)の記事には、「応神天皇の御子(仁徳天皇)が生まれたとき産殿に木菟(ミミズク)が入ってきた。同じ日に生まれた武内宿禰の子の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が入ってきた。これは吉兆の印なので、鳥の名を相互に交換して子供の名としようと、応神天皇が仰せられた。太子は大鷦鷯(おおさざき)皇子、大臣の子は木菟(つく)宿禰と名付けられた。木菟宿禰は平群臣の始祖である。」とあり、この記事より平群木菟宿禰は武内宿禰の息子で、仁徳天皇と同じ日に誕生したことが分る。

Z99.群木菟宿禰検証.png応神13年(366年)に応神天皇は、お召しになろうとしていた髪長媛に、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が恋心を抱いていることを知り、二人を結婚させようと考えられた。天皇は二人を宴に招き歌を詠って、その意向を伝えた。大鷦鷯皇子は髪長媛を賜ることが出来ることを喜び、「天皇のお心づかいを知らないで、もう二人は同衾していました」と返歌を奉っている。この年の大鷦鷯皇子の年齢を20歳頃だと考える。仁徳天皇の誕生は347年となる。これだと仁徳天皇は431年に85歳で崩御した事になり辻褄は合っている。平群木菟宿禰の誕生は、仁徳天皇と同じ347年で、武内宿禰(誕生302年)が46歳のときの子供となり、『日本書紀』が記載している、武内宿禰と平群木菟宿禰の親子関係が成り立つ。これらを表Z99に示した。

応神16年(369年)に、平群木菟宿禰は的戸田宿禰と共に加羅に遣わされて、新羅の王から百済の弓月君の人夫と、その奪還のため加羅に遣わされ3年間帰国していなかった葛城襲津彦を連れ戻している。この時の平群木菟宿禰の年齢は、誕生の年347年から計算すると23歳であり、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳までの仮定は満足している。しかしながら、履中2年(433年)には、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執っている。この時の平群木菟宿禰の年齢は87歳で、国政を執る年齢ではない。平群木菟宿禰の誕生の347年が怪しくなる。

鳥Z100.平群眞.png平群木菟宿禰の息子とされている平群眞鳥は、雄略天皇の元年(464年)と清寧天皇の元年(487年)に大臣に任命され、仁賢11年(505年)に仁賢天皇が崩御された年、平群眞鳥大臣は国政を専らにしたとして大伴金村に討たれている。平群眞鳥は仁賢元年にも大臣に就任していたのであろう。雄略天皇元年に平群眞鳥が大臣になった時の年齢を基にして、清寧元年・仁賢元年の大臣就任の年齢を計算して表Z100にまとめた。これらからすると、平群眞鳥が始めて大臣になった464年は23歳から30歳であり、平群眞鳥の誕生は435年から442年であったと考えられる。平群木菟宿禰の誕生は仁徳天皇と同じ347年とすると、平群眞鳥が誕生のとき、平群木菟宿禰の年齢は89歳から96歳となり、平群木菟宿禰と平群眞鳥の親子関係はあり得ないことになる。

Z101.平群眞鳥は孫.png履中2年(433年)の記事に出てくる国政を執った平群木菟宿禰は、平群木菟宿禰の息子木菟息子宿禰と表記)と考えると、平群木菟宿禰と木菟息子宿禰の親子関係と、木菟息子宿禰と平群眞鳥の親子関係は成り立つであろうか。433年に国政を執った菟息子宿禰の年齢を基にして、菟息子宿禰の誕生の年を求めた。そして菟息子宿禰の誕生の年の平群木菟宿禰(誕生347年)の年齢と、平群眞鳥の誕生の年の菟息子宿禰の年齢を求め表Z101に表した。すると、菟息子宿禰の誕生が394年から399年であれば、平群木菟宿禰と木菟息子宿禰、木菟息子宿禰と平群眞鳥の親子関係は成り立つことが分った。

