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39.『風土記』は史実を語っているか ブログトップ

39-1.和銅6年に「風土記」編纂の詔 [39.『風土記』は史実を語っているか]

奈良時代は藤原京から平城京に遷都した和銅3年(710年)から始まっている。この和銅3年の10年前後は、平城京遷都のみならず大きな変革の時代であった。大宝元年(701年)には大宝律令が藤原不比等などの労により完成し、翌年には諸国に頒布され、刑法にあたる「律」と行政法・民法にあたる「令」とで統治する律令国家体制の始まりであった。そして、和銅5年(712年)には『古事記』が太安万侶により撰上され、養老4年(720年)に『日本書紀』が舎人親王により撰上されている。 

『古事記』が撰上された翌年の
和銅6年(713年)5月に、諸国に風土記の編纂を命ずる「詔(みことのり)」が出されている。
 「畿内七道の諸国の郡郷の名は好き字を着けよ。その郡内に生ずる所の銀・銅・彩色・草
  木・禽獣・魚虫等の物は、具に色目を録し、及び土地の沃塉、山川原野の名号の由る所、
  又、古老相伝の旧聞異事は、史籍に載せて、亦宜しく言上せよ。」
(新訂増補国史大系本による) 
和銅6年の「詔」は「解」と呼ばれる官命であり、以下に示した5項目について、史籍(歴史を記述した書物)に書いて報告しなさいというもので、地誌の編纂を諸国に要求している。
  1.好字を着けた郡・郷の地名
  2.郡内の産物の品目
  3.土地の肥沃の状態
  4.山川原野の名前の由来
  5.伝承されている旧聞異事 

この官命に対して諸国が提出したであろう史書が、『風土記』として5つが写本として現存している。『出雲国風土記』は完本として、『常陸国風土記』・『播磨国風土記』・『肥前国風土記』・『豊後国風土記』が一部欠損して残っている。また、その他にも後世の書物に引用された、逸文と呼ばれる風土記が20ヶ国ある。ただし、逸文とされるものにも奈良時代の風土記の記述であるかどうか疑わしいものも存在している。和銅6年の「詔」には風土記という言葉はなく、風土記という名が用いられるようになったのは平安時代の初め頃らしい。
 

諸国の『風土記』には、仁徳・応神・神功・景行天皇の名称が多く出て来る。これらの天皇について、『日本書紀』に書かれている歴史は、律令体制の国造りをする上で、天皇の権威を高めるため、藤原不比等により創作・捏造された歴史であるとする説がまかり通っている。これらの説を払拭するために、『風土記』に書かれた内容が、古来から伝わってきた伝承であり、創作されたものではないということを検証して見る。


39-2.風土記の成立年代と郡郷里制 [39.『風土記』は史実を語っているか]

私が最も関心あることは、「風土記」と『日本書紀』とでは、どちらが先に成立したかという問題である。『古事記』が撰上された翌年の和銅6年(713年)に諸国に風土記の編纂を命ずる「詔」が出され、その7年後の養老4年(720年)に『日本書紀』が撰上されたことから、「古事記→風土記→日本書紀」の順番に成立したと考えることが出来る。しかし、そうは言えない決定的な証拠がある。『出雲国風土記』の巻末の奥書に、「天平五年二月卅日 勘造 秋鹿郡人 神宅臣全大理 国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等 出雲臣広島」の文章がある。「勘造」は筆録編纂すると言う意味であり、『出雲国風土記』は天平5年(733年)に成立したことが分かる。 

風土記の成立年代は色々の面から検討されているが、律令制度下で行われた地方行政区画の再編成の変遷で見るのが分かり易い。大宝律令施行以前の地方行政区画は「国・評・五十戸」制あるいは「国・評・里」制であったことが、飛鳥から出土した木簡により確認されている。また、藤原宮から出土した木簡には「己亥年十月上挾国阿波評松里」とあり、
己亥年が文武三年(699年)で、大宝律令施行の2年前まで「国・評・里」制であったことが証明されている。その「国・評・里」制が、大宝2年(702年)の大宝律令施行で「国・郡・里」制に移行している。 

