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60-2.前方後円墳の終焉と共に埴輪も消滅した [60.古墳時代の終焉]

古墳時代後期の指標は、横穴式石室と埴輪型式V期であり、須恵器の型式でみるとTK23以降である。Web「遺跡ウォーカー」と「近畿の横穴式石室資料集成」から、古墳時代後期の前方後円墳を須恵器の型式別に探し表Z152にまとめた。古墳後期の前方後円墳の数は多数あるが、型式が明確な須恵器が出土している古墳は意外と少ない。横穴式石室の場合、追葬が行われていることが多く、一つの石室から複数の型式の須恵器が出土している。複数の型式の須恵器が出土している場合、型式が離れている場合は古い型式に層別し、前後する2型式が出土している場合は、その数を0.5に按分した。また、一つの古墳に複数個の石室(主体)が存在する場合は、最も古い石室から出土した須恵器で判定している。

 

Z152.須恵器と前方後円墳.png表152からは、前方後円墳はTK209の時代に終焉を迎え、TK217の時代には造られてないことが分る。前方後円墳の埋葬施設が横穴式石室である比率を見ると、時代が降る程高まっていることが分る。前方後円墳が造られなくなったTK217の時代には、方墳・円墳・八角墳が造られ終末期古墳と呼ばれているが、これらの埋葬施設の殆どが横穴式石室・横口石槨である。前方後円墳に埴輪が据えられる比率は時代が降る程、比率が減少している。終末期古墳には埴輪は一切据えられておらず、埴輪は古墳時代、前方後円墳の時代の終焉と共に消滅している。

 

古墳時代後期の古墳の指標は横穴式石室であるが、横穴式石室の形状には両袖式・片袖式・無袖式の形がある。これら横穴式石室の形状の変遷を須恵器の型式別に層別し表153にまとめた。なお、表にある飛鳥Ⅰ・飛鳥Ⅱ・飛鳥Ⅲは、奈良文化財研究所の西弘海氏によって提唱された飛鳥時代以降の須恵器の型式編年である。表より、横穴式石室の形状は時代が降る程、片袖式が無袖式に変わっていく様子が伺える。無袖式は羨道幅と石室幅が同じであり、両袖式・片袖式より石室(玄室)が小さくなっていったことを示している。なお、終末期古墳には羨道幅より石室幅が小さくなり、石室が石棺を兼ね、内部に木棺や乾漆棺が納められた横口式石槨が登場している。奈良県明日香村の高松塚古墳・キトラ古墳などが代表的な例である。

Z153.横穴式石室の変遷.png

60-3.須恵器の杯は年代のものさし [60.古墳時代の終焉]

Z154.須恵器編年古墳後期.png須恵器は「年代のものさし」といわれ、遺跡より出土した須恵器の型式を判別することにより、遺跡の年代を比定している。須恵器編年でよく用いられるのが、田辺昭三氏がまとめられた陶邑窯編年で、須恵器を焼成する一つの窯の資料を1型式(TK○○、ON○○、MT○○)として、各々の窯の操業時期の相対的な年代を編年している。また、奈良文化財研究所の西弘海氏は、飛鳥・藤原京域から出土する須恵器の型式を飛鳥Ⅰから飛鳥Ⅴ期に編年(飛鳥編年)している。陶邑窯編年と飛鳥編年については、近つ博物館の『年代のものさしー陶邑の須恵器』にある「須恵器編年対照表」の一部を図Z154に示した。


古墳後期から古墳終末期(6世紀から7世紀)の須恵器の編年は、杯(杯身・杯蓋)の法量・形状に注目して行われている。法量とは容量のことで、杯身の口径と高さにより決まる。形状の中で特に注視されているのが、「カエリ」という杯身の口縁部にある立ちあがり(杯蓋の噛み合わせ部分)の形状(高さ・角度)である。「古墳時代須恵器編年の限界と展望」の論文を書かれた植田隆司氏は、それらをまとめ「杯身法量の変遷」図155と「杯身立ち上がり形状の変遷」図156に示している。なお、これらの測定値は図157に依っている。


Z155-157.須恵器編年杯.png

杯(杯身・杯蓋)の法量・形状でみると、古墳後期・古墳終末期の須恵器はTK23・TK47、MT15・TK10・MT85、TK43・TK209古、TK209新・TK217古、TK217新の5グループに分けることが出来る。私はTK209を、TK43に近いTK217古と、TK217古に近いTK209新に2分した。私は横穴式石室の形状(両袖式・片袖式・無袖式)の変遷を須恵器の型式別に層別したが、その中で、TK209・TK217と飛鳥I・飛鳥Ⅱ・飛鳥Ⅲの関係が表158のように現れる。飛鳥Ⅰも古・新と2分されるとするならば、TK209新=飛鳥Ⅰ古であり、TK217古=飛鳥Ⅰ新であり、TK217新=飛鳥Ⅱ、飛鳥ⅢはTK217新以降であると言える。


