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59-11.文部省学習指導要領「聖徳太子 表記変えず」 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

平成29年3月21日日本経済新聞は、「聖徳太子 表記変えず 次期指導要領 文部省が検討」の見出しで、次の記事が記載されていた。

「文部科学省が2月に公表した中学校社会の次期学習指導要領で「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」などとした表記について、今月末に告示予定の最終版で「聖徳太子」に修正するよう検討していることが20日分った。「鎖国」を「幕府の対外政策」と変えた表記なども、もとに戻す方向で検討している。

 最近の歴史研究などを反映させた変更だったが、一般からの意見公募で、「表記が変わると教えづらい」といった声が教員などから多く寄せられたという。

 文部省は新指導要領案公表時、小学校では伝記を読む機会が多いことや、聖徳太子は死後につけられた称号であることから、小学校社会は「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」と教えると説明していた。現行の指導要領は小中学校とも「聖徳太子」と表記している。」

 

文部省はこの件に関し、一般からの意見公募(パブリックコメント)を3月15日締め切りで行っていた。私は聖徳太子に関する「最近の歴史研究」が、必ずしも史実ではないとの思いから、パブリックコメントに応募していた。応募要領には2000字以内と制限されていたので、思いを分り易く説明できていないが、これまで私のブログを読んでいただいた方には、理解していただけると思う。

 

「大山氏を初めとする聖徳太子を否定する学者は、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『書紀』の中で誕生した架空の人物である。」と主張している。しかし、『書紀』より早く編纂された『播磨国風土記』には「聖徳王」、『伊豫国風土記』には「上宮聖徳皇」とあり、『書紀』が撰上される以前から、聖人である聖徳太子が伝承されていたことが分る。

 

聖徳太子を否定する学者は、聖徳太子(太子・東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命)が記された国宝の薬師如来像・釈迦像・天寿国繍帳の金石文には、天武朝に作られた天皇号、実在しない法興という年号、持統4年から使われた儀鳳暦が記されており、厩戸王の死後一世紀後に捏造されたとしている。

 

日本最古の漢詩集である『懐風藻』の第一番目は天智天皇の長男・大友皇子の詩で「皇明光日月」の語句がある。「皇明」とは天皇の威光という意味であり、「天皇」の称号が天智朝には存在していた可能性を示す。

 

国宝・船氏王後墓誌には乎娑陀宮天皇(敏達天皇)、等由羅宮天皇(推古天皇)、阿須迦宮天皇(舒明天皇)の天皇銘があるが、墓誌には戊辰の年(天智7年:668年)に成立したと刻字されている。

 

野中寺の重要文化財・弥勒像の台座には「丙寅年四月大○八日癸卯開記」と「中宮天皇」の刻字がある。「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」は、元嘉歴で天智5年(666年)4月8日のみが該当する。通説では「○」の字を「旧」と読み、旧の暦(元嘉暦)で記したと解釈し、儀鳳歴と元嘉暦が併用された持統4年(690年)以降に、銘文が刻字されたとしている。韓国公州市で出土した武寧王の墓誌には「癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」とあり、朔の干支を記載している。野中寺弥勒像の銘文の「○」の字は「朔」で、「丙申朔」を省略する時、「朔」を省き忘れている。弥勒像の銘文は天智5年に刻字されたと考える。大友皇子の漢詩、船氏王後墓誌、野中寺の弥勒象の銘文は、天智朝には天皇号があったことを示している。

 

法隆寺の釈迦三尊像は箱形台座の上に釈迦像と両脇侍像が安置されている。台座の補足材に「辛巳の年八月九月作」等の墨書があることが、平成3年の解体修理で見つかった。台座は釈迦像と一体となっており、墨書銘は台座が組まれる前に書かれている。墨書銘にある「辛巳の年」は、釈迦像光背銘にある「癸未の年に仏師の司馬鞍首止利が造った。」の2年前にあたる。釈迦像の金石文は推古31年(癸未:623年)に成立しており、推古朝に天皇号が使われたこと証明している。天皇号は天武朝に作られたという、多くの研究者によって作り上げられた固定概念は否定することが出来る。

 

釈迦像光背銘の出だしには、「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」とある。辛巳の年は推古29年(621年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。『伊豫国風土記』逸文には「法興六年十月、歳丙辰に在り。我が法王大王と恵慈の法師・・・」とある。「法興6年丙辰」は推古4年(596年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。全く関係の無い釈迦三蔵像光背銘と『伊豫国風土記』とに使われた「法興」の私年号の元年が同じ年であることは、「法興」の年号が実際に存在していた証拠である。

 

天寿国繍帳の銘文には、「辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」とある。この命日は持統4年から使われた儀鳳暦で記されており、天寿国繍帳は推古朝のものでない証拠とされている。釈迦像光背銘には「辛巳十二月鬼前太后崩、明年二月廿一癸酉王后即世、翌日法皇登遐」とある。天寿国繍帳と釈迦像光背銘の「二月廿一日癸酉」は全く同一であることに注目し、前太后(間人母王)の薨去は「辛巳十二月」、王后(膳夫人)の薨去は「明年二月廿一日癸酉日入」、法皇(太子)の薨去は「翌日二月廿二日甲戌夜半」と考える。日入・夜半と時刻まで記録が残されているのは、薨去が1日違いであったためである。膳夫人と聖徳太子の命日の干支は、元嘉暦で記されている。天寿国繍帳は、聖徳太子の妃・橘大郎女が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと推古天皇に願い製作された。橘大郎女は、聖徳太子と膳夫人が天寿国で一緒であることを望まず、膳夫人の命日の記載を削除したため、日時・干支が間人母王の命日に紛れ込んだと考える。天寿国繍帳は推古朝に作られたものである。

 

大山氏を初めとする聖徳太子を否定する学者の説は絶対ではない。律令国家の確立にいたるまでの過程において、推古朝で皇太子として活躍したのは、厩戸王ではなく、聖徳太子と認識すべきである。日本人のアイデンティティ「和を以って貴しとなす」を創ったのは、聖徳太子でなければならない。」

 

文部省の学習指導要領で聖徳太子が取り上げられたことを契機に、聖徳太子に関する新たな研究が盛んになり、「聖徳太子は捏造された」という聖徳太子の存在を否定する学者の説、「最近の歴史研究」なるものが払拭されることを願うものである。そうなれば、法隆寺の薬師如来像や釈迦三尊像、中宮寺の天寿国曼荼羅繡帳、野中寺の弥勒菩薩、船氏王後墓誌などが歴史遺産として、より輝きを放つであろう。