平群氏の系譜(誕生年:父親の年齢)は、武内宿禰(誕生302年)→平群木菟宿禰(347年:46歳)→
木菟息子宿禰(394~399年:48~53歳)→平群眞鳥(435~442年:37~49歳)になる。平群木菟宿禰は369年(応神16年)に23歳で加羅へ遣わされ、木菟息子宿禰は433年(履中2年)に35歳から40歳で国政を担い、平群眞鳥は464年(雄略元年)に23~30歳で初めて大臣となり、487年(清寧元年)に46~53歳で大臣に再任され、顕宗天皇・仁賢天皇とも大臣を務めたが、505年(仁賢11年)の64~71歳のとき、大伴金村に討たれた。平群木菟宿禰と平群眞鳥の間に1世代あると仮定すると、平群氏に関して、『日本書紀』と「縮900年表」は一致する。平群木菟宿禰は武内宿禰が46歳のときに生まれた息子である。

これまでに、武内宿禰と同じ日に生まれた成務天皇、平群木菟宿禰と同じ日に生まれた仁徳天皇の誕生の年を定めることが出来た。そこで、崇神天皇から履中天皇までの誕生の年を『日本書紀』と「縮900年表」から求めた。崇神天皇の誕生の年は、「50
-4.13歳の女王・壱与は崇神天皇」で説明したように、魏志倭人伝より正始8年(247年)頃に卑弥呼が亡くなり、その数年後に13歳の壱与(崇神天皇)が女王となっていることから定めた。景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・履中天皇については、各天皇の即位前紀に皇太子になった年と、その時の年齢が記載してあり、「縮900年表」に照らし合わせれば、誕生の年を決めることが出来る。仁徳天皇についてこの節の初めに書いた通り、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が応神天皇より髪長媛を賜った年を20歳として計算した。なお、垂仁天皇については母親・崇神天皇の年齢を考慮して定めた。なお、垂仁前紀には皇太子になった年と、その時の年齢が記載してあるが、これは採用しなかった。応神天皇については、仲哀天皇の年齢を考慮して定めた。したがって、神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を身ごもったまま新羅征伐をしたというのは、新羅征伐は史実であるが、「誉田別皇子を身ごもったまま」というのは作られた説話である。この時代、天皇の継承は崩御されてから行われている。前代の天皇が長生きされた場合、次の天皇が即位される時には年配となっている。『日本書紀』は皇后を娶った年を即位後に記載しているが、それは皇后になった年であり、それ以前に皇子は生まれている。Z102に示すように、「縮900年表」は天皇の誕生の年においても、齟齬が興らないよう定めることが出来た。
Z102.天皇誕生年.png


55-5.葛城襲津彦は武内宿禰の長男 [55.武内宿禰は実在した]

『古事記』は葛城襲津彦を建内宿禰の子としているが、『日本書紀』は葛城襲津彦を武内宿禰の息子であるとは書いていない。しかし、448年(允恭5年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰は反正天皇の殯宮大夫の役を命じられていたにも関わらず、地震があった七月十四日の夜に殯宮にいなかった。これを知った允恭天皇は尾張連吾襲を葛城に遣わした。すると玉田宿禰は男女を集めて酒宴を行なっていた。吾襲は事の次第を宿禰に伝えた。宿禰は事の発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この記事によれば、武内宿禰の墳墓が葛城にあることが明白で、葛城襲津彦が武内宿禰の息子であり、しかも長男であることが予想される。葛城襲津彦の誕生の年は、襲津彦の足跡を辿ることにより計算出来る。表Z103は、神功5年(351年)に葛城襲津彦が新羅に派遣された時の年齢を23歳から57歳と仮定して、他の記事の年に何歳であったかを計算している。

Z103.葛城襲津彦の足跡.png


『日本書紀』の
神功皇后46年から65年までの記事は、百済の肖古王・貴須王・枕流王・辰斯王が登場しており、編年を干支2廻り、120年下らせば、『三国史記』の編年と同じになることが分っている。神功62年を382年と編年しているのはこのためである。神功62年の記事の後に『百済記』からの引用文がある。「百済記に云う、壬午の年に新羅が貴国(倭国)に朝貢しなかったので、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。沙至比跪は新羅の差出した美女を受け取り、反対に加羅を討った。加羅の王は百済に逃げ倭国に来て、その事を訴えた。天皇は大いに怒られ、木羅斤資を加羅に遣わして、国を回復させたという。一説には、沙至比跪は天皇の怒りを知り、ひそかに帰国し隠れていた。皇宮に仕えている妹に、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は『今日の夢に沙至比跪を見ました』と天皇に申し上げた。天皇は「沙至比跪はなぜ来たのか」と怒られた。妹は天皇の言葉を伝えた。沙至比跪は許されないと知り、石穴に入って死んだ。」とある。

