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54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実 ブログトップ

54-1.天皇からカバネとウジを賜った [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

応神天皇以前のヤマト王権は大和国を盟主国とする連合国家であり、仁徳天皇の時代になって君主(天皇)を頂点とする統一国家が誕生した。律令国家誕生までの間を、私は大和王権と表現している。大和王権の政治体制は「氏(ウジ)(カバネ)制度」である。ウジとカバネの名称については、『日本書紀』の記述に負う所が多いにも関わらず、歴史学者は書紀には後世の潤色・加筆の可能性があるとして、史料としては使えないという態度を取っている。私は、書紀は時代考証をしていないため、後世の用語を用いる潤色があり、物語化するための加筆があるとは思うが、その根底には史実が書かれてあると信じている。ウジとカバネの問題についても、『日本書紀』の記述の中に史実を見つけてみたい。

Z80.カバネ付のウジ.png(カバネ)に関する書紀の記述を調べてみると、「賜姓」・「賜本姓」・「改本姓」の言葉が多く使われていることが分る。それらを表Z80にまとめた。表の「賜前」は天皇から「姓」を賜った人物・氏族の名前であり、「賜後」は賜った「姓」の名称である。賜った「姓」が氏族の名称である場合には「セイ」に丸を付け、賜った「姓」が地位や職掌(担う役目)である場合には「カバネ」に丸を付けている。表Z80を見ると大化改新前代(孝徳天皇より前)は、「姓」は「セイ」と「カバネ」の両方が多く、天皇からカバネ付のウジの称号を賜っており、天武天皇以後は、「姓」は「カバネ」だけであり、天皇から氏族が新たなカバネの称号を賜っていることが分る。

Z81.八色姓.png『日本書紀』天武13年(684年)の記事には、「諸氏の姓を改めて八色姓を作り、天下のすべての姓を一体とする。第一は真人、第二は朝臣、第三は宿禰、第四は忌寸、第五は道師、第六は臣、第七は連、第八は稲置」とある。これが八色姓(やくさのかばね)の詔である。この八色姓が制定されたとき、13の氏族が真人のカバネを賜り、52の氏族が朝臣を賜り、50の氏族が宿禰を賜り、11の氏族が忌寸を賜っている。その前年には52の氏族が連を賜っている。これら八色姓を賜った178氏族の元のカバネ(旧姓)が何であったのかということを調べたのが表Z81である。680年[天武10年]に飛鳥浄御原令の選定を開始したことからして、八色姓の制度も新しい律令国家体制を造る政策の一環であったのであろう。八色姓の詔が史実とするならば、八色姓の詔に出てくる旧姓の公・君・臣・連・直・首・造・史・吉士・縣主の10カバネは、天武朝以前に存在していたことは確かである。

Z82.ウジの本拠地.png『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男)では、「6世紀の倭王権の中枢部を構成したのは、臣と連のカバネをもつウジであったが、両者は対照的な性格を持っていた。前者(臣)は蘇我・和珥・平群・巨勢・波多・安倍の諸氏のように、本拠地のヤマトの地名をウジ名とする氏族が主体を占めている。その多くはもともと倭王権の同盟の構成メンバーであったと見られている。後者(連)としては大伴・物部・中臣・土師などのウジが主要なものであるが、これらのウジの呼称は、おおむね諸氏の王権における職務によっている。大伴氏は「トモ(伴)の大なるもの」という意味で、一般の伴造やトモを総括する地位にあったことから呼ばれ、物部氏は、モノノフ(武人)・モノノグ(武器)に由来するとみられ、王権の軍事を担当するところから生まれた呼称で、中臣氏は「神と人の中(仲)をとりもつ臣」の意味で、職掌である祭祀に由来する。土師氏はハニシ、本来埴土(はにつち)をつかった埴輪作りの技術者で、そこからさらに喪礼や陵墓の管理にも携わるようになったウジである。これらの連姓氏族は、はやくから大王家に臣属し、大王の手足となって職務を遂行してきた氏族と考えられる。」と記載し、図Z82を掲げている。

『大王から天皇へ』ではウジの誕生を6世紀前半としている。また、氏姓制度の成立は6世紀からと言うのが通説である。6世紀の前半といえば、書紀の編年からすると継体天皇の時代からということになる。私は書紀に記載された「賜姓」や「改本姓」の用語が使われた記述は、史実が書かれていると考えている。表Z80をみると、ウジやカバネは継体天皇より前の時代から存在したように思える。これらについて史実を探してみたい。なお、『日本書紀』に記載された年号は全て、表Z83に示す「縮900年表」により、西暦に変換している。なお、宣化天皇以降については、『日本書紀』の編年も、「縮900年表」の編年も同じである。

Z83.縮年表西暦変換表.png

 


54-2.氏姓制度は雄略天皇の時代に出来上がった [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

ヤマト王権(応神天皇以前)は連合国家であり、大和王権(仁徳天皇以後)は君主(天皇)を頂点とする統一国家である。倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制は「氏制度」である。氏姓制度と言っても「ウジとカバネ」制度と「ウジのカバネ」制度とは大きく違う。後者は天武13年の八色姓(やくさのかばね)の詔であり、既に存在していた「ウジのカバネ」について、新たなカバネを設け身分秩序を再構築したものであった。前者の「ウジとカバネ」がどのように成立してきたかを明らかにしてみたい。

