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22.縄文稲作は存在したか ブログトップ

22-1.最北の弥生水田跡「垂柳遺跡」 [22.縄文稲作は存在したか]

「歴史探訪の旅」と称し、日本全国の縄文・弥生・古墳時代の遺跡巡りをしている仲間と、青森の三内丸山遺跡、秋田の大湯環状列石、岩手の御所野遺跡、青森・八戸の是川遺跡に行って来た。十和田湖・八幡平では紅葉真っ盛りの10月下旬、紅葉も見ないでその裾野を一周した訳だ。 

その旅では、縄文の文化のレベルの高さに圧倒された。三内丸山遺跡の発掘の報告を聞いてから、縄文時代は狩猟・採集と言うイメージは払拭していたが、それを上回る文化が存在することに驚いた。中でも御所野縄文博物館に展示していた、蒔前遺跡の土器は、その洗練された形状と薄さは、弥生時代を通り越し、古墳時代の須恵器に匹敵するもので、文化は右上がりに発展するだけではないと感じた。
 
B21垂柳遺跡水田.jpg
私の守備範囲は弥生と古墳時代、今回の歴史探訪の旅で最も興味を抱いたのは、最北の弥生水田跡が発掘された
垂柳遺跡であった。垂柳遺跡は青森県弘前市の隣の、津軽郡田舎館村にあり、田舎館村埋蔵文化センターでは、垂柳遺跡の近くで発見された高樋遺跡の弥生時代の水田跡と水路を保存している。図B21にそれらを示す。 

その説明文には「『歴史を変えた水田跡』 今から数十年前まで、東北地方北部には、弥生時代が存在せず、弥生文化の影響を受けた続縄文時代が存在していたのだと、言われていました。しかし1981年、垂柳遺跡で約2000年前(弥生時代中期)の水田跡が発見されたことにより、それまでの一般的常識が覆されたのです。垂柳遺跡での水田跡発見のニュース
は、考古学関係者以外の歴史学者や植物学者などの人々に、大きな問題提起をしました。また、北緯40°以北の寒冷地で、しかも2000年前に大規模な水田経営がなされていたことも驚きを与えました。このように垂柳遺跡は、東北北部の弥生時代を解明するうえで、大変貴重な価値のある遺跡なのです。」とある。 

現在では垂柳遺跡は2300年前の水田跡と認識されており、また弘前市に垂柳遺跡より古い弥生水田跡、砂沢遺跡が岩木山の東麓にある。国立歴史民俗博物館では、紀元前400年頃には水田稲作が青森に伝わっているとしている。図B22に垂柳遺跡の水田跡の発掘風景、図B23にその水田跡に残っていた弥生人の足跡を示す。
                  

B22垂柳発掘.jpgB23水田の足跡.jpg 

                                    


22-2.定説を覆した垂柳遺跡小史 [22.縄文稲作は存在したか]

田舎館村埋蔵文化センターには「垂柳遺跡小史」として、垂柳遺跡が弥生遺跡として認められるまでの経緯が書かれてあった。 

1934年、県道開設工事の際、多量の土器が発見され、山内清男氏は
田舎館出土の土器を「続縄文式土器」と位置づけた。なお、山内清男氏(1902~1970年)は、東京大学名誉教授で層位学を用いて縄文土器の全国的な編年を初めて行い、縄文土器の文様が縄によるものであることを実証した、「縄文の父」と呼ばれる人であった。図B23の左上が、田舎館村埋蔵文化センターに展示されている土器の一つであるが、縄文土器の特徴を持っている。 

1950年、東北大学教授の伊藤信雄氏は田舎館村を訪れ、田舎館出土の土器を「津軽地方の弥生式土器」と位置づけた。しかし、群馬県の「岩宿遺跡」を発掘し、日本に旧石器時代があったことを決定づけた明治大学教授の杉原荘介氏は、弥生式土器の北限を、東北地方中部の岩手県水沢市の常磐広町遺跡として、田舎館出土の土器を弥生時代の土器とは認めなかった。
 

