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13.邪馬台国畿内説を斬る ブログトップ

13-1.卑弥呼と銅鐸 [13.邪馬台国畿内説を斬る]

平成23年1月23日、NHKスペシャルで「邪馬台国を掘る」が放映された。この番組はNHKが、大型宮殿跡が出土した纒向遺跡の発掘現場に3ヶ月も密着取材して、大型土坑から桃の種や銅鐸の破片が出土した瞬間を撮影しており、また2千個以上の桃の種を並べた映像もあったりして、我々古代史に興味を持つ者にとっては、発掘現場の臨場感が伝わり、なかなかの見ごたえのある番組であった。 

大型土坑から出土した銅鐸は、突線鈕式の鰭の破片であったが、纒向遺跡が銅鐸を祭器として使用していたならば、鬼道を用いた卑弥呼と矛盾し、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が低くなるとして、わざわざ銅鐸を鋳造し、それを割る実験をしていた。銅鐸はそのままでは潰れるだけで割れず、火に焼べて始めて叩き割ることが出来ていた。NHKだからこそ出来る番組と感心した。 

気象学による話もあった。卑弥呼が共立された頃、天候が不順な年が数年続いていたそうで、銅鐸を祭器とする祭祀では祈りが通ぜず、銅鐸を割り、卑弥呼による新しい宗教、鬼道(道教)による祈りが始まったとしている。そして、道教と桃の関係を中国まで取材に出向き、最後には大型宮殿に供えられた沢山の桃の前で、卑弥呼が祈りを奉げているシーンがあった。 

卑弥呼が銅鐸を割り、新しい宗教としての鬼道(道教)を行ったというストーリーにしなければならなかったのは、銅鐸による祭祀と鬼道が矛盾するためだけだったのだろうか。私にはもっと大きな、邪馬台国畿内説にとっては、致命的な欠陥を隠すための手段のように思えた。

13-2.畿内説にとっての倭国 [13.邪馬台国畿内説を斬る]

魏志倭人伝には「其の国、もと亦男子を以て王となす。住まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼と曰う」とある。卑弥呼が共立されて倭国の女王となったのは、倭国大乱の直後で2世紀の終わり、190年頃であると考えられている。時代区分で言うと、弥生時代後期の終わり終末期の初めである。 

図33矛・銅鐸鉛同位体.jpg弥生時代後期の日本(倭国とすると誤解が生じる)は、銅矛を祭器とする文化圏と銅鐸を祭器とする文化圏に分れていたことは良く知られている。弥生後期の銅矛と銅鐸の分布を明示するためには、同時代の銅矛と銅鐸で表わさなければならないが、両者が共存して出土したことは少なく、同じ時代の銅矛と銅鐸の型式を合わせることは難しい。銅矛と銅鐸は形状による編年が確立しているので、型式別に鉛同位体比を図33にプロットしてみた。銅矛は古い順から、細形・中細形・中広形・広形である。銅鐸は古い順から、菱環鈕・外縁1鈕・外縁2鈕・扁平鈕・突線鈕である。
 


図34銅矛分布図.jpg図33からは、細形・中細の銅矛と菱環鈕・外縁1鈕の銅鐸が2.12以下で、中広形・広形の銅矛と外縁2鈕・扁平鈕・突線鈕の銅鐸が2.1以上で、明確に分れることが分かった。これらから、中広形・広形の銅矛と外縁2鈕・扁平鈕・突線鈕の銅鐸は同じ時代の、弥生後期に造られたものであると考えた。図34に銅矛の旧国別の出土数、図35に銅鐸を表わした。やはり、九州を中心とする銅矛文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏に分れている。
 



図35銅鐸分布図.jpg銅鐸はもちろんのことであるが、銅矛の中広形・広形も祭器として使用されたと考えられている。祭器が違うということは宗教が違い、宗教の違う同士は共存してはいない。例えば、キリスト教とイスラム教、カトリックとプロテスタント、シーア派とスンニー派、と昔から今に至るまで宗教の対立は激しい。日本の神道と仏教は長い歴史の中で神仏混合の時代もあったが、仏教が伝わった初期の段階では、神道の物部氏・中臣氏と仏教の蘇我氏のように激しく対立している。


