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59-6.推古朝に「天皇」号が使われていた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

法隆寺金堂の内陣には「中の間」に釈迦三尊像、「東の間」に薬師如来像、「西の間」に阿弥陀三尊像が安置されている。法隆寺は現存する世界最古の木造建築であるが、現在の伽藍は天智天皇9年(670年)に焼失した後に再建されたものであるということが、旧伽藍(若草伽藍)の発掘調査以降定説になっている。創建(601年頃)当初の法隆寺に、釈迦三尊像があったとすれば、釈迦三尊像は法隆寺が全焼(670年)した際に、運び出されたと言う事になる。

 

Z144.釈迦三尊像.png国宝の釈迦三尊像は、木造二重の箱形台座の上に、中尊の釈迦如来坐像(釈迦像)と両脇侍菩薩立像が安置されている。釈迦三尊像の台座は幅202センチ、奥行き172センチで、台座の最下部から光背の最上部までの高さは382センチあり、総重量が400㎏を越えている。釈迦像と台座は一体になっており、火災の際に運び出したとは考えられない。釈迦三尊像は膳夫人の出身氏族である膳氏によって造られ、元来は膳氏ゆかりの法輪寺に安置されていたと推定されている。法隆寺が再建された際に、法輪寺から釈迦三尊像が献納されたのであろう。

 

Z145.釈迦三尊像光背銘.png迦像と一体となっている台座の補足材に「辛巳の年八月九月作□□
□□」等の墨書があることが、平成2、3年の解体修理で見つかっている。墨書が書かれた扉板は縦に切られ、補足材として台座の別々の場所に使われていることから、墨書銘は台座が組まれる前に書かれたことが確実であるとされている。釈迦像の光背銘には、「三主(聖徳太子・膳夫人・間人皇女)の浄土往生を願って、癸未の年(推古31年:623年)に仏師の司馬鞍首止利が造った。」とあり、台座の補足材の墨書にある「辛巳の年」は、釈迦像が造られた癸未の年の2年前の辛巳の年(推古29年、621年)のものであると推察されている。釈迦像台座の補足材にある墨書により、釈迦像の金石文は仏師の司馬鞍首止利により釈迦像が造られた癸未の年(推古31年:623年)に成立したものであることが明白となった。

 

大山氏は『聖徳太子の真実』のなかで、「法隆寺釈迦三尊像台座の墨書銘」というコラムを書き、「釈迦像銘には、周知のように、戦前の福山敏男氏の研究依頼、多くの疑問が指摘されている。「法興元」という年号はなく、後世につくったもの。「法皇」は、法王と天皇号とを組み合わせた日本独自の語で、やはり後世のもの。・・・釈迦像銘の623年などという理解は、ほとんど否定されているのである。・・・この墨書銘が推古朝でなく、7世紀末以降のものであることは確実で、法隆寺の再建を考慮すれば、辛巳の年は681年(天武10年)とするのが妥当であろう。」と記している。

 

大山氏は、釈迦三尊像の台座にある墨書銘の「辛巳の年」が、天武朝であるとする具体的な根拠を示すことなく、天皇号は天武朝に作られたという、多くの研究者によって作り上げられた固定概念でもって、墨書銘が書かれた年を天武朝だと決め付けている。私には、釈迦像と一体となっている台座の補足材にある墨書銘の「辛巳の年」は、釈迦像光背銘にある「癸未の年」の2年前であり、釈迦像の金石文は仏師の司馬鞍首止利により釈迦像が造られた癸未の年(推古31年:623年)に成立したものであると考えるほうが事実に即しているように思える。

 

釈迦像と一体となっている台座の補足材に書かれた「辛巳の年」の墨書により、釈迦像光背銘は推古朝に成立していて、光背銘にある「法興」の年号と「法皇」の語句は、推古朝に存在していたと判断できる。「法皇」は、福山敏男氏の指摘するように法王と天皇号とを組み合わせであると考えると、「法皇」が推古朝に存在するということは、「法王」と「天皇」号が推古朝に存在したことになる。船氏王後墓誌銘と野中寺の弥勒菩薩像台座銘は、天智朝に「天皇」号が使われたことを示していたが、法隆寺の釈迦像光背銘は、それをさらに遡らせ、推古朝に「天皇」号が使われたこと証明している。