歴史学者は『百済記』から、葛城襲津彦(沙至比跪)は実在が確認できる最古の人物であるとして、天皇に仕えた沙至比跪の妹を、『古事記』の応神記にかかれている、応神天皇の十人の妃の一人である葛城野伊呂売
(ののいろめ)として解釈している。なお、孝元記には建内宿禰の七男二女の中に、怒能伊呂比売(ののいろひめ)があり、葛城野伊呂売と同一人物とみて、葛城長江曽都毘古の妹と見なしている。古代において「妹」は娘であるから、天皇に仕えた葛城襲津彦の妹(娘)は、仁徳天皇の皇后の磐之媛である。「縮900年表」で見ると、382年は仁徳2年にあたる。

仁徳41年(410年)の記事に登場する襲津彦を葛城襲津彦と考えると、襲津彦の年齢が79歳以上であり、違和感を覚える。仁徳41年の記事は、
「紀角宿禰を百済に遣わし、国郡の境をわけて郷土の産物を録した。このとき、百済の王の一族である酒君が、無礼であったので、紀角宿禰は百済王を責めた。そこで、百済の王は鉄の鎖で酒君を縛って、襲津彦に従わせて天皇に進上した。それで酒君は日本に来て、石川錦織首許呂斯の家に逃げ隠れた。久しくしてから天皇はその罪を許された。」とある。この記事に出てくる襲津彦は百済の臣下のように見受けられ、神功62年(382年)に新羅討伐に行って帰国しなかった葛城襲津彦ではないように思える。『百済記』の「ひそかに帰国し隠れていた」とは、帰国の仕方が大きく異なっている。

話は飛ぶが、欽明2年に百済の官人・紀臣奈率麻沙についての記事がある。
「紀臣奈率麻沙は、おそらく紀臣が韓の婦人を娶って生んだのであろう。百済に留まって奈率(百済の官位)となったものである。」とある。紀臣奈率麻沙以外にも、許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らが百済の官人として登場している。百済・任那・新羅に渡った倭人が韓の婦人を娶って生んだ子を韓子と呼んでいるが、仁徳41年の記事にある襲津彦は、葛城襲津彦が韓の婦人を娶って生まれた韓子であろう。367年に加羅に渡り3年間帰国しなかった時に生まれた子であれば44歳若であろうし、382年に新羅の差出した美女との間に出来た子であれば29歳若であろう。百済の官人となった数奇な人生が伺える。

Z104.武内宿禰と襲津彦.png百済や新羅に出かけ交渉や戦をするのは23歳から57歳位までとする仮定のもとで、葛城襲津彦が新羅討伐に派遣された351年(神功5年)と382年(神功62年)の年齢を照らし合わせると、表Z104に示すように、両者が条件を満足するのは、351年の新羅討伐のときの襲津彦の年齢は、23歳から26歳である。襲津彦の誕生の年は326年から329年となり、武内宿禰(誕生302年)が25歳から28歳のときに生まれた事になる。葛城襲津彦は武内宿禰の長男である可能性が高い。

Z105.磐之媛.pngなお、襲津彦の娘・磐之媛が仁徳天皇の皇后となったのは、382年(仁徳2年)である。そのとき、仁徳天皇の年齢は38歳である。仁徳天皇の年齢からすれば、磐之媛を娶ったのは皇太子の時代であったかも知れない。大鷦鷯皇子の年齢から磐之媛を娶った年を算出し、磐之媛の嫁いだ年齢を25歳(±5歳)として、磐之媛誕生の年の襲津彦の年齢を求め表Z105にした。大鷦鷯皇子が30歳以降に磐之媛を娶っていたならば、葛城襲津彦と磐之媛の親子関係は成り立つ。


54-6.室宮山古墳は武内宿禰の墳墓 [55.武内宿禰は実在した]