『出雲国風土記』の書き出しの総記に、「右の件の郷の字は、霊亀元年の式に依りて、里を改めて郷と為せり。」とある。この文より郡里制から郡郷里制への移行が霊亀元年(715年)に実施されたと考えられている。しかし、この「式」は他の史料に見えず、年紀が明らかな木簡で見ると、郡里制から郡郷里制への移行は霊亀3年6月以降であることから、郡郷里制の実施を霊亀3年(718年)以降に繰り下げる説も出て来ている。この郡郷里制も天平12年(740年)頃に廃止され、郡郷制に移行している。
 

『常陸国風土記』は「郡・里」の表記が25例で、「郡・郷」の表記が2例ある。「郷」の表記の一例が「郡の南二十里に香澄里
(かすみのさと)あり、・・・時の人、是に由りて霞郷(かすみのさと)と謂へり」であり、「里(さと)」と「郷(さと)」を同じに扱っている。もう一例は「郡の東七里、大田郷」とある。この「郷」の表記は誤記・誤写ではなく、「里=郷」の概念からの表記であろう。それが証拠に、和銅6年(713年)の風土記編纂の官命に、「諸国の郡郷の名は好き字を着けよ」と「郷」の字があるが、この時にはまだ郡郷里制への移行の官命は出ていない。郡里制の「里(さと)」には「郷(さと)」の文字が使われることもあったのであろう。

『常陸国風土記』は「郡・里」の表記といえる。 『播磨国風土記』は全てが「郡・里」の表記である。『肥前国風土記』・『豊後国風土記』と『出雲国風土記』は全てが「郡・郷・里」の表記である。風土記編纂の官命と行政区分の推移(郡里制→郡郷里制→郡郷制)を基準にすると、『播磨国風土記』と『常陸国風土記』の成立は713年から715年(或いは718年)の間で、「古事記→風土記→日本書紀」の順であると考えることが出来る。『肥前国風土記』・『豊後国風土記』の成立は715年(或いは718年)から740年の間で、「古事記→風土記」であることは分かるが、『日本書紀』との前後関係は定かではない。


39-3.古事記・日本書紀・風土記の天皇名 [39.『風土記』は史実を語っているか]

古代の天皇名は漢風諡号(神武天皇・崇神天皇)で呼ぶことが多い。この諡号(しごう)は奈良時代の天平宝字6年(762年)頃に淡海三船により命名されたものである。記紀に書かれた天皇名は和風諡号であり、『古事記』と『日本書紀』では呼び方はほぼ似ているが、漢字の表記は大きく違う。また、天皇が都とした地名や宮名の漢字表記も同様である。「風土記」の天皇名の表記には、記紀の和風諡号の一部に称号を付けたものや、都の地名や宮名を記した後に「御宇(御世)天皇」と称号を着けたものがある。例として崇神天皇について、『古事記』・『日本書紀』・「風土記」の天皇名の表記を下記に示す。
  『古事記』 :「御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。」
  『日本書紀』 :「御間城五十瓊殖天皇。遷都於磯城。是謂瑞籬宮。」
  『常陸風土記』:「美万貴天皇」
  『肥前風土記』:「磯城瑞籬宮御宇御間城天皇」

 ピンクが諡号の一部の通称名で、ブルーが地名と宮名である。これらにいて、『古事記』・『日本書紀』・「風土記」の比較を行った。天皇名の比較は『古事記』の記載がある推古天皇までとし、『肥前風土記』と『豊後風土記』はその表記方法が同じなので一つにまとめた。また、「風土記」記載の天皇名の表記が『古事記』と『日本書紀』の両方とも同じ場合は、その「風土記」の傾向(縦列)の色と同じにした。その結果を表D17に示す。 