Z158.飛鳥編年.png


Z159.古墳時代後期編年.png近畿の横穴式石室資料集成」には、飛鳥Ⅰの型式の須恵器を出土する古墳が145基記載されているが、前方後円墳は皆無である。このことより、TK217古=飛鳥Ⅰ新から飛鳥時代が始まったと考えられる。古墳後期・古墳終末期を須恵器で編年すると、TK23・TK47は古墳中期後期の併行期、MT15・TK10・MT85は古墳後期の前半、TK43・TK209古は古墳後期の後半、TK209新・飛鳥Ⅰ古から古墳終末期となりは飛鳥時代の始まりである。表Z159にこれらの関係を示した。次節ではこれらに実年代(西暦○○年)を与えて見る。



60-4.古墳後期と飛鳥の須恵器編年 [60.古墳時代の終焉]

古墳時代後期の須恵器の編年において、その実年代(西暦○○年)を確定する手がかりは以外と少ない。埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣には「辛亥の年7月中に記す・・・」とあり、辛亥の年は471年と考えられている。埼玉稲荷山古墳の造出しから出土した須恵器はTK23・TK47と判定されている。奈良県明日香村の飛鳥寺の下層からTK43の須恵器片が出土している。『日本書紀』には崇峻元年(588年)に「飛鳥衣縫造の先祖樹葉の家を壊して法興寺を作り始めた。この地を飛鳥の真神原と名付けた。」とあり、TK43は588年の直前か、その少し前の年代と見られている。

Z160.杯の変遷4.png古墳後期から古墳終末期(6世紀から7世紀)の須恵器の編年は、杯(杯身・杯蓋)の法量・形状に注目して行われている。杯の変遷からすると大きな画期は、TK217古=飛鳥Ⅰ新の段階から宝珠つまみ付き杯(杯G)が登場することである。杯Gは図Z160にみられるように、杯蓋に宝珠つまみとカエリが付いていて、杯身の口縁にカエリがない。それまでの杯(杯H)は、杯身の口縁にカエリという部分があり、その部分に杯蓋が被さるように出来ており、杯蓋の口縁にはカエリはない。なお、飛鳥Ⅲからは杯Gに高台の付いた杯Bが登場し、古墳時代以来の杯H(カエリ付き杯身)が消滅する。

大阪狭山市にある狭山池は、『書紀』にも記載がある我が国最古のため池である。平成の改修工事の発掘調査で、コウヤマキの丸太を刳り抜いた樋管が発見された。このコウヤマキの樋管は年輪年代法の測定より、616年(推古24年)に伐採された木材であることが確定された。この樋管が埋められていた地層にある池尻遺跡、その地層の上に築かれた堤防上に作られた須恵器の窯(狭山池一号窯)から出土した須恵器はTK217型式の古層段階(飛鳥Ⅰ併行)であった。狭山池一号窯(616年+α)の灰原からは、わずかである宝珠つまみ付き杯(G杯)が出土している。

豊浦寺の軒丸瓦を焼成した隼上り窯跡(京都府宇治市)の2号窯から、少量のG杯が出土している。豊浦寺の発掘調査では、豊浦寺下層や周辺から宮殿跡と思われる掘立柱建物や石敷が発見され、豊浦寺は推古天皇の豊浦宮(592年~603年)の跡に建てられたと考えられている。『書紀』推古36年(628年)の記事に、聖徳太子の息子の山背大兄王が「以前に叔父(蘇我馬子)の病を見舞おうと、京に行って豊浦寺に滞在した。」とある。蘇我馬子は推古34年(626年)に亡くなっている。これらより豊浦寺の創建は603年から626年の間であることが分る。狭山池一号窯と隼上り窯2号窯から、TK217古=飛鳥Ⅰ新の始まり、宝珠つまみ付き杯(杯G)の登場は620年と比定することが出来る。

飛鳥の山田寺跡(桜井市山田)の整地層やその下層から飛鳥Ⅰの新しい段階の須恵器が出土している。山田寺は『聖徳法王定説』の裏書から辛丑年(641年)に造営が開始されたとしている。明日香村甘樫丘東麓遺跡の焼土層から飛鳥Ⅰの新しい段階の須恵器が出土している。この遺跡の焼土層は645年の乙巳の変で焼かれた蘇我氏邸宅のものと推定されている。明日香村の水落遺跡から飛鳥Ⅱの新しい段階の須恵器が出土している。この遺跡は斉明6年(660年)に中大兄皇子が設けた漏剋(水時計)の跡と考えられている。この漏剋は天智6年(667年)の近江遷都、あるいは天智10年(671年)の近江での漏剋設置まで使われていたと考えられている。