天武13年(684年)の八色姓制度で第一位の真人の旧姓は公(13氏族)である。公のカバネを持つ氏族の多くは、継体天皇と宣化天皇の皇子の後裔である。第二位の朝臣の旧姓は君(11)・臣(39)・連(2)、第三位の宿禰の旧姓は臣(1)・連(49)であった。倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制で上位のカバネと目されていた君・臣・連のカバネをもった氏族の内、『日本書紀』の欽明朝以前にウジ・カバネを冠した氏族について表84に示した。緑色の氏族は八色姓で朝臣を賜った氏族、青色は宿禰を賜った氏族である。●は「ウジ+カバネ+名前」、■は「ウジ+カバネ」、
は「名前+カバネ」、は「ウジ」のみが記載されたものである。はその氏族の先祖(遠祖・始祖・祖)が記載されている天皇紀で、はその氏族の先祖が確認できる天皇紀を示している。なお、君・臣・連のカバネを持つ氏族であっても、『日本書紀』に一代の天皇紀にしか記載のない氏族は省いている。

Z84.ウジ・カバネと氏族.png


『日本書紀』允恭4年(447年)の記事には、「上古の治政では姓名の錯はなかった。即位から4年になるが、上下相争って人民は安穏でない。あるいは
誤って自分の姓を失い、あるいは高い氏を自認している。治政の治まらないのはこのためである。どうして、この錯をたださずにいられようか。」、「群卿・百官および諸国の国造たち皆それぞれ、あるいは帝皇の裔だとか、あるいは天降の裔と言う。永い歳月を経て、一氏が繁栄して万姓となり、その真偽を確かめるのは困難である。諸々の氏姓の人どもは、沐浴斎戒して盟神探湯をせよ。」、「諸人はそれぞれ木綿のたすき着けて、釜に赴いて探湯をした。真実であるものは何事もなく、真実でないものは皆傷ついた。これによって、故意に錯の者はおじ気づいて進むことが出来なかった。これ以後、氏姓は自然に定まって、詐(偽)る人はなくなった。」とある。

天武13年の八色姓の制度より前の天皇紀に記載された「賜姓」や「改本姓」を見ると、「姓」とはウジとカバネの合わさったものであり、「姓」を「氏姓」と解釈して読む。「錯」と「詐」は同じで「偽り」と読んだ。黄色の部分の原文は「誤失己姓」で「誤失己姓」として「誤って自分の姓を失う」と多くの解説書が現代語訳しているが、これでは探湯
(くかたち)を行った真意が通じない。私は「誤己姓」として「自分の姓の誤りを失う」、すなわち「自分の姓が間違っているのが分からなくなる」と解釈した。

允恭天皇より以前について見ると、「ウジとカバネ」を持たない先祖が居たことを表す
の記号が多いことが目立つ。しかし、「ウジとカバネ」が全く無かったかと言えば、そうでもない。「連」のカバネを持つ氏族は、垂仁天皇以後「ウジとカバネ」を持っている。「臣」のカバネを持つ氏族は、伝説上の人物とされる武内宿禰と膳臣を別にすると、「ウジ」を持つが「カバネ」は持っていない。「君」のカバネを持つ氏族は、諸縣君以外は允恭天皇より以前には「ウジとカバネ」は無い。

表84を見ると、允恭天皇以後、特に雄略天皇以後は●と■がほとんどを占めている。また、雄略紀には臣・連・伴造・国造の用語が出てくる。伴造
(とものみやつこ)の用語が出てくるのは雄略紀が初めてである。これは雄略天皇の時代に、有力豪族に「ウジとカバネ」の称号を与える氏姓制度が出来上がっていたことを示している。雄略朝の年代は「縮900年表」によれば464~486年である。氏姓制度の成立は6世紀からというのが通説であるが、氏姓制度の定義にもよるが、氏姓制度は5世紀後半に出来上がっていたと思われる。


54-3.土師氏を知れば臣・連の起源が分かる [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制で最も重要な役割を果たしたのは、臣(おみ)のカバネをもった蘇我氏・和珥氏・平群氏・巨勢氏と連(むらじ)のカバネを持った大伴氏・物部氏・中臣氏などの氏族である。臣のカバネを持つ氏族が連のカバネを持つことは無く、またその逆もない。しかし、土師(土部)氏は連のカバネを持つ氏族であるが、臣のカバネを持った時代があったのである。土師氏を知ることにより、臣・連の意味する所やその起源が分かると考える。

土師(土部)氏が登場するのは、『日本書紀』垂仁32年の記事である。皇后日葉酢媛が亡くなられたとき、野見宿禰は出雲国の土部を使い、埴輪を造って陵墓に立て、殉死の代りとした。天皇は大そうお喜びになられ、この功績により野見宿禰は土部の職掌に任じられ、本姓を改めて土部臣を賜っている。そして、「これが、土部連らが天皇の喪葬を掌ることになった縁であり、野見宿禰は土部連らの始祖である。」と結んでいる。

そもそも、野見宿禰が書紀に登場するのは、相撲の起源となった垂仁7年の記事である。当麻邑に当麻蹶速という力自慢の者がいて「四方を探しても、私に匹敵する者はいないだろう。」と豪語していた。そこで、出雲国の野見宿禰という勇士と蹶速を取り組ませようということになった。野見宿禰が召し出されて、出雲からやって来て、当麻蹶速と相撲をとった。野見宿禰は彼の腰を踏み折って殺し勝ったので、当麻蹶速の土地を賜った。野見宿禰は、そのまま留まって朝廷にお仕えしたという話である。野見宿禰は出雲国の家臣から、ヤマト王権の臣下へと鞍替えしたのである。