D17 天皇名.jpg『播磨風土記』と『常陸風土記』は『古事記』と表記が同じである。唯一の例外が『常陸風土記』の景行天皇名の「大足」の表記である。『常陸風土記』の神功皇后では「息長帯」と「息長足」の二つの表記がある。『常陸風土記』の述作者にとっては「帯
(たらし)」と「足(たらし)」は同じに使ったであろうと思われる。『肥前風土記』と『豊後風土記』は、応神天皇の宮の一例を除いて、『日本書紀』と表記が同じであることが分かる。これらより、『播磨風土記』と『常陸風土記』は『古事記』を参照して書かれ、『肥前風土記』と『豊後風土記』は『日本書紀』を参照して書かれたと言える。風土記編纂の官命と行政区分の推移(郡里制→郡郷里制→郡郷制)、そして、天皇名・宮名の表記を合わせて考えると、
「古事記→播磨風土記・常陸風土記→日本書紀→肥前風土記・豊後風土記」が読みとれる。

39-4.九州風土記の研究は百家争鳴 [39.『風土記』は史実を語っているか]

昭和の初め国文学者の井上通泰氏は、九州地方の風土記(以後「九州風土記」と呼ぶ)が甲類・乙類・甲乙以外の三種に分類出来ると発表した。三分類の特徴は下記のとおりである。
  甲類 :『豊後風土記』・『肥前風土記』・同種の風土記(逸文)
             行政区分が「郡」、地名・人名が日本書紀表記
  乙類 :行政区分「縣」、漢文臭の文章、割注により訓注を示す
  その他:天皇名が漢風諡号、西海道節度使の逸文

D18 九州風土記研究.jpg井上氏の論文発表後、九州風土記の研究が盛んとなり、国文学者・歴史学者の双方が論文を発表している。それらの論文の要旨を荊木美行氏は、著名な学者の方々について『古代史研究と古典籍』にまとめておられる。それらの論文について、甲類風土記・乙類風土記と日本書紀の関係が、どう結論付けされているか、そのイメージを表D18にまとめた。日本書紀を中心にして、成立が早い風土記は左のマスに、成立が遅い風土記は右のマスに、ほぼ同時期あるいは判別が付かない風土記は下のマスに記載した。双方に影響を与えた、あるいは双方から影響を受けた場合には大きなマスを使用している。


 
荊木美行氏は、「さて、このようにみていくと、九州地方の風土記の正確な成立年代を知ることは、やはりそうとうむつかしいのであって、いまのところ、わずかに、
   
①甲類は、『日本書紀』を参照している。
   ②甲類の成立は、『日本書紀』の完成した養老四年(720)以降のことである。
   ③郷里制にもとづく地名表記に重きをおくならば、天平12年ごろを下限としている。
という点を指摘するにとどまる。」と述べている。荊木美行氏の『古代史研究と古典籍』は平成8年9月に発行された本である。この時点での風土記研究の最大公約数の結論とすれば、その結論は私が「39-2.風土記の成立年代と郡郷里制」と「39-3.古事記・日本書紀・風土記の天皇名」で述べた結論と何ら変わらない。 

風土記の成立年代の研究が混沌としているのは、九州風土記逸文の分類に問題があるようだ。『萬葉集註釋』に引用されている「西海道節度使」といわれる逸文がある。
   「筑前国の風土記に云はく、奈羅の朝庭の天平四年、歳壬申に次るとしに當り、西海道の
   節度使、藤朝臣、諱は宇合、前の議の偏れるを嫌ひて、當時の要を考えるといへり」
この逸文にある「天平4年(732年)」「節度使」「藤原宇合」をキーワードとして、九州風土記の成立年代を推定している論文が多い。しかし、この逸文については、井上通泰氏が甲乙以外としているが、坂本太郎氏が甲類、田中卓氏と秋本吉郎が乙類としており三者三様である。こんな分類の決め手のない逸文を根拠にしていたのでは、「九州風土記」の研究は百家争鳴にならざるを得ないであろう。