                              (図をクリックすると大きくなります)
邪馬台国畿内説にとって、卑弥呼を共立した倭国はどの範囲をいうのであろうか。
九州を含めた近畿以西、銅矛文化圏と銅鐸文化圏の両方を含む地域と考えているのだろうか。銅矛が祭器の国と銅鐸が祭器の国、宗教の違う国が一つの倭国を形成し、卑弥呼を共立したとは考えられない。もし考えられるとすれば、邪馬台国は銅矛と銅鐸の両方の祭器を使用する国、出雲か吉備でしか考えられず、邪馬台国畿内説は成り立たない。宗教の違った地域が、一つの国になるときは、共通の外敵があるか、強い権力者がいるか、それとも民主主義で選挙があるときだ。

13-3.畿内説にとっての伊都国 [13.邪馬台国畿内説を斬る]

邪馬台国畿内説にとって、卑弥呼を共立した倭国は、銅鐸文化圏にあったと考えざるを得ない。卑弥呼が銅鐸を割り、銅鐸による祭祀を否定し、鬼道による新しい宗教を提唱したとしても、銅矛による祭祀を行う国々が、おいそれと卑弥呼と同盟を結び、一つの連合体を作ったとは思えない。 

邪馬台国畿内説の人も、九州説の人も、いや邪馬台国は何処にあったかを唱える人の全ては、私以外、伊都国は糸島平野、奴国は福岡市・春日丘陵としている。特に伊都国については、魏志倭人伝は次のように述べている。「王、使いを遣わして、京都、帯方郡、諸韓国に詣ること、及び郡の倭国に使いするには、皆津に臨みて捜露し、伝送の文書、賜遣の物は、女王に詣らしめ、差錯することを得ざらしむ」。伊都国は邪馬台国が洛陽・帯方郡との交流を持つ要の地で、文章や貢物・賜物の管理をまかされている。
 

邪馬台国にとって、伊都国は最も信頼のおける国である。魏志倭人伝には伊都国について「世々王ありて 皆女王国に統属す。郡使の常に駐する所なり」とある。このような国の関係は、完全な属国か、姻戚関係があるか、特別な恩義があるか、そして故地であるしかない。卑弥呼が共立された190年以降から、魏に朝貢の使いを出した239年の50年間の間に、畿内にある邪馬台国が伊都国を支配したのだろうか。倭国大乱があって、それに辟易した国々が、卑弥呼を共立したのであるから、卑弥呼の務めは平和を保つことであり、戦争を始める事ではない。宗教の違う地域に戦争を仕掛けたとは思えない。それだと、同一の宗教の国々がまとまり、大戦争に発展してしまう。
 

遠く離れ宗教も違う国と国が、姻戚関係があったり、特別な恩義があったりするとも考えにくい話である。唯一考えられるのは、卑弥呼以前の邪馬台国が、例えば饒速日命のように、北部九州から畿内に来た勢力と、畿内の土着の勢力とが結び付き出来た場合である。これだと邪馬台国の祭祀は、郷に入れば郷に従いで、銅鐸を祀ることになる。また、中国に朝貢しようとしたとき、故地の伊都国に頼み、郡使を常に留め、邪馬台国と洛陽や帯方郡と交流を持つ要の地として、文書や貢物・賜物の管理を任せと考えられる。しかし、魏志倭人伝は「女王国以北は、特に一大率を置きて、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す」とあり、邪馬台国が銅矛を祭器とする国々を支配し、伊都国がそれを検察している。これは邪馬台国が銅矛を祭器とする国を戦争により支配しなければ出来ないことだ。
 

図32 高地性集落.jpg弥生の高地性集落は戦いの防御のために作られたと考えられているが、弥生後期の高地性集落は、12章5節(12-5)の図32で示したように、近畿とその周辺、瀬戸内沿岸には存在するが、北部九州には存在していない。まるで、攻める近畿に守りの高地性集落があり、攻められる北部九州に高地性集落がない、話はまるで逆である。どう考えても、畿内の邪馬台国が伊都国と結びつくことが考えられず、邪馬台国畿内説は成立し得ないと思える。それは卑弥呼が銅鐸を割って、新しい宗教で臨んでも同じである。邪馬台国畿内説にとって伊都国の問題は致命的な欠陥だと考える。
 