Z82.ウジの本拠地.png野見宿禰が「土部」というウジを賜ったのは、土部の職掌に任じられたからであり、「臣」というカバネを賜ったのは、朝廷に仕える臣下となったからであろう。ヤマト王権時代の「臣」は王権に直接仕えるものに与えられた尊称で、カバネ「臣」の起源となるものと考える。允恭紀以前にウジあるいはウジと臣のカバネを持つ氏族、穂積臣・阿倍臣・葛城臣・平群臣・蘇我臣・膳臣の本拠地は、図Z82に示すように、全て大和国(奈良盆地)にあり、ヤマト王権に直接仕えていたことが分る。

仁徳53年(416年)の記事には、「白鳥陵の陵守どもを土師連らに授けられた。」とある。垂仁32年(291年)の記事と比較すると、ウジが「土部」から「土師」に変わっている。どちらも「はじ」と読んでいるが、本来「はじ」と呼ばれていたのは「土師」で、「はにし」が転訛したのであろう。「土部」は「はにべ」と呼ばれていたと考える。埴輪作りの技術者集団であった土部
(はにべ)氏は、王権における重要な役割である天皇の喪葬を掌り、陵墓の管理にも携わる氏族として、ウジの呼称を土師(はにし)氏と格上げされたと想像する。

ウジの呼称が土部
(はにべ)から土師(はにし)に代わると同時に、カバネも臣から連に代わっている。土師氏の職務からして連のカバネが相応しいが、仁徳天皇の時代には、天皇からカバネ付のウジを賜るシステムはあったが、職位を賜るカバネ制度はなかったと考える。それではどうして、土師氏のカバネは臣から連に代わったのであろうか。『日本書紀』の神代には、土師連の先祖は天照大神の第2子である天穂日命としている。天穂日命は出雲平定のため派遣されるが、大己貴神(大国主命)におもねって高天原に復命しなかった神で、出雲臣の先祖である。出雲国造は代替わりのたびに都に出向いて、天皇の前で「出雲国造 神賀詞」を奏上した。この祝詞の中に「出雲臣達の遠祖天穂日命」と出ている。この儀式は『日本書紀』編纂より前の、霊亀2年(716年)から始まっており、出雲臣の先祖が天穂日命であることは確かであろう。一方、当麻蹶速の相撲の相手として出雲より召し出された野見宿禰が、天照大神の子の天穂日命の末裔となっているのは、まゆつばものである。

允恭4年(447年)の探湯
(くかたち)の記事には、「群卿・百官および諸国の国造たち皆それぞれ、帝皇(天孫)の末裔だとか、あるいは天降りし者(天神)の末裔と言う。・・・その真偽を確かめるのは困難である。諸々の氏姓の人どもは、沐浴斎戒して盟神探湯をせよ。」とある。土部氏は始祖の野見宿禰が出雲出身であることから、自ら天穂日命の末裔と名乗ったのであろう。土部氏が、王権における重要な役割である、天皇の喪葬を掌り、陵墓の管理にも携わる氏族になったことから、その自称が認められたと思える。物部連は天磐船に乗って大和に天降った饒速日命の末裔であり、中臣連は瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に随伴した天児屋命の末裔であり、大伴連もまた天孫降臨に随伴した天忍日命の末裔である。ヤマト王権の時代の「連は、「天神・天孫に連なる」氏族に与えられた尊称で、カバネ「連」の起源になるものと考える。


54-4.野見宿禰は形象埴輪を開発した [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

野見宿禰が殉死の代りとして、人や馬および種々の物の形を造って陵墓に立てたとある、土師氏誕生の話は史実であろうか。垂仁32年は、「縮900年表」では291年にあたる。「51-1.考古学から見た「縮900年表」の信頼性」で示したように、古墳の形態・埋葬施設・副葬品の70項目・102品目の相互関係を調べ、その編年表を作成している。この編年表を適用して、2300基余りの古墳をフルイ別けしたとき、矛盾が生じたのは11基のみであったことから、その絶対年の正確さは別にして、70項目・102品目の相互関係は正確であると自負している。

この編年表では、円筒埴輪・朝顔形埴輪が280年~、形象埴輪の器財埴輪・動物埴輪が290年~、人物・馬埴輪は400年~、と編年している。野見宿禰が埴輪を造って陵墓に立てた年代、291年[垂仁32年]と、人物・馬埴輪の年代は大きく異なるが、形象埴輪の器財埴輪・動物埴輪の登場とは一致する。野見宿禰が種々の物の形の埴輪(形象埴輪)を製作したというのは史実であろうが、殉死の代りとか人や馬の埴輪というのは、書紀が物語化するための加筆であろう。

Z85.形象埴輪.png


埴輪の前段階の特殊器台は260~289年と編年しているが、特殊器台発祥の地は吉備であり、吉備には弥生墳丘墓に特殊器台が備えられている。出雲にある弥生後期の西谷2号・3号・4号四隅突出型墳丘墓からは、吉備の特殊器台が出土している。出雲では山陰型特殊器台が、吉備の特殊器台に引き続き、弥生後期から古墳時代初期まで製作されている。これらからすると、弥生後期から古墳時代初期に出雲に埴輪の前段階の特殊器台を製作する人々がいたことは確かで、野見宿禰が出雲の土部百人を呼んで埴輪を作ったというのも史実と考えられる。