39-5.九州風土記の甲・乙の分類 [39.『風土記』は史実を語っているか]

九州風土記の成立年代の研究は混沌としているが、その議論はそれほど難しいことを言っているようでもなく、その成立年代の解明は、私の手の届く範疇にあるように思えた。まず初めに甲類・乙類の分類を自分自身で行ってみた。現存する『豊後風土記』と『肥前風土記』以外の諸国(筑前・筑後・豊前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐)の風土記は、他の本に引用されている逸文に頼るしかない。その逸文も引用時に後世の手が加わっている場合もある。九州風土記の成立年代の研究の信頼性を上げるために、風土記逸文引用文献の双璧である、鎌倉時代のト部兼方が著した『釋日本紀』と仙覚が著した『萬葉集註釋』に引用されている逸文のみを選んだ。 

『釋日本紀』と『萬葉集註釋』が引用している逸文の中にも、天皇名の漢風諡号(崇神天皇・景行天皇)が表記された逸文がある。漢風諡号は奈良時代の天平宝字6年(762年)頃に淡海三船が命名したものであり、これらは和銅6年(713年)の風土記編纂の官命に関わる風土記の逸文ではないとして除外した。平安時代の延長3年(925年)に太政官符で「諸国に風土記の文があると聞いている。国宰はこれを調べて、風土記があれば提出せよ。もしなけれD19 九州風土記甲乙.jpgば、部内を探求し、古老に尋ね問い、早急に提出せよ。」との官命が下っている。天皇名を漢風諡号したものは、この時に提出された後世の手が加えられた風土記であると思う。また、前項で取り上げた「西海道節度使」の逸文もこの時のものではないかと考える。
 

九州風土記の甲類と乙類の区分けは、乙類が「縣」、甲類が「郡・郷」で行った。「郡・郷」の表記がなくとも、天皇名の表記が『日本書紀』と同じもの、また、国の謂れ等を書いた「総記」が『豊後風土記』・『肥前風土記』と同じものは甲類とした。甲類・乙類の逸文を表D19に示す。なお、表にある「標題」は日本古典文学大系のものを引用した。
 

D20 書紀と甲類文章.jpg九州風土記の甲類には『日本書紀』の景行紀・仲哀紀・神功紀の文章とほとんど同一のものがある。それらを表D20に示す。書紀の文章は甲類の文章とほとんど同一であるが、地名の表記は乙類と同じ「縣」である。このことが、九州風土記の甲類と乙類の成立年代の比定を混沌とさせている原因であるのかもしれない。

39-6.大宰府管轄の「縣」が大宝律令まで存在 [39.『風土記』は史実を語っているか]

乙類逸文の最大の特徴は、行政区分の表記が「縣」であるにも関わらず、乙類風土記の成立年代の論議に、この「縣」がほとんど取り上げられていないのが不思議でならない。多くの研究者は、風土記の成立は和銅6年(713年)の風土記編纂の官命以後であり、地名に「縣」が付くことはあり得ないと無視されておられるのだろうか。また、『書紀』の地名表記の「縣」を真似したと捉えているのだろうか。乙類の天皇名の表記は『書紀』とは異なっており、乙類の述作者が『書紀』の地名表記の「縣」を真似したとは思えない。「縣」が乙類風土記の成立年代の解明に光明を与えてくれるように思える。 

甲類九州風土記と乙類九州風土記には共通の地名がある。甲類の行政区分は「郡」で、乙類の区分は「縣」である。
            甲類     乙類 (*印は逸文)
    筑前国風土記  *怡土郡  *逸都縣(筑紫風土記)
    肥前国風土記   松浦郡  *松浦縣
    肥前国風土記   杵嶋郡  *杵島縣