邪馬台国畿内説を唱える人は、北部九州から大和・河内の庄内式土器が出土することを論拠としている。庄内式土器を代表する庄内甕で見れば、伊都国があったとされる糸島平野では、明確に近畿系庄内甕と認められるのは三雲サキゾノ遺跡から出土した庄内式大和甕の1点のみである。これでは、邪馬台国が畿内にあり、伊都国は糸島平野とは言えないであろう。
 
図36弥生鏡.jpg
邪馬台国北部九州説にとって、伊都国については全く問題がない。しかし、もっと大きな欠陥を持っている。図36に弥生遺跡より出土した鏡の分布、図37に古墳より出土した三角縁神獣鏡の分布を示す。弥生時代の鏡はその中心が北部九州にあり古墳時代の三角縁神獣鏡はその中心が畿内にある。三角縁神獣鏡を卑弥呼が貰った鏡とした場合、邪馬台国北部九州説は成り立たない。だから、邪馬台国北部九州説の人には、三角縁神獣鏡は国内で製作されたと考える人が多い。
 


図37三角縁神獣鏡分布.jpg唯一成り立つとすれば、卑弥呼あるいは壱与の時代に、西から東に、邪馬台国が遷都したことである。これならば、邪馬台国が大和にあっても、伊都国とは魏志倭人伝の記載の通りの関係を結ぶことが出来る。三角縁神獣鏡が大和から地方に拡がったことも理解出来る。しかし、邪馬台国畿内説を唱える人は、大
和の土器が北部九州に来ているが、北部九州の土器が大和に来
ていないと、邪馬台国の東遷を認めていない。邪馬台国畿内説
と邪馬台国北部九州説では、いつまで経っても邪馬台国問題は
解決しないのである。


13-4.私の邪馬台国論 [13.邪馬台国畿内説を斬る]

魏志倭人伝の通り、日本書紀原典(編年を組み換え)通りに辿った私の邪馬台国論は、邪馬台国畿内説と北部九州説の弱点・欠陥・矛盾点を補うものばかりでなく、倭国の誕生から大和王権の誕生までを解き明かしたものである。ここで、簡単に私の邪馬台国論をまとめてみた。 

北部九州の高天原で奴国が誕生、奴国王は「漢委奴国王」金印を貰い、その後、倭国王として君臨した。そして倭国王は出雲に
天穂日命を天降りさせ同盟国に取り込んだ。日向に天降った瓊瓊杵尊は、未開であつた日向に邪馬台国を建国した。河内に天降った饒速日命の子孫は大和に侵出して、土着の長脛彦と結び付いた。また、奴国自身が有明海にまで侵出すると、銅矛の祭祀でまとまりを見せていた倭国も、互いに功伐し倭国大乱となった。戦いに辟易した国々は、奴国の親せき筋で家柄のよい、大国であるが武器を持たない、そして狗奴国という倭国の敵を背後に持つ、君主国として安心できる日向の邪馬台国の年若い巫女・卑弥呼を倭国の女王に共立した。邪馬台国の王・彦火火出見尊は卑弥呼に王の座を譲った。 

卑弥呼(玉依姫)は約50年間、邪馬台国の王であり、倭国の王として君臨するが、その間内密に前王の息子と結婚し、4人の息子を授かった。息子は男弟として国を治めていたが、長男の五瀬命と四男の磐余彦尊は、
倭国の同盟に入っていない大和に東征を行った。倭国の最前線にある吉備国で兵器や食糧を整えているとき、伊都国王から使者が来て、中国の魏の国が朱(丹砂)を求めている。朱が手に入れば鏡を入手出来るとの情報が入った。そして、吉備王からは熊野(有田~田辺)では、朱が採れていると情報を得た。 

五瀬命と磐余彦尊は河内に上陸、
長髄彦と戦ったが五瀬命が傷つき、退却を余儀なくされた。そこで、日神の子孫であるので、背中に太陽を背負い、敵におそいかかるには、熊野から東に迂回するのが良いと考え、同時に熊野の朱の探索をしようとした。五瀬命が亡くなったので紀の国の竃山に葬り、進軍を進めた。熊野では高皇産霊尊の子孫の高倉下(剣根)、その家臣で朱の探索に長けた八咫烏の先導を得て、吉野を通り宇陀に辿りつく事が出来た。吉野を巡幸し朱の探索をしたが、宇陀川で朱の採集に成功、丹生川の上流に露頭も発見、それが水銀朱であるこが確認でき、これで武器なしに天下を平定出来ると確信した。 