 Z161.須恵器の編年(完).png

これらを基本として、「41-5。須恵器の編年表」に示したものと重ね合わせて、須恵器の編年に実年代を定め表Z161に示した。新たに定めた年代は、TK10・MT85(520~549年)、TK43(550~579年)、TK209(580~619年)、TK217(620~669年)であり、飛鳥編年は飛鳥Ⅰ(600~639年)、飛鳥Ⅱ(640~669年)と定めた。飛鳥Ⅲの年代は表示していないが、TK217と飛鳥Ⅱの後の670年以降となる。なお、表162に飛鳥時代の宮と須恵器の編年表を重ね合わせてみた。

Z161-Z162.須恵器の編年(完).png

60-5.終末の前方後円墳を探す [60.古墳時代の終焉]

前方後円墳が600年には終焉を向かえるとすると、終末(古墳時代後期後半)の前方後円墳はどれであろうか。終末の前方後円墳はTK43あるいはTK209の須恵器を出土する古墳となるが、古墳から出土する全ての須恵器の型式が分っているわけでもない。そこで、後期古墳および終末期古墳から出土する須恵器の器種(提瓶・平瓶・長頸壺・台付長頸壺)について、須恵器の型式別に層別した。また、飛鳥時代(TK217古・飛鳥Ⅰ新)から登場した、宝珠つまみ付き杯(G杯)の原型となった銅椀も調べ表Z163にまとめた。ひとつの古墳から複数の型式の須恵器が出土している場合、型式が離れている場合は古い型式に層別し、前後する2型式が出土している場合は、その数を0.5に按分して層別している。

Z163.須恵器と銅椀.png表163において、台付長頸壺が墳時代後期後半の指標となることは明らかである。平瓶のTK10/MT85にある2個はMT85でありTK43に近いものと判断し、平瓶を古墳時代後期後半の指標とした。銅椀のMT15は佐賀県唐津市の島田塚古墳、TK10は熊本県宇城市の国越古墳、奈良県天理市の星塚2号墳のものである。この3例は一般的に銅椀が普及する以前に、朝鮮半島から入手したもので例外として、銅椀を古墳時代後期後半の指標とした。また、古墳時代後期後半や終末期古墳には切石を使った横穴式石室が登場する。切石積みの横穴式石室を指標とした。全国の前方後円墳をTK43・TK209・平瓶・台付長頸壺・銅椀・切石の要素でシービング(篩い分け)をすると、147基の古墳後期後半(6世紀後半)の前方後円墳が明らかになった。

近つ飛鳥博物館の『考古学からみた推古朝』には、畿内と東国の終末の前方後円墳が記載されているが、末尾の表164にはそのほとんどが網羅されている。表164で古墳後期後半の前方後円墳を府県別でみると、関東・東北では福島3、栃木7、群馬14、茨城5、千葉25、埼玉7、東京1、神奈川1、東海・中部・北陸では愛知5、長野1、福井2、近畿では三重4、滋賀3、京都2、奈良18、大阪8、兵庫4、和歌山2、中国では岡山6、広島1、鳥取県10、四国では香川1、愛媛4、高知1、九州では福岡7、佐賀3、大分1、宮崎1である。

古墳後期後半の前方後円墳が都道府県で最も多いのが千葉県の25基で、要素としては平瓶が9基、TK209が7基、切石積が7基、銅椀4基である。(ひとつの古墳で重複しているものもある。)第2位が奈良県18基で、TK43が12基、台付長頸壺5基である。第3位が群馬15基で、切石積5基、銅椀5基である。一概には言えないが概ね、奈良県(大和)ではTK43(550年~580年)の時代に、千葉県(上総・下総)ではTK209古(580年~600年)の時代に前方後円墳の築造が終焉を向かえたのであろう。

北関東(東国)に古墳後期後半の前方後円墳が多いのが気になるところである。北関東の前方後円墳から銅椀が多く出土するのは、仏具として舶載あるいは生産された銅椀が、威信財として大和王権から北関東の豪族に配布されたものであると考える。近畿においては、銅椀は仏具として用いられ、古墳の副葬品となることは少なかったのであろう。北関東では古墳後期後半には、栃木は凝灰岩、群馬は凝灰岩と角閃石安山岩、千葉は砂岩の軟質石材の切石積横穴式石室が登場している。近畿で切石造りの横穴式石室は花崗岩・閃緑岩等の硬質石材で造られている。前方後円墳の埋葬施設が切石造りであるのは、天理市の岩屋大塚古墳のみであるが、前方部の羨道が残っているだけで、後円部にある石室と前方部石室にある石室は破壊されており、定かな資料ではない。近畿の切石造り横穴式石室が登場するのは、前方後円墳が終わった終末期古墳からと言える。なお、近畿で凝灰岩等の軟質石材での切石積で造られたのは、高松塚古墳・キトラ古墳に見られるように横口式石槨であり、花崗岩による切石造り横穴式石室の後の時代となる。

Z164.終末前方後円墳関東.png
Z164.終末前方後円墳関西.png