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3-1.邪馬台国は纒向か [3.邪馬台国を解く]

平成21年11月、奈良県桜井市の纒向遺跡から、3世紀前半~中頃の大型建築跡が出土し、これこそ邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿跡ではないかと大騒ぎになった。そして、明治以来長らく続いてきた邪馬台国論争も、畿内説で決着かとマスコミは報道している。多くの研究者が邪馬台国畿内説を指示されているのは、纒向遺跡の大型建物跡のみならず古墳や鏡、そして土器の研究からである。畿内説で一番足りなかったのが大型建物跡であり、その意味では纒向遺跡での今回の発掘の意義は大きい。 

邪馬台国の畿内説の最も大きな弱点は、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国への行程の方角と里数や日程が合わないことだ。畿内説をとなえる研究者の方々は、これらについては、魏志倭人伝の記述に間違いがあるとして信用していない。もちろん、魏志倭人伝には倭国の地名や人名について、聞いた言葉を漢字にする場合の誤記もあり、写本などの転記ミスもあろうが、それらは出来る限り最少でなければならない。そもそも我々が邪馬台国や卑弥呼の存在を知る事が出来たのは、魏志倭人伝に記載されてあるからであり、それに記載されている方角と里数や日程が信用できないと言うのもおかしな話である。 

そうかと言って、邪馬台国九州説(北部九州)では、邪馬台国への行程の方角と里数や日程が、ピッタリ合っているかと言えばそうでもない。畿内説が広く見ても奈良盆地の内のどこかであるのに対して、北部九州説では、旧国名で言うと筑前の博多湾側、筑前の内陸側、筑後、豊前、肥前の有明側と様々である。このように候補地が大きく異なっているということは、邪馬台国への行程の方角と里数や日程の解釈が色々あると言うことになり、ピッタリ一致してはいないようだ。 

現在、邪馬台国論争の中で、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程を云々する研究者は少なく、魏志倭人伝の記述からは何も生れて来ないと言う考えが支配的である。本当にそうだろうか。私は技術屋として長年仕事に従事してきた。それらの中で体得したことは、長年解決していない問題は、これは間違いないとしている根本が間違っていた時だ。そんな問題が邪馬台国への行程の解釈に潜んでないだろうか。原点に帰って、魏志倭人伝に挑戦してみる。

3-2.帯方郡から末盧国への船旅 [3.邪馬台国を解く]

邪馬台国の卑弥呼を書いた魏志倭人伝は、日本の古代史を語る上であまりにも有名である。この魏志倭人伝は中国の三国時代、220年~280年について書かれた正史「三国志」の魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻の中の「魏志」の「東夷伝」にある「倭人条」の事である。この「三国志」は285年の頃に陳寿により編纂されたが、この陳寿は魏・呉・蜀の三国が連立し、天下に覇を競っていた時代、また、女王卑弥呼の使いが魏の都、洛陽を訪れた時代に生きていた生証人でもあった。 

それでは魏志倭人伝の読み下し文をもとに、「帯方郡」から「邪馬台国」への道を辿ってみる。この読み下し文は、岩波文庫・石原道博編訳・新訂魏志倭人伝を参照した。「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり。今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍(あるい)は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里」 

出発地の帯方郡は、韓国京畿道の臨津河口付近、ソウル近郊とされていたが、北朝鮮黄海道の鳳山郡文井面九龍里、沙里院近辺の墓から「帯方大守張撫夷」という墓誌が発見され、帯方郡は鳳山郡にあったとする見解が多くなって来ている。帯方郡の都は、平壌の南、大同江河口付近であったと想定して、倭国への旅を出発する。韓国の沿岸を南に水行し、そして韓国南東端の珍島から東に転じて水行すると狗邪韓国に至る。狗邪韓国は対馬に最も近い現在の釜山、あるいは金海と考える。 

帯方郡から倭国に到る道程の中で、「始めて一海を渡る千余里、対馬国に至る」、「居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、森林多く、道路は禽鹿の径の如し」、「千余戸あり、良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と表現された「対馬国」ほど、その地名といい、位置といい、島の様子といい現在の長崎県の「対馬」と比定して異論のある人はいないであろう。魏志倭人伝に出て来る諸国のうち、一番明確に比定出来る国と言って過言ではあるまい。 

図1倭人伝の国々.jpg対馬国より次の一支国へ進もう。魏志倭人伝には「また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大国に至る」とある。島の様子は「方三百里ばかり竹木・叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴(してき)す」となっている。対馬の南に有る島と言えば、それは壱岐でしかない。地図で見ると、対馬より壱岐のほうが、山が少なく平坦であり、そのことが文章にも表れている。原文では「一大国」と書かれているが、それが壱岐に相当することから、「一支国」の間違いではないかとするのが通説であり、私も「一支国」と表現する。 