続日本紀には、天平12年(740年)に藤原廣嗣の反乱の件で、宝亀6年(775年)・宝亀9年(778年)に遣唐使船の出入港の件で、肥前国松浦郡の地名が登場する。奈良文化財研究所のサイト木簡字典で調べると、平城京跡から「養老7年」(723年)の年号と「筑前国怡土郡」の地名が記された荷札が出土している。なお、年代はないが「肥前国杵島郡」の木簡も出土している。これらからして、九州風土記乙類に書かれた「逸都縣・松浦縣・杵島縣」の存在は、大宝2年(702年)の大宝律令施行以後はなかったと思える。
 

「縣」という概念は、大宝律令施行以後は全く無くなったのだろうか。続日本紀によると、天平宝字5年(761年)に「北京を造らぬと議る。・・・都に近き両を割きて、永く畿とし、庸を停めて調を輸すべし。その数は京に准へよ」とあり、「二(滋賀郡・栗太郡)を保良京(平城京の北の都・北京)の畿とし、畿内に準ずる地とする」と解釈されている。大宝律令施行以後でも、朝廷の直轄地として「県
()」の概念が残っている。乙類の「縣」表記を無視するわけにはいかないと考える。 

大化改新(646年)以後、それまで国造が治めていた「国」と、県主が治めていた「縣
」は解体され、地方の行政区分は国評制となり、大宝律令施行(702年)から国郡制となって行ったと考えられている。地方の豪族(国造)が治めていた「国」、および豪族化した県主が治めていた「縣」の解体は、律令制度確立のため強制的・強圧的に行われたであろうが、大和朝廷が管轄する「縣」の解体は遅れていたと考える。租庸調の税制が確立するまでは、朝廷は直轄地を手放すことが出来なかったのではないかと思う。筑紫大宰府では新羅や唐の饗応の費用や防人の費用を賄っていた為、筑紫大宰府の管轄する「縣」は、大化の改新以後も、大宝律令施行まで存在していたと考える。九州風土記乙類に記載された行政区分の「縣」は、筑紫大宰府の管轄する「縣」であったと考える。

39-7.乙類風土記の述作者は三野王 [39.『風土記』は史実を語っているか]

私は永年のサラリーマン生活の中で、長らくに渡って解決していない問題には、発想の転換を計ることが必要であると学んできた。九州風土記の研究者は、「風土記の成立は和銅6年5月の風土記編纂の官命以降であるはずである」との呪縛に捉われ、乙類風土記の「縣」の重みを無視している。私は、地方名に「縣」を記す乙類風土記の編纂は、大宝律令施行(702年)以前に行われたと考える。 

話はもう一昔前に戻るが、『日本書紀』の天武10年(681年)3月に、天武天皇が大極殿にお出ましになり、「帝紀」と「上古諸事」を記録し定めるようにと、川島皇子以下13名に詔を発している。その時の13名は、「川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首」である。13名の中の三野王は、持統天皇8年(694年)9月に、冠位は「浄広肆」を授かり筑紫大宰率に就任し、文武4年(700年)まで務めている。
 

この三野王は、壬申の乱で活躍した美濃王と混同(日本書紀も混同)されることが多いので明確にしておく。天武2年12月、天武4年4月には「小紫美濃王」と天武11年3月に「小紫三野王」と登場するのが美濃王で、その冠位は「小紫」であり、大宝律令の官位で言えば「従三位」の高官である。持統8年に筑紫大宰率に就任した三野王の冠位は「浄広肆」で大宝律令の官位で言えば「従五位下」で、「小紫」より8階級低い。なお、天武10年3月の「帝紀」と「上古諸事」を記録し定める詔を受けた竹田王は持統3年に、廣瀬王は持統6年に「浄広肆」の冠位を授かっている。これからして、竹田王・廣瀬王と一緒に詔を受けた三野王は、持統天皇8年9月に「浄広肆」の冠位を授かり筑紫大宰率に就任した三野王であると言える。
 

三野王(美努王)の父は栗隈王で、天智10年(671年)6月に筑紫宰となり、壬申の乱においては筑紫にいて近江方の命令を拒否している。その時、三野王は太刀を佩き父・栗隈王の側にいて守ったと『書紀』は記載している。栗隈王は天武5年(676年)6月に亡くなっているが、その年の9月に次の筑紫大宰が就任しており、栗隈王は亡くなるまで筑紫大宰を務めたのであろう。
 