59-7.「天皇」の称号は聖徳太子が考案した [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

船氏王後墓誌銘と野中寺の弥勒菩薩像台座銘は、天智朝に「天皇」号が使われたことを示しており、法隆寺の釈迦像光背銘はそれをさらに遡らせ、推古朝(593~620年)に「天皇」号が使われたことを証明していた。これらより、唐の高宗皇帝が上元元年(674年)に「天皇」の君主称号を使う以前から、倭国では「天皇」の語句が使われていたことが分る。我が国の「天皇」号の源流は、どこに求められるのであろうか。

 

中国の戦国時代の終わりごろから発達した星占術的な天文学の中で、天体観測の最高基準になる北極星が神格化され、宇宙の最高神として太一神が生れた。紫宮にいる太一神を祀れば神仙になれると信じた前漢の武帝は、紫の幕を張りめぐらして太一神を祀っている。前漢の終わり頃になると、太一神は「天皇大帝」と呼ばれるようになり、星占術的な天文学を取り入れた讖緯(しんい:予言)書には「天皇大帝は北辰の星なり」、「紫宮は天皇の治むる所なり」の記述がある。

 

中国の国家は儒教を規範として統治されおり、儒家の経典『詩経』や『書経』には、帝王の行う国家祭祀の最高神は「昊天上帝」であったとしている。後漢末の儒教学者である鄭玄(127~200年)により、帝王の行う国家祭祀の対象としての「昊天上帝(皇天上帝)」と、宗教的な信仰の対象としての「天皇大帝」とが同一視されるようになった。「天皇大帝」が国家祭祀の対象とされたのは、南北朝時代の南朝の梁(502~557年)である。唐の時代の801年に完成した『通典』巻42には、梁の武帝が「天皇大帝」を主神として祀ったと記載している。

 

百済の武寧王(501~523年)、聖王(523~554年)は、度々中国の南朝の梁に朝貢し、特に聖王19年(541年)には、毛詩(詩経)博士・涅槃経義などを要請し許されている。これらより、6世紀後半の百済には「天皇大帝」という概念が伝わり、儒教・道教の師は知っていたと考える。聖徳太子は百済の覚哿博士に593年から儒教を習い、百済の僧観勒は602年に暦の本・天文地理の本・遁甲方術の本を奉っており、聖徳太子は「天皇大帝」という概念を知っていたと思われる。

 

『隋書』には、倭国からの国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあり、帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿曰く「蛮夷の書に無礼あり、再び聞くことなかれ」とある。「蛮夷の書に無礼あり」としたのは、皇帝と同じ「天子」の称号を使ったこと、「日出処天子」>「日没処天子」と判断したからである。国書には「中国の皇帝何するものぞ」との思いが込められていたのであろう。

 

『書紀』には推古16年(608年)の記事に「東の天皇、敬みて西の皇帝に申す。」とある。『書紀』は時代考証がされていないため、天皇が「大王(おおきみ)」と呼ばれている時代でも、「天皇」と表記している。もし推古朝に天皇号が使用されていなかったならば、「東の天皇」の表記は、「東の大王」であった。そうすると言葉の重みからすると、「東の大王」<「西の皇帝」であり、国書に表わした意思とは違ったものになる。推古朝に天皇号が使用されていたとすれば、表記は「東の天皇」であった。中国の儒教・道教の概念からすれば、「天子(皇帝)は天神(昊天上帝・天皇大帝)の命により天下を治める。」であり、「東の天皇」>「西の皇帝」となり、国書と同じ意思となる。これらからしても、推古朝には「天皇」号が使われていたと思われる。「天皇」の称号は聖徳太子が考案したものであろう。


59-8.「法興」の年号は実在した [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

大山氏を初めとする学者の方々は、法隆寺系史料の金石文が推古朝ではなく、厩戸王の死後一世紀後に捏造されたものであるとしている。後世の捏造のものとする根拠の第一は、薬師如来像光背銘・天寿国曼荼羅繡帳にある君主号の「天皇」、釈迦像光背銘にある「法皇」という語句である。第二は釈迦像光背銘にある「法興」という年号であり、第三は天寿国曼荼羅繡帳にある孔部間人母王の命日が持統4年(690年)から使用された儀鳳暦で記されていることであった。

 