一支国から末盧国へは「また一海を渡る千余里、末盧国に至る」とあり、方角は示されていない。しかし一支国の、国の様子に「南北に市糴す」と記載されてあり、一支国から見て北が対馬国、南が末盧国と云うことになる。壱岐を出た船は南に進路を取り、松浦半島の沖合にある島々を目指したであろう。そして、半島先端に航路を取り、その後半島にそって唐津湾を進んだに違いない。私は、末盧国は唐津付近にあったと考える。 末盧国の様子は魏志倭人伝に「四千余戸あり。山海に浜うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」とある。「山海に浜うて居る」等、唐津湾内にある虹の松原の砂浜をほうふつさせる。唐津湾内には松浦川が流れ込んでおり、「草木茂盛し、行くに前人を見ず」のイメージは合っている。地名からしても、「末盧・マツロ」と「松浦・マツウラ」の語呂が似ている事から、唐津平野に末盧国を想定する人も多い。 

考古学からみても唐津平野には菜畑遺跡があり、ここが末盧国の中心地であったと考えられている。菜畑遺跡には弥生前期から末期までの水田遺跡があり、農耕技術の発達していた様子がうかがわれる。菜畑遺跡にかかわらず唐津平野には、弥生前期の支石墓が多く発見されている。また、遺物としても、弥生前期の朝鮮半島製の細見の銅剣・銅矛や、弥生中期から邪馬台国のあった弥生後期の国産の銅剣・銅矛と、舶載あるいは国産の鏡が出土している。

3-3.末盧国から伊都国への陸行 [3.邪馬台国を解く]

末盧国の次は伊都国、魏志倭人伝に云う「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。そして「東南奴国に至る百里」の奴国へと続く。この伊都国と奴国について、伊都国が現在の福岡県前原市付近、奴国が福岡市付近と諸学説が一致している。いわゆる邪馬台国論争の近畿説・九州説、どちらの説もこの伊都国・奴国の比定は同じである。これらの考えが定説となった根拠は、伊都国と推定された糸島半島の前原市付近が奈良時代より「怡土・イト」と呼ばれ「伊都・イト」と一致したこと。また、「奴・ナ」の国と考えられた福岡市近郊が昔から「那・ナ」の湊と呼ばれ、筑前国那珂郡であった事が上げられている。また、博多湾の志賀島から発見された「漢委奴国王」の金印が、奴国を比定した決め手になっているようだ。 

もちろん考古学から見ても、それらの地域からは、伊都国・奴国に匹敵する遺跡が発掘されている。ただ、これらから出土した鏡は、前漢・後漢時代のものが多く、弥生中期の遺跡であるとされている。伊都国のあったとされる糸島平野にしろ、奴国のあったとされる春日丘陵にしろ、卑弥呼が活躍した三世紀より前の、弥生中期の遺跡が多いのが気になる所であるが、朝鮮半島を経由して中国からの青銅器文化を取り入れた、古代日本の先進文化地域であったことは間違いない。 

図2定説伊都国.jpg
これだけの遺跡、遺物、そして地名の資料が在り、定説となっている伊都国・奴国の比定にも泣きどころがある。それは魏志倭人伝に記載された方向「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」、「東南奴国に至る百里」である。末盧国を唐津市近郊とすると、伊都国に特定された糸島半島の前原市は、地図で見ると、「東北」の方角になる。奴国に比定された福岡市近郊は前原市から「東」の方角に当たり、魏志倭人伝に記載された方角と違っている。

 
 末盧国から伊都国に至る泣きどころは方角の問題だけではない。「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。なぜ末盧国から伊都国へ行くのに陸行しなければならないのだろうか。唐津から前原への陸路は、唐津市の虹の松原のはずれの浜玉町の筑肥線浜崎駅から、糸島市二丈深江の筑前深江の間は、唐津街道と言われる国道202号線が海岸ぎりぎりを走り、それにそって筑肥線が走っている。この間は15キロメートルであるが、トンネルがなんと九ヶ所も数えられ、回り道もない陸の難所である。唐津から前原へ船で行くとすれば、航路は松浦半島と糸島半島に囲まれた唐津湾内であり、陸行より安全で速いと思える。 

魏志倭人伝には次の文章がある。「女王より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず」。 「津に臨みて捜露し」。漢和辞典でみると「津」とは「みなと、船着き場」。「捜露」とは「もちものを調べること」となっており、伊都国に港があったのである。文章からすると、女王国から帯方郡に送る(みつ)ぎ物、帯方郡から女王国への賜り物、ここで陸揚げされている。帯方郡からの賜り物が、唐津市付近と想定される末盧国で陸揚げされ、陸送されて前原市付近の伊都国まで運ばれ、そして女王国へと舟積みされる。女王国からの貢ぎ物の場合はその逆が行われる。末盧国と伊都国間の陸送の必然性が全くなく、全く不自然な行動としか言いようがない。 