Z107.室宮山古墳.png

奈良県御所市大字室に室宮山古墳がある。墳丘長238mの全国で第6位の規模の前方後円墳で、葛城地域では最も大きな古墳である。室宮山古墳の年代は370~389年と編年した。年代の決め手は円筒埴輪Ⅲ式(370~409年)と壺形埴輪(260~389年)である。その他にも三角縁神獣鏡C段階(270~399年)、琴柱形石製品(310~399年)、三角板革綴短甲(360~469年)の副葬品があり、室宮山古墳の年代は370年~389年の年代と確定出来る。

室宮山古墳は通説では葛城襲津彦の墳墓と比定されている。それは葛城襲津彦の実在が、『百済記』によりが確かめられるからであろう。武内宿禰の墳墓ではないかとの説もあるが、武内宿禰は伝説上の人物と見なされており、その墳墓は存在しないのである。私は、武内宿禰は実在していたと考える。また、允恭
年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳と考える。武内宿禰が何時亡くなったかは明確ではないが、371年までは生存していたことは、『日本書紀』の記事と「縮900年表」から確認できる。武内宿禰の墓を室宮山古墳としても、室宮山古墳の年代の370年~389年と齟齬はない。

Z108.老司古墳.png葛城襲津彦の亡くなった年は明確でないが、『百済記』に書かれてあるように、382年(壬午)に新羅に派遣され、しばらくしてから密かに帰国し、石穴に入って亡くなった時期は、室宮山古墳の年代(370~389年)に近いことは確かである。しかし、天皇の命に背き密かに帰国した者が、葛城の地域で最も大きい室宮山古墳に葬られていることは考え難い。「51-5.葛城襲津彦は美女に籠絡された」に記したように、「ひそかに帰国し隠れていた」のは、朝鮮半島との窓口である筑紫であり、「石穴に入って死んだ」は、横穴式石室に葬られたと解釈して、私は、葛城襲津彦の墓は博多平野にある九州型横穴式石室を持つ老司古墳(古墳年代:385~395年)に比定している。


55-7.武内宿禰の本拠地は葛城の葛上郡 [55.武内宿禰は実在した]

Z109.葛城の大型古墳.png

葛城の地域は奈良盆地の西南部で、北は盆地を横切り河内平野を経て大阪湾に流れ込む大和川、東は大和川の支流で盆地南半の最も低いところを南北に流れる曽我川、西は大和と河内を隔てる二上山・葛城山・金剛山の山並みに囲まれた地域であり、律令時代の葛上郡・忍海郡・葛下郡である。葛上郡が南部、葛下郡が北部で、忍海郡は葛上郡と葛下郡を二つに分断する形で存在し、南北2km・東西7kmの特異な形の郡である。葛城氏の領域については二つの説がある。その一つは葛城地域全体とする説である。もう一つは葛上郡・忍海郡・葛下郡南部の一部とする葛城の南半分の地域である。葛城襲津彦が新羅から連れ帰った捕虜を住まわせた桑原・佐糜・高宮・忍海などの葛城の四っの邑。仁徳天皇の皇后となった葛城襲津彦の娘・磐之媛が仁徳天皇の浮気に耐えかねて、山城の筒城(綴喜)に宮室を造り移り住んだとき、奈良山を越え葛城を望んで詠んだ歌にある葛城高宮。玉田宿禰が逃げ込んだ葛城にあった武内宿禰の墓(室宮山古墳)。雄略天皇が葛城山で狩猟をされたときに出合った一言主神を祀る一言主神社。『日本書紀』に出てくる「葛城」の話は、どれも後者の葛城地域の南半分、現在の葛城市・御所市にある。

