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48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ ブログトップ

48-1.魏志倭人伝の情景描写は正確 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

邪馬台国の卑弥呼を書いた魏志倭人伝は、日本の古代史を語る上であまりにも有名である。この魏志倭人伝は中国の三国時代、220年~280年について書かれた正史『三国志』の魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻の中の「魏志」の「東夷伝」にある「倭人条」の事である。この『三国志』は285年の頃に陳寿により編纂されたが、この陳寿は魏・呉・蜀の三国が連立し、天下に覇を競っていた時代、また、女王卑弥呼の使いが魏の都、洛陽を訪れた時代に生きていた生証人でもあった。

それでは魏志倭人伝の読み下し文をもとに、「帯方郡」から「邪馬台国」への道を辿ってみる。「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり。今、使訳通ずる所三十国」。出発地の帯方郡は、韓国京畿道の臨津河口付近、ソウル近郊とされていたが、北朝鮮黄海道の鳳山郡文井面九龍里、沙里院近辺の墓から「帯方大守張撫夷」という墓誌が発見され、帯方郡は鳳山郡にあったとする見解が多くなって来ている。帯方郡の都は、平壌の南、大同江河口付近であったと想定して、倭国への旅を出発する。

Z12.帯方郡2.png「郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるいは)南し乍(あるいは)東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」。漢和
辞典で調べると「乍A乍B」は「Aしたかと思うとBする」の意味を表すと
ある。「乍南乍東」と南から東へと方向転換したのは、白翎島と珍島あたり
の2回であろう。北朝鮮の大同江河口付近から黄海を南下し、白翎島から転
じて東に航路をとり、仁川付近から韓国の沿岸を南に水行し、そして韓国南
東端の珍島から東に転じて水行すると狗邪韓国に至る。狗邪韓国は対馬に最
も近い現在の釜山、あるいは金海と考える。図Z12で見られるように、帯
方郡から狗邪韓国への行程について、魏志倭人伝が正確に描写していること
が分る。


Z13.対馬・壱岐.png帯方郡から倭国に到る道程の中で、「始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る」、「居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、森林多く、道路は
禽鹿の径の如し」、「千余戸あり、良田なく、海物を食して自活し、船に乗り
て南北に市糴
(してき)す」と表現された「対馬国」ほど、その地名といい、位
置といい、島の様子といい現在の長崎県の「対馬」と比定して異論のある人は
いないであろう。魏志倭人伝に出て来る諸国のうち、一番明確に比定出来る国
と言って過言ではあるまい。

対馬国より次の一支国へ進もう。魏志倭人伝には「また南一海を渡る千余里、
名づけて瀚海
(かんかい)という。一大国に至る」とある。島の様子は「方三百里ばかり竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す」となっている。対馬の南に有る島と言えば、それは壱岐でしかない。図Z13にみられるように対馬より壱岐のほうが、山が少なく平坦であり、そのことが文章にも表れている。原文では「一大国」と書かれているが、それが壱岐に相当することから、「一支国」の間違いではないかとするのが通説であり、私も「一支国」と表現する。

一支国から末盧国へは「また一海を渡る千余里、末盧国に至る」とあり、方角は示されていない。しかし一支国の、国の様子に「南北に市糴す」と記載されてあり、一支国から見て北が対馬国、南が末盧国と云うことになる。壱岐を出た船は南に進路を取り、松浦半島の沖合にある島々を目指したであろう。そして、半島先端に航路を取り、その後半島にそって唐津湾を進んだに違いない。末盧国は唐津付近にあったと考える。

Z13.5唐津.png末盧国の様子は魏志倭人伝に「四千余戸あり。山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」とある。「山海に浜うて居る」等、唐津湾内にある虹の松原の砂浜を彷彿させる。唐津湾には松浦川が流れ込んでおり、「草木茂盛し、行くに前人を見ず」のイメージは合っている。地名からしても、「末盧・マツロ」と「松浦・マツウラ」の語呂が似ている事から、唐津平野に末盧国を想定する人も多い。