仁徳天皇陵古墳がある堺市の百舌鳥古墳群のある地区には、土師町という地名が現在でも残っており、応神天皇陵古墳のある古市古墳群のある藤井寺市には土師という地名は無いが、土師の里遺跡と命名された、古市古墳群の築造開始と軌を一にして成立した、古墳造りに関わった遺跡がある。垂仁天皇の時代から仁徳天皇の時代にかけては古墳時代の最盛期であり、土師氏はヤマト王権にとっては重要な役目を担っていた氏族であった。なお、土師氏は天武13年の八色姓で宿禰の姓を賜り、土師連から土師宿禰となっている。


54-5.稲荷山鉄剣銘は『日本書紀』を蘇らせた [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

1978年、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣に、金象嵌された115文字が刻まれていることが発見された。この銘文には「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」の名があり、熊本県の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄剣銘にも、「治天下獲□□□鹵大王」の文字が刻まれており、獲加多支鹵大王は雄略(紀:幼部、記:若建、ワカタケル)天皇を指すことが分った。雄略天皇は宋書倭国伝の478年に宋に朝貢した倭王武に比定されており、金象嵌銘文にある「辛亥の年」は471年と解明された。これらの発見により、『日本書紀』を歴史資料として扱うことを認めなかった歴史学者も、雄略天皇以後についてはその認識が変わってきた。

Z86.稲荷山鉄剣.png稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌銘文115文字には、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」・「辛亥の年」の文字以外にも、『日本書紀』が記載した歴史を証明する要素が刻まれている。埼玉県教育委員会編集の『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』にある、115文字の訓読を下記に示す。なお、( )にある別の読み方は省いている。
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」

「上祖、名はオホヒコ」の「オホヒコ」は、書紀で孝元天皇の皇子であり、崇神天皇の時代に四道将軍として北陸に遣わされた「大彦命」と比定されている。孝元紀では、大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閇臣・伊賀臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造ら七族の始祖とされている。その内、膳臣・阿閇臣・狭狭城山君は雄略紀に登場しており、その真偽は別として、雄略天皇の時代に大彦命を始祖・上祖とする氏族がいたことは間違いのない史実であろう。

「タカリのスクネ(足尼)」の「足尼」は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵の天寿国繍帳(621年頃)や群馬県高崎市の山上碑(681年建立)にある、「宿禰」の古い表記法であることが知られている。稲荷鉄剣の金象嵌銘文が発見される以前には、歴史学者は、「宿禰」は天武13年の八色姓の一つであり、大化前代にみえる「宿禰」は、『日本書紀』の後世の用語を用いる潤色であると考えられていた。書紀には雄略天皇より前には27名、雄略紀では7名の宿禰の称号を持つ人物が登場している。一番初めに登場する人物が伝説上の武内宿禰であり、その影響もあって宿禰の称号が実在するとは考えられなかったのであろう。3代・4代・5代に付けられた称号「ワケ(獲居)」は「別」と解釈されている。書紀には「別」の称号を冠した天皇や皇子が多数記載されているが、その他にも「〇〇別」と記載された人物が雄略天皇より前には11名、雄略紀では2名登場している。書紀に書かれた宿禰や別の称号を持つ人物は、実在の可能性が高いと考えるべきかも知れない。稲荷山鉄剣銘が『日本書紀』を歴史資料として蘇らせたことの意義は大きい。


54-6.ヲワケ臣は舎人として雄略天皇に仕えた [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

稲荷山鉄剣を作らせ、8代の系譜を金象嵌させたのは、8代目の「ヲワケの臣」である。ヲワケ臣は、ワカタケル大王がシキの宮にいて天下を治めた時に、杖刀人の首として仕えている。書紀では雄略天皇の宮は泊瀬朝倉宮、鉄剣銘ではシキの宮と違っている。朝倉宮の有力候補地とされる脇本遺跡から、桜井市金屋にある欽明天皇の磯城嶋金刺宮の伝承地まで1km、崇神天皇の磯城瑞籬宮の伝承地までは2kmと離れてなく、その違いを云々するまでもないだろう。ヲワケ臣は、杖刀人(刀を杖つく人:護衛隊)の首(首長)として、ワタカケル大王に仕えている。江田船山古墳出土の銀象嵌鉄剣銘には、「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人 名无利弖」とあり、无利弖は典曹人(役所の文章をつかさどる人:文官)として、ワタカケル大王に仕えている。

『日本書紀』には杖刀人・典曹人の言葉は出て来ないが、雄略天皇の時代には、地方の豪族あるいはその子弟が、都まで出向いて王権(天皇)に直接仕えるシステムがあったのであろう。『日本書紀』雄略7年8月の記事に「官者の吉備弓削部虚空は、急
(いとま)を取り家に帰った。吉備下臣前津屋(ある本に、国造吉備臣山というとある)が、虚空を留めて使い、何ヶ月経っても京都に上ることを許さなかった。」とある。官者は舎人(とねり)、天皇に仕え宮廷の警備や雑用に従事していた者と解釈されている。『日本書紀』を「舎人」の用語で検索すると、仁徳紀が3件、允恭紀が1件、雄略紀には12件出てくる。地方から都に出て天皇に仕える制度が雄略天皇の時代に始まったと考えられる。杖刀人・典曹人は舎人であったとすれば、『日本書紀』、稲荷山鉄剣金象嵌銘文、江田船山鉄剣銀象嵌銘文が結び付いてくる。