栗隈王が赴任した年の11月に、唐の郭務悰が皇帝の国書を持って大宰府に来ている。12月に天智天皇が亡くなられたこともあって、郭務悰は翌年の5月まで大宰府に滞在している。また、その唐船で沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝裟婆・布師首磐の4人が帰国しており、彼らも長く大宰府に滞在していたと思える。その後も新羅の使いが頻繁に大宰府を訪れている。この様な環境下で、青年時代の5年間を過ごした三野王は、漢文を勉強し達者になったのであろうと想像出来る。三野王が「帝紀」と「上古諸事」を記録し定める任務についたのも、漢文に長けていたからであろう。この三野王こそ九州風土記の乙類の述作者であると考える。
 

三野王は天武天皇のもとで、国の歴史を記録し残す仕事をしていたので、自ら筑紫大宰が管轄する筑紫の「縣」の歴史を記録したと思える。乙類の逸文の書き出しに「筑紫風土記曰 逸都縣」や「筑紫風土記曰 肥後国閼宗縣」のように冒頭に「筑紫」があるのはこのためであろう。九州風土記の乙類は、三野王が筑紫大宰の任についていた694年から700年の6年間に書かれたものと思われる。乙類に記載された天皇名は、神功皇后が「息長足」、継体天皇が「雄大迹」、宣化天皇が「檜前」であり、『古事記』と一致していない。乙類が『古事記』撰上(712年)以前に書かれているとすれば当然のことである。また、乙類の九州風土記が漢文の臭がする特徴を持つのも、三野王の経歴から考えて納得出来る。

39-8.『日本書紀』VS『豊後風土記』 [39.『風土記』は史実を語っているか]

九州風土記甲類の記述には、『日本書紀』と記述がほとんど同一の文章がある。その一例が『日本書紀』の景行天皇12年の「柏峽大野の蹶(くえ)石」の記事であり、『豊後風土記』の「蹶(くえ)石野」の記事である。
  『日本書紀』 
  「天皇初將討、次于柏峽大野。其野有石長六尺廣三尺厚一尺五寸
    天皇祈土蜘蛛者、將蹶茲石如柏葉而舉焉。因蹶之。則如柏上於大虛。
    故號其石、曰蹈石也。」

  『豊後風土記』
  「天皇欲伐土蜘蛛
、幸於柏峡大野。々中長六尺廣三尺厚一尺五寸
   
天皇祈曰、當蹶玆石、譬如柏葉而騰。即蹶之。騰如柏葉。
    因曰蹶石野」
黄色のマークが全く同じ文字で、その他にも「賊」と「土蜘蛛」の置き換え、「討」と「伐」や「舉」と「騰」の書き換えがあり、『日本書紀』を参照して『豊後風土記』が書かれたとも、『豊後風土記』を参照にして『日本書紀』が書かれたともいえる。 

D21 直入郡柏原郷.jpg前述の『豊後風土記』の「蹶
(くえ)石野」の記事には、「蹶石野 柏原の郷の中にあり」との前書きがあり、柏原郷は直入郡の4郷の一つとなっている。この「柏原」は現存し、今は竹田市に編入されているが、以前は直入郡荻町柏原であった。『日本書紀』には「石室の土蜘蛛を襲ひて、稲葉の川上に破りて」、「柏峡の大野において」とある。九住山を源とする稲葉川は竹田市街地で大野川に合流する。この辺りは阿蘇外輪山麓で凝灰岩ということもあって、川が蛇行して曲所に切り立った断崖を作り、その崖には洞穴(岩陰)がある。中でも大野郡朝地町の大恩寺稲荷洞穴遺跡と草木洞穴遺跡は有名である。「柏峡」は「柏原」の原野に対する峡谷を意味していると思われる。 