B24垂柳小史.jpg1956年、
田舎館村で耕地整理が実施され、大量の土器が出土する。地元の中学教諭工藤正氏が、土器の中にモミの跡がついたものを発見した。図B23の右上が田舎館のモミ圧痕土器。「日本文化の起源、縄文時代に農耕は発生した」を書かれた慶応大学教授江坂輝弥氏は、 田舎館出土の土器は「弥生式文化の影響を受けているが、稲作が実施されていない」とし、 「弥生式土器」とはせず、「続縄文式土器」と位置づけた。 

1958年、伊東
氏は田舎館垂柳の地を発掘調査し、大量の土器・石器とともに200粒以上の炭化米を発見した。図B23の左下が田舎館の炭化米。しかし、山内氏は 「東北北部は続縄文式が主体で、田舎館村出土の土器は弥生式的な文物を多少取り入れたものである」とし、田舎館村出土の土器を弥生式土器とは認めなかった。杉原氏は田舎館村出土の土器を弥生式土器と認め、弥生時代後期に位置づけた。 

1981年、
青森県教育委員会が国道102号路線内を発掘調査し、東北地方で最初の弥生式水田が発見された。2ヵ年の調査で656枚(面積約8,000m2)の水田跡が発見され、弥生時代中期末に位置づけられた。図B23の右下が発掘された水田跡。水田跡の発掘現場にいた工藤氏が「最後のものがとうとう出ましたよ。」と報告した時、伊東氏は「やっとでましたね。私は初めて垂柳の地形を見たとき、この平野では稲作以外に考えられないと確信していた。」と答えたという。水田の発見の翌年に工藤氏は亡くなり、6年後に伊東氏もこの世を去っている。 

東北地方北部には、水田稲作の弥生時代が存在せず、弥生文化の影響を受けた続縄文時代が存在していたとう定説が、覆るのに25年の歳月を要したというドラマがあった。

22-3.縄文の炭化米と合掌土偶 [22.縄文稲作は存在したか]

青森県八戸市是川にある是川縄文館は、今年7月に開設されたばかりの博物館である。是川縄文館は近くの是川遺跡・風張遺跡から出土した遺物(漆製品・土器・土偶等)が、「縄文の美」として展示されている。これらの遺物を見ると、東北の縄文時代の文化レベルの高さに驚きを禁じ得ない。 
B24 合掌土偶.jpg
この館の「縄文の謎」というコーナーで、風張遺跡の縄文時代後期末とされる住居跡から7粒の炭化米が見つかったことを知った。この縄文の炭化米は、“日本最古の米”として国の重要文化財に指定されている。この炭化米のうち2粒のC14炭素年代が測定され、約2900~2600年前と計測されている。この計測値だと縄文晩期(約3000~2300年前)に当たるが、風張遺跡は縄文晩期~晩期末の遺跡と考えられており、炭化米は縄文後期末とされている。図24は、炭火米と同じ風張遺跡の住居跡より出土した、国宝の合掌土偶である。
 

私の縄文稲作の知識は、北部九州の唐津市の菜畑遺跡・福岡市の板付遺跡を始めとして、四国の愛媛県松山市の大渕遺跡・香川県高松市の坊城遺跡、大阪府茨木市の牟礼遺跡などの、縄文式の突帯文土器を伴う縄文晩期の稲作である。これらの遺跡からは水田跡や石包丁・木製農具などが出土し、どちらかと言えば弥生時代の早期と定義されるべき遺跡である。これらの水田稲作は、国立民俗歴史博物館によれば、北部九州には紀元前10~前9世紀(3000~2800年前)に伝わったとされている。
 

北部九州に水田稲作が伝わった時代に、すでに東北の八戸に“米”が存在していたという事実から、水田稲作に先行する縄文稲作が存在した可能性が考えられはずだが、風張遺跡の炭化米が出土した1992年当時では、まだ縄文稲作について考古学会は懐疑的であった。縄文稲作の存在を証明したのはプラントオパール分析である。

22-4.プラントオパールと垂柳遺跡 [22.縄文稲作は存在したか]