稲荷山鉄剣を作らせ、8代の系譜を金象嵌させた「ヲワケの臣」には、「臣」のカバネが付いているが、ウジの名は冠していない。書紀には個人名として「名前+臣」の表現もしばしば使われている。護衛隊の首長として雄略天皇に仕えていたヲワケは、臣の呼称を付けて呼ばれていたのであって、カバネとしての臣の地位を得たものではないと考える。雄略紀には臣のカバネを持つ13の氏族が登場するが、オワケ臣が雄略天皇(464~484年)に仕えたのは、471年(辛亥の年)まで雄略朝の初め頃であり、有力豪族にウジとカバネの称号を与える制度は、まだ確立されていなかったからであろう。

Z87.埼玉古墳群.png『日本書紀』安閑元年(534年)の記事に「武蔵国造の笠原直使主(おみ)が同族の小杵(おき)が国造の地位を争うった。小杵が上毛野君子熊に助けを求めて、使主を殺そうとしたので、使主は京にのぼって事情を報告した。朝廷は裁断を下して使主を国造とし、小杵を殺した。国造使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所の屯倉を設けたてまつった。」とある。行田市の埼玉古墳群には前方後円墳8基と1基の円墳1基の大型古墳がある。奈良文化財研究所の城倉正祥氏は、首長墓から出土した埴輪の生産地をすべて把握し、生産地の窯の物理的前後関係から編年を確立して、埼玉古墳群における古墳の変遷を明らかにしている。
  稲荷山古墳→丸墓山古墳→二子山古墳→瓦塚古墳→奥の山古墳→
  愛宕山古墳→将軍山古墳→鉄砲山古墳→中の山古墳

これらの古墳の中で、最も大きな古墳が二子山古墳である。武蔵の国造笠原直使主を二子山古墳の被葬者とすれば、ヲワケ臣の孫の時代になって、一族は始めて「笹原」のウジ名と「直」のカバネを得たとすると、話は合ってくる。また、国造笠原直使主の名前の使主(おみ)と祖父のヲワケ臣(おみ)が一致するところも繋がりを感じる。笠原直使主が京に赴き、朝廷に事の事情を訴えることが出来たのも、一族が代々護衛隊の首長として天皇に仕えてきたからである。使主が窮状を訴えたのは、護衛隊の取りまとめを行っていた大伴大連金村であった。大伴金村は継体天皇の時代、任那の4県を百済に割譲を勧めたこともあって、その失策を取り戻すべく、武蔵国の4屯倉を朝廷に差出すことを条件に、天皇に訴えを取り次いだのであろう。

埼玉古墳群の被葬者は、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持った武蔵国造一族と考えられるが、『日本書紀』の神代には、武蔵国造の先祖は出雲臣と同祖の天穂命としているのに対し、稲荷山鉄剣銘では大彦命としている点が矛盾している。それはさておき、115文字が金象嵌された稲荷山鉄剣は、その歴史的・学術的価値から国宝に指定されている。「世紀の大発見」と言われる金象嵌の115文字が明らかにしたものは、それまでの歴史学者がとなえていた歴史観ではなく、『日本書紀』に史実が書かれているということである。


54-7.連のカバネを冠した氏族の元祖は物部氏 [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

ヤマト王権の時代のカバネの連は、「天神・天孫に連なる」氏族に与えられた尊称であった。物部連は天磐船に乗って大和に天降った饒速日命の後裔、大伴連は天孫降臨に随伴した天忍日命の後裔で、中臣連もまた瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に随伴した天児屋命の後裔である。土部氏は天照大神の子で出雲に天降りした天穂日命の後裔と名乗っている。そして、連のカバネを冠した氏族は、それぞれ職掌を担い王権と直接の関わりを持っていた。物部氏は王権の軍事を担当し、大伴氏は宮廷を警護する護衛の役割を担い、中臣氏は神事・祭祀をつかさどり、土師氏は古墳造営や葬送儀礼に関わった。『日本書紀』に登場する物部氏・大伴氏・中臣氏・土師氏について調べ、表Z88の表にした。表から見ると垂仁天皇の時代に、物部氏と土師氏の両氏が連のカバネを冠したかのように見受けられるが、「54-3.土師氏を知れば臣・連の起源が分かる」で示したように、土師(土部)氏が賜ったのは「臣」であり、連のカバネを冠した氏族の元祖は物部氏である。

Z88.連の元祖は物部氏.png


ウジ名としての物部については、「部」が付いていることから、「部」の制度が成立した後に物部氏が誕生したのであり、物部氏の成立は部民制度が確立した五世紀中葉から後半のことであるとする直木孝次郎氏や、物部氏はモノノフ(武人)・モノノグ(武器)に由来するとみられ、王権の軍事を担当するところから生まれた呼称とする熊谷公男氏の見解がある。私は物部氏の原点は、崇神7年(257年)の記事に「物部連の祖である伊香色雄を神班物者と為す。」にあると考える。「神班物者」とは、『日本古典文学大系 日本書紀上』(岩波書店)では、「神に捧げる物をわかつ人」とある。「班」も「部」も「わける」という意味があり、「神班物者」は「神部物者」とも言え、物部氏の起源は「神に捧げる物をわかつ人」から来ていることが分る。