釈迦三尊像光背の銘文の出だしには、「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」とある。「鬼前太后」は聖徳太子の母・穴穂部間人王(用明天皇皇后)のことであり、辛巳の年は推古29年(621年)にあたる。大山氏は、「法興元」というのは、法興寺(飛鳥寺)が始まった年を基準とした私年号(『日本書紀』に現れない年号)と考えられているが、「大化」という年号が定められて大化の改新以前に、日本国内で年号が使用された証拠はないとして、釈迦像の銘文は推古朝に成立したものでなく、後世に捏造されたものだという証拠の一つとしている。

 

『伊豫国風土記』逸文によると、「法興六年十月、歳丙辰に在り。我が法王大王と恵慈の法師及葛城臣と、夷與の村に遊び、神の井を観て、その妙験に感嘆して碑文を作った。・・・・」とある。『伊豫国風土記』の逸文にある「法興6年丙辰」は推古4年(596年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。釈迦像光背の銘文の「法興31年辛巳」は推古29年(621年)にあたり、法興元年は伊豫国の風土記と同じ崇峻4年(591年)である。全く関係の無い釈迦三蔵像光背銘文と『伊豫国風土記』に使われた「法興」の私年号の元年が、同じ年を示していることは、「法興」の年号が実際に存在していた証拠であると思える。


59-9.天寿国繡帳は推古朝に作られた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z146.天寿国繡帳.png天寿国曼荼羅繡帳(天寿国繡帳)は、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)で、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵し、国宝に指定されている。鎌倉時代に中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・信如により、法隆寺の蔵から再発見されたと伝えられている。現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦89センチ、横83センチの額装仕立てとなっており、4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍で表されている。制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであり、100個の亀形の甲羅に計400文字が刺繍されていたと推定されている。この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用されている。この銘文によると、天寿国繡帳は推古三十年に聖徳太子が薨去した後、妃である橘大郎女(推古天皇の孫)が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと発願し、推古天皇の詔で製作されたものである。

天寿国繡帳の銘文には、「辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半 太子崩」とある。聖徳太子の母・穴穂部間人王の命日「辛巳十二月廿一癸酉」は、辛巳の年が621年(推古29年)にあたることから、621年12月21日であり、聖徳太子の命日「翌年二月廿二日甲戌」は622年2月22日である。我が国に百済から伝わった暦法は元嘉暦であった。持統4年(690年)から元嘉暦と儀鳳歴が併用され、文武元年(697年)以降は儀鳳歴のみが用いられるようになった。天寿国繡帳が推古朝に製作されたとするならば、その銘文にある年月日の干支は、元嘉暦で記していなければならない。元嘉暦でみると、穴穂部間人王の命日621年12月21日の干支は、銘文と違って「甲戌」となり、聖徳太子の命日622年2月22日の干支は、銘文通りの「甲戌」となる。

2001年に「天寿国繡帳の成立年代」の論文を発表された金沢英之氏は、儀鳳歴による計算結果から、穴穂部間人王の命日の621年12月21日の干支は「癸酉」となり、聖徳太子の命日の622年年2月22日の干支は「甲戌」となり、両者とも天寿国繡帳に記載された干支と一致することを発見された。そして、天寿国繡帳銘の成立は、早くても儀鳳歴と元嘉暦の併用が詔された持統4年以降、もしくは儀鳳歴が単独で用いられた文武朝以降であるとされた。この論文により、法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものである確実な証拠とされ、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。」との説が勢い付いている。

天寿国繡帳が儀鳳歴で記載されているとしたら、天寿国繡帳は推古朝に成立したものでないことは確実である。しかし、私には引っかかることがある。それは釈迦像光背銘の「辛巳十二月 鬼前太后薨 明年正月廿二日 上宮法皇枕病弗悆 干食王后仍以労疾・・・・二月廿一日癸酉 王后即世 翌日法皇登遐。」である。鬼前太后は穴穂部間人王、上宮法皇は聖徳太子、干食王后は膳夫人である。釈迦像光背銘でも聖徳太子の命日は、622年年2月22日で同じである。私が注目したのは、釈迦像光背銘の膳夫人の薨去の「二月廿一日癸酉」と、天寿国繡帳の穴穂部間人王の薨去の「辛巳十二月廿一癸酉日入」と、黄色マーカーのところが全く同一であることだ。