プラントオパールはイネ科の植物(イネ・イヌビエ・ススキ・ヨシ等)の葉に含まれるガラス質細胞(機動細胞)で、大きさは約50ミクロン(0.05ミリ)であり、長期間埋もれ、葉が分解し無くなってしまっても、微小化石として土中に残る。このプラントオパーを地層から抽出し、イネ特有のプラントオパールを同定する分析法を確立されたのが、宮崎大学の学長を務められた藤原宏志氏である。藤原宏志氏の著書「稲作の起源を探る」(1998年)には、分析法を確立された経緯が書かれてあり、私には非常に面白く夢中になって読みふけった。 

藤原氏はプラントオパールを形成する色々のイネ科の植物の標本作りから始めている。ガラス質細胞は、その大きさ、断面の形、模様や突起が植物種ごとに違っているそうだ。図B
-25にイネのインディカとジャポニカ、そしてイヌビエのプラントオパール(P・O)を示す。 

B25-1.jpgB25-2ジャポニカ.jpgB25-3 イヌビエ.jpg

約50ミクロンのプラントオパールを土中から抽出する方法は、資料の乾燥土に水に加え撹拌し、その沈降速度に合わせて上澄み液を回収分離する。私は仕事で粉末を扱い、沈底法の経験があったので、この方法は簡単で精度のある方法であると理解出来た。
 

プラントオパールの回収率やその量を知る為に、40ミクロンのガラスビーズを一定量入れるという。プラントオパールもガラスビーズも大きさと比重が同じなので、沈降速度は同じ。回収した沈殿物の一部のプラントオパールとガラスビーズの数を調べれば、全体のプラントオパールの量が推定出来る。その他数々の精度を上げる為の工夫がされてあり、この分析が精緻に行われており、信頼出来るものであると感じた。
 

垂柳遺跡の弥生水田跡の発掘には、このプラントオパール分析が活躍したそうだ。ポラントオパール分析を開発した藤原氏は、垂柳の弥生稲作の存在を信じておられた東北大学の伊東氏の強い要望を受け、半信半疑で宮崎から青森の現地に顕微鏡を持ち込んだそうだ。試掘現場から土壌資料を採取し、資料をプラントオパール分析の簡便法で調整して、顕微鏡でのぞいて見ると、イネのプラントオパールが大量にあらわれていた。この時の衝撃は、あとにもさきにも経験のないものであったと書かれている。
 

その後、プラントオパールが大量に検出された土層を試掘すると水田址が出て来たという。翌年の1985年から2ヶ年に渡る発掘調査でも、プラントオパール分析による探査法が全面的に採用され、656枚の水田址が発見されたそうだ。“ここ掘れワンワン”とプラントオパール分析が活躍したのであろう。
 

藤原氏は、1974年には、熊本県上ノ原遺跡の縄文晩期初頭の土壌から多量のイネのプラントオパールを見つけ、1981年には、熊本県上南部遺跡の約2800年前といわれる縄文晩期初頭の土器片から、イネのプラントオパールを見つけている。これにより、少なくとも縄文晩期初頭には、イネが栽培されていたことを証明している。私の推察だが、当時このことは考古学会では信用されず、縄文晩期初頭の稲作は、受け入れられなかったのではなかろうか。
 

垂柳遺跡の水田址発見に、イネのプラントオパール分析が活躍したことにより、考古学会で認知されたような気がする。水谷拓実氏が年輪年代法を開発した時も、それを考古学会が信用するようになったのは、奈良時代に紫香楽宮のあった場所を年輪年代法で特定してからであった。藤原氏も水谷氏も農学部出身者、考古学は文学部出身者が多く、他の分野の学問はなかなか受け入れ難かったのであろう。今では学際的研究が、歴史の真実をあぶり出すために活躍している。

22-5.縄文稲作とプラントオパール [22.縄文稲作は存在したか]

B26朝寝鼻.jpg
1999年4月、岡山理科大学発掘チームが、岡山市津島東の朝寝鼻貝塚から採取していた縄文時代前期初め(6000年前)の地層から、稲作の栽培を示すプラントオパールを約50個、検出したと発表している。同地層は地表から3メートルの深さにあり、縄文時代前期の型式の土器が出土しており、検出したプラントオパールは栽培種の「イチョウの葉」の形をしていたという。
 