崇神7年
の記事には、「伊香色雄に命じて、物部八十手所(平瓮)を以て、祭神之物を作る。」と「物部」が登場する。『古事記』には、「伊迦賀色許男命に仰せして、天之八十毘羅訶を作る。」とあり、『日本古典文学大系 日本書紀上』では「手所」は「平瓮」の誤写であろうとしている。この「物部」の「物」は「祭神之物」を示し、「部」は「わける」である。「物部八十平瓮」とは、「神に捧げる物をわかつ多くの平瓮」である。その平瓮(平皿)を伊香色雄に作らせたことになる。

垂仁26年
(285年)の記事には、「天皇は物部十千根大連に詔して、『たびたび使者を出雲に遣わして、その国の神宝を調べさせたが、はっきりと申す者もいない。お前が出雲に行って調べてきなさい。』といわれた。物部十千根大連は神宝をよく調べてはっきりと報告した。それで神宝のことを掌らされた。」とある。また、垂仁87年(299年)の記事には、「物部十千根大連が石上神宮の神宝を大中姫より授けられ治めることになった。物部連が今に至るまで、石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。」とある。垂仁26年・87年の記事で、物部十千根は大連と称されている。大連は大臣と並んで王権の中枢で執政を担った役職である。物部十千根は、天皇を補佐し国政に携わる大連の役職を任じられたのではなく、神宝を掌る職務につくことで「連」の姓を始めて賜った物部氏の氏祖(物部氏の始祖は饒速日命)である。物部氏が後世多くの「大連」を輩出していることから、尊称として『日本書紀』の述作者が「大連」と加筆したのであろう。

石上神宮の近くに布留遺跡
(天理教関連施設内)があり、物部氏の本拠地だとされている。この布留遺跡から出土した土器は、土師器の中でも最も古い様相を呈するものがあり、「布留式土器」と命名されている。平成21年5月、国立歴史民俗博物館の研究グループは、大和Ⅴ・Ⅵ式土器、庄内0・1・3式土器、布留0・1・2式土器に付着した炭化物の炭素14年代値を測定し、日本産樹木の較正年代曲線上に、土器の相対年代順に炭素14年代値を配置することによって、箸墓古墳の築造(布留0式)は240~260年頃と発表した。この年代感は、従来の年代感と違うと言う事で、考古学会で大きな波紋を引き起こしたが、私は考古学が行って来た緻密な土器の相対年代と、科学的手法の絶対年代がマッチングした、素晴らしい成果だと思っている。『日本書紀』には崇神10年(260年)に箸墓が造られたと記載している。崇神7年(257年)に、物部連の祖である伊香色雄が作った平瓮は、布留0式土器という事になる。『日本書紀』と「縮900年表」、そして「炭化物の炭素14年代値」のマッチングがとれている。

Z89.物部氏の系譜.png『先代旧事本紀』は平安時代の前期に成立し、物部氏の氏族伝承を
中心に書かれている。この本にある物部氏の直系の系譜と、『日本
書紀』に書かれた物部氏とについて、伊香色雄命から物部氏の滅亡
(587年に物部守屋大連が蘇我馬子大臣に殺された)までを比較し
表Z89に示した。「年号」は、その人物が初めて書紀に登場する
年号である。崇神7年(257年)に登場する伊香色雄から、敏達
元年(572年)までの315年間で、8代の代替わりがありその平均は39年間である。代替わりの期間が少し長いように思われるが、ちなみに蘇我氏については、蘇我稲目大臣(宣化元年:536年)、蘇我馬子大臣(敏達元年:572年)、蘇我蝦夷大臣(推古36年:628年)、蘇我入鹿
(皇極元年:642年)で、106年を3代の代替わりで平均35年間である。代替わりの期間が少し長いのは、古代の氏族は多くの側室を持ち、その子の中で優秀なものを跡継ぎにしたためではないかと考える。物部氏の系譜から見ても縮900年表の編年は妥当といえる。



 


54-8.欽明朝以前に連のカバネを冠した氏族 [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

ヤマト王権の時代のカバネの連は、「天神・天孫に連なる」氏族に与えられた尊称であったが、大和王権の時代になって、連の呼称は職掌・職務を担い王権に貢献した豪族、伴造・部首に与えられたカバネとなった。表Z90に欽明朝以前に連のカバネを冠した氏族を示す。

Z90.連を冠した氏族.png


Z91.茨田堤.png仁徳紀(381~431年)に登場する茨田衫子は、茨田堤を築くことに貢献した氏族である。仁徳11年の記事は「宮(灘波高津宮)の北の野原を掘って、南の水(河内湖)を引いて西の海(大阪湾)に流した。それで川を名付けて堀江(大川)といった。北の川(淀川)の洪水を防ごうとして茨田堤を築いた。この時、築いてもすぐに壊れて、防ぐのが難しい切れ目が二ヶ所あった。あるとき天皇は夢で武蔵の人・強頸と河内の人・茨田連衫子を水神に捧げ祭るならば必ず防ぐことができるとの神のお告げをご覧になった。そこで二人を探し出し、難所の工事にあたらせた。一ヶ所は強頸が水に溺れて亡くなることで完成し、もう一ヶ所は衫子の知恵によって完成することが出来た。」とある。茨田堤が完成した2年後には、茨田屯倉ができており、茨田堤は大和王権に大きな利益をもたらせたのであろう。夢の中に「茨田連衫子」が出た話は物語化されたものであろうが、河内の人・衫子は茨田堤を完成させた功績で、茨田連のウジとカバネを賜ったのが史実なのであろう。茨田氏は天武13年の八色姓で宿禰の姓を賜り、茨田連から茨田宿禰となっている。大阪府門真市宮野町には、「茨田の堤跡」として大阪府の史跡に指定されている、高さ1メートル、長さ数十メートルの土塁が残っている。