「方角」「陸行」「津に臨みて捜露し」、どれをとっても、伊都国が糸島半島の前原市付近に比定出来る条件を満足していない。末盧国を唐津市付近とした場合、伊都国が唐津湾東岸の前原市付近だとする関係はありえない様に思える。


3-4.伊都国は東南の方角にある [3.邪馬台国を解く]

 ここで魏志倭人伝の世界に立って、「方角」について考えてみる。このためには二つの前提条件が存在する。一つはこの時代、方角を調べるための磁石はなかった。二つ目は、地図は無かったということである。魏志倭人伝に書かれた方角には、「東」「南」「北」「東南」「南北」がある。「西」の文字は出てこないが方角としては、東西南北と、東南、東北、西南、西北の八方位があったと考えられる。東南東、南南東と言う十六方位の概念は無かったのかも知れない。それからすると、例えば、東南とは「だいたい東南の方角」と言う程度と考えたい。 

磁石のない時代、これらの方角は何によって決めたのであろうか。「北極星が北を指す」、北極星は日中の旅程の方角としては役に立たない。「日の出る方向が東、日の沈む方向が西」、日の出、日の入りの方向が日中の旅程の一番の目安になったであろう。しかし、春夏秋冬では日の出る方向、日の沈む方向が違い、東西の方向は明確でない。古代人は現代の我々よりも太陽の動きについては、詳しかったと思われる。我々は知識としては古代人より詳しいが、実際の天体の動きは、古代人のほうがよく観察していたであろう。現在でも自然を相手とする漁師は、太陽、月、風、雲の動きには非常に詳しい。私は魏志倭人伝に書かれた時代の方向感覚は、「日の出る方向と日の沈む方向の中間が南北」という知識で、いつの季節でも正確に南北の方角を示す事が出来たと考える。 

また、一つの国から他の国の方角を示す場合、出発地点からみて最も目的地に近い、目で見える目標物がその国のある方角となる。具体的に言うと、それは、山の頂や、山と山の間の峠あるいは谷筋が多い。目的地が山や峠を超えてから、方向を大きく変える場合でも、その国の方角は出発地点から見える最も遠くで、通過する付近の目標物、山の頂や峠の方向を指し示すであろう。 

図3吉野ヶ里遺跡.jpg
それでは伊都国への道をたずねたい。「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。唐津市から「東南」の方向とは、松浦川に沿った国道203号線、佐賀市に抜ける唐津線が通るルートしかない。唐津市から松浦川沿いに約25キロメートル程度で厳木(きゅうらぎ)町に着く。魏志倭人伝の末盧国の様子に「草木茂盛して行くに前人見えず」とあるが、松浦川沿いの道はピッタリである。厳木町から200メートルの峠を登ると、もうそこは玄界灘と有明海との分水嶺である。峠を下った所が多久市、そこから10キロメートルで、羊羹で有名な小城市に入る。そこから東15キロメートルの所に、日本中の古代史に興味を持つ人、いや、そうで無い人も含めて、注目を集めた吉野ヶ里遺跡が存在する。 


私はこの吉野ヶ里遺跡こそ伊都国であると考える。末盧国からの方角としては、前述した魏志倭人伝の方角に関する定理「出発地から見て最も遠い、通過する付近の見える目標物、山の頂や峠の方向」で考える。末盧国に特定した唐津市からの目標物としては、松浦川の谷筋、あるいは筑紫山地の天山(1046メートル)と考えると、末盧国からまさに東南の方向に見えるのである。

3-5.伊都国は吉野ヶ里遺跡 [3.邪馬台国を解く]

末盧国からの方角「東南」は魏志倭人伝に矛盾しない。それでは距離5百里はどうであろうか。魏志倭人伝に書かれた時代、伊都国あるいは邪馬台国を訪れた帯方郡の使者は、国と国の距離をどのようにして測ったのであろうか。巻尺や万歩計に相当するもので、距離を測定しながら歩いたわけでもないだろう。行程に要した日数と、1日の歩行距離から割り出したに違いない。 

私は学生時代ワンダーフォーゲル部に所属し、山道・野道・道路あるいは道なき道を歩いた。1時間に歩く距離は4キロメートルが標準。平坦な道路なら時速6キロメートル、山道ならば2~3キロメートル、藪漕ぎと言われる道なき道を進む時は、1時間に1キロメートルも進めない場合もある。 