末盧国とする唐津平野には、弥生時代中期の初めの金海式甕棺(Kc)から中期中頃の須玖式甕棺(Ka)までの約250年間、細形青銅武器を副葬し続けている宇木汲田遺跡がある。後期前半の桜馬場式甕棺(Ka)の時代には、漢鏡4期の方格規矩鏡2面が出土した桜馬場遺跡がある。桜馬場遺跡は「末盧国の王墓」と考えられており、『後漢書』王莽伝にある「東夷の王、大海を渡りて、国珍を奉ず」の時代のものとされている。唐津は唐(から)の津(みなと)であり、朝鮮半島や中国大陸からの文化受け入れの窓口であったと思われる。それにしても、魏志倭人伝に書かれた、帯方郡から末盧国までの行程の情景描写は、非常に正確であると言える。



 


48-2.糸島平野に伊都国は無かった [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

Z14.唐津市から糸島市.png

末盧国の次は伊都国、魏志倭人伝に云う「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。魏志倭人伝に書かれた伊都国について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島平野(糸島市)としている。いわゆる邪馬台国論争の近畿説・九州説、どちらの説もこの伊都国の比定は同じである。伊都国が糸島平野にあるとすると、末盧国から伊都国への方角は、「東南」は「東北」の間違いと言わなければならない。また、陸行については、図Z14に示すように唐津街道と言われる国道202号線が海岸ぎりぎりを走っているように、回り道もない陸の難所を15キロメートルも通らなければならない。伊都国には津(港)があると魏志倭人伝に記載されている。図Z15は糸島地方の地形略地図のであるが、糸島市には遣唐使船も出港した加布里という絶好の港がある。末盧国から伊都国へ行くには、船の方が速くて安全である。陸行の必然性が全くない。これらからして、伊都国は糸島平野には無かったと言える。

Z15.糸島地方の地形図.png糸島平野を伊都国とする考えが定説となった根拠は、伊都国と推定された糸島市付近が奈良時代より「怡土(いと)」と呼ばれ「伊都(いと)」と一致したことによる。万葉集5-813番に山上憶良が筑前守であった730年頃に、神功皇后を詠った歌がある。歌の前書きは「鎮懐石を詠む歌一首、筑前国怡土郡」で始まる。この鎮懐石については、712年に編纂された『古事記』には「筑紫国伊斗村にあり」と、720年に編纂された『日本書紀』には「筑前伊覩縣の道のほとりにある」と記載されてある。糸島平野を「怡土」「伊斗」「伊覩」と色々の漢字が当てはめられているが、奈良時代には「いと」と呼ばれていたことは確かである。

糸島平野が「いと」と呼ばれるようになったことについて『日本書紀』仲哀8年の記事に、筑紫の伊覩県主の先祖の五十迹手
(いとて)が船で仲哀天皇と神功皇后をお迎えに行き、「天皇は五十迹手を褒められて『伊蘇志(いそし)』とおっしゃつた。時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇(いそ)国といった。いま伊覩というのはなまったものである」とある。この話は「筑前国風土記」逸文の「怡土郡」の条にもある。『日本書紀』に書かれた五十迹手の話は史実であり、糸島平野を「いと」と呼ぶようになったのは古墳時代で、弥生時代の終わりの邪馬台国の時代には、伊都国と呼ばれる国は糸島平野に無かったと考える。


