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53.「任那」を解けば歴史認識が変わる ブログトップ

53-1.任那は朝鮮半島南部の倭人が住む地 [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』の欽明紀(540~571年)を読むと「任那」の文字がやたらに多いことに気付く。『日本書紀』を「任那」の文字で検索すると、最も多いのが29代の欽明天皇紀で133件、2番目が33代の推古天皇紀で29件、3番目が26代の継体天皇紀で16件である。ちなみに、「任那」の文字が最初に出てくるのが10代の崇神天皇紀で、最後に出てくるのが、36代の孝徳天皇紀(645~654年)である。

『日本書紀』(720年編纂)以外で「任那」の文字が出てくるのは、中国の史書では『宋書』(~513年編)、『南斉書』(~537年編)、『梁書』(629年編)、『翰苑』(660年編)であり、金石文としては「好太王碑」(414年建立)、「新羅眞鏡大師塔碑」(924年建立)である。なお、朝鮮の正史『三国史記』(1145年編)では、「任那」の文字の表記は列伝に「臣はもと任那加良の人」と一例あるだけで、本紀には全く出て来ない。『三国史記』が任那の国の存在を無視しているのは、編纂者の金富軾にナショナリズムの想いがあったからであろうか。

Z-67.3世紀末朝鮮半島.png「任那」を理解するためには、高句麗・百済・新羅の三国が登場する以前の、朝鮮半島の情勢について理解しておく必要がある。『三国志』魏志韓伝(~297年編)に、「韓は帯方郡の南にあり、東西は海である。南は倭と接す。韓には馬韓・辰韓・弁韓の3種がある。馬韓は西に在り、およそ50余国。辰韓は馬韓の東にあり、始め6ヶ国に分かれていたが12ヶ国となる。弁辰も12ヶ国で、辰韓と雑居している。弁辰の瀆盧国は倭と界を接している。」、「国(辰韓or弁辰?)には鉄が出て、韓、濊、倭が皆これを取っている。また、楽浪・帯方の2郡に供給している。」とある。辰韓12ヶ国と弁韓(弁辰)の12ヶ国を一緒に明記しているが、数が合わないばかりか、両者に同じ名前の国が2ヶ国ある。私は、辰韓と弁韓、そして両者が雑居している弁辰があると理解する。辰韓と弁韓が雑居している「弁辰」の地域は、洛東江上流域であると考えた。弁韓と倭が接するという事は、その境が山で区切られているのでなく、平野の中で川を境にしていると考え、弁韓と倭の境は洛東江とその支流の南江であるとした。図Z67に3世紀中頃の朝鮮半島の勢力図を示す。
Z-68.朝鮮半島弥生土器.png
言語学者の伊藤英人氏は論文「朝鮮半島における言語接触」の中で、「多くの論者が、この時期(3世紀)朝鮮半島南部に倭語を話す集団が存在していたことに言及している。」と書いている。図Z68は石田あゆみ氏の論文「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉」に示された図である。3世紀朝鮮半島南部に倭人が住む地域があることは、言語学・考古学の面からも証明されている。


『日本書紀』で「任那」が初めて出てくるのは、270年(崇神20年)[崇神65年]に、「任那国が蘇那曷叱智を遣わして朝貢して来た。任那は筑紫を去ること2千余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある。」とある。筑紫(福岡)から任那(金海)までの距離は、福岡→壱岐
(芦辺)→対馬(厳原)→対馬(韓崎)→金海のルートで、地図で測ると264kmである。魏志倭人伝の里数の計算で、私は500里が60kmであるとして、倭国の国々を比定した。この公式を用いると筑紫(福岡)から任那(金海)は2200里となり、『日本書紀』の2千余里とほぼ一致する。魏志倭人伝の里数の計算については、「48-8.西都市に邪馬台国の都があった」を参考頂きたい。

275年(垂仁2年)に、「任那の蘇那曷叱智に、任那王の贈物として赤絹百匹を持たせて帰らしたが、新羅の人が途中でこれを奪った。両国の争いはこのとき始まった。」とある。『三国史記』新羅本記には、新羅と任那の抗争の記事は一つもない。しかし、新羅と倭人・倭兵との抗争の記事はたくさん記載されている。新羅と倭国の抗争以外に、新羅と任那在住の倭人との抗争があったと考えるとつじつまが合ってくる。朝鮮半島南部の倭人が住む地域の総称が「任那」と考える。

なお、『日本書紀』の編年(西暦と年号)は「縮900年表」で表示している。[ ]で囲んだ西暦と年号は『日本書紀』の編年通りである。年号が「縮900年表」と『日本書紀』が同じである場合は、[ ]の表記は省略している。今後この表記を使用する。


53-2.倭の五王の支配権が及ぶ国々 [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

4世紀に入り西晋(280~316年)が弱体化すると、朝鮮半島の勢力図は一変する。北部にあった高句麗は南下政策を取り、313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡を滅ぼした。また、4世紀初め頃には馬韓から百済が興り、辰韓から新羅が興っている。5世紀になって、高句麗・百済・新羅の三国に倭国も加わった、和合と抗争が朝鮮半島で繰り広げられている。その中で高句麗は、広開土王(392~413年)の時代に勢力を拡大し、427年に長寿王(413~491年)は平壌に遷都して、475年には百済の漢城(ソウル市)を落城させた。そのため、百済の文周王は都を熊津(忠清南道公州市)に遷している。

好太王(広開土王)碑に「倭は辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」とあるように、倭国も仁徳天皇(381~431年)の時代以降、朝鮮半島において高句麗と覇権を争っている。『宋書』
倭国伝によれば、451年宋に朝献した済(允恭天皇)は「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王」の称号を与えられ、478年に朝献した武(雄略天皇)も安東大将軍と昇格したが同じ称号を与えられている。倭王に与えられた「使持節・都督・諸軍事」の意味は、軍事・内政面に支配権を与えるという称号である。

倭は新羅にまで、軍事・内政面の支配権をもっていたのであろうか。2011年に発見された梁の『梁職貢図』、中国の皇帝に朝貢した諸国の使者の様子を表した絵図と付記には、「新羅は或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して始めて朝貢した。」とある。『日本書紀』には、351年(神功5年)、367年(応神14年)[神功47年]、391年(仁徳11年)に、新羅が倭国に朝貢したという記事がある。しかし、397年(仁徳17年)には新羅が朝貢しなかったので、倭国は問責の使いを出し、貢ぎ物を届けさせとある。417年(仁徳35年)[仁徳53年]では、新羅が朝貢しなかったので問責使を出すも戦となったとある。この年以後6世紀中頃まで、新羅が朝貢したという記事はない。好太王碑には、400年に高句麗は
新羅救援のため5万の歩騎を派遣し、倭軍を追い払ったとある。新羅と倭の関係においては、『梁職貢図』と『日本書紀』が記すように、4世紀の後半に新羅が倭国に朝貢するという関係があったが、5世紀には新羅と高句麗が同盟することにより、その関係は解消されていたのであろう。