その後、磐余彦尊は長脛彦と対峙した時、饒速日命の息子が長脛彦の妹を娶とり生れた可美真手命(物部氏の先祖)が、伯父の長脛彦を殺し忠誠を誓った。磐余彦尊は、出雲の大己貴命(大国主命)を先祖に持つ大和事代主神が、三島(高槻市・茨木市・摂津市)の溝橛耳の娘を娶とり生れた姫蹈鞴五十鈴姫命を妃に迎えた。そして、241年辛酉の年に、橿原の宮で大和国を建国し神武天皇となった。
 

日本書紀は神武天皇の建国を紀元前660年の辛酉の年としている。私は、書紀が歴史を延長していることを見つけ出した。その延長は欠史8代の483年と記事と記事の空白の期間417年の900年であった。日本書紀に記載された記事を1年も損なう事なく、書紀の原典となる年表を、241年辛酉の年を起点に作成することが出来た。驚くことに、神武建国は邪馬台国の卑弥呼が親魏倭王の金印や、鏡百枚を授かった正始元年(240年)の翌年の事であった。
 

磐余彦が東征している間に、日向の邪馬台国の女王卑弥呼は、魏が公孫氏を破り、帯方郡を手中に入れたという情報を得て、景初3年(239年)6月に、難升米等を、伊都国の嬉野で採れた朱50斤や真珠50斤・班布2匹2丈を男4人・女6人の奴婢に持たせて帯方郡に行き、大きな鏡を賜りたい旨を伝え、魏王に拝謁を願った。帯方太守の
劉夏は、東莱山の尚方で作る9寸の鏡が良いとの上申書を、難升米等を洛陽まで案内する家来に持たせた。朝貢は成功し、卑弥呼は魏王からは過分のお返しを頂いた。これらの品は翌年、帯方太守弓遵が使者を倭国に派遣して届けることになった。 

帯方太守の使者がやって来た行程は、帯方郡(大同江)から韓国の沿岸を南に水行し、韓国南東端から東に転じて狗邪韓国(金海)に7千余里(7500)で着いた。そこから対馬国(対馬)へと千里(830)渡海し、そして南に千里(830)渡海して 一支国(壱岐)に、また一海を千里(420)渡り末盧国(唐津)に至った。末盧国から東南の方向に5百里(500)陸行して、使者が駐屯する伊都国(吉野ヶ里)に着いた。伊都国から邪馬台国へは、有明海を南に10日(1340)水行して、八代海の佐敷から人吉・小林を通り西都への陸行1月(1080)であった。帯方郡から日向の邪馬台国まで1万2千余里(12500)である。カッコの数字は「120㎞は千里」の定理で、実際の距離を「里」に直した数字である。

正始元年(240年)に帯方太守の使者が倭国に来て、卑弥呼に詔書・印綬と鏡百枚や錦・毛織物・白絹・赤と青の布が届けられた。これらの品物の一部は、翌年の橿原で行われた建国式典に届けられ、式典は華やかなものとなった。神武天皇は卑弥呼の使いに、宇陀で採れた朱を託した。この朱は正始4年(243年)の卑弥呼の魏への朝貢に貢物とされた。正始8年(247年)邪馬台国の南の大隅にある狗奴国は、隙をついて邪馬台国に攻め込んで来た。幸い親せき筋の薩摩の投馬国が、援軍を派遣してくれたので、国を占領されることは無かったが、戦いの最中に卑弥呼が亡くなった。邪馬台国は投馬国の後ろ楯で日向国として生き残り、邪馬台国の一部の家臣は、卑弥呼の遺骸、親魏倭王金印、それに鏡を携えて大和まで落ち延びて来た。 

神武天皇は卑弥呼の遺骸を前にして、邪馬台国の再興を大和の地で果たし、倭国の王となろうと決意した。しかし、倭国の国々は邪馬台国が強国になることを恐れ、それを拒否し戦いが起こった。そこで、神武天皇は倭国王の座を、兄の五瀬命が吉備国王の娘を娶り生れた子、年13歳の壱与に譲り国中が収まった。壱与は250年に崇神天皇(御間城姫)になったが、神武天皇の息子・神渟名川耳尊(御間城入彦)と結婚した。御間城入彦も崇神天皇と言われている。その後、神武天皇は大和国の王・大彦命として壱与を支えた。
 