48-3.伊都国は吉野ヶ里遺跡 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

Z16.伊都国への陸行.png

それでは伊都国への道をたずねたい。出発点は唐津市の海岸近くある桜馬場遺跡からとする。「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。唐津市から「東南」の方角とは、松浦川に沿った国道203号線、佐賀市に抜ける唐津線が通るルートしかない。唐津市から松浦川沿いの道は、魏志倭人伝の末盧国の様子に「草木茂盛して行くに前人見えず」とあるのとピッタリである。日本海と有明海の分水嶺は標高100mの笹原峠で桜馬場遺跡から25kmの地点である。峠を下った所が多久市、そこから小城市・大和町を通り、日本中の古代史に興味を持つ人、いや、そうで無い人も含めて、注目を集めた吉野ヶ里遺跡に着く。桜馬場遺跡から吉野ヶ里遺跡まで、図Z16に示すルートの距離は約60kmである。私はこの吉野ヶ里遺跡(神崎町・三田川町)こそ伊都国であると考える。
Z17.初期青銅器文化.png
図Z17は、北部九州に朝鮮半島から青銅器文化が流入し始めた頃から
倭人が楽浪郡に献見するまで、弥生中期の初めから中葉(紀元前370
~前100年)までの、細形青銅武器(剣・矛・戈)と細形青銅武器鋳
型・多鈕文鏡・ガラス(菅玉・小玉)の分布を示す。図Z17からは、
朝鮮半島からの青銅器文化の受入窓口は、宇木汲田遺跡のある唐津湾と
吉武高木・大石遺跡のある今津湾の2ヶ所であつたと考えられる。有明
海沿岸地方の青銅器文化の伝搬経路は、唐津から松浦川を遡り有明海に
抜ける道を通って行われたように見える。魏志倭人伝に云う「東南陸行
五百里にして、伊都国に到る」はまさに、この青銅器文化が伝わった道
である。


Z18.吉野ヶ里遺構.png吉野ヶ里遺跡が注目を浴びたのは、魏志倭人伝に記載されている「楼閣」「宮室」「邸閣」「城柵」に相当する遺構が出てきたからである。吉野ヶ里遺跡は
弥生前期の初めから弥生後期の終わり頃まで続いた遺跡であるが、邪馬台国の
時代と関係の深い弥生後期の遺構についてのみ述べる。
図Z18は吉野ヶ里遺
跡の遺構分布図であるが、後期の遺構は外濠の中に二重濠で囲まれた南内郭と
北内郭および高床倉庫群である。
北内郭は約100mx100mで、建物は掘
立柱が主体で、「宮室」に相当する大型建物跡は約12
.5m四方で、径40~
50cmの柱が16本あり高層建築とされている。北内郭の内部や周辺には祭
祀用土器が多量に出土しており、首長層が居住する地区と考えられている。
南内郭の大きさ
は約150mx100mで、建物は竪穴式住居が主体で、多数
の生活用土器とともに鉄製の農具・工具が出土している。この二つの内郭には
「邸閣」にあたる物見楼
らしい建物跡がある。南内郭に隣接し「邸閣」にあたる高床式倉庫群19棟の大きさは、3.5~6.5mx2.2~4.5mで、普通の弥生の高床倉庫の4倍くらいの面積であるそうだ。南内郭と北内郭を取り囲む内濠からは、弥生中期末から後期末までの土器が出土しており、これらの内郭が卑弥呼の時代には存続していたことは確かなようだ。


Z19.吉野ヶ里写真.png

魏志倭人伝には「租賦を収むるに邸閣あり。国々に市あり。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。女王より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。」とある。伊都国には諸国を監察する「一大率」が常駐していたのである。吉野ヶ里遺跡の北内郭は「伊都国王」の宮殿で、南内郭は「一大率」の常駐していたところで、隣接する倉庫群は「一大率」の管理下にある倭国の倉庫群とすれば、魏志倭人伝と吉野ヶ里遺跡がピッタリ一致する。


48-4.卑弥呼への贈物は伊都国の港から船便 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

Z20.邪馬台国への行程1.png

魏志倭人伝は伊都国に続く国々の方角と距離を次の様に書いている。「東南奴国に至る百里」、「東行不弥国に至る百里」、「南、投馬国に至る水行二十日」、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所。水行十日陸行一月」。なお、魏志倭人伝の原文では「邪馬壱国」となっているが、通説では「邪馬台国」とされており、私も「邪馬台国」として扱う。 伊都国以降、邪馬台国への行程について二つの考え方がある。それを図Z20図①と②に示す。一つは①のように、伊都国・奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国と直列的に考える方法と、もう一つは榎一雄氏が初めて提案した考え方で、②のように、伊都国以降については伊都国を中心に放射線状に、奴国・不弥国・投馬国、邪馬
台国が関係しているという考え方である。