B26彦崎.jpg005年2月、岡山県の児島半島にある灘崎町の彦崎貝塚の縄文時代前期(6000年前)の地層(地下2
.5m)から、イネのプラントオパールが大量に見つかっている。その量は土壌1グラム当たり2000~3000個であった。プラントオパール分析で水田址の探査や検証を行う時の判断基準が3000個/グラムであるとされている。これらからして彦崎貝塚のプラントオパールの量は、栽培方法(陸稲・水田)は別として、縄文前期にイネの栽培が行われていたという証明になると思われる。

表B27に縄文稲作の遺跡を示す。この表は縄文前期・中期・後期の遺跡のみとした。縄文晩期を入れなかったのは、歴博による水田稲作の北部九州の伝来が、紀元前10~前9世紀(約3000~2800年前)とされ、縄文晩期(約3000~2300年前)にあたるからで、縄文晩期の稲作は弥生水田稲作の前段階であると考えたからである。表を見ると、縄文稲作の存在を証明したのは、プラントオパール分析であることが分かる。
 
B27縄文稲作.jpg

22-6.イネの三品種 [22.縄文稲作は存在したか]

B29インディカ.jpgイネ品種にはジャポニカとインディカがあり、ジャポニカは温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの二つに分かれる。一般的には温帯ジャポニカをジャポニカ、熱帯ジャポニカをジャバニカ(ジャワニカ)と言われている。図28に三品種の位置関係のイメージ図を示す。 


ジャポニカは、日本や韓国、中国北部で栽培され、長さは短めで幅がありラウンドタイプと呼ばれ、炊くと柔らかく粘りがある。インディカは中国南部、インドネシア半島、インド等で栽培され、細長い形でスレンダータイプと呼ばれ、炊いても粘りがなくパサパサしている。ジャバニカはインドネシアB28コメ三品種.jpgやフィリピン、インドネシア半島などの熱帯高地で栽培され、形状や特徴はジャポニカとインディカの中間で、ラージタイプと言われる。図29に三品種のコメの写真を示す。これらイネ三品種には、それぞれ多くの種類があり、コメの形状だけでは三品種を明確に区別することが出来ないと言われている。

22-7.縄文稲作は熱帯ジャポニカ [22.縄文稲作は存在したか]

縄文時代(縄文後期以前)に栽培されたイネの品種は、熱帯ジャポニカであったと言われている。縄文稲作の存在を証明したのが、プラントオパール分析であった以上、熱帯ジャポニカと比定したのは、プラントオパール分析であったのであろう。 
B30P・O形状.jpg
藤原宏志氏・佐藤洋一郎氏等は、1990年に「イネの
indica および japonica の機動細胞にみられるケイ酸体の形状・・」という論文を出し、図30に示すプラントオパールの形状(縦長a+b・横長c・厚みd・尖り具合b/a)を指数化(Z1)することによって、ジャポニカとインデアカを判別することが出来ることを示してる。 



B31PO形状指数.jpg実験はアジア各地の栽培イネ96品種を用いて行われ,図31にその結果を示す。縦軸のZ
2は、プラントオパールの形状とは関係のない、ジャポニカとインデアカの品種を判別(フェノール反応、塩素酸カリ感受性、籾の稃毛の長さ)した指数。インディカ品種は、丸く、薄く、小型のα型ケイ酸体側に、ジャポニカ品種は、尖った、厚い、大型のβ型ケイ酸体側にある。 

図31のジャポニカ品種には、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混在しているが、それらを区別することはできなかったので、プラントオパールの形状(縦長
a+b・厚みd・尖り具合b/a)を、統計手法(乖離係数)で判別している。その結果は「乖離係数を用いると、熱帯型japonicaと温帯型japonicaは、典型的なものについてはある程度正しく区別することが出来る。しかしその信頼度は indica japonica の判別に比べるとかなり低いと考えられる。」と記載している。 

縄文後期以前の遺跡から出土した、稲作の証拠品の多くがプラントオパールである。プラントオパール分析からは、縄文稲作の栽培イネはジャポニカ(温帯ジャポニカor熱帯ジャポニカ)と言えても、熱帯ジャポニカとは決めつけられないのではないかと疑問を持った。

22-8.稲のきた道 [22.縄文稲作は存在したか]