倭の五王の済(允恭天皇)と武(雄略天皇)が、宋より認められた軍事・内政面の支配権は、任那・加羅・慕韓・秦韓に及んだと思われる。慕韓・秦韓は5世紀後半には存在しないとの説もあるが、私は全羅南道に馬韓の生き残りの慕韓が、釜山・梁山に辰韓の生き残りの秦韓が存在したと考える。全羅南道の栄山江流域には、5世紀末から6世紀前半に築造されたと思われる13基の前方後円墳がある。百済・新羅・伽耶の墳丘の形状は全て円墳であり、前方後円墳は明らかに倭国の影響を受けた墳墓と言える。これらの前方後円墳の存在は、これらの地に6世紀前半まで慕韓が存在し、倭国が軍事・内政面の関わりがあった証拠であると考える。

秦韓は釜山・梁山に生き残っていたのだろうか。秦韓が存在した釜山と梁山の中間の釜山市東菜区に福泉洞古墳群がある。幅約100m・
長さ700mの丘陵に、170基の古墳が発見された。その造営時期は三韓時代から三国時代(世紀初頭から世紀)までの長期にわたり、伽耶を代表するものである。発掘された遺物は土器類、金属類、裝身具など万点に及び、中でも鉄を含めた金属製品が千点出土していることが特徴である。

31
-32号墳は主槨・副槨共に木槨の5世紀の初頭の古墳で、陶質土器(須恵器)は伽耶系で新羅系が若干混じっている。21-22号墳は主槨が竪穴式石槨、副槨が木槨の5世紀前半の古墳で、陶質土器は伽耶系と新羅系が半々である。10-11号墳も主槨が竪穴式石槨、副槨が木槨の5世紀の半ばの古墳で、陶質土器は新羅系である。考古学的にみると、釜山・梁山に存在した思われる秦韓は、5世紀半ば頃に新羅の領域に入っている。『三国史記』新羅本記には「463年に倭人が歃山城(慶尚南道梁山郡)を攻めた。」とあり、釜山・梁山が5世紀半ば頃には、新羅の支配下にあったことが分る。

4世紀になって、洛東江中流域にあった弁韓国が加羅となり、洛東江下流と支流の南江で囲まれた倭人が住んでいた地が任那となった。加羅も任那もそれぞれ一国ではなく、小国の連合体と考え、加羅連合・任那連合と呼ぶことにする。洛東江上流域にあった辰韓と弁韓が雑居した弁辰の地は4世紀中頃には新羅の領域となっていると考える。『三国史記』によると、新羅は261年に達伐城(慶北
大邱市)を築き、沾解王(247~261年)のとき沙伐国(慶尚北道尚州郡)を州とし、293年には沙道城を改築して、沙伐州の有力者80余家を移したとある。これらの年代は信頼がおけないかもしれないが、5世紀後半に新羅が忠清北道に多くの城を造っていることからしても、少なくとも5世紀前半には弁辰の地が新羅の領域であったことは確かである。図Z69に4世紀末、図Z70に5世紀末の朝鮮半島の勢力図を示す。なお、三角形は5世紀後半に新羅が造った城である。

Z-69.70.4-5世紀末朝鮮半島.png

53-3.倭国・百済・任那諸国は同盟関係にあった [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』369年(応神16年)[神功49年]の記事には「倭国の荒田別と鹿我別の二人の将軍は兵を整え、百済の使者と共に卓淳国に至り、百済の木羅斤資の率いる精兵の応援も得て、新羅を打ち破った。そして比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国を平定した。・・・百済王の肖古と皇子の貴須は、荒田別・木羅斤資と意流村で一緒になり、相見て喜ろこんだ。・・・百済王は春秋に朝貢しようと誓った。」とある。

欽明2年(541年)4月の記事には、百済の聖明王が任那の旱岐(国王)らに、「昔、わが先祖速古王・貴首王の世に、安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、初めて使いを遣わして、相通じ親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願ったのである。」と言っている。また、7月の記事には「昔、わが先祖速古王・貴首王と、当時の任那諸国の旱岐らが、はじめて和親を結んで兄弟の仲となった。それゆえ自分はお前を子どもとも弟とも考え、お前も我を父とも兄とも思い、共に天皇に仕えて強敵を防ぎ。国家を守って今日に至った。」とある。

欽明2年の百済の聖明王が語った話は、[神功49年]にある話と同じで、速古王と貴首王は肖古王と貴須王であり、比自・南加・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国が任那諸国でる。[神功49年]の
Z-51.七支刀.png「七ヶ国を平定」という言葉には、属国化するとか、植民地化するというニアンスがあり、戦前には倭国は任那諸国を植民地として支配したという通説があった。しかし、欽明2年の聖明王が語った話は、倭国の天皇を盟主として、倭国・百済・任那諸国が同盟関係にあったことを示している。石上神宮の国宝の七支刀は、百済の肖古王がこの同盟を記念して372年に倭王に奉じたものであり、「七枝」には同盟の想いが込められていたのである。


53-4.南加羅(金官伽耶)と加羅(大伽耶) [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

Z-71.金官伽耶と五加羅.png

任那諸国(比自・南加・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅)のあった地域を伽耶と呼ぶが、伽耶諸国についての史料は少ない。『三国遺事』に引用されている『駕洛国記』は、知金州事(金海市長)の金良鎰が11世紀末に編纂したものである。『駕洛国記』は、「後漢光武帝18年、亀旨峰に天から紫の綱が降りてきて、黄金の箱に六個の卵があり、その卵から六人の童子が生まれた。最初に現れたのが首露で、その国は大駕洛(伽耶国)と呼ばれた。残りの五人は五伽耶の主となった。」とある。大駕洛は金官伽耶(金海)で、五伽耶は安羅伽耶(威安)、小伽耶(固城)、大伽耶(高霊)、星山伽耶(星州)、古寧伽耶(威寧)としている。


伽耶山.png『新増東国輿地勝覧』に引用された、9世紀末の新羅の儒学者・崔致遠が著した『釈利貞伝』には、「伽耶山の山神・正見母主は、天神・夷毗訶毗の感ずるところとなり、大加耶王の悩室朱日と金官加耶王の悩室青裔の二人を生んだ。悩室朱日は伊珍阿豉王の別称で、悩室青裔は首露王の別称である。」とある。『駕洛国記』と『釈利貞伝』が伝える金官伽耶の始祖王・首露と大伽耶の始祖王・伊珍阿鼓の誕生伝説はあくまで神話であるが、伽耶諸国を代表するのが、洛東江河口の金海にあった金官伽耶と、洛東江中流で伽耶山東麓の高霊にあった大伽耶の二国であったことを示している。

『三国史記』列伝の金庾信条には「南加耶始祖首露」とあり、任那7ヶ国の「
南加羅」が始祖を首露とする金官伽耶であることが分る。大伽耶が任那7ヶ国の「加羅」あることを直接表記した史籍はないが、『三国史記』地理史、高霊郡条に「もと大加耶国、始祖伊珍阿鼓王(内珍朱智とも云う)より道設智王に至る。凡そ16世520年。真興大王これを滅ぼし、その地を以って大加耶となす。」とある。『釈利貞伝』によると、大加耶国の始祖伊珍阿鼓王と金官伽耶の始祖・首露王は二子に生まれている。『駕洛国記』よると、金官伽耶の始祖・首露王の誕生は後漢光武帝18年(42年)である。これらから逆算すると、大加耶国が新羅の真興大王に滅ぼされたのは562年(520+42)となる。

『三国史記』新羅本紀、
真興王23年(562年)には、「加耶が反乱を起こした。王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含を副将とした。・・・すべて降伏した。」とある。『三国史記』列伝第四の斯多含条には、「眞興王、伊飡の異斯夫に命じて、加羅(加耶)國を襲う。」とある。これらより、大伽耶国が加耶國・加羅国であることが分る。『南斉書』東夷伝によると、479年斉に加羅王荷知の使いが来献し「輔國將軍加羅王」の称号を得ている。この加羅は大伽耶であると考えられている。