私はこれら邪馬台国への行程について次のように考える。まず魏志倭人伝の原文を見ていただきたい。伊都国までは距離が「至」の前にあり、奴国以降は方角が「至」の前にある。明らかに伊都国までと、それ以後では関係が違っている。
    始度一海千餘里對馬国
    又南渡一海千餘里名曰瀚海一大国
    又渡一海千餘里末盧国
    東南陸行五百里伊都國
    東南奴国百里
    東行不彌国百里
    投馬国水行二十日
    邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月

魏志倭人伝には次の文章がある。「女王より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず」。
「津に臨みて捜露し」、「津」とは「みなと、船着き場」。「捜露」とは「もちものを調べること」となっており、伊都国に港があったのである。


女王国(邪馬台国)から帯方郡に送る貢ぎ物、帯方郡から女王国への賜り物が、伊都国で陸揚げされているということは、貢ぎ物や賜り物は伊都国と女王国の間を船で運んでいることになる。伊都国以降の行程を直列的に考える場合、人は伊都国から奴国経由で不彌国へと陸行し、不彌国から船に乗って投馬国経由で邪馬台国へ行くことになる。大切な賜り物は伊都国から邪馬台国まで船で運んでいるので、不彌国からは人と賜り物は同じ船に乗ることになる。伊都国から奴国経由での不彌国への陸行の必然性が全く分からない。放射線状で考えれば、伊都国の港から人も賜り物も一緒に、邪馬台国へ船で行くことになる。放射線状の関係が魏志倭人伝の文章に即している。

魏志倭人伝に書かれた伊都国について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島平野(糸島市)としている。伊都国を糸島平野に比定したとき、放射線状であれば、東南百里の奴国は須玖岡本遺跡のある春日市に、東百里の不彌国は糟屋郡宇美
(うみ)町にあてられるであろうが、南に船で水行する投馬国・邪馬台国は、糸島平野の南は背振山地で成り立たない。そのため、邪馬台国の研究者のほとんどが伊都国以降の行程を直列的に考えている。そして、伊都国に港があり、貢ぎ物や賜り物が伊都国と邪馬台国の間を船で運ばれていることに関しては口を閉ざしたままである。

伊都国が吉野ヶ里遺跡であれば、伊都国以降の国々が放射線状の関係であることを満足させる。特に有明海を南下して邪馬台国へ向かう状況はピッタリである。弥生時代の海岸線は吉野ヶ里遺跡から5~6kmであったそうだ。吉野ヶ里遺跡の傍を流れる田手川・城原川は現在よりも水量があり、吉野ヶ里遺跡の高床倉庫群の近くまで船が遡上でき、港があったと考える。


48-5.奴国は東南百里、不彌国は東百里 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

Z21.奴国・不彌国.png

魏志倭人伝に書かれた諸国の比定を、伊都国を中心に放射線状の関係
として進める。「東南至奴国百里」、奴国は伊都国から東南の方向、
百里のところにある。吉野ヶ里遺跡から東南の方向は、途中に視界を
遮るものもなく有明海や筑後川がある。佐賀県の有明海沿岸を走る国
道264号線は標高4~5mで、国道に沿った一帯では貝塚が多くあ
り、弥生時代の海岸線と考えられている。筑後川の南側で標高4~5
mを求めると、西鉄天神大牟田線沿線となる。弥生時代、図Z21の
青線の内側は海であったと考えられる。


伊都国から奴国へは「陸行」で行ったとも、「水行」で行ったとも書
いていないので、百里は直線距離であろう。末盧国(桜馬場遺跡)か
ら伊都国(吉野ヶ里遺跡)までが「五百里」で60kmであった。
「百里」は「五百里」の5分の1で12kmということになる。奴国は吉野ヶ里から東南の方角に直線距離で約12kmの所にあると考える。八女市・広川町・筑後市の境にある八女古墳群は、吉野ヶ里遺跡から東南15kmの地点である。この近傍に奴国が在ったと推察する。