NHK連続ドラマ「カーネーション」は、ダンジリで有名な大阪府岸和田市出身のファッションデザイナー小篠綾子をモデルとした物語である。この岸和田市には、朝日新聞と共同で毎年「濱田青陵賞」を、将来の考古学会を担う独創性のある中堅研究者に授けている。この「濱田青陵賞」は、岸和田市出身で日本考古学会の「開祖」であり、京大総長を務めた濱田青陵を記念して設けられたもので、今年で24回の受賞を授けており、この分野では権威のある学術文化賞である。 

総合地球環境学研究所教授の佐藤洋一郎氏は、2004年の第17回の浜田青陵賞を、考古学者以外で初めて受賞された。浜田青陵賞20周年記念誌には、佐藤洋一郎氏を次のように紹介している。「稲作は弥生時代の初め、中国・朝鮮半島からもたらされた水稲で始まった。教科書にも記されてきた考古学のこんな『常識』に疑問を投げかけ、新説を問うてきた。手がかりはDNAだ。弥生時代の炭化米のDNAを分析し、水田に適した『温帯ジャポニカ』だけでなく、東南アジアで栽培される品種『熱帯ジャポニカ』がかなりの割合で含まれると証明した。この人流に教科書を書き直せば『縄文時代に焼畑による稲作は始まっていた』となる。」
 

B33 稲のきた道.jpg日本に稲が伝来したルートには、図B33に示すように、朝鮮半島経由か、中国の江南地方から直接来たか、はたまた柳田国男の南方諸島経由の3説がある。佐藤洋一郎氏の著書「稲のきた道」(1992年)を読むと、佐藤氏はその伝来ルートを検証するために、日本の在来品種(地方の風土に適し、その地方で長年栽培された品種)の中に、熱帯ジャポニカの遺伝子を持つものがないか、特殊な品種との交配を行い、育種により調査している。
 


B34 熱帯遺伝子.jpg図B34にみられるように、日本の在来品種のほとんどが温帯ジャポニカである。しかし全国各地に熱帯ジャポニカの遺伝子を持った温帯ジャポニカが存在し、特に南西諸島に多いことが分かる。これはかつて日本に熱帯ジャポニカがあったことを間接的に示し、後から日本に来た温帯ジャポニカと自然交配して遺伝子を交換していたとしている。

22-9.東北の弥生稲作成立の秘密 [22.縄文稲作は存在したか]

1985年、青森県の垂柳遺跡から弥生時代の水田址が出土したことは、2000年も前にこんな北に稲作があったのかと、考古学関係者におよばず、農学関係者をも驚かせた。佐藤氏の「稲のきた道」によると、東北の稲は早生だそうで、それも北の果ての津軽ともなると、かなりの早生(わせ)でないと収穫がおぼつかないそうだ。育種の教科書などには、早生の品種は、稲が北進する過程でおこった突然変異を、徐々に蓄えながらできたもので、本州北端に達するまでには随分の時間を要し、本によっては14世紀のことと書かれてあるそうだ。 

佐藤氏はこの早生品種の「出生の謎」にも挑戦している。日本各地の在来品種の開花日を調べ、早生品種の分布を明らかにしている。早生の在来品種が北日本にあるのは当然として、西南暖地にもあったそうだ。西南暖地の早生は二期作として、また台風襲来前の収穫として、成長の早い早生品種があったそうだ。そして育種実験により、東北の早生も西南暖地の早生も、すべて兄弟関係にあることを見つけ、東北の早生品種は、稲が東北北部に達するまでの間に、西南日本で生れていたらしいと結論づけている。
 

熱帯ジャポニカを日本で植えると晩生(おくて)になる。この晩生の熱帯ジャポニカと、晩生の温帯ジャポニカを交配すると,早生の雑種が出来る可能性が理論的に考えられるとして、フィリピンの熱帯ジャポニカと、中国の温帯ジャポニカとを交配して、その雑種を栽培している。そして考えの通りに、その2代目で早生の雑種が出来たそうだ。晩生×晩生=早生という、誰も考えつかなかった早生品種の起源の方程式を解き明かしている。
 