「唐六典」には1日の歩行距離は50里とある。中国では古代から隋代まで、6尺を1歩、300歩を1里とし、1里が1800尺となっていた。唐の時代の1尺は31センチであるから、1日の歩行距離も50里は約28キロメートルとなる。これは4キロメートルの歩行速度で7時間歩いた事になる。若者でもこの行軍が毎日続けばバテてしまうだろう。 

魏の時代は1尺が24センチなので、1日の歩行距離を50里とすると、約22キロメートルになる。これは3.5キロメートルの歩行速度で約6時間である。旅程中の日照時間が12時間とすると、日の出から出発までに2時間、昼食1時間、宿営地に着いて日の入りまでに3時間、1日の歩行時間は6時間になる。これならば無理のない陸行が出来る。魏志倭人伝を書いた陳寿の頭の中には、1日の行程は50里とする公式があったのだろう。末盧国から伊都国に行くのに10日かかったという報告に対し、「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」の文章が出来たと思われる。 

末盧国と特定した唐津市の西唐津駅から唐津線を経由して佐賀駅へ、そこから長崎本線経由で、吉野ヶ里遺跡の近くにある神埼駅までの鉄道距離は約60キロメートルである。歩行した道程は鉄道距離の2倍、120キロメーターあったと考える。10日かかったのであれば、1日の歩行距離は12キロメートル、時速2キロメートルとなる。末盧国から伊都国の道の状態は、人が何度も通った道といえども、木々を切り倒す刃物もあまり発達していなかった時代、川沿いの道では、魏志倭人伝の末盧国の様子にある「草木茂盛して行くに前人見えず」のごとくであり、山側では対馬国の様子にある「道路は禽鹿の径の如し」であったと思われる。これらの道を歩く速さが時速2キロメートルは妥当と考える。 

この様な計算で、「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」を証明したとは思わない。ただ、ここで使った距離と日数の関係が、他の諸国の比定にも共通して使えなければならないという事である。方角に対して定理を定めたように距離にも定理を定める。1日の歩行距離は50里が基本で「陸行千里は、20日の行程。鉄道距離で約120キロメートル」である。魏の時代の1里は1800尺、432メートルである。この定理の1里は120メートルでちょうど500尺にあたる。同じ1里でも距離が違っている。 

これを理解するためには、私達の頭を切り替える必要がある。例えば、A地点とB地点の間を考える場合、現在では「距離」と言う尺度で、その遠いか・近いかをイメージする。古代では行くのに何日かかるかという「日数」で、その遠いか・近いかをイメージしたと考える。そして「日数」を長さの単位に直すとき、陸行の1日は50里とて換算した。しかし、道の状態によって1日に進む直線距離が異なる。道路が整備され道では22km、山道や草木をかきわけ進む道では、その半分か進まない。だから、同じ50里でも実際の距離は違ってくる。魏の都洛陽から遥か離れた僻地では、実際に進む距離は1里を5百尺で計算すれば、だいたいの直線距離が出るとしたのであろう。 

さて、伊都国を吉野ヶ里遺跡に特定した場合、「陸行」の必然性が生じるであろうか。末盧国から伊都国へ船で行くとすれば、松浦半島の先端から平戸の瀬戸を通り、佐世保沖から長崎沖を通り、野母崎を回って有明海に入り、筑後川の河口めがけて北上した航路となる。この間の距離は約300キロメートル、徒歩10日間の行程より、早くて安全とは言えない距離である。弥生時代の筑後川の河口は、現在よりも15キロメートル内陸部に入っていたと考えられているが、有明海の奥まで朝鮮海峡を横断してきた船が、入れたであろうか。伊都国を吉野ヶ里遺跡に特定した場合、「陸行」は妥当性があると考えられる。 

吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないかと注目されたのは、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の記事と合致したものが多数発掘されたからである。
1)塚(巨大墳丘墓が二つ発見された)
  
    「卑弥呼以に死す。大いに冡(つか)を作る。径百余歩」
2)棺(二千を超す甕棺が発掘された)  
    「その死には棺あるも槨なく、土を封じて冢を作る」
3)宮室・楼観・城柵(宮室・物見やぐらと思える建物跡、V字型の外溝と柵)  
    「宮室・楼観・城柵厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」
4)邸閣(外溝の外側に大規模な高床式倉庫跡)  
    「租賦を収む。邸閣あり」
 

吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないかという国民の期待は大きかったが、多くの学者・専門家の意見は、邪馬台国ではないが魏志倭人伝に記載されている、倭の30ヵ国の一つであるとしている。魏志倭人伝に出てくる諸国の中で、邪馬台国に最も似ている国と言えば、「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」の文章の通り、女王国より派遣された役人が常に駐在していた伊都国であると考えられる。また、「伊都国に到る。(中略)世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり」のように、伊都国に帯方郡の役人が往来時に常に駐在していたことからして、伊都国の様子を、邪馬台国の様子として報告したとさえ考えられる。考古学的に見ても、吉野ヶ里遺跡が伊都国であるとの推定には肯定的である。

3-6.伊都国は倭国の中心 [3.邪馬台国を解く]

それでは伊都国に続く奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国への道を歩んでみよう。魏志倭人伝は次の様に書いている。「東南奴国に至る百里・・・二万余戸あり」、「東行不弥国に至る百里・・・千余戸あり」、「南、投馬国に至る水行二十日。五万余戸ばかり」、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所。水行十日陸行一月・・・七万余戸ばかり」。魏志倭人伝の原文では「邪馬壱国」となっているが、通説では「邪馬台国」とされており、私も「邪馬台国」として扱う。 

図4邪馬台国への行程.jpg
伊都国以降、邪馬台国への行程について二つの考え方がある。それを図4①と②に示す。一つは図4①のように、伊都国・奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国と直列的に考える方法と、もう一つは榎一雄氏が初めて提案した考え方で、図4②のように、伊都国以降については伊都国を中心に放射線状に、奴国・不弥国・投馬国、邪馬台国が関係しているという考え方である。
        (図をクリックすると大きくなります)
 
私はこれら邪馬台国への行程について次のように考える。まず魏志倭人伝の原文を見ていただきたい。 
    始度一海千餘里
對馬国
    又南渡一海千餘里名曰瀚海一大国
    又渡一海千餘里末盧国
    東南陸行五百里伊都國
    東南奴国百里
    東行不彌国百里
    南投馬国水行二十日
    南邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月 

伊都国までは距離が「至」の前にあり、奴国以降は方角が「至」の前にある明らかに伊都国までと、それ以後では関係が違っていると思われる。「至」の字が伊都国のみ「到」になっているのも意味があるのかも知れない。また伊都国は、「世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まる所なり」。そして、「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」と記載されている通り、伊都国は倭の30ヵ国の中心となる位置にあると思われる。極めつけは次の文章にある。「王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず」

吉野ヶ里遺跡の所で述べたが、この文書から伊都国に港があり、女王国から帯方郡への貢物が、また、帯方郡から女王国への賜り物が、船から陸揚げされたり、船に積みこまれたりしている。まさに「南至邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月」の文章にある邪馬台国への水行は、伊都国より船出した事を示している。私は伊都国以降の奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国は、伊都国を中心とした、放射線状の関係にあったと想定する。伊都国から邪馬台国の行程を水行で10日、陸行すると1ヵ月と並列的の考え方もあるが、私は水行10日と陸行1ヵ月かかると直列的に考える。また図4②で、陸行を水行と直角に方向をかえたのは、邪馬台国への陸行は、上陸地点から陸地側の東の方角に進んだと思えるからだ。

さて、魏志倭人伝に書かれた諸国の比定を進めてみよう。「東行至不彌国百里」、始めに不弥国から取り組む。吉野ヶ里遺跡から東に進むと、筑後川を挟んで対岸に久留米市を見る佐賀県の東端鳥栖市に至る。この鳥栖市付近が不弥国と考える。神埼駅から鳥栖市までの鉄道距離は16キロメートル、前述の陸行の定理「陸行千里は、20日の行程。鉄道距離で約120キロメートル」から換算すると、133里、百里にほぼ近い値となっている。
考古学から見ても鳥栖市付近からは、整然と並べられた12本の矛が発掘された検見谷遺跡や、銅矛・銅鐸の鋳型が出土し、鋳造工房跡と見られる安永田遺跡がある。また、弥生時代最大の建物跡や大量の甕棺墓が見つかった柚比木村遺跡もある。吉野ヶ里遺跡から鳥栖市の方角は東北東に当たるが、魏志倭人伝の通りの東と言えよう。方角の目標としては、途中に障害物もなく直接に不弥国の方向を示す事になり、指でさし示すとすると、筑後川の河筋、東の方向にしたであろう。 