D22 甲類天皇名.jpgそれにしても『日本書紀』の記述した地名と地勢は現状と合っている。『日本書紀』が述作されたのは大和である。大和にいる者が、阿蘇山麓の地名と地勢について、これほど正確に書くことができるだろうかとの疑問が湧く。これらからすると『豊後風土記』を参照にして『日本書紀』が書かれたと考える方が合っていると思える。一方、表D22に逸文を含めた甲類風土記の天皇名を示しているが、甲類風土記の天皇名は『日本書紀』と一致している。風土記にある天皇名が日本書紀に使われることは考えられないことで、明らかに『日本書紀』を参照して『豊後風土記』が書かれたとする定説に納得がいく。
 

『日本書紀』に記述された地名と地勢からすれば、『豊後風土記』を参照にして『日本書紀』が書かれたと言え、『豊後風土記』に記載された天皇名からすれば、『日本書紀』を参照して『豊後風土記』が書かれたと言える。どちらが史実なのか結論が出せない。
 

39-9.甲類風土記の述作者は粟田真人 [39.『風土記』は史実を語っているか]

『日本書紀』が甲類風土記を参照して書かれたことを証明したならば、景行天皇・日本武尊・仲哀天皇・神功皇后の登場する『日本書紀』に書かれた歴史は、創作・捏造された歴史でなく、伝承された歴史であると言えると思う。甲類風土記が『日本書紀』の撰上前に述作されたことが史実であるためには、甲類風土記の述作者について、次の5項目の条件について満足されなければならないと考える。
 ①:甲類風土記は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・壱岐があり、
   その述作者は筑紫大宰府の関係者である。また、『日本書紀』が撰上された養老4年
   (720年)の前に、述作者は筑紫大宰府に在籍していた。
 ②:諸国に風土記の編纂を命じた、和銅6年(713年)5月の詔を筑紫大宰府に在任中
   に受けた。
 ③:甲類風土記には「郡・郷・里」の表記があり、出雲国風土記記載の、霊亀元年(715
   年)の「里を改め郷と為す」式を筑紫大宰府に在任中に受けた。
 ④:国文学者・瀬間正之氏によると、『豊後風土記』と『肥前風土記』の述作者の文章能力
   は、『日本書紀』β群に優る漢語漢文の書記能力を有しているとのこと。
 ⑤:天皇名の表記が『日本書紀』に採用されたとするならば、甲類風土記の述作者は『日本
   書紀』の編纂に関与していること。また、『古事記』の天皇諡号を改変したのだから、
   太安万侶より高官であること。
 

これら5条件を全てを満足する人の存在なんて信じられないと思うであろうが、「事実は小説より奇なり」で、そんな人物が存在していた。それは「栗田真人」である。粟田真人は和銅元年(708年)3月から、次の多治比池守に引き継ぐ霊亀元年(715年)6月頃まで筑紫大宰師として大宰府に在任していた。『豊後風土記』と『肥前風土記』の本文中には「里」の表記はなく、「里」の表記は「○○郡 郷□所 里△」(□・△は数字)と添え書きだけである。出雲国風土記記載の、霊亀元年の「里を改め郷と為す」の「式」が何月に発令されたか不明だが、粟田真人は筑紫大宰師の任務を終える直前にその「式」を受け取り、それまで書いていた「里」を「郷」に直したと思える。これらより①・②・③の条件をクリアしている。 

森博達氏は『書紀』の言葉と表記を分析し、α群・β群・巻30に三分した。α群は正音・正格漢文で、β群は倭音・和化漢文で執筆されたとしている。β群に優る漢語漢文であるα群の述作者を森博達氏は唐人としているが、私は粟田真人とした。(参照「38-7.『書紀』α群は粟田真人が述作した」)。粟田真人は学問僧として12年間の留学経験を持ち、大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として唐に赴き、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美」と言わしめている。粟田真人の漢文の能力は中国人の知識人と同等以上で、『日本書紀』β群に優る漢語漢文の書記能力を有していると思われ、④の条件をクリアしている。⑤の条件については次週に述べる。