B35 稲のきた道.jpg佐藤氏の描いた稲のきた道(図B35)は、全国各地に熱帯ジャポニカの遺伝子を持ったジャポニカが存在し、それが南西諸島に多いことから、熱帯ジャポニカが南西諸島を通じて日本に伝わり、そのあとから中国・朝鮮半島から温帯ジャポニカがやって来て、両者は自然交配して遺伝子を交換した。また、この自然交配のなかから早生の品種が出現し、その早生品種が北進したと考えている。

22-10.炭化米のDNA分析 [22.縄文稲作は存在したか]

プラントオパール分析により、縄文稲作の可能性が出て来ると、縄文稲作で栽培されたイネが熱帯ジャポニカで、南西諸島を経由して日本に伝わったと、佐藤氏が考えるに至ったと推測する。そしてプラントオパールの形状によって、イネの品種を判別出来ないか、そうすれば縄文稲作は熱帯ジャポニカであったと証明出来ると、藤原氏と共同で実験を行ったのであろう。本には書いてないが、プラントオパールの形状からは、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが明確には判別出来ないと知ったときには、佐藤氏はさぞガッカリされた事であろう。 

佐藤氏は1983年に静岡の国立遺伝学研究所に移られている。そして、1994年に佐賀県の菜畑遺跡の炭化米から、世界で初めて炭化米からDNAを抽出することに成功している。こう書くと、最初から目算があって行ったように思えるが、実際はNHK佐賀放送局の女性ディレクターの「炭化米からDNAがとれないか」との思いつきから出発したものだそうだ。
 

そのとき「炭化米は炭であること、炭は燃えてできたものであること、そして燃えてしまって何千年たったものからはDNAはとれない」と説明したそうだ。それでも諦めなかった女性ディレクターが「菜畑遺跡の炭化米を一粒手に入れたから分析して欲しい」と持ち込んだという。「事実は小説より奇なり。絶対とれるはずのなかったDNAがとれてしまった」と著書「DNA考古学」(1999年)に記載している。
 

遺跡から出土している炭化物は、燃えて出来たのでなく、長い年月の間に、土中で自然に炭化して出来たのだと、私は友人の科学屋のFさんから教わった。そのため、芯の部分にはDNAが残されており、DNA分析が出来るのであろう。DNA分析は日進月歩の世界、初めはジャポニカとインディカの区別しか出来なかったものが、今では少しの試料で温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの区別が出来るようになっている。
 

佐藤氏は科学研究費補助金を受け、1998年から2001年に「考古遺跡から出土する炭化米の遺伝情報・・・」というテーマで、全国17ヶ所の遺跡から出土した炭化米207粒についてDNA分析をしている。その結果は、古代の日本列島のイネのほとんどがジャポニカであり、またその約40%が熱帯ジャポニカであったそうだ。
 

B36熱帯ジャポニカ.jpg図B36「熱帯ジャポニカが出土した弥生遺跡」は、2001年、和泉市で行われた日中韓国際フォーラム「見えて来た稲の道」で佐藤氏が講演した資料と著書「稲の日本史」(2002年)、またその後新聞発表されたものをもとにして作成した。弥生時代に熱帯ジャポニカが、日本列島に広く分布していたことが分かる。なお、これらの遺跡の炭化米には温帯ジャポニカ(一部には温帯・熱帯ジャポニカの区別がつかないもの含む)も出土している。現在の在来種(温帯ジャポニカ)に熱帯ジャポニカの遺伝子がある証拠でもある。

22-11.縄文稲作はなかったか [22.縄文稲作は存在したか]

藤原宏志氏のプラントオパールの研究により、縄文遺跡(縄文後期以前)から出土した多量のプラントオパールがイネ(ジャポニカ)のものであると同定され、また佐藤洋一郎氏の弥生遺跡から出土した炭化米のDNA分析により、弥生稲作には温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの両品種が栽培されていたことが分かった。これらより縄文稲作が存在し、熱帯ジャポニカが栽培されていたということが導きだされている。炭化米の出土例(風張遺跡のみ)が少なく、水田とか畑や農具などの栽培の痕跡がなく、状況証拠だけであるが、縄文時代に熱帯ジャポニカが栽培されていたと信ずるに足りると考える。しかし、まだ縄文稲作を否定する考古学者や農学者もいる。 