「東南至奴国百里」、奴国の都は福岡県八女市付近にあったとする。突然ここで「都」と言う言葉を使った。それは奴国がこれまでの諸国、「対馬国・千余戸、一支国・3千戸、末盧国・千余戸、伊都国・千余戸、不弥国・千余戸」に比べて戸数が非常に多く、「2万余戸」と書かれているからである。八女市は吉野ヶ里遺跡から見て東南の方角にある。方角の目標としては途中に視界を遮るものもなく都を直接示し、目標物としては、八女市の後方にある筑肥山地の姫御前岳(596メートル)であろう。不弥国と同じ百里の距離であるが、そこまでの行程は少し違っている。 奴国へは「東南」、不弥国へは「東行」。方角だけでなく「行」の字が違う。吉野ヶ里遺跡から鳥栖市へは徒歩で行けるが、八女市には筑後川があるため直接徒歩では行けない。そのため方角のみを示したと思われる。鳥栖市へは直線距離で15キロメートル、八女市へは20キロメートルで、両者を百里としても大きな間違いはないと思う。都を八女市とした奴国の範囲は、福岡県の南西半分、博多湾と有明海を結ぶ西鉄大牟田線(博多から大牟田)沿線一帯であると考える。もちろん、定説が奴国とした福岡市・春日市も入っている。 

「南至投馬国水行二十日」、伊都国に港が在ったことは前述した。当時、伊都国と仮定した吉野ヶ里遺跡の近くまで有明海が来ていた。その港から南に水行20日で投馬国。水行とは海岸に沿って舟で航海する事であると言う解釈そのままに、有明海を九州西岸に沿って南下する。まさに、魏志倭人伝の通りである。水行20日ではその距離が判らないので、場所の特定が出来ない。そこで、水行の定理を決め、その定理通りに解釈していくとする。その水行の定理とは、「水行は陸行の2倍進む」、「水行千里は10日の行程。直線距離で120キロメートル」と定める。 投馬国までは水行20日、240キロメートルとなる。吉野ヶ里遺跡付近から当時の筑後川河口を通り、大牟田市を通って熊本市の沖から、当時島であったと言われている宇土半島の付け根を通り、八代・水俣・阿久根市を経て、川内川を少し遡行した鹿児島県川内市が200キロメートルの行程になる。定理通りに計算すると、水行17日となるが川内市付近を投馬国の都と考える。都としたのは投馬国が5万戸の戸数を持ち、奴国同様に大きな国と考えるからである。投馬国は平安時代に出来た「延喜式」に書かれた「薩摩国」、現在の薩摩半島を主体とする、鹿児島県の西半分の領域であると想定する。

3-7.邪馬台国への道 [3.邪馬台国を解く]

それではいよいよ邪馬台国への道を進もう。「南至邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月」。南に水行10日と言うと、投馬国への半分、吉野ヶ里遺跡付近から約百キロメートル、球磨川の河口熊本県八代市付近になる。陸行1月と球磨川を遡行し、熊本県人吉市に抜ける道も考えられるが、日本三大秘境の一つである球磨川沿いに、遡行することは当時困難なことであったに違いない。八代市から不知火で有名な八代海を、30キロメートル南下した所に野坂の浦と言う天然の港がある。この港の奥にある芦北町佐敷から、穏やかな流れの佐敷川を遡り、標高差の少ない県道を15キロメートル行くと球磨川に出る。ここから5キロ上流に、肥薩線の球泉洞駅がある。ちなみに球泉洞駅から八代駅まで38キロ、球泉洞駅から人吉駅まで19キロであり、難所の球磨川を3分の2きた近道である。人吉市からは標高差、約600メートルの国見山地を越えるとえびの市に出る。高千穂の峰のある霧島山の裾野を通り、小林市から宮崎方面に向かい、野尻町から高岡町・国富町を通って西都市に向かう道が、古くからあったことが平安時代に出来た「延喜式」に出ている。私は邪馬台国の都がこの西都市付近にあったと考えている。

図5邪馬台国への道.jpg伊都国から「水行10日、陸行1月」とは、吉野ヶ里遺跡付近から佐敷までの約123キロメートルが水行、定理に従えば水行11日となりほぼ合致する。
 陸行1月を定理により検討してみる。熊本県の佐敷から球磨川沿いの球泉洞駅までが、道路の距離で20キロメートル。球泉洞駅から人吉市を通り、肥薩線吉松駅までは57キロメートル。吉松駅から小林市までが吉都線で27キロメートル。小林市から高岡町までは、バス宮林線で35キロメートル。高岡町から西都市までは県道で、その距離は20キロメートル。合計159キロメートル。これを陸行の定理に照らし合わせ計算すると、27日となりほぼ1月近くとなる。邪馬台国の大きさは、7万余戸となっており、日向の国・宮崎県と、有明海からの道筋、人吉盆地・えびの高原地方であったと考える。

郡より女王国に至る万二千余里」魏志倭人伝に記載された、帯方郡より邪馬台国までの道のりを整理してみる。

帯方郡   狗邪韓国    7千余里
狗邪韓国  対馬国       千里
対馬国   一支国       千里
一支国   末盧国       千里
末盧国   伊都国      5百里
伊都国   邪馬台国   水行十日・陸行一月(千5百里) 
帯方郡   邪馬台国  1万2千余里                