Z-70.5世紀末新羅城.png『宋書』倭国伝では、451年宋に朝献した済(允恭天皇)は「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍倭国王」称号を与えられ、478年に朝献した武(雄略天皇)も大将軍に昇格するが、同じ称号を与えられている。称号から見ると「任那」と「加羅」は別の国とされている。これらより、南加羅(金官伽耶)を盟主国とする任那連合と加羅(大伽耶)を盟主国とする加羅連合があり、任那連合と加羅連合を合わせた伽耶諸国(任那7ヶ国+α)の任那同盟があると考える。


53-5.任那七ヶ国が比定出来れば「任那」が解る [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

「任那」の文字が多く出てくる継体紀・欽明紀は、「任那の復興」について書かれているが、何度読んでも任那の実態がもう一つ分かり難い。それは、場面々々で「任那」の内容が、任那連合(洛東江下流と支流の南江で囲まれた倭人が住んでいた諸国)、任那同盟(伽耶諸国:任那連合+加羅連合)、任那地域(任那同盟+慕韓+秦韓)と違っているからだ。そのため、今後断らないかぎり、「任那」は任那同盟(伽耶諸国:任那連合+加羅連合)の任那七国+αを示すとする。

『駕洛国記』には、六伽耶の地が現在の地名で比定されている。それをもとに
任那七国の地を比定してみる。南加羅(金官伽耶・大駕洛)が慶尚南道の金海①に比定されている。この南加羅(金官国)は532年に新羅により滅ぼされている。安羅は安羅伽耶であり、安羅(阿羅・阿那・阿尸良)は慶尚南道の咸安②に比定されている。加羅(大伽耶・加耶)は慶尚北道の高霊③に比定されており、562年に加羅は新羅に滅ぼされている。

「駕洛国記」の五伽耶には出て来ないが、『三国史記』地理史にある大良州(大耶州)が多羅国で、洛東江支流の黄江中流域に在る慶尚南道の陜川④に比定されている。黄江下流域にある玉田古墳群の近くには、多羅里の地名が現存している。『三国史記』地理史にある比自火(比斯伐)が比自で慶尚南道の昌寧⑤とされている。昌寧は洛東江と山に囲まれた地域で、洛東江東岸で新羅側にあるにも関わらず、長らく伽耶の影響下にあった。新羅の真興王は加羅を滅ぼす前年の561年に、昌寧の地に碑(昌寧碑)を建立し、その決意を表明している。

Z-72.任那7ヶ国.png任那7国の内5ヶ国は比定できた。残るは卓淳(㖨淳)と㖨(㖨己呑)の二ヶ国である。両国は言語学者の鮎貝房之進氏が慶尚北道の大邱・慶山の古名が卓淳・㖨に通じるものがあると比定して以来、卓淳は大邱、㖨は慶山に比定するのが有力視されている。朝鮮半島の地形図Z72 では、「A」が大邱、「B」が慶山である。都を慶州の金城に置く新羅にとって、百済・高句麗に対処するために、西の洛東江に進出する要(かなめ)の地は大邱であることは、軍師の諸葛孔明・竹中半兵衛・黒田官兵衛でなくても一目瞭然である。四世紀の初めに興った新羅が、卓淳国と㖨国が新羅に滅ぼされた六世紀の初めまでの
2百年間も、自国の陣営に取り込まないで置くはずは無いと考える。現に
『三国史記』によると、新羅は261年に達伐城(慶北大邱市)を築いている。また、沾解王(247~261年)のとき沙伐国(慶北尚州市C)を州としたことや、5世紀後半に忠清北道に多くの城(▲)を造っていることからも分かる。大邱・慶山は4世紀以降新羅の領域であり、6世紀前葉まで存続した卓淳(㖨淳)と㖨(㖨己呑)を大邱・慶山に比定することは出来ない。

『日本書紀』の欽明5年
(544年)3月の記事に、「新羅は春に㖨淳(卓淳)を取り、わが久礼山の守備兵を追い出し占領した。その後、安羅に近い所は安羅が耕作し、久礼山に近い所は新羅が耕作し、侵しあわずいた。」とある。これらからして、532年に滅ぼされた金官国(南加羅)の隣に卓淳国があり、その隣に安羅国があるということになる。昌原⑥の一帯が卓淳国に比定する。

㖨国については、
欽明2年(541年)4月の記事に、「㖨己呑(㖨)は加羅と新羅との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救い助けられなかった。それで亡んだ。」とある。これらに該当する地は、加羅を大伽耶(高霊E)と捉えると、㖨国は星山伽耶(星州F)となる。金官国と㖨国は同じ頃に新羅に滅ぼされたことから、㖨国を金官国の近くに考える学者もいるが、私はそうは思わない。新羅が同盟七国を相手に戦を仕掛けるとき、南の端と北の端の二国を同時に攻める戦略の方が優れていると思える。欽明5年(544年)3月の記事には、「㖨国も卓淳国も新羅に内応したために滅びた」とある。532年に新羅に投降した金官国の金仇亥国王は、新羅から上等の位を授けられ、本国をその食邑に与えられている。この戦略が功を奏し、㖨国も卓淳国も新羅に籠絡されたのであろう。㖨国を星山伽耶の地、星州⑦に比定する。

『古代の韓国と日本』(1988年)に金泰植氏の「5世紀後半、大伽耶の発展」という論文がある。その中に「星州と高霊を一つの政治勢力と見るのは妥当でない。二地域の古墳遺物を比較して見ると、星州・星山洞1・2・6号墳から出土した土器形式は、全般的に慶州出土のものと似ている。そして、星山洞1号墳出土の金製耳飾、金製帯金具・冠飾なども慶州・梁山・昌寧校洞・
大邱飛山出土のものと同じ形式を帯びている。つまり、遺物の様相からみて、高霊は前段階の伽耶形式を継承した様相を見せているのに比して、星州は洛東江東岸の新羅様式をおびており、文化的にも政治的にも慶州の新羅王権と交渉が深いことを反映している。」とある。考古学からしても、星山伽耶の地・星州⑦を㖨国に比定しても齟齬は無い。


53-6.百済は慕韓(全羅南道)を割譲で得た [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』によると、519年(継体6年)百済は倭国に、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県が欲しいと願い出た。哆唎の国守・穂積臣押山は「この四県は百済に近く連なって、日本からは遠く隔たっている。・・・今百済に賜って同じ国としたならば、この地を保つための策としては、これに過ぎるものはない。」と進言した。大伴大連金村もこの意見に同調して奏上し、4県の割譲が決まっている。これら4県は、倭の五王の済(允恭天皇)と武(雄略天皇)が、宋より認められた軍事・内政面の支配権が及んだ慕韓であると考える。4県の比定地には諸説あるが、全羅南道の栄山江流域に5世紀末から6世紀前半に築造されたと思われる13基の前方後円墳があることから、栄山江流域とする説に賛同する。