池橋宏氏は農林省勤務後京都大学教授を務められたイネ学の専門家である。池橋氏の著書「稲作の起源」の帯には、「縄文稲作はなかった」と大きく書いてある。池橋氏は縄文稲作の確実な「物証」として、土器に付着したイネのモミガラの痕跡が取り上げられているが、これら全てがイネのモミ痕ではないと、
板屋Ⅲ遺跡・南溝手遺跡・大矢遺跡の土器のモミ痕の写真を掲げて反論し、これらを縄文稲作の証拠とすることは出来ないとしている。 縄文土器に付着したイネのモミガラの痕跡が、イネのものであるかどうかは、見解の相違であって、池橋氏の意見が間違いなく正しいとするには根拠は薄いように思えた。最近は土器にある圧痕をシリコンで型取りして走査電子顕微鏡で観察する、レプリカ・セム法による種子の同定が行われている。縄文土器に付着した種子の圧痕についても研究が進むであろう。 

池橋氏は土器の胎土に含まれていたイネのプラントオパールについて、縄文土器のモミガラのような痕跡がイネでないとなると、プラントオパールの検出は孤立した証拠にすぎない。また土層からのプラントオパールについても、水田や畑の痕や作物そのものの痕跡がないと、プラントオパールの証拠としての価値はないとしている。
 そして「専門以外の者がプラントオパールのデータについて、証拠力を検討することは出来ない。しかし、肝心の植物遺体の痕跡や栽培の痕跡がないということを考慮すると、これらのデータの意味は理解できない。」とあり、直接的証拠がないかぎり、縄文稲作は認められないと主張している。 

池橋氏の「稲作の起源」には、イネの栽培化は「種播き」から始まったのではなく、「株分け」から始まったということを述べている。これら稲作の起源が株分けからという直接的証拠はない。「学者」という人は
直接的証拠を探すのも仕事、また情況証拠を積み重ね真実をあぶり出すのも仕事であろう。他人の研究には直接的証拠がないと否定して、自分の研究は状況証拠で物を言う、これはどうかと思われる。 

考古学者の中には、プラントオパールは非常に小さいので、縄文土器を含む土層のイネのプラントオパールは、その土層の上の層からしみ込んできたのではないかとの意見もあるそうだ。縄文土器の胎土からイネのプラントオパールがあったことで、この意見は否定されている。
 

B37野生稲.jpgプラントオパールはイネの葉にあるので、プラントオパールがあったからと言って稲作(イネの栽培)が行われたとは言えないとの意見もある。たしかに、縄文時代に日本に野生稲が生えていたら、その土層からはイネを栽培したくらいのプラントオパールが出土することは考えられる。図B37は佐藤氏の著書「DNAが語る稲作文明」(1996年)に載っている野生イネの分布図に、私が北限の近くの都市の最高気温月の平均気温と、最低月の平均気温を加筆したものである。 
                           (図をクリツクすると大きくなります)
図には縄文稲作の痕跡が出土した遺跡に近い岡山市と熊本市の気温も載せてある。最高月平均気温を見ると、野生イネの北限地域と岡山・熊本はそれほど変わらない。最低月平均気温で見ると、中国江西省の南昌を別にすると、野生イネの北限地域と岡山・熊本では7度以上の差がある。縄文海進(前期~後期)のころは、日本列島も現在より気温が高かったといわれるが、平均気温が前期頃は現在より2度高く、中期頃は1
.5度低く、後期頃で0.5度高い。地域差の方がはるかに大きい。 

中国江西省南昌の最低月平均気温は岡山・熊本と同じである。江西省東郷県の野生イネは1978年に発見され、世界最北端の野生イネであると認められた。「パンダより保護されるべき種」として世界から注目をあびたそうで、特異なケースと考えてよさそうだ。
 佐藤氏は「植物学的な立場からみると、縄文時代に日本列島に野生イネがあったことを考えるのは、栽培イネがあったと考えるよりさらに数段難しい」としている。日本には野生イネはなく、縄文稲作は存在したと私は確信した。
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