天寿国繍帳と釈迦像光背銘の「二月廿一日癸酉」は全く同一であることは、偶然ではなく作為があるように思える。聖徳太子は多くの人に看取られて、惜しまれ亡くなったのであろうから「甲戌夜半」と時刻まで記録されていたのであろう。『法王帝説』によると、用明天皇の皇后であった穴穂部間人王は、天皇が崩御された後、義理の息子・多米王と結婚し、佐富女王を産んでいる。穴穂部間人王の置かれた立場からすると、内内の人に看取られた最後であったと思われる。聖徳太子も病気で臨終に立ち会えなかったのかもしれない。穴穂部間人王が亡くなった日が「癸酉日入」と時刻まで記録されるのは不自然である。「癸酉日入」に亡くなったのは、聖徳太子の前日に亡くなった膳夫人であると考える。間人母王・膳夫人・聖徳太子の薨去した日は、前太后(間人母王)は「辛巳十二月」、王后(膳夫人)は「明年二月廿一日癸酉日入」、法皇(聖徳太子)は「翌日二月廿二日甲戌夜半」であったと考える。

これを文章にすると下記の上段になる。上段から青の「王后即世 翌日二月」を取り除き、緑色の「間人母王崩 明年二月」を挿入すると下段の天寿国繍帳の文章となる。天寿国繍帳は亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍するデザインで、字数を合わせるため「廿一癸酉日入」とピンクの「日」の字を抜いている。
「辛巳十二月間人母王崩 明年二月廿一日癸酉日入王后即世  翌日二月廿二日甲戌夜半太子崩」
「辛巳十二月          廿一癸酉日入間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」

天寿国繡帳は、聖徳太子の妃である橘大郎女が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと願い、祖母の推古天皇の詔で製作されたものである。聖徳太子が前日に亡くなった膳夫人と天寿国で一緒であっては、橘大郎女が天寿国繡帳を見るたび嫉妬の心が起こり、心穏やかではなくなる。膳夫人の命日の記載を削除したため、日時・干支が間人母王の命日に紛れ込んだと考える。

膳夫人の命日は622年年2月21日で干支は、元嘉暦・儀鳳歴ともに、釈迦三尊像光背銘の通りの「癸酉」である。もちろん翌日に亡くなった聖徳太子の命日は622年年2月21日で、干支は元嘉暦・儀鳳歴ともに天寿国繡帳に記載された通りの「甲戌」である。天寿国繡帳・釈迦三尊像光背銘に齟齬は起こらず、元嘉暦の問題も起こらない。天寿国繡帳は釈迦三尊像と同様、推古朝に作られたものである。




59-10.「憲法十七条」は聖徳太子が制定したか [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『書紀』は推古12年(604年)4月3日に、聖徳太子が自ら始めて「憲法十七条」を作ったとしている。上宮聖徳法王帝説には、推古天皇の御世乙丑の年(605年)7月、「十七余の法」を作ったとある。ただ、「憲法十七条」の文章が引用され残っているのは、『書紀』だけである。その主な条文の出だしを下記に示した。

第1条、和を以って貴しとなす。争いごと無きを旨とせよ。(略)

第2条、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。(略)

第3条、詔は必ず謹んで承れ。君を則ち天とし、臣を則ち地とす。(略)

第4条、群卿百寮、礼をもって本とせよ。民を治める本は、必ず礼にあり。(略)

第8条、群卿百寮、朝早く、遅く退け。公事暇なし、終日にも尽し難し。(略)

第12条、国司国造、百姓にむさぼるなかれ。国に二君なく、民に両主なし。(略)

第15条、私に背きて、公に向うは、これ臣の道なり。(略)

 

戦時中に『書紀』を否定した罪で弾圧を受け、戦後華々しく蘇り高い評価を受けた津田左右吉氏は、憲法十七条が推古朝のものとしては不自然であると指摘して、「奈良時代に太子の名をかりて、このような訓戒を作り、官僚に知らしめようとしたものである」と結論付けている。その根拠の第一は、「第12条に「国司」という語が見えるが、国司は国を単位に行政的支配を行う官人のことで、大化改新前にはありえない。」であった。

 