520年(継体7年)
に百済は、「伴跛国は、私の国の己汶の領土を奪った。天恩によって、元通りに還付するよう願いします。」と上奏した。11月に百済の文貴将軍が新羅・安羅・伴跛を倭国に連れてきて、天皇の詔を得て己汶・滞沙を賜っている。伴跛国は珍宝を献上し、己汶の地を乞うたが願いは叶わなかった。己汶の地は、全羅南道と慶尚南道の境界を流れる蟾津江の上流にある南原と比定されている。この場合の滞沙は蟾津江下流の河東でなく、上流の谷城であると考える。

考古学的にみると、南原にある月山里・斗洛里・東村里・三峯里の古墳群の様相は、百済系ではなく全て伽耶系であるそうだ。百済の主張は偽りであり、伴跛の主張の方が正しかったのであろう。
521年(継体8年)、伴跛は城を子呑と滞沙(河東)に築いて倭国との戦いに備えた。522年(継体9年)、百済の文貴将軍の帰国に副えて、物部連が遣わされた。物部連は水軍5百を率いて帯沙江(蟾津江河口)に着いたが、伴跛の軍に敗れ退却している。

『梁職貢図』百済使.png「伴跛」の名称は『日本書紀』でも、継体7年から継体9年に現れるのみであり、『三国史記』や中国の史書には全く現れない。しかし、中国の皇帝に朝貢した諸国の使者の様子を表した絵図と付記の『梁職貢図』百済使条には、百済の旁(そば)の小国として、叛波・卓・多羅・前羅・斯羅・止迷・麻連・上己文・下枕羅の9ヶ国の国名が出てくる。「叛波」が「伴跛」である。梁は502年~556年であり年代的にも『日本書紀』と合っている。伴跛国の比定地については、継体7年(520年)の伴跛の使者「既殿奚」と、欽明2年・欽明5年(544年)の加羅の上首位の使者「古殿奚」が同じであるから、伴跛は加羅であるとの説がある。私は、己汶・滞沙を割譲した場面に伴跛と安羅が居るが加羅は居ないこと、『梁職貢図』の百済使条には伴跛と多羅が在るが加羅は無いことから、伴跛は加羅であると考える。

532年[継体23年]、百済は「加羅の多沙津(帯沙江:蟾津江河口)を賜り、朝貢の路としたい。」と願い出ている。加羅王は「この津は官家
(みやけ)が置かれて以来、私が朝貢のときの寄港地としている所で、容易く隣国に与えられては困る。初めに与えられた境界の侵犯だ。」と反対するも、百済の願いが通ることとなる。「加羅の多沙津」の「加羅」は、加羅連合国を表しており、「加羅王」は加羅連合国の盟主国である加羅国の王である。

475年に高句麗の長寿王よって漢城(ソウル市)を奪われた百済は、都を熊津(忠清南道公州市)に遷した。北部の領土を失った百済にとっては、南部への進出(侵出)が必須となった。519年には栄山江流域の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を倭国から割譲を受け、520年には己汶(南原)と滞沙(谷城)の地を、532年には多差(滞沙)津を、倭国の後押しで加羅連合から奪って、慕韓(全羅南道)の全てを領有している。

Z-73.6世紀半ば朝鮮半島.png532年[継体23年]、百済に多沙津を賜った年に、任那の南加羅(金官国)が新羅に滅ぼされている。領域からみると南加羅よりも百済に割譲した慕韓(全羅南道)の全領域の方がはるかに大きい。しかし、倭国は百済へ割譲した領域のことは問題にせず、南加羅を新羅から奪還し任那に復興させることに注力をしている。その「任那復興会議」は百済の聖明王のイニシアチブのもとで開かれている。倭国と加羅連合を手玉に取り、百済の再興をはかった百済王は、武寧王(501~523年)と聖明王(523~554年)である。図Z73に6世紀半ばの朝鮮半島の勢力図を示す。なお、532年には任那の南加羅(金官国)が新羅に滅ぼされているが、地図には表記していない。


53-7.任那同盟諸国(任那連合と加羅連合) [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』には、欽明23年(562年)の記事に「新羅は任那の官家を打ち滅ぼした――ある本には、21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国である。」とある。これら10ヶ国の内、乞飡国・稔礼国の2国以外の国々は、欽明2年(541年)と欽明5年(544年)に百済で開かれた通称・任那復興会議に出席しており、6世紀半ばまで生き延びた国々である。それまでに滅びた南加羅・卓淳・㖨・比自を入れると、任那は14ヶ国あったことが分る。

6世紀半ばまで生き延びた
10ヶ国の内、加羅国・安羅国・多羅国を除いた7ヶ国の中で、卒麻国の比定地を慶尚南道の密陽とする通説がある。密陽は洛東江東岸にあって、新羅と既に新羅に滅ぼされた比自(昌寧郡)に挟まれ、南は洛東江を境に既に新羅に滅ぼされた南加羅(金官国)と向き合う四面楚歌の地域である。密陽にある古墳は7基(1973年調査)で、比自や南加羅の滅亡後も生き残れたほどの強国があったとは思えない。6世紀半ばまで生き延び7ヶ国、斯二岐国・卒麻国・古嵯(久嗟)国・子他国・散半下()国・乞飡国・稔礼国は、任那連合国では安羅以西であり、加羅連合国では洛東江以西であると考えられる。

Z-74.于勒博物館.png加羅(大伽耶)があった高霊に于勒博物館があり、韓国の伝統的楽器である伽耶琴の創始者である于勒と関連する資料を展示している。『三国史記』巻32楽志・「伽耶琴」に、「加耶国の嘉實王、唐の楽器を見て之を造る。・・・省熱縣人の楽師・于勒に命じて12曲を造らせた。後に于勒はその国が乱れたので、楽器を携えて新羅の眞興王に身を寄せた。・・・于勒の製作した12曲は、一曰下加羅都,二曰上加羅都,三曰寶伎,四曰達己,五曰思勿,六曰勿慧,七曰下奇物,八曰師子伎,九曰居烈,十曰沙八兮,十一曰爾赦,十二曰上奇物,」とある。『三国史記』新羅本紀には、新羅の眞興王が于勒の演奏を聴いたのは、眞興12年(551年)のとある。

朝鮮古代史が専攻の歴史学者・田中俊明氏は、于勒の製作した12曲は、
510年頃の大伽耶連盟の諸国名を伝えているとしている。私が注目するのは、五の「思勿」である。『三国史記』地理史に、固城郡泗水縣の古名が「史勿縣」、現在の慶尚南道の泗川であるとしている。「思勿」と「史勿」は同じで、泗川が加羅連合諸国の地域であることがわかる。泗川は6世紀半ばまで生き延び7ヶ国のどの国にあたるかは明白でないが、泗川地域(泗川郡と晋州市の南江南側)には古墳が71基存在し、加羅連合諸国の一国が存在したのは確かである。泗川が加羅連合諸国となれば、任那連合国の西の端は小伽耶と呼ばれた固城となる。固城郡の古名は「古自郡」であり、古嵯(久嗟)国にあたると言われている。

任那連合諸国は、東から①南加羅
(金官)国(金海郡:41基)、②卓淳国(昌原郡:63基)、③安羅国(咸安郡:63基)、④古嵯国(固城郡:172基)の4ヶ国となる。数字は1973年調査の古墳の概数。南加羅連合国は加羅・多羅・㖨己呑・比自火・斯二岐国・卒麻国・子他国・散半下()国・乞飡国・稔礼国の10ヶ国となる。田中俊明氏は、于勒の製作した12曲の内の、七の下奇物と十二の上奇物の「奇物」は、520年に百済に賜った己汶(南原)であるとしている。そうなると、南加羅連合国の領域では于勒の製作した曲は10ヶ国となり、『日本書紀』から導いた南加羅連合国の10ヶ国と一致する。