日本書紀では、神武天皇を「始馭天下之天皇、始めて天下を治められた天皇」と、崇神天皇を「御肇国天皇、国をお肇になられた天皇」と記載しているのは、これらの事情によるものである。また、大和王権下において吉備の影響が強いのは、崇神天皇(壱与)の出自が、吉備の国王に繋がるためである。259年に卑弥呼の墓が
纒向の地に作られた、世の人は箸墓と呼んでいる。266年、壱与(崇神天皇)は晋の建国に合わせ朝貢した。崇神天皇以降、大和王権は日本書紀記載の通りの天皇が在位している。


13-5.纒向遺跡の宮殿跡を考える [13.邪馬台国畿内説を斬る]

図38巻向遺跡.jpg                                (図をクリックすると大きくなります)

図38は纒向遺跡の遺構配置図は、平成22年9月の第168次調査の現地説明会で使用されたものに加筆したものである。この遺構を古い順(桜井教育委員会の比定)に並べると、①建物D面(ピンク)、②大型土坑、溝SM-1001、溝SD-1009(ブルー)、③面SD-1011(イエロー)、④溝SX-1001(グレイ)である。この中で時代が一番比定され易いのは、土器などの出土遺物の多い大型土坑と溝(ブルー)である。大型土坑は庄内3式期、溝は庄内3式期~布留0式期となっている。大型土坑は湧水があったとされており、最初から溝と繋がっていたと思われる。古い土器と新しい土器が混在するときは、その遺構の年代は新しいもので決めるという、考古学の原則からすると、大型土坑と溝の年代は布留0式期となる。
 



図39切り合い.jpg大型建物Dの廃絶は庄内3式期かそれ以前とされているのは、大型建物廃絶後に溝が掘られたと見ているからだ。赤①と赤②が溝によって削られた柱穴だ。詳細な写真で見ると赤①は柱穴のほんの一部が溝に掛かっているだけで、柱穴の一部を削って溝を掘ったのか、溝を埋めて柱穴を掘ったのか、切り合いは明確でないと見えた。また、図39の赤②は溝が完全には発掘されておらず、溝が先か後かは写真からは分からない。切り合いを精緻に判定したかどうか疑問を感じた。
 

図40 SD-1011面.jpg
庄内3式期以前とする建物Dの面(ピンク)と、布留1式期とされるSD-1011の面(イエロー)は、両方とも削平されている。図40の写真では、両者がほぼ同じ高さであることが分かる。掘り下げた地層から見ても、SD-1011面(イエロー)の方が、
どちらかと言えば建物D面(ピンク)より低く見える。
 


図41同じ面?.jpg図38遺構配置図で見ると、布留2~3式期に作られた溝SX1001(グレイ)は、平成21年に発掘された建物D(ピンク)と平成22年に発掘されたSD-1011面(イエロー)の両方の面を削った水路のように見える。図41の写真は、布留2~3式期に作られた溝SX1001を基準に、建物Dの面とSD-1011の面を見たものだ。溝SX1001面からの立ち上がりは、写真の倍率の違いを考慮しても、両方とも同じように見える。建物の面とSD-1011の面は同じ時代のものでないかと疑問を持った。
 


私は土器の編年は、国立民族博物館が行った、土器型式を用いたC14炭素年代測定(ウイグルマッチング)の結果に準じている。それを見ると、庄内3式は200~240年、布留0式は240~260年、布留1式は260~330年になっている。桜井教育委員会の見解より、30年程古くなっている。大型建物は溝が掘られる前に建てられたのであれば、庄内3式の時代(200~240年)で、卑弥呼の活躍した時代と重なるが、12章5節(12-5)で述べたように、私は饒速日命の子孫の宮殿と考える。もし、大型建物は溝が埋められて建てられたのであれば、布留1式の時代で垂仁天皇の纒向の珠城宮(276年)となるであろう。
 

NHKスペシャルで、卑弥呼が宮殿Dで祭祀をする時に桃が供えてあり、その桃の種が型土坑から出土したものであるかの印象を与える映像があった。桜井市教育委員会は、溝は建物Dの廃絶後に掘られたとしており、建物Dと溝・大型土坑とは同時に存在しないので、宮殿Dで祭祀に使った桃を、大型土坑に破棄することは出来ない。NHKの勇み足ではないだろうか。