『書紀』には古墳時代の天皇の記事に、「国司」の表記が8ヶ所出て来るが、その内の5ヶ所は清寧・顕宗・仁賢天皇紀にある「播磨國司 來目部小楯」である。『古事記』の清寧天皇記では、「山部連小楯、任針間國之宰」とあり、「国司」が「国宰」となっている。「国宰」・「宰」の表記は、『常陸国風土記』では久慈郡・行方郡・多可郡の3郡で、『播磨国風土記』では讃容郡・飾磨郡の2郡で使われている。また、藤原宮跡の南面内濠からは、「粟道(あわじ)宰熊鳥」の木簡が出土している。「国宰(くにのみこともり)」は、「国司(くにのつかさ)」に先行して地方官司の呼称として使われていたと見られる。『書紀』には一切出てこない「国宰」の表記が、『古事記』・『風土記』に記載されているのは、両者が口伝を記録したものであるからであろう。

 

大和朝廷は全国を統一していく段階で、地方の王(豪族)を「国造」とすることで、地方での領地の支配を認め、朝廷の支配下に組み入れたと考える。朝廷側からみれば、国造の領地を朝廷の権限がおよぶ領地とし、官吏に運営させたいと考えたに違いない。だから、江戸時代に幕府が外様大名に行った施策と同じように、後継者や権力争いで問題を起こした「国造」を取り潰し、「国宰」を派遣したと考えられ、聖徳太子の時代には「国宰」と「国造」の両方が存在していたと思える。時代考証感覚のない書紀の編纂者は、憲法十七条に「国宰・国造」と書くべきところを、同じ役回りである後世の「国司」を使い、「国司・国造」と表記しただけのことである。

 

憲法十七条が推古朝の時代のものでないとする根拠の第二は、「憲法の全体が君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれているが、推古朝はまだ氏族制度の時代でありふさわしくない。」である。確かに、憲法十七条は群卿・群臣・百寮の語があり、官僚への戒めが多く書かれている。『随書』倭国伝には「内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信、官員には定員がない。」とある。あきらかに、推古朝の時代に大和朝廷に直接使える内官(官僚)がいたことは確かである。氏族制度下においても、律令制度下の「臣」「卿」「寮」に相当する官僚としての職務があったのであろう。大和朝廷に直接使える者への戒めが憲法十七条に書かれていたのである。

 

第三は、「中国の古典からの引用語句が多く、『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ている。」である。『書紀』の編纂者は、歴史のストーリーを漢文で書き残そうとしたのであって、過去に用いられた言葉・語句を歴史史料としてそのまま書き残そうとしたのではない。『書紀』は天皇に撰上されるものであり、天皇が読んで解かる文章でなければならない。たとえ、憲法十七条の記録が残っていたとしても、それをただ単に書き写すのではなく、編纂当時の言葉・語句で書き直すほうが、読み手にとっては理解し易いからである。

 

歴史学者は原史料として原文の語句をそのままを残すことを歴史書として求めるであろうが、『書紀』の編纂者は歴史学者ではない。文章を編纂当時の言葉・語句に書き直したからと言って、歴史を捏造しているわけではない。こう考えると、「憲法十七条」は聖徳太子が制定したということを、否定する要素は無いように思える。「史料批判」の名の下に、『書紀』を全て否定したのでは、我が国の歴史は何も語れなくなってしまう。ただ、『書紀』は歴史をストーリーとして残すための、脚色・潤色が多いのも否めない事実である。だからこそ、『書紀』から史実をあぶり出すことが求められていると思う。

 

推古11年(603年)12月に冠位制度が創設され、翌年の正月には、始めて諸侯に冠位を賜っている。冠位は徳・仁・礼・信・義・智の六階に、それぞれ大・小の二階あって、全部で十二階である「憲法十七条」は推古天皇の時代に創られたものでないとする学者も、推古朝の冠位十二階は史実であると認めている。それは、『隋書』に冠位十二階の事が記載されているからだ。もし、『隋書』に記載がなかったならば、冠位十二階も後世の捏造であると、憲法十七条と同じ運命をたどったのかも知れない。聖徳太子は仏法を高麗の僧恵慈に、儒教の経典を覚哿博士に習ったと『書紀』は記載しているが、僧観勒により道教・五行思想を習ったのではないかと思われる。聖徳太子は儒教・仏教・道教の三教を習得し、その知識を基にしで、冠位十二階制度と憲法十七条を創設したと考える。

 

1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、聖徳太子が制定したとする憲法十七条や、聖徳太子の実在を示す語句(東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命)がある法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとして、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」としているが、これまで述べてきたように、これら大山氏の根拠の全てを覆すことが出来、「聖徳太子は実在した。」と言うことができる。