南加羅連合国の10ヶ国の内、⑤加羅国(高霊郡:138基+陜川郡安林川上流域:47基+星州郡合川上流域:152基)、⑥多羅国(陜川郡黄川中・下流域:110基)、⑦
㖨己呑国(星州郡:263基)、⑧比自火国(昌寧郡:224基)の4国は比定できる。残る6ヶ国を地名から比定できる確実な資料はない。その候補地を古墳の数から7ヶ所選び仮称の国名を付けた。⑩陽川国(陜川郡陽川流域:420基)、⑫晋州国(晋州市南江北側:75基)、⑨居昌国(居昌郡:32基+陜川郡黄川上流域:32基)、⑬泗川国(泗川郡:24基+晋州市南江南側:32基)、⑪宜寧国(宜寧郡:29基)、⑭三清国(三清郡:29基)、⑮河東国(河東郡:19基+泗川郡西部:5基)である。

Z-75.任那同盟諸国.png『日本書紀』欽明4年(543年)11月に、倭国は津守連を遣わして百済に詔し、「任那の下韓にある百済の郡領・城主を引き上げて日本府に帰属させる」と言っている。それに対して百済の聖明王は、「南韓(下韓)の郡領・城主を置いているのは、天皇にそむいて調貢の路を遮断するものではない。これを置いて守りを固めなければ、新羅を防ぐことは出来ない。その上で新羅を攻め、任那の存在を図る。そうしなければ百済は滅亡し朝貢できなくなる。」と任那復興のため必要と拒否している。532年に百済は多差津を倭国の後押しで加羅連合より奪っている。そして、蟾津江を超え、任那の地まで侵出したのであろう。⑮河東国(私称)を下韓(南韓)と比定する。任那諸国の一国の大きさを郡の大きさとすれば、図Z75に示すように、①から④までの4ヶ国が任那連合諸国、⑤から⑭までの10ヶ国が加羅連合諸国と、14ヶ国で伽耶の地域がすべて網羅される。


53-8.金官国(南加羅)の滅亡は毛野臣のせいか? [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『三国史記』新羅本紀には、「法興王19年(532年)に、金官国王・金仇亥が王妃および3王子と共に国の財宝をもって来降した。王は彼らを礼式に従った待遇をし、上等の位を授け、本国を食邑として与えた。」と金官国の滅亡の話がある。南加羅(金官国)の滅亡の話は、『日本書紀』の継体天皇紀にも記載がある。西暦は「縮900年表」で、[年号]は日本書紀記載の年号である。

530年[継体21年]6月・・・②
 近江の毛野臣が兵6万を率いて任那におもむき、新羅に破られた南加羅・㖨己呑を再興して任那にあわ
 せようとするするが、筑紫磐井が反乱し、毛野臣の任那に行くのを妨げた。
532年[継体23年]3月・・・④
 南加羅・㖨己呑を再興するために毛野臣は安羅に遣わされた。毛野臣は熊川にいて、天皇の詔勅を聞か
 せるために新羅王を呼び出した。新羅は任那の官家を破ったことを恐れ、官位の低い奈麻礼を遣して
 来た。毛野臣は「国王が来ないで軽臣を遣すのか」と使いを責めた。
532年[継体23年]4月・・・①
 任那王、己能未多干岐が来朝して、「いま新羅は始めにきめて与えられた境界を無視して、度々領土を
 侵害しております。どうか天皇に申し上げ、私の国をお助け下さい。」と言った。
532年[継体23年]4月・・・⑤
 新羅の上臣(大臣)・伊叱夫礼智干岐が三千の兵を率いてやって来て多多羅原に陣取った。毛野臣は
 熊川から任那の己叱己利城に入り、新羅の上臣と3ヶ月対峙した。
532年[継体23年]7~8月・・・③
 新羅の伊叱夫礼智干岐は金官・背伐・安多・委陀(ある本では、多多羅・須奈羅・和多(わた)・費智)
 の四村を掠めて、人々を率いて本国に帰った。ある人が「多多羅ら四つの村が掠め取られたのは毛野臣
 の失敗であった。」と言った。

530年6月の毛野臣の任那派遣の目的は、新羅に破られた南加羅・
㖨己呑を再興することであり、南加羅(金官国)は既に滅んだことになっている。また、532年3月の記事でも、「新羅は任那の官家を破ったことを恐れ」と、南加羅は既に滅んだことになっている。その一方、532年7~8月の記事にある「新羅が金官等の4村を掠めて、人々を率いて本国に帰った」は、『三国史記』法興王19年(532年)の「金官国王・金仇亥が王妃および3王子と共に来降した。」ことを言っており、532年7~8月に金官国(南加羅)が滅亡したことを示している。金官国(南加羅)の滅亡の時期について矛盾がある。前記の530年6月から532年7~8月の記事に①~⑤までの番号を付けて、『日本書紀』の記事の前後関係を修正した。こう考えると、『日本書紀』と『三国史記』には何の矛盾も生じない。

530年4月、任那王・己能未多干岐が来朝して、新羅が攻めて来たと救援を要請。
530年6月、任那の救援のため毛野臣が6万兵を率いて出発するも、筑紫磐井の反乱により頓挫。
532年春頃、新羅の伊叱夫礼智干岐は金官国を滅ぼし、金官国王は王妃と3王子を伴い新羅に来降。
532年3月、毛野臣は南加羅再興ために安羅に遣わさた。毛野臣は卓淳国の熊川(慶尚南道昌原郡熊川
       面)に陣取って、新羅を呼び出し南加羅の返還を迫る。
532年4月、新羅の伊叱夫礼智干岐が三千の兵を率いて多多羅原に陣取る。毛野臣は熊川から任那の
       己叱(久斯:昌原)己利城に入り、新羅の上臣と3ヶ月対峙した。

Z-76.多多羅原推定地.png毛野臣と3ヶ月対峙した、新羅の伊叱夫礼智干岐が陣取った多多羅原は、通説では洛東江河口の東側先端にある多大浦とされているが、既に占領している金官国から後退して陣営を張るような戦略は取らないであろう。多多羅原は金官国と卓淳国と境にある卓淳国の地であった考える。多多羅原の推定地を地図Z76に示した。卓淳国は金官国が滅びた後、直ぐに新羅に滅ぼされている。欽明5年3月の記事に、「新羅は春に㖨淳(卓淳)を取り、わが久礼山の守備兵を追い出し占領した。その後、安羅に近い所は安羅が耕作し、久礼山に近い所は新羅が耕作し、侵しあわずいた。」とある。新羅が占領した地が多多羅原とすれば、その西側には安羅国(威安郡)があり状況は合っている。


『日本書紀』の南加羅の滅亡の記事は、時系列的に多くの矛盾を含んでいる。このような矛盾を何故記載したのだろうか。継体紀には、毛野臣の任那での言動について問題が多く、評判が悪かったことが掲載されている。毛野臣の帰還を促すために任那に遣わされた使者・調吉士は、「毛野臣は人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟していない。和解することを知らず加羅をかき乱した。自分勝手にふるまい憂慮される事態を防ごうともしていない。」と帰国後報告している。その後、毛野臣は召喚され、帰国途中対馬で病のため亡くなった。このようなこともあり、「多多羅ら四つの村が掠め取られたのは毛野臣の失敗であった。」の声が上がったのであろう。