帯方郡から伊都国までを合計すると1万5百余里。魏志倭人伝は帯方郡から邪馬台国までが1万2千余里と記載している。これからすると、伊都国から邪馬台国までの水行10日・陸行1月は千5百里となる。伊都国から邪馬台国までを陸行・水行の定理から計算すると、水行10日が千里、陸行1月が1千5百里で合計2千5百里。魏志倭人伝から算出した里数の方が千里も少ない。これらについて検証してみる。 

魏志倭人伝に登場する国々の都を特定し、これらの都と都の距離を測定した。水行・渡海は地図上の直線距離を測り、陸行は鉄道距離(含む直線道路)を調べた。水行・陸行の定理「千里が直線距離・鉄道距離で120キロメートル」を使い、測定距離から計算里数を求めた。これらを表5に示した。狗邪韓国から末盧国までの、3回の渡海において、計算里数の合計は2千80里、倭人伝の記載里数の合計は3千里、倭人伝記載里数が約千里多くなっている。伊都国から邪馬台国までの水行10日・陸行1月で、魏志倭人伝から算出した里数の方が定理より千里も少なくなったのは、狗邪韓国から末盧国への渡海の里数過多の影響であった。「波濤千里洋々と」と歌にあったが、日の出から漕ぎ出し、日の入りまで一気に航海する「渡海」は、その距離の大小よりも、千里という単位で表現されたと思う。 

表5 1200余里.jpg帯方郡の出発地とした大同江河口付近から、邪馬台国の都とした宮崎県西都市までの、計算里数の合計が1万2千5百里となり、魏志倭人伝記載「郡より女王国に至る万二千余里」の1万2千余里とピッタリ一致した。それにしても、魏志倭人伝が正確な距離を記載している事に驚くと共に、距離計算に用いた定理、「陸行千里は、20日の行程。鉄道距離で約120キロメートル」、「水行千里は10日の行程。直線距離で120キロメートル」の妥当性が証明された。魏志倭人伝に記載された方角と里数・日数通りに辿ると、邪馬台国が宮崎県西都市にあったという答えが出て来る。

図6邪馬台国は日向.jpg「その南に狗奴国あり。男子を王となす。女王に属せず」、狗奴国は邪馬台国の南にある。この事より狗奴国は都城を含んだ大隅半島一帯で、「延喜式」でいう「大隅国」に当たり、都は志布志湾沿岸にあった。「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く」文章からして、邪馬台国と狗奴国は以前から争いを繰り返していたように思える。そのような争いをする国と国の位置関係は、隣接していたに違いない。「日向」と「大隅」、この関係はこれらの条件を満足している。図6に魏志倭人伝に書かれてある通りの国名・方角・距離と九州の地図を重ね合わせてみた。伊都国が吉野ヶ里遺跡であり、邪馬台国が日向の地にあったことが明白である。魏志倭人伝に記載された方角と里数・日程を何一つ訂正することなく、邪馬台国の都に辿り着いたのが西都市であることを強調しておきたい。
 

 

 

3-8.女王連合国以外の諸国 [3.邪馬台国を解く]

魏志倭人伝は女王連合国(卑弥呼を共立した国々)以外の諸国についても書いている。「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり。また侏儒国あり。その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり。またその東南にあり。船行一年にして至るべし」。これらの国々は、海を渡る国々であり、渡海について「渡海千里は20日の行程で120キロメートル」と定理する。「渡海」は千里が一航海の単位であったと思われるが、その航海に要する日数は、風待ち、潮待ち、天気待ちを考えると、水行の倍の日数を要したと考える。 

「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり。皆倭種なり」、邪馬台国の領域を日向の国、宮崎県に想定した。西都市の北北東40キロメートルにある日向市から、東に海を渡ると、140キロメートルに四国高知県の足摺岬がある。まさに東約千余里の距離である。「皆倭種なり」、四国は女王連合国には入っていなかった。 

「また侏儒国あり。その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」。西都市付近の海岸より海岸線に沿って南下すると、大隅半島の佐田岬にあたる。その少し手前から渡海すると種子島に着く、そこから屋久島に渡り、西南のトカラ列島の島々を通り、宝島辺りから南に渡海して奄美大島に渡る。西都市付近の海岸から距離にして500キロメートル、換算すると4千2百里。魏志倭人伝通りの約4千里の航海である。侏儒国を奄美大島に比定する。侏儒を漢和辞典で調べると、「短小な人」とある。弥生時代の人骨の調査では、奄美大島を含む南九州の離島には、低身・短頭の特徴があるとされており、奄美大島が侏儒国であった事を示唆している。