「47
-4.奴国の野心が倭国大乱の引金」で述べたように、奴国は糸島平野で生まれた倭国の盟主国で、筑後平野に侵出することにより、倭国大乱の引き金を引いた国であった。奴国はその都を大陸との窓口であった糸島平野(糸島市)から、青銅器生産地の春日丘陵(春日市)に、そしてコメの生産地である筑後平野に遷している。弥生時代後期後半の奴国の都は、中広・広形銅矛が13本出土した八女市吉田と18本出土した八女郡広川町藤田の近郊にあると考える。倭国の歴史から考えた奴国の都と、魏志倭人伝に記載の奴国の場所が一致する。

魏志倭人伝には、対馬国は千余戸、一支国は3千戸、末盧国は千余戸、伊都国は千余戸とあり、奴国は2万余戸とある。これらからしても、奴国の領域を筑紫国(筑前国+筑後国)とし、その都を八女市の近郊とするのも妥当である。古墳時代後期(6世紀前葉)に大和王権に反乱を起こした筑紫国造磐井の墓(前方後円墳)が八女市にある。筑紫国造磐井は奴国王の末裔であると考えている。

「東行至不彌国百里」、吉野ヶ里遺跡から東に進むと、筑後川を挟んで対岸に久留米市を見る佐賀県の東端の鳥栖市に至る。鳥栖市付近からは、整然と並べられた12本の中広形矛が発掘された検見谷遺跡(北茂安町)や、銅矛・銅鐸の鋳型が出土し、鋳造工房跡と見られる安永田遺跡がある。また、柚比本村遺跡からは吉野ヶ里遺跡の宮殿と見られる建物を超える弥生時代最大の建物跡(9
.8x16.6m)が見つかっている。鳥栖市付近を不彌国と考える。不彌国の都は安永田遺跡や柚比本村遺跡のある鳥栖市柚比町付近と考えるが、弥生後期の中広形矛が出土した北茂安町に近い鳥栖市南部かも知れない。吉野ヶ里遺跡から鳥栖市の方角は東北東に当たるが、魏志倭人伝の通りの「東」と言え、距離は15kmで「百里」と言える。


48-6.投馬国へ水行二十日 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

「南至投馬国水行二十日」、水行とは海岸に沿って舟で航海する事であろう。「水行二十日」ではその距離が判らないので、場所の特定が出来ない。末盧国(桜馬場遺跡)から伊都国(吉野ヶ里遺跡)までが「陸行五百里」で距離は60kmであった。魏志倭人伝にある「五百里」は実際に計測した距離ではないだろう。歩いた日数から距離を「五百里」と計算したに違いない。中国、唐代の官制・法制について記した書、『唐六典』には1日の歩行距離は50里とある。そこで、「陸行五百里は、10日の行程で距離は60km」と定理する。ただし、60kmは現代の道路での話であり、古代に歩いた距離はもっと長い道のりであっただろう。そして、「水行は陸行の2倍進む」と定理し、「水行五百里は、5日の行程で距離は60km」と定める。この二つの定理は、投馬国のみならず邪馬台国の比定にも共通して適用する。

Z22.投馬国・邪馬台国.png当時、伊都国と仮定した吉野ヶ里遺跡の近くまで有明海がきていた。そして、伊都国に港が在った。その港から有明海を九州西岸に沿って南下すれば、20日で投馬国に至る。定理に従えば、「水行二十日」は240kmの距離である。吉野ヶ里遺跡付近から当時の筑後川河口を通り、大牟田市を通って熊本市の沖から、当時島であったと言われている宇土半島の付け根を通り、八代・水俣・阿久根市を経て川内川河口までが200km、川内川を少し遡行した鹿児島県川内市が212kmである。

定理通りに計算すると水行18日となる。距離の測定が直線的であり、沿岸にもっと沿った測り方をすれば、一割くらいは増加するだろう。川内市付近を水行20日の投馬国の都と考える。都としたのは投馬国が5万戸の戸数を持ち、奴国同様に大きな国と考えるからである。投馬国は平安時代に出来た「延喜式」に書かれた「薩摩国」、現在の薩摩半島を主体とする、
鹿児島県の西半分の領域であると想定する。