39-10.粟田真人が『書紀』の天皇諡号を決定 [39.『風土記』は史実を語っているか]

和銅5年(712年)太安万侶が『古事記』を撰上した翌年に、風土記編纂の官命が出され、その翌年に紀清人と三宅藤麻呂に対して国史撰述の詔勅が下されている。このことは、『古事記』が国史として評価されなかったからだと考える。『日本書紀』には中国の史書、漢書・後漢書・三国志が引用されている。それからすると、朝廷(藤原不比等)には国史というもののイメージがあったと思われる。『古事記』に記載されている内容は、天皇の系譜と歌謡が多く、国の歴史を伝える記事が少なく、中国の国史に比較して見劣りがするものだと判断されたのであろう。だから、漢書・後漢書・三国志に負けない国史を作ろうと考えたに違いない。不比等が天皇の権威を高めるために、『日本書紀』の編纂を行ったのではないと考える。また、『日本書紀』が『古事記』について、一切触れていないのはこの為であろう。 

和銅元年(708年)から筑紫大宰師の任務についていた粟田真人は、和銅6年(713年)に風土記編纂の官命が出ると、筑紫11ヶ国の風土記を霊亀元年(715年)5月までに述作した。翌年には粟田真人に国史編纂に参画するようとの勅命を受け、書き上げた筑紫11ヶ国の風土記を持って大和に帰任したと想像する。不比等は粟田真人と共に大宝律令の撰定に携わり、真人の文章能力も知っており、また、遣唐使執節使として出向いた唐で、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し」と言わせたことも聞き及んでいたので、『日本書紀』の編纂を粟田真人に任せたと考える。
 

『日本書紀』の述作を行ったのは、正三位の粟田真人、従五位下の山田史御方、従六位上の紀清人、正八位下の三宅藤麻であり、担当の範囲を山田史御方が神代・神武~安康紀、粟田真人が雄略~天智紀、紀清人が天武紀、三宅藤麻呂が持統紀とした。(参照「38
-8.『日本書紀』の述作者」)。述作を始める前に、太安万侶が『古事記』に定めた天皇名の和風諡号や宮名を、真人が好字を使って改めた。当時、太安万侶は存命で官位は正五位上であったが、真人の官位は正三位で6階級上位であったので、太安万侶に配慮することなく諡号を決定した。真人は筑紫の風土記に書いた天皇名・宮名をそのまま採用し、また、山田史御方は、真人の書いた筑紫の風土記の記事を引用した。 

粟田真人は『日本書紀』が完成した時点で「序」を書き、粟田真人名で天皇に撰上する予定であったが、完成の前年の養老3年(719年)2月に亡くなった。山田史御方・紀清人・三宅藤麻ではその任は役不足であり、そのため『日本書紀』は「序」が書かれることなく、養老4年(720年)5月に『日本書紀』の編纂に関わりのなかった舎人親王により撰上された。このように考えると、『風土記』の疑問点も、『日本書紀』の疑問点も、年代の齟齬なく、記述に齟齬なく解決することが出来る。まさに「事実は小説より奇なり」である。
 

これで甲類九州風土記が『日本書紀』より以前に書かれていたということが証明できた。「九州風土記」について整理すると下記のようになる。
    「乙類九州風土記」→『古事記』→「甲類九州風土記」→『日本書紀』
「乙類九州風土記」には、「息長足比賣命、新羅を伐たむと欲して、軍を閲たまひし際」と神功皇后の新羅討伐の話が出て来る。また、『豊後風土記』に書かれてある景行天皇の筑紫巡幸の話は『古事記』には出てこない。これらのことより、景行天皇と神功皇后は実在し、その伝承されていた逸話が「九州風土記」に記載されたと考えられる。『風土記』も『日本書紀』も創作・捏造された歴史を書いている書ではなく、伝承された歴史を書いた史書である。 
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