Z92.脇本遺跡.png雄略紀(463~486年)に登場する少子部雷については、次の逸話が記載されている。雄略6年に雄略天皇は后妃に養蚕を勧めようと思われ、蜾蠃(すがる)に蚕()を集めることを命ぜられた。蜾蠃は聞き間違えて嬰児()を集めて大笑いされ、その養育を申し付けられ、少子部連という姓(かばね)を賜ったとある。また、雄略7年に少子部連蜾蠃は、三諸山の神の姿を見たいとの天皇の仰せに従って、三諸山に登り大蛇を捕え天皇にお見せした。大蛇が雷音を轟かし目を輝かしたので、天皇は目をおおってご覧にならず、大蛇を山に解き放たされた。そこで、蜾蠃は雷(いかずち)の名を賜っている。

雄略6年と7年の記事は、名前からくる説話であるが、
(小子)部雷は『新撰姓氏録』の山城国諸蕃の秦忌寸の記事に登場する。「雄略天皇の御世、秦酒公は却略を被り十分の一となった秦民を集めて欲しいと、天皇に請願した。天皇の命により、小子部雷は大隅阿多隼人らを率いて捜査し秦民を集めた。天皇は集めた秦民の九十二部、一万八千六百七十人を酒に賜わった。酒は秦民を率いて養蚕し、絹織物を織らせ、貢ぎ物として朝廷に山の如く積み上げた。天皇はお慶びになって酒を御寵愛になり、禹都万佐(ウツマサ)という号を賜わった。」とある。

この秦酒公の話は、『日本書紀』に雄略15年に「秦民を臣・連に分散して、秦造には委ねなかつた。これにより、秦造酒はたいそう気に病みながら天皇に仕えていた。天皇は秦造酒を寵愛されて、詔して秦民を集め、秦酒公に賜った。そこで公は多くの勝(村主)を率いて、庸・調の絹・縑(上質の絹)を奉献し、朝廷にたくさん積み上げた。そこで姓をお与えになり禹豆麻佐という。」とある。秦民を秦造には委ねず臣・連に分散したとする政策は、秦氏側からみると「秦民の却略(略奪)」であり、雄略15年と『新撰姓氏録』の記事は一致する。『新撰姓氏録』の山城国諸蕃の秦忌寸の記事が伝承とするならば、雄略15年の記事は史実となり、臣・連が存在し、
子部雷も子部連雷として実在したと考える。少子部氏は天武13年の八色姓で宿禰の姓を賜り、少子部連から少子部宿禰となっている。

顕宗紀(492~494年)に記された、山部
誕生の経緯は次の通りである。弘計(顕宗天皇)と億計(仁賢天皇)は、父の市辺押磐皇子(履中天皇の長子)が雄略天皇に殺され、難を逃れて明石の縮見屯倉の首である忍海造細目に、身分を隠して仕えていた。清寧2年、大嘗祭に奉る供物の徴収で播磨に遣わされた伊与来目部小楯は、忍海造細目の新宅で、弘計と億計を見つけた。身分をあかされた小楯は、粗末な宮を立てて仮の住まいとし、早馬を立てて奏上した。跡継ぎのなかった清寧天皇は、弘計と億計を皇子として迎えられた。

清寧天皇が崩御され、弘計が顕宗天皇として即位すると、播磨国司来目部小楯は、その功績により、山官を任じられ、山部連の氏姓を賜り、吉備臣を副官とし、山守部を民とした。なお、吉備臣を副官としたのは、反乱に加担しようとした懲罰の意味があり、連が臣の上位という意味ではない。
山部氏は天武13年の八色姓で宿禰の姓を賜り、山部連から山部宿禰となっている。茨田連・少子部連・山部連の三氏からみても、ウジとカバネを天皇から賜ることが、継体天皇(514~534年)以前から行われていたことを示している。


54-9.出雲出土の大刀銘「額田部臣」を解く [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

Z93.額田寺伽藍並条里図.png

奈良県大和郡山市額田部寺町にある額安寺(額田寺)には、奈良時代の伽藍や寺領の景観を描いた、「大和国額田寺伽藍並条里図」が伝わっており、現在国宝となっている。額田寺はこの地域を本拠地とした額田部氏の氏寺であった。「伽藍並条里図」本図には多くの墓が描かれてあり、「船墓 額田部宿祢先祖」と注記されているものもある。「舟墓」の絵は明らかに前方後円墳の形をしており、額田部町北町に舟墓古墳として現存している。「伽藍並条里図」には、額田部町南町にある額田部狐塚古墳も描かれている。この古墳からは、画文帯二神二獣鏡・馬具・挂甲・銀環・須恵器が出土し、古墳後期・6世紀中頃の古墳とされている。朝顔形埴輪の型式がⅣ式であること、横穴式石室ではないことから6世紀中頃と比定するのには違和感を覚え、古墳年代比定のシステムを使って年代を調べた。すると額田部狐塚古墳は、
朝顔形埴輪Ⅳ式(400~479
)と銀環(370~399,470~
の組合せにより、古墳年代は460~479年と出た。