48-7.邪馬台国へ水行十日と陸行一月 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

それではいよいよ邪馬台国への道を進もう。「南至邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月」。南に水行10日は投馬国への水行の半分で、定理に従えば120kmということになる。吉野ヶ里遺跡付近から100kmが球磨川の河口熊本県八代市付近になる。陸行1月と球磨川を遡行し、熊本県人吉市に抜ける道も考えられるが、日本三大秘境の一つである球磨川沿いに、遡行することは当時困難なことであったに違いない。八代市から不知火で有名な八代海を南下した所に野坂の浦と言う天然の港がある。この港の奥が熊本県芦北町佐敷である。吉野ヶ里遺跡付近から芦北町佐敷までの約127kmになり、定理に従えば水行10.5日となりほぼ「水行十日」に合致する。

Z22.投馬国・邪馬台国.png芦北町佐敷から、穏やかな流れの佐敷川を遡り、標高差(130m)の少ない県道を15km行くと球磨川に出る。球磨川を遡上し人吉まで21kmである。熊本県人吉市からは宮崎県えびの市まで国道221号線で27km、国道は途中にトンネルもあり、標高差が約600mの国見山地を越えるので、倍の54kmと計算する。えびの市からは高千穂の峰のある霧島山の裾野を通り、小林市から宮崎方面に向かい、野尻町から高岡町・国富町を通って西都市に向かう75kmの道が、古くからあったことが平安時代に出来た「延喜式」に出ている。芦北町佐敷から西都市までが165kmで、定理に従えば27.5日と「陸行一月」とほぼ一致する。私は邪馬台国の都がこの宮崎県西都市付近にあったと考えている。邪馬台国の戸数は七万余戸となっており、その領域は「延喜式」に書かれた「日向国」であろう。

「その南に狗奴国あり。男子を王となす。女王に属せず」、狗奴国は邪馬台国の南にある。この事より狗奴国は都城を含んだ大隅半島一帯で、「延喜式」でいう「大隅国」に当たり、都は志布志湾沿岸にあった。「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く」文章からして、邪馬台国と狗奴国は以前から争いを繰り返していたように思える。そのような争いをする国と国の位置関係は、隣接していたに違いない。「日向」と「大隅」、この関係はこれらの条件を満足している。大隅半島の宮崎県串間市から、江戸時代に外径33
.3㎝の硬玉製の穀璧が石棺から鉄製品と共に出土し、現在国宝となっている。穀璧は中国の皇帝が諸侯に与えたものであり、狗奴国の男王「卑弥弓呼」が所持していたもと推測している。

Z23.邪馬台国は日向.jpg図Z23に魏志倭人伝に書かれてある通りの国名・方角・距離と九州の地図を重ね合わせてみた。伊都国が吉野ヶ里遺跡であり、邪馬台国が日向の地にあったことが明白である。魏志倭人伝に記載された方角と里数・日程を何一つ訂正することなく、邪馬台国の都に辿り着いたのが西都市であることを強調しておきたい。


48-8.西都市に邪馬台国の都があった [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

北朝鮮の大同江河口近くにあった帯方郡から船で出発し、韓国金海にあった狗邪韓国を経て、対馬の対馬国・壱岐の一支国を通り、唐津の末盧国に上陸し、神崎町の伊都国へ陸行。有明海を南下水行して、芦北町佐敷から陸行、人吉市から山を越え小林市へ、そして邪馬台国の都である西都市に到着する。帯方郡より邪馬台国までの道のりは、魏志倭人伝に「郡より女王国に至る万二千余里」とある。帯方郡から伊都国までを合計すると1万5百余里なので、伊都国から邪馬台国までが千5百里となる。

一方、「陸行五百里は、10日の行程で距離は60km」、「水行五百里は、5日の行程で距離は60km」と定めた定理からすると、伊都国から邪馬台国まで陸行10日・水行1月は、水行10日が千里、陸行1月が1千5百里で合計2千5百里となる。魏志倭人伝から算出した里数の方が千里も少ない。定理が間違っているのだろうか。