『日本書紀』
は、毛野臣は南加羅が滅ぼされた後に派遣されたにも関わらず、「南加羅が滅ぼされたのが毛野臣のせいである」という物語になっている。欽明元年(540年)9月の記事には、任那の南加羅を滅ぼした新羅の征伐を計るとき、物部大連尾輿が「昔、継体天皇の六年に、百済が使いを遣わして、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を乞うてきたとき、大伴大連金村はたやすく願いのままに求めを許された。このことを新羅はずつと怨みに思っている。軽々しく征伐すべきでない。」と天皇に奏上している。「任那を滅ぼしたのは大伴大連金村のせいだ」という噂が諸臣の間に流れたようで、大伴金村は家にこもり、病と称して出仕しなかった。天皇は「忠誠の心をもって、長らく公に尽くしたのだから、噂は気にしなくよい」と仰せられ、罪を科することなく、いっそう手厚く待遇されたとしている。しかし、その後大伴金村が政(まつりごと)の場に出てくることは一切無く、失脚したのであろう。

Z-77.枚方地名由来碑.png欽明元年以前に「南加羅が滅ぼされたのが毛野臣のせいである」という噂を流し、毛野臣に濡れ衣を着せたのは、自分の失政を隠すための、大伴大連金村の謀略であったのではないかと思える。毛野臣の葬送の舟が河筋を上って近江に着いたとき、その妻が歌を歌っている。
「枚方を通って笛を吹きながら淀川を上る。近江の毛野の若殿が
 笛を吹いて淀川を上る。」
毛野臣の妻にとっては、葬送の舟の笛の根は、毛野臣(若殿)の無実を訴える叫び声に聞こえたのであろう。私には、まじめ一徹で融通が利かなかったであろう毛野臣の姿が思い浮かぶ。


53-9.倭国は任那をどのように統治したか [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

倭国は任那同盟諸国を、どのように統治したのだろうか。それを示す文章が『日本書紀』の532年[継体23年]にある。「任那王、己能未多干岐が来朝した。――己能未多というのは、思うに阿利斯等であろう。――大伴大連金村に『海外の諸国に、応神天皇が内官家を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことにもっともなことである。いま新羅は始めにきめて与えられた境界を無視して、度々領土を侵害しております。どうか天皇に申し上げ、私の国をお助け下さい。』と言った。」とあるように、任那同盟諸国の国王は、それぞれの国を統治していた。そして、所領の一部を官家(みやけ)として倭国に差出し、倭国はその代わりに、軍事的保護を行うというシステムであったと考える。このシステムは、369年に倭国・百済・伽耶諸国(任那7ヶ国)が同盟の関係になった頃から始まったと思われる。

[継体23年]4月には、「新羅の上臣は四つの村を掠め――金官・背伐・安多・委陀
(わだ)の四村、ある本には多多羅・須奈羅・和多(わた)・費智(ほち)という。――人々を率いて本国に帰った。」とある。話は飛ぶが、敏達4年(575年)の記事に「新羅が使いを遣わして調をたてまつった。恒例よりも多かった。同時に多多羅・須奈羅・和陀・発鬼の四ヶ村の村の調を奉った。」とある。この四村は任那の地で、この調は「任那の調」と呼ばれている。この四村、多多羅・須奈羅・和陀(わだ)・発鬼(ほき)と、前記の「ある本」で示された四村、多多羅・須奈羅・和多(わた)・費智(ほち)は、漢字は少し違うが同じ村の名と言える。

朝鮮古代史専攻の田中俊明氏は、金官=
須奈羅、背伐=発鬼=費智、安多=多多羅、委陀=和陀=和多であるとしている。そうなると、「任那の調」は、金官国の全ての村の調(税金)を倭国に与えたことになる。金官国は、金官国王であった金仇亥に食邑と与えられており、息子の金武力は新羅の最高位の角干の位に付いており、食邑と与えた金官国の全ての村の調(税金)を取り上げることになるのは、おかしな話である。

Z-78.任那連合諸国.png私は、任那の調の多多羅・須奈羅・和陀・発鬼の四村は、任那連合諸国、金官国(金海郡)・卓淳国(昌原郡)・安羅国(咸安郡)・古嵯国(固城郡)にあった倭国の官家の4村であり、新羅に掠め取られた金官・背伐・安多・委陀の四村は金官国(南加羅)の四村であると考える。金官国の官家の村が和陀(委陀・和多)であったことは明らかである。また、金官国王・金仇亥に与えられた食邑は、金官村であったと考える。金官国金官村は、大阪府大阪市・奈良県奈良市のようなものである。

「52
-5.金官国(南加羅)の滅亡は毛野臣のせいか」で、毛野臣と3ヶ月も対峙した新羅の上臣が陣営を構えた多多羅原は、金官国と卓淳国と境にある卓淳国の地であった考えた。多多羅は卓淳国にあった倭国の官家の村と考える。平安時代の初めに編纂された京畿諸氏族の系譜書である新撰姓氏録には、山城国諸蕃の多々良公は、御間名国主・爾利久牟王の子孫と称し、欽明天皇の御代に投下し、天皇から多々良公の姓を賜ったとの記述がある。御間名国主・爾利久牟王は卓淳国の王であったと考えると、多々良公の名前の由来も理解できる。

須奈羅と発鬼は、安羅国(
咸安)と古嗟國(固城)にあった倭国の官家の村ではないかと考える。敏達4年(575年)の任那の調は、562年に任那同盟諸国が亡び全ての官家の支配権を失っているにも関わらず、任那連合諸国の全ての官家の調を、新羅が倭国に奉っている。倭国の任那奪還を諦めさすための方便であったのであろうか?

歴史の本では官家を「みやけ」と呼び、屯倉
(みやけ)と同じ直轄地であるとしている。屯倉には屯倉は直接経営し課税する場合と、直接経営しないが課税をする場合があるそうだ。[継体23年]百済が加羅国の多沙津を賜りたいと倭国に願ったとき、加羅王は勅使に「この津は官家が置かれて以来、私が朝貢の寄港地としているところです。」と言っている。加羅王は官家の調を倭国に朝貢として差出している。任那同盟諸国の官家においては、経営は諸国に任せて、官家の課税分を調貢させたのであろう。任那同盟諸国の国王にとっては、新羅・高句麗・百済に占領されるよりも、倭国に官家を差出し、軍事的に倭国の保護を得た方が得策と考えただけである。任那同盟諸国は倭国の属国でもなく、植民地でもなかった。

大和王権の財政にとって、任那の官家からの調(税収入)は欠くべからざるものであった。継体天皇の時代に上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を百済に割譲し、南加羅・
㖨己呑国・卓淳の三ヶ国を新羅に奪われると、大和王権の財政が悪化したのであろう。安閑天皇の時代になって全国に38ヶ所の屯倉を設けている。『日本書紀』を「屯倉」で検索すると、安閑朝38ヶ所、欽明朝6ヶ所、顕宗朝・宣化朝5ヶ所と、安閑天皇の在位が4年間であるにも関わらず圧倒的に多いことが分る。大和王権の財政がひっぱくしていたのであろう。大和王権が任那の復興にこだわったのはこのためであった。