Z110.葛城大型古墳編年.png図Z109に葛城地域のおける大型古墳の分布を示しめしている。前述の葛城の地域の南半分にある大型古墳は、武内宿禰の墓とした室宮山古墳と、掖上鑵子・屋敷山古墳くらいで、他の大型古墳は馬見古墳群を中心とする葛城地域の北半分にある。古墳時代に葛城地域の北半分に大きな勢力を持つ豪族がいたことがわかる。図Z110は『ヤマト王権と葛城氏』(近つ飛鳥博物館)にある「葛城地域における大型古墳の編年」である。図の数字は、私が古墳の編年システムで導き出した年代である。島の山古墳の年代が大きく異なっているのは、埴輪型式が私の資料(遺跡ウォーカー)では3期となっているためである。私は室宮山古墳を武内宿禰の墓と比定している。室宮山古墳を中心として図Z110を見ると、葛城地域の北半分の勢力は武内宿禰以前の勢力であることが分る。大王(天皇)を頂点とする統一国家が誕生したのは仁徳天皇の時代であり、それを私は大和王権(古墳時代中期以降、5世紀以降)と表現している。それ以前は、大和国を盟主国とする連合国家でありヤマト王権(古墳時代前期、3世紀中頃から4世紀末)と表現している。室宮山古墳は丁度その境、4世紀末の時代に出来た古墳である。

『日本書紀』神武2年には「剣根という者を葛城国造に任じられた。」とある。ヤマト王権の時代に国造の制度は無かったであろうが、葛城国の王は
盟主国の大和国に臣下として仕えていたと思われ、国造と呼ばれる立場に近いものであったと考える。葛城地域の北半分である馬見古墳群を中心とする古墳で室宮山古墳よりも古い古墳は、ヤマト王権の時代に葛城の北半分を支配していた葛城国造の一族の古墳であろう。『新撰姓氏録』には、大和国の神別氏族に葛城忌寸があり、始祖は「高御魂命五世孫剣根命之後也」となっている。この氏族は天武12年(683年)にカバネが直から連となり、天武14年にカバネが連から忌寸となった氏族である。葛城直は欽明22年(561年)では掌客(外国の客の接待役)として登場しており、用明元年(586年)には葛城直磐村の娘・広子が用明天皇の妃となっている。葛城直は葛城国造の後裔であるが、その領地は葛城国造の時代より、縮小された領域、葛城の北半分の一部にあったと思われる。

Z111.大和の豪族.png図111は教科書『資料カラー歴史』に掲載されている「大和地方の豪族」の分布図である。図にある平群・葛城・蘇我・羽田・巨勢は武内宿禰の息子から出た豪族(氏族)である。武内宿禰の本拠地は葛城地域の南半分、正確には葛上郡であったと考える。忍海郡・葛下郡南部の一部を加えない理由は後述する。推古32年(624年)に、蘇我大臣馬子が推古天皇に「葛城縣はもともと臣(蘇我臣)の本居(本拠地)である。だからその縣にちなんで姓名としている。そこで永久にこの縣を賜って、臣の封縣としたいと思います。」と要求した。推古天皇は「自分の治政の間に、この縣を失ってしまうことがあっては、後代の天皇から『愚かな婦人が天下を治めたなめにその縣を滅ぼした』と言われるでしょう。」ときっぱり断っている。平安時代に藤原兼輔によって著わされた『聖徳太子伝暦』には、「蘇我葛木臣」という言葉が出てくる。馬子が「縣にちなんで姓名となす」と言っていることからすると、当時「蘇我葛木臣」と呼ばれていたのかも知れない。

葛城縣は葛城地域の南半分(葛上郡・忍海郡・葛下郡南部の一部)であり、その大部分(葛上郡)がもともと武内宿禰の本拠地であったとすると、武内宿禰の七人の息子の一人
蘇我石川宿禰を祖に仰ぐ、蘇我馬子の要求が理解できる。『新撰姓氏録』には蘇我氏の後裔の8氏族が記載されているが、その内4氏族の始祖は「武内宿祢五世孫稲目宿祢之後也」と表記している。皇極元年(642年)には、蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を建てて、八佾(やつら)の舞(8列64人の群舞)をしたとある。祖廟は葛上郡を本拠地とした蘇我氏の始祖・武内宿禰を思い建てたのである。

歴史学者の多くは、蘇我大臣馬子が「葛城縣はもともと臣の本居であるので、この縣を賜って臣の封縣としたい」と申し出たこと、蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を建て八佾の舞をしたこと、この二つの事例を以て、蘇我氏が葛城氏の流れをくむ氏族としている。こんな説がまかり通るのは、武内宿禰は伝説上の人物であるとしているからである。武内宿禰は実在し、その本拠地は葛城地域の南半分を占める葛上郡であったと考えれば、蘇我氏が葛城に拘った謎が氷解する。


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