下記に示す「記載里数」は魏志倭人伝に書かれている里数である。伊都国から邪馬台国までが千5百里となっているのは、[帯方郡~邪馬台国]の「記載里数」から[狗邪韓国~伊都国]の「記載里数」の合計を差し引いた里数である。「測定距離」は、出発国の都から到着国の都までの距離を地図上で求めたものである。「換算里数」は定理の「五百里は60㎞」を基準に、「測定距離」を里数に変換したものである。

出発国   到着国    記載里数  
測定距離  換算里数
帯方郡   狗邪韓国   7千余里  900㎞  7500里
狗邪韓国  対馬国      千里  100㎞   833里
対馬国   一支国      千里  100㎞   833里
一支国   末盧国      千里   50㎞   417里
末盧国   伊都国     5百里   60㎞   500里
伊都国   邪馬台国  (千5百里) 290㎞  2417里
---------------------------------------------------------------------
帯方郡   邪馬台国 1万2千余里 1500㎞ 12500里

「換算里数」の合計は12
,500里となり、魏志倭人伝の「記載理数」の1万2千余里とほぼ一致した。伊都国から邪馬台国までの「記載里数」が「換算里数」と約900里も違っているのは、狗邪韓国~対馬国~一支国~末盧国への渡海の「記載里数」が、過多であるためである。「波濤千里洋々と」と歌にあったが、日の出から漕ぎ出し、日の入りまで一気に航海する「渡海」は、その距離の大小よりも、千里という単位で表現されたと思う。邪馬台国の場所を特定した、陸行と水行の定理は正確であった。

Z24.西都原古墳群.png西都市には史跡公園「風土記の丘」として、全国第1号に整備された西都原古墳群がある。この西都原古墳群には、前方後円墳32基、方墳1基、円墳277基、その他地下式横穴が多数ある。これら310基以上の古墳の内、北西部の最も高い位置に男狭穂塚・女狭穂塚が在る。男狭穂塚は最近の墳丘調査の結果、造り出し付きの径132mの円墳だと分かり、女狭穂塚は全長176mで九州最大の前方後円墳である。この古墳こそ魏志倭人伝に、「卑弥呼、以に死す。大いに冡(つか)を作る。径百余歩なり。徇葬する者奴婢百余人なり。」と書かれている、卑弥呼の墓と特定したい所であるが、残念ながら両古墳とも円筒埴輪の型式(Ⅲ式)から4世紀末の古墳であり、卑弥呼の亡くなった247年頃とは大きくことなる。

西都市・新富町・高鍋町は、一辺15km四方の地区に、合計565基の古墳が在る古墳の宝庫である。しかし、弥生時代の象徴である青銅器を伴出する遺跡は皆無で、弥生文化の後進地域と考えられ、邪馬台国の都が存在するなどとは、学者の間では考えられたことはなかった。ところが、1985年に新富町の川床遺跡で、弥生時代の後期後半から古墳時代の初期、卑弥呼の時代の195基の円形周溝墓・方形周溝墓・木簡墓・土壙墓が発掘され、素環頭大刀1点、剣5点、刀子7点、鉄鏃67点、鉇
(やりがんな)5点、袋状鉄斧5点、計90点の鉄器が出土した。

『邪馬台国と玖奴国と鉄』菊池秀夫
(2010)に記載された、弥生時代の武器類鉄器の九州のベスト20を見ると、川床遺跡は武器類鉄器では80点で2位、鉄器全体では90点で5位の位置にある。因みに『「邪馬台国畿内説」徹底批判』安本美典(2008)に記載された都道府県別の武器類鉄器をみると、九州7県で1726点、近畿7県390点出土している。中でも大阪府は50点、奈良県にいたっては5点のみである。川床遺跡の武器類鉄器の80点が如何に多いかが分かる。川床遺跡の年代は弥生後期後半から古墳前期初頭(布留式併行期)とみられており、邪馬台国時代の遺跡と言っても過言ではあるまい。西都市に邪馬台国の都があると言っても、考古学的にも齟齬はない。