53-10.任那日本府に権力は無かった [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』は中国・朝鮮の史書には記載されていないが、好太王碑と中原高句麗碑に刻まれた金石文に表記されている新羅の君主号「寐錦」や、『梁職貢図』の百済の使者の絵の横に書かれた文字に表記されている国名「伴跛(叛波)」を記載している。これからしても、『日本書紀』は史実に基づいた史書であることが分る。しかし、『日本書紀』は後世の用語が使われたり、物語化してあったり、誇張があったり、正悪・強弱が反対に書かれたりしている。『日本書紀』の書いていることは信用できないとして、その矛盾点だけをあげつらうと、史実は見えてこない。史料批判とは、おかしい所と正しい所を篩い分けることではないのだろうか。

『日本書紀』で「任那日本府・日本府」とい言葉が初めて表記されたのは雄略8年(471年)であり、その後は欽明2年(541年)から欽明13年(552年)の間の34回使われている。「日本」という国号は、新唐書(1060年撰)日本伝に「咸亨元年(670年)、倭は悪名なので、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。」とある。これより、『日本書紀』が「日本府」と記録している時代には「日本」という国号がなく、「日本府」は後世の創作だとする考えもある。『日本書紀』の述作者が「倭府」と書くのを嫌い、「日本府」と書いただけのことである。日本書紀は時代考証には無頓着で、「国宰」とすべき所を「国司」と書き憲法17条は無かったとされ、「評」とすべきところを「郡」と書き大化の改新は無かったとされ、『日本書紀』否定論者の餌食となっている。

2015年4月、検定合格した中学校教科書に「任那日本府」が記載されているとして、韓国のマスコミは「古代史でも日本が歪曲」と報道し、李完九首相が「事実に基づかない歴史歪曲をしてはならない。」と批判、国会は本会議で「日本政府の大韓民国に対する領土主権の侵害と歴史ねつ造行為を強く糾弾する」という内容の決議案を採択している。領土問題は別として、「任那日本府」が「歴史の歪曲」と大きく捉えられるのは、戦前の日本の歴史観が、任那諸国を日本の属国とみなし、「任那日本府」がその象徴とされていたからであろう。

私は日本書紀を精査することにより、次の結論を得た。
369年に倭国・百済・伽耶諸国(任那7ヶ国)は同盟の関係となった。石上神宮にある国宝の七枝刀をは、百済の肖古王がこの同盟を記念して倭王に奉じたものである。その同盟関係は伽耶諸国が滅びるまでの約200年間続いた。任那同盟諸国(任那連合と加羅連合)は、軍事的に倭国の保護を受ける代わりとして、倭国に自国の一部の領地を官家として差出し、その年貢を徴収して調貢した。任那同盟諸国の国王にとっては、新羅・高句麗・百済に占領されるよりも、倭国に官家を差出し、軍事的に倭国の保護を得た方が得策と倭国に頼っただけのことである。任那同盟諸国の南加羅・㖨己呑が新羅に占領されると、倭国は必至で新羅からその2ヶ国を奪回しようとしたが、それは官家のシステムが瓦解するからであった。任那同盟諸国は倭国の属国でもなく、植民地でもなく、同盟国であった。

532年[継体23年]には、「任那王、己能未多干岐が来朝した。――己能未多というのは、思うに阿利斯等であろう。」とある。阿利斯等は加羅の国王の名で、加羅連合の盟主国である加羅の国王が任那王と呼ばれている。532年は金官国(南加羅)の国王・金仇亥が新羅に投降した年である。それまでは、任那連合の盟主国である南加羅(金官国)の国王も任那王と呼ばれていたと思える。もしも任那諸国が倭国の属国であれば、任那日本府の長官が任那王となったであろう。継体天皇の時代以降は、任那日本府の権限はそれほど大きなものでなく、任那同盟諸国の官家の管理をしていた程度であったと思われる。

雄略8年(471年)新羅が高句麗の攻撃を受け、その救援を任那王に「どうか助けを日本府の将軍たちにお願いします」と求め、任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子らを送り、新羅を助けさせている。雄略天皇(武)は宋の皇帝から、軍事・内政面に支配権を与えるという「使持節・都督・諸軍事」の称号を得ている。雄略天皇の時代、任那日本府には倭国の軍隊が常駐し、任那同盟諸国の防衛機能を果たしていたのであろう。このときの任那王は南加羅(金官国)の国王であり、任那日本府は南加羅(金官国)に置かれていた。

継体天皇紀には任那日本府の言葉は一度も出て来ない。継体天皇の時代、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を百済に割譲したこともあり、任那日本府に倭国の軍隊を駐留さすことが無くなったのであろう。その隙を突いて、新羅は南加羅・
㖨己呑を占領したと思える。南加羅・㖨己呑を奪回するために、倭国から毛野臣が軍を率いて任那に行ったことからしても、継体天皇の時代、任那日本府には倭国の軍隊が常駐していなかったことが分る。宣化2年(537年)にも、新羅が任那を侵略したため、倭国は磐・狭手彦を遣わして、任那を助けさせている。南加羅が滅ぼされた532年以降は、任那日本府は安羅に置かれている。

欽明2年(541年)と欽明5年(544年)に
任那の再興(南加羅・㖨己呑・卓淳の奪回)に関する会議が百済で聖明王のイニシアチブのもとで開かれている。出席者は、任那日本府の吉備臣と任那同盟諸国(安羅・加羅・率麻・斯二岐・散半奚・多羅・子他・久嗟)の旱岐(君主)あるいは執事(役人)である。第一回の任那復興会議では、「任那の境に新羅を呼んで、こちらの申し入れを受けいれるかどうかを問いただす。」との聖明王の提案があった。

私の想像であるが、任那日本府の役人は聖明王の提案により、新羅と接触を計り、
南加羅・㖨己呑・卓淳の返還を要求したのであろう。もちろん新羅がそんな要求を呑むはずはなかった。そうすると百済は一転して、任那日本府の役人が新羅の策謀に陥って内応していると非難している。そして、第二回の任那復興会議では、「任那日本府の吉備臣・河内直・利那斯子・麻都の4名を辞めさせ帰還させる。」と天皇に奏上しようと提案している。任那の再興の成果が上がらないのは、任那日本府の臣や執事が新羅に内応しているからだと、その責任を任那日本府に押し付けるものであるのであろう。欽明天皇の時代、任那日本府には倭国から派遣された卿・臣・執事の役人がいたが、将軍はいなかったようで、軍隊を持たない任那日本府には何の権力もなかったのである。

韓国の考古学者は、任那日本府が実在すれば必ずやその遺跡が存在するはずである。しかし、戦前の日本人の発掘調査を含めて、これまでそのような遺跡は出土していない。だから任那日本府は存在しないという見解である。朝鮮半島の南部に住んで倭人は、任那連合の時代(日本の古墳時代)には、倭語は話したであろうが、文化的には伽耶の文化の中にいた。また、倭国から任那日本府にやって来て常駐していたものはそれほど多くなく、任那日本府の存在が確認できるほどの倭国の遺物は無いのではないかと思われる。

Z-79.朝鮮倭系遺物.png熊谷公男氏は『日本の歴史03、大王から天皇へ』で、「列島からもたらされた遺物、列島からやってきた人々が半島で製作された遺物が、半島南部の加耶地域の遺跡から少なからず出土している。・・・弥生時代までの倭系遺物は、北部九州のものが大半を占めるが、古墳時代にはいると畿内の遺物が主体となる」として、図Z79を掲載している。倭国が伽耶に進出していたことを示している。一方、倭国も任那同盟が始まった369年頃から、伽耶の文化を取り入れることにより、甲冑・利器・馬具・須恵器の文化を花開かせている。