平安時代初期(弘仁
年:815年)に編纂された『新撰姓氏録』には、大和国の額田部河田連の記事には、「允恭天皇の御世。額田馬を献ずる。天皇は『この馬の額(ひたい)は田町の如し』とおおせになり、よって額田連の姓を賜る也」とある。同様の話が左京の額田部湯坐(ゆえ)連の記事にも、「允恭天皇の御世。薩摩国に遣わされ、隼人を平らぐ。復奏の日に御馬一匹を献ずる。額(ひたい)に町形の廻毛あり。天皇これを嘉こび、額田部の姓を賜る也。」とある。額田部河田連の記事は「額田連」、額田部湯坐連の記事は「額田部」、両方合わせれば「額田部連」である。允恭天皇は443年と451年に宋に貢献した倭王済に比定される天皇である。「縮900年表」によれば、允恭天皇の治政は442年から460年である。これらより、額田部狐塚古墳(460~479年)の被葬者は、允恭天皇から額田部連の姓を賜った、額田部河田連の先祖ではないかと考える。

『日本書紀』神代には「天津彦根は額田部等の遠祖なり。」と額田部氏の名が出てくる。確かに『新撰姓氏録』の額田部河田連・額田部湯坐連の先祖は天津彦根となっている。一方、応神天皇の御子に額田大中彦皇子がいる。額田大中彦皇子は仁徳天皇と異母兄弟で、それも母が姉妹という血の濃いい関係にある。額田大中彦皇子と額田部氏とは、繋がりがあるように思える。仁徳7年の記事に「大兄去来穂別皇子(長子:履中天皇)の為に壬生部を定める。」とある。壬生部とは氏族の名でなく、皇子女の養育のために置かれた部の総称であり、額田部は額田大中彦皇子の養育のために置かれた部と考える。額田部湯坐連の「湯坐
(ゆえ)」には、貴人の養育者との意味もあることからも、それ額田部氏が皇子の養育をしたことが伺える。『新撰姓氏録』にある、允恭天皇から額田部連の姓を賜った話は、額田部の長が氏族として認められ、額田部のウジと連のカバネを賜った話であり、馬の額が田の字の廻毛があったというのは作り話であろう。

『日本書紀』推古前紀には「豊御食炊屋姫
(推古)天皇は、天國排開廣庭(欽明)天皇の皇女で、橘豊日(用明)天皇と同母妹である。幼少の頃は額田部皇女と申し上げた。御年十八の時に、敏達天皇の皇后となられた。」とある。推古天皇の養育、あるいは養育費用を額田部氏が担ったと考えられる。

Z94.岡田山1号墳.png松江市大草町に島根県立の八雲立つ風土記の丘資料館がある。風土記の丘には7基の古墳があり、一番大きな岡田山1号墳は、横穴式石室のある墳長24mの前方後方墳である。石室内にあった家形石棺からは「長宜子孫」の銘を有する内行花文鏡・環頭大刀・円頭大刀・圭頭大刀・銀環・金銅丸玉・轡・鞍金具・雲珠・辻金具・鈴・須恵器などが出土し、6世紀後半の古墳と考えられている。1983年に円頭大刀の保存処理を依頼されていた奈良市の元興寺文化財研究所が刀身部をX線調査したところ、「各田卩臣」(額田部臣)を含む12文字が
銀象嵌されていることが判明した。

『出雲風土記』大原郡の条の署名欄に「少領
外従八位上 額田部臣」との記載がある。『出雲風土記』は天平5年(733年)に編纂されており、当時岡田山1号墳のある八雲立つ風土記の丘の地域は意宇郡の領域であり、大原郡と接していた。これらからして、岡田山1号墳の円頭大刀に銀象嵌銘にある「額田部臣」は、6世紀後半には出雲在地の豪族であったことが分る。『日本書紀』敏達紀には、敏達天皇4年に皇后の広姫が薨かり、5年に額田部皇女を皇后に迎え、6年に私部を置いている。私部(きさいちべ)は后妃のために置かれた部であり、后妃の名を冠している。敏達6年(577年)に皇后額田部皇女のために、出雲に私部として額田部が置かれたとするならば、岡田山1号墳の鉄剣銘・『出雲風土記』・『日本書紀』が一致してくる。

表Z95に、『日本書紀』の額田部に関係する記述(白色)、氏姓・部の制度に関する記述(黄色)、『新撰姓氏録』の記述(水色)、考古史料(緑色)を年代順に列記した。『日本書紀』の西暦は「縮900年表」で示している。『日本書紀』の記述は、『新撰姓氏録』、『出雲風土記』、岡田山1号墳の鉄剣銘、大和国額田寺伽藍並条里図と何ら矛盾がないことが分る。額田部連の成り立ちが允恭紀(442~460年)であるとすると、表Z90に見られるように、「連」の姓が允恭紀以前から存在することからして納得できることである。


Z95.額田部の記述.png


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