48-9.女王・卑弥呼を共立した国々 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は、対馬国・一支国・末盧国・伊都国・不彌国・奴国・投馬国・邪馬台国の8ヶ国と「女王国より以北は、その戸数道里を略載し得べくも、その余の旁国は、遠絶にして、詳らかにすることを得べからず。次に斯馬国あり、・・・次に奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。」とある21ヶ国、合わせて29ヶ国である。魏志倭人伝には「今使訳通ずる所三十国なり」とあるのは、邪馬台国と敵対している狗奴国も魏と通じていたのであろう。

Z25.銅剣・銅矛・銅鐸.jpg魏志倭人伝には、「其の國、もとまた男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年」とある。女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は、もとは奴国の男王を倭国王に担いでいた国々でもある。これらの国々の誕生は弥生中期で青銅器文化が発展した時代と考える。弥生中期の時代は哲学者和辻哲郎氏が唱えた「銅剣・銅矛・銅戈文化圏と銅鐸文化圏」(図Z25)が、出雲・吉備を境にして存在していた。対馬国・一支国・末盧国・伊都国・不彌国・奴国は「銅剣・銅矛文化圏」に入っており、女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は出雲・吉備以西の「銅剣・銅矛文化圏」の国々と考える。なお、邪馬台国の日向、投馬国の薩摩からは、銅剣・銅矛が出土
していないのは、弥生後期の鉄器時代に出来た国であるからであろう。

女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は、弥生後期の終わりに存在していた国々であり、古墳時代の初めにも存在していた国々でもある。大和王権が全国を支配して行くなかで、地方の豪族が支配していた国々は「国造」という名のもとに、大和王権に組み込まれていったと考える。女王・卑弥呼を倭国王に共立した29ヶ国と、邪馬台国の南にあり敵対した狗奴国は、吉備・出雲より以西の九州・中国の「国造」であると考える。下記に平安時代の「国名」と「国造」を対応させて記載し、魏志倭人伝に記載された8ヶ国を当てはめた。魏志倭人伝には女王より以北の21ヶ国の国名が記載されているが、これらの国名と国造を具体的に比定出来ないので番号で示した。


国 名 国 造
[魏志倭人伝国名:戸数]
対馬国 津島県直[対馬国:千戸]
壱岐国 伊吉[一支国:三千戸]
筑紫国 筑紫[奴国:二万戸]
肥前国 末羅[末盧国:四千戸]、筑紫米多[伊都国:千戸]、松津[不彌国:千戸]、葛津直[
肥後国 火[ ]、阿蘇[ ]、天草[ ]、葦北[
豊前国 豊国天草[ ]、宇佐[
豊後国 国前[ ]、比多[ ]、大分[
日向国 日向[邪馬台国:七万戸]
薩摩国 薩摩[投馬国:五万戸]
大隅国 大隅[狗奴国:一万二千戸]
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長門国 穴門[ ]、阿武[
周防国 波久岐[ ]、都怒[ ]、周防[ ]、大島[  
安芸国 安芸[
石見国 石見[
出雲国 出雲[
美作国 美作[
備後国 吉備品治[ ]、吉備穴[ ] 
備中国 吉備中県[ ]、笠臣[ ]、下道[ ]、加夜[
備前国 上道[ ]、三野[ ]、大伯[

魏志倭人伝に記載された戸数が一万戸以上の国々は、奴国(筑紫国)、邪馬台国(日向国)、投馬国(薩摩国)、狗奴国(大隅国)と平安時代の国々と一致している。卑弥呼の時代の国の大きさは、学者・研究者の想定外である。日本書紀には応神天皇22年に、吉備国を川島県・上道県・三野県・波区芸県・苑県の6県に割いた話がある。大和朝廷設立当時、岡山平野にあった国造はもともと吉備国(備前国・備中国・備後国)として一つの国造であったと思われる。魏志倭人伝に書かれた30ヶ国は、吉備・出雲より以西の九州・中国の「国造」と一致する。女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々の東の端が、吉備と出雲であることは、倭国の歴史解明に重要な意味を持っている。

 

 


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