13-6.纒向遺跡の桃と大田田根子 [13.邪馬台国畿内説を斬る]

大型土坑の年代が布留0式であると、箸墓古墳が作られた年代で、私の年表では崇神天皇の時代に当たる。日本書紀の崇神天皇5年(254年)に「国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどである」とある。百姓の流離するもの、反逆するものがあったので、天照大神と倭大国魂の神を祀ったが効果がなかった。崇神7年、天皇の夢に大物主神が現れ、「もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたらたちどころに平らぐだろう。」とお告げがあった。3人の家臣も同じ夢を見たので、大田田根子を探させ茅渟県の陶邑で見つけた。天皇は浅茅原にお出ましになり、大田田根子にその出自を聞かれた。「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます、陶津耳の女です(陶津耳の女でないことは次章で述べる)」と答えた。そこで、大田田根子を祭主として大物主大神を祀ると、疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。 

古代遺跡として超有名になった「纒向遺跡」は、庄内式期の遺跡を取り囲むように、布留式期の遺跡がある。卑弥呼の宮殿ではないかと騒がれた大型建物跡が出土した遺跡は庄内式期の遺跡範囲の内にある。この庄内式期の遺跡は当初「太田遺跡」と呼ばれていた。それは遺跡のある地名が太田であるところから来ている。「太田」が、崇神天皇に出て来る大田田根子に関係するのではないかと、森浩一氏など言っておられたが、発掘された大型建物跡が卑弥呼の宮殿ではないかと騒がれ、大田田根子の話などは何処かに飛んで行ってしまった。
 

NHKスペシャルでは、桃は中国の道教から来ているとしている。しかし、書紀の神代には、伊奘諾尊が伊奘冉尊の殯斂
(もがり)で死体を見ると、八種類の鬼がたかっていたので、驚いて逃げかえった。鬼が追いかけて来たので、桃の木の下に隠れ、その実を鬼に投げつけると、鬼は逃げ去った。これが桃でもって鬼を防ぐ始まりであると書いている。我が国では神代の時代(弥生時代)から祭祀には桃が用いられていたと思われる。桃の種約3千個が出土した大型土坑は、大田田根子が大物主神を祀り、疫病が収まり国内が鎮まるよう、祈祷した祭祀の跡と私は考える。「国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどである」を考えると、桃3千個も集めなければならなかった意味が分かって来る。 

大田田根子が祀りをした場所は、三輪山の裾野にある三輪神社の辺りではなかったと考える。疫病が収まった翌年、神の宮で宴が行われている。大物主神に奉る酒を司る活目は「この神酒は私の造った神酒ではありません。倭の国をお造りになった大物主神が醸成された神酒です。幾世まででも久しく栄えよ。栄えよ」と詠った。天皇も「一晩中酒宴をして、三輪の社殿の朝の戸をおし開こう。三輪の戸を」と詠っている。この宴は、大田田根子の功績に報い、三輪神社を建てた祝宴と考える。だから、歌の終わりには、大田田根子は今の三輪君らの先祖であると書いている。
 

大田田根子が祀りをした場所は、崇神天皇がお出ましになった
浅茅原であつたと考える。天皇と同じ神託の夢を見た一人に、倭迹速神浅茅原目妙姫がいる。浅茅とは茅萱(ちがや)のことで、イネ科の多年草で茎の先に花穂をつける。河原、田畑、土手など日当たりの良い所に群生する。万葉集には浅茅とか浅茅原と詠われている。太田地区が浅茅原だったと想像する。盾持埴輪が出土して有名になった茅原大墓は、桜井市茅原にある。太田地区とは直線距離で1キロメーターか離れていない。茅原と浅茅原は関係あるのかも知れない。 

平成23年4月、桜井市教育員会は図38の遺構配置図の東側(右側)で、JRの線路との間を発掘したところ、大型建物とほぼ同じ規模の柱穴を5ヶ所見つけたと発表した。建物の向きは建物Dとは違っている。ひょっとしたら三輪山を向いたたてものかも知れないし、
大田田根子が桃を祀り、祭祀をした建物かも知れない。建物が大型土坑と同じ布留0式の時代であれば面白い。 
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