53-11.任那の滅亡と任那の調 [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『三国史記』新羅本記、「522年、加耶国王が使者を派遣して花嫁を求めてきた。王は伊湌(最高官位)の比助夫の妹を加耶に送った。524年、王は巡幸して、南部国境地帯の勢力を拡大した。伽耶国王が来て会盟した。」とある。520年己汶の地を倭国により百済に割譲させられた加羅同盟は、倭国との戦いに備えて新羅に接近したのである。

一方『日本書紀』には、532年[継体23年]3月、「加羅王は新羅王の女を娶って子を儲けた。新羅は女を送るとき百人のお供を付けた。各県に分散して受け入れたが、新羅の衣冠を付けた。加羅王・阿利斯等は衣服を変えたことに憤り、お供の人々を新羅に送り返した。新羅は面目を失い、王女を返すよう要求した。加羅はその要求を拒否した。ついに新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の三城を攻略し、また北境の五城も攻略した。」とある。「52
-5.金官国(南加羅)の滅亡は毛野臣のせいか」で示したように、532年[継体23年]の記事に在る話は、年月が前後して挿入されており、「加羅王は新羅王の女を娶って子を儲けた。」は、522~524年のことで、新羅が「刀伽・古跛・布那牟羅の三城を攻略し、また北境の五城も攻略した。」のが532年のことであろう。532年には金官国が新羅に投降し、それに続いて㖨国が新羅に滅ぼされている。「北境の五城」は加羅北部にある㖨国に比定した星山伽耶と考える。

欽明2年(541年)と欽明5年(544年)に百済の聖明王のもとで開かれた、金官国(南加羅)と㖨国(㖨己呑)の奪回のための任那復興会議に、加羅は多羅と共に参加している。加羅連合の地、己汶(南原)・滞沙(谷城)・多差津(蟾津江河口)を百済に奪われた加羅と多羅にとつては、会議をボイコットしてもよさそうであるが、新羅との戦いが始まっている加羅連合にとっては、連合国である㖨国の奪回することにより、新羅の脅威を除くためにも、百済と倭国の後ろ盾が必要であったのである。

『三国史記』新羅本紀、真興王23年(562年)には、「加耶が反乱を起こした。王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含を副将とした。斯多含は五千騎を率いて先鋒隊となり伽耶城の栴檀門に押し入り白旗を立てた。・・・異斯夫が軍隊を率いてやってくると、伽耶軍は一度にすべて降伏した。」とある。『日本書紀』には、欽明23年(562年)の記事に「新羅は任那の官家を打ち滅ぼした――ある本には、21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国である。」とある。安羅国と比定されている威安郡伽耶邑にある城山山城からは、山城建設の際の多数の荷札木簡が出土している。この木簡の内容からは、540年から560年頃にかけて、新羅が安羅に造った山城であることが分っている。『日本書紀』欽明22年(561年)の記事には「新羅、城を阿羅の波斯山に築いて、日本に備えた」とある。阿羅は安羅のことであり、安羅も加羅の滅亡前に新羅に滅ぼされている。加羅(大伽耶)の滅亡が、任那連盟の滅亡でもあった。

Z-80.6世紀末朝鮮半島.png新羅の真興王(540~576年)は、任那連盟(任那連合+加羅連合)を滅ぼす以前にも、積極的に領土拡張を進めている。541年から百済の聖王と同盟を結び、高句麗と交戦していた百済を助けたが、その一方では550年の高句麗と百済が交戦した時に乗じて、漢江上流域(忠清北道北部)の百済と高句麗の城を奪い取り、553年には百済が高句麗から取り戻した漢江下流域(京畿道)を奪い領有している。554年百済が加羅と連合して新羅の管山城(忠清北道南部)を攻撃した時には、奇襲攻撃で百済の聖明王を討ち取っている。これらの領土拡大については、各地に残る丹陽赤城碑(忠清北道丹陽郡)、昌寧碑(慶尚南道昌寧郡)、磨雲嶺碑(咸鏡南道)、黄草嶺碑(咸鏡南道)、北漢山碑(ソウル特別市)といったいわゆる真興王巡狩碑によっても確認することができる。図Z80に6世紀末の朝鮮半島勢力図を示す。

『日本書紀』を「任那」の文字で検索すると、最も多いのが29代の欽明紀で133件、2番目が33代の推古紀で29件、3番目が26代の継体天皇紀で16件である。欽明天皇紀の話題は「任那の復興会議」であり、継体天皇紀の話題は「哆唎等4県・己汶・多沙津の割譲」である。任那が562年に任那が滅んだ後の、推古紀(593~628年)における任那の話題は何であろうか。

敏達4年(575年)の記事に「新羅が使いを遣わして調をたてまつった。恒例よりも多かった。同時に和陀・多多羅・須奈羅・発鬼の四ヶ村の村の調をたてまつった。」とある。この四村は任那の地であり、この調は「任那の調」と呼ばれている。「52
-9.倭国は任那をどのように統治したか」で示したように、「和陀」は金官国(金海郡)、多多羅は卓淳国(昌原郡)、「須奈羅」と「発鬼」は、安羅国(咸安)と古嗟國(固城)にあった倭国の官家の村と考えた。敏達4年(575年)の任那の調は、562年に任那同盟諸国が亡び全ての官家の支配権を失っているにも関わらず、任那連合諸国の全ての官家の調を、新羅は倭国に奉っている。

これと同じような記事が、推古31年(623年)にもある。「新羅が任那を討っち、任那は新羅に付いた。天皇は吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に遣わし、任那の事件について問いただした。新羅国王は「任那は小さい国であるが天皇に付き従う国である。新羅が気ままに奪ったりはしない。今まで通り内宮家と定め心配ない。」と約束し、任那の調を奉っている。また、推古31年(623年)には、新羅は仏像一体および金塔と舎利を倭国に奉っている。新羅が任那を562年に滅ぼし、自国領に取り入れているんも関わらず、任那の調を倭国に奉っているのは、倭国の任那奪還を諦めさすための方便であり、百済との戦いで倭国を敵に回したくなかったのであろう。

孝徳天皇紀の大化元年(645年)7月に、「百済の調の使いが、任那の使いを兼ねて、任那の調も奉った。」とある。『三国史記』によると、642年に百済が新羅の西部の四十余城を攻め落とし、大耶城(慶尚南道陜川郡陜川面:もと多羅国)を陥落させた。新羅は唐や高句麗の援助を得られず、名将の金庾信を大将軍として戦い、648年には百済を撃破し奪回している。645年には任那(任那連合)の地は、百済の手中にあり、百済が任那の調を奉ったのであろう。百済も倭国を味方に付けておく方策をとっていた。

大化2年(646年)の記事には、「黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出させるとともに、新羅からの任那の調を奉つらせることを取り止めさせた。」とある。大化の改新により朝廷の税収が安定し、「任那の調」を当てにしなくてすむようになったのであろう。この記事以降、『日本書紀』を「任那」の文字は出て来ない。朝鮮半島南部の洛東江下流とその支流南江に囲まれた、倭人が住んでいた地域にあった任那連合の地を、倭国が諦めた年であった。


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