「また裸国・黒歯国あり。またその東南にあり。船行一年にして至るべし」。奄美大島からの航海は、徳之島・沖永良部島・与論島を通って沖縄に着く。沖縄を裸国と見る。沖縄からは北九州を中心に山陽・山陰・近畿地方で出土する、弥生時代のゴボウラ貝の腕輪の半加工品や製品が発見されている。この巻貝は種子島以南の海にしか生息しないものなので、弥生時代から沖縄と九州との間に、交流があったという証拠とされている。裸国と特定した沖縄からは、宮古島・多良間島・石垣島・西表島・与那国島、台湾の航海となる。台湾を黒歯国に特定する。

黒歯国は読んで字のごとく、歯を黒く染める住民がいた事になる。日本でも平安時代以後、女子や公卿に「おはぐろ」という、歯を黒く染める習慣があった事を思い出し、日本民族文化体系を調べた。台湾南部のパイワン族の間に嚼檳榔習俗があり、歯を黒く染めている事を書いている。嚼檳榔習俗とは、檳榔樹の果実を石灰とまぜ、これをコショウ科の植物キンマの葉で包んでかむ習俗のことである。この習慣は現在でも台湾東部・南部の地域で行われていて、街のいたるところで檳榔が販売している。檳榔は台湾チューインガムと言われ、習慣性があるらしい。ただ歯は黒色でなく赤色となっている。パイワン族は鉄を焼いて、日本でも行われていた鉄漿つけを行い、檳榔を咬んだ時に赤色になる歯を黒色に見せていたと書いてあった。「身体装飾と民族」の項を書かれた国分直一氏は、魏志倭人伝に記載された黒歯国は、台湾南部にあったと想定されている。

図7三国時代の中国.jpg裸国・黒歯国を沖縄・台湾とすんなり比定したが、沖縄・台湾は侏儒国に比定した奄美大島から見て西南で、「またその東南にあり」の東南とは方角が90度違っている。魏志倭人伝の始めに「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里」とあった。その北岸狗邪韓国に到るとは韓国の北岸でなく、次の「対馬国」から見ての北岸であつた。魏志倭人伝には、倭国の位置を示す文章に、「その道理を計るに、当に会稽東冶の東にあるべし」とある。最終目的地が「会稽東冶」であったと考える。図7示すように、夷州(台湾)は会稽東冶の東南にある。これで「またその東南にあり」は解決した。なお、倭国は会稽東冶の東にはない。しかし、東冶から東に向かって船出すれば、船は黒潮に流されて倭国に着くことになる。魏志倭人伝の方向は合っている。                 (図をクリックすると大きくなります) 

「船行一年にして至るべし。」、それでは女王国から会稽東冶まで船行で一年かかるか検証する。邪馬台国(西都市)から侏儒国(奄美大島)まで500キロメートル、約4千里。侏儒国(奄美大島)から裸国(沖縄)までが、350キロメートルの約3千里。裸国(沖縄)から黒歯国(台湾・基隆)までが700キロメートルの約6千里。黒歯国(台湾・基隆)から会稽東冶(福州)までが250キロメートルの約2千里になる。邪馬台国(西都市)から会稽東冶(福州)まで1800キロメートルの1万5千里。渡海の定理から、航行は300日となり、魏志倭人伝にかかれた「船行1年にして至るべし。」と、およそ合致する。 

「倭の地を参問するに、海中洲嶋の上に絶在し。あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。」この文章は「倭の地は島であり、その周囲は5千里」としている。倭の地とは女王連合国であるが何処をさすのであろうか。周囲5千里の島は九州全体をさすと考える。九州一周850キロメートル、7千里となる。魏志倭人伝の記述と2千里異なるが、倭の地が九州を意味していたと考えてもさしつかえないだろう。 

表6邪馬台国の証明.jpgこれで魏志倭人伝に記載された邪馬台国への行程、あるいは女王連合国(卑弥呼を共立した国々)以外の諸国との方角・里数について、全て比定・検証する事が出来た。その方法は、私なりに定めた4個の定理を、最初から最後まで一貫して使用し、魏志倭人伝に記載された方角・里数に、一切修正の手を加えず証明する方法であった。表6に、その定理と証明した内容についてまとめてみた。大局的に見て、何一つ矛盾をきたすものはなかった。邪馬台国畿内説をとなえる多くの研究者は、南を東にすり替えて、邪馬台国を畿内に持ってきて、狗奴国を尾張の地に比定し説明している。しからば、その南の裸国・黒歯国は何処に比定するつもりだろうか。まさか、ハワイと言いいはしないだろう。

                   (表をクリックすると大きくなります)


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