So-net無料ブログ作成
検索選択

57-10.蘇我馬子と炊屋姫(推古天皇)は幼馴染み [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z132.推古天皇の生年.png『書紀』の推古前紀には、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)は、18歳で敏達天皇の皇后となり、34歳のとき敏達天皇が亡くなり、39歳のときに崇峻天皇が殺されたとある。また、推古36年には推古天皇は75歳で崩御されたとある。これらより炊屋姫の生年を算出し、表Z132にまとめた。炊屋姫が敏達天皇の皇后となった年の年齢から算出した生年が大きく違っている。これは、炊屋姫は皇后となる以前の欽明32年に、18歳で皇太子(敏達天皇)の妃となったことが、取り間違えられたと考える。炊屋姫(推古天皇)の誕生の年は554年と比定すると、敏達5年に炊屋姫が皇后になったのは23歳である。

 

Z126.蘇我稲目と馬子.png炊屋姫は父・欽明天皇と母・堅塩媛の第4子として、欽明14年(554年)に母の親元・蘇我稲目の館がある豊浦の地で生まれたと考える。一方、蘇我馬子は表126に示すように、蘇我稲目の嫡男として欽明12年(551年)に曽我の地で生まれた。炊屋姫の育った豊浦(明日香村豊浦)と馬子の育った曾我(橿原市曽我町)とは近くにあり、炊屋姫と三歳年上の馬子は一緒によく遊んだ幼馴染みであった。二人の遊び場所は、稲目が仏像を安置した小墾田の家(明日香村雷)であり、寺とした向原の家(明日香村豊浦)であった。そして二人は、幼い頃から仏を敬うようになっていた。蘇我稲目が薨じた欽明31年(570年)3月に、物部尾輿が小墾田の家の仏像を強奪し、向原の家の寺に火をつけて焼いたのを、炊屋姫と馬子は目の当たりにしたので、物部氏対する憎しみが心に宿っていた。炊屋姫は17歳、馬子は20歳の時である。

 

翌年の欽明32年3月に、炊屋姫は18歳で渟中倉太珠敷皇太子(敏達天皇)の妃となった。4月に欽明天皇が崩御され、敏達元年(572年)4月に渟中倉太珠敷皇太子は即位されて敏達天皇となった。敏達4年に敏達天皇の皇后・広姫が亡くなったため、敏達5年(576年)に炊屋姫は皇后となった。敏達14年(585年)8月、敏達天皇が崩御された。皇后の炊屋姫は32歳であり、皇太后と呼ばれるには若かったので、炊屋姫尊として崇められた。

 

一方、蘇我馬子は敏達元年に22歳で大臣に就任した。若くして大臣になったのは、欽明天皇の妃となり七男六女を生んだ堅塩媛(蘇我稲目の娘)が、蘇我氏の繁栄を願い、弟の馬子を大臣に推挙したからである。そして、馬子は大連の物部守屋の妹を妻に迎えた。これは、堅塩媛が蘇我氏と物部氏の和解を考え図ったものだった。蘇我馬子が物部守屋を討伐した用明2年の『書紀』の記事には、「蘇我(馬子)大臣の妻は、物部大連の妹である。大臣は妻の計略を用いて大連を殺した。」とある。馬子が守屋の妹を妻としたのは、用明2年(587年)以前であることがわかる。一方、蘇我稲目と物部尾興が対立しており、稲目が存命中(570年以前)に長男・馬子の嫁として、尾興の子供を妻に迎えることはなかったと考えられる。崇峻5年(592年)に、「崇峻天皇を殺害した東漢直駒が河上娘をさらい妻とした。」とある。このときの、馬子の長女・河上娘の年齢を18歳以上とすると、その誕生は575年以前となる。これらから、馬子は大連の物部守屋の妹を妻に迎えたのは、馬子が大臣になった敏達元年(572年)か、その翌年と考えられる。

 

馬子は父・稲目意思を継ぎ、仏殿を造営して百済からもたらされた仏像を安置し、高麗から来た還俗者の惠便を探し出して仏法の師とし、善信尼と二人尼を弟子に付け、塔頭に舎利を納めた塔を大野丘の北に建て、ひとり仏法に帰依した。しかしながら、国に疫病が流行り多くの人民が死んだことを理由に、物部守屋が詔を得て塔を倒し仏像と仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に棄て、善信尼等の尼を鞭打ちの刑に処した。その後、疱瘡で死ぬものが国に満ちたので「仏像を焼いたせいだろう」との噂が広がった。

 

天皇は馬子に「お前一人だけは仏法を行ってもよい。他の人は禁止する。」と仰せになり、三人の尼をお返しになった。馬子は新たに精舎を造り、仏像を迎え入れ供養した。敏達14年(585年)8月、敏達天皇の病気が重くなり崩御された。敏達天皇の殯宮で、馬子が刀を佩びて誄(しのびごと)を述べたとき、守屋は「矢で射られた雀のようだ。」とあざ笑ったので、守屋が手足を震わして誄を述べたとき、馬子は「鈴をつけるとよい。」と言い返した。蘇我馬子大臣と物部守屋大連の怨念は頂点に達した。馬子35歳のことである。


57-11.崇仏の蘇我氏 VS 排仏の物部氏 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

仏教の受容に対して、欽明朝では蘇我稲目と物部尾輿が、敏達朝では蘇我馬子と物部守屋が対立した。大臣である蘇我氏と大連である物部氏が、仏教の受容で対立する中で、天皇はその賛否に右往左往する状況であった。しかし、敏達天皇が崩御し皇位を継いだ用明天皇は、母の堅塩媛が蘇我稲目の娘であったこともあってか、仏法を信じられて、用明2年(587年)4月に「三宝(仏・法・僧)に帰依したいと思うが、お前たち群臣も協議せよ。」と仰せになった。蘇我馬子大臣はそれに賛同したが、物部守屋大連と中臣勝海連は「国神に背いて、他神を敬うのか。」と反対した。守屋は群臣に命を狙われていると聞き、河内の渋川に帰り武装した。勝海も武装して守屋に従ったが、崇仏派の舎人に殺された。このような状況のなか、用明天皇は病気が重くなり崩御された。

蘇我馬子と物部守屋は崇仏と排仏の対立に加え、用明天皇の後継者選びでも対立することになった。守屋は穴穂部皇子(用明天皇異母弟)を天皇にしようとしたが、馬子が炊屋姫尊(敏達天皇皇后)を奉じて、佐伯連・土師連・的臣に詔して、「穴穂部皇子を殺せ」と命じ、穴穂部皇子は殺されてしまった。炊屋姫尊にとって穴穂部皇子は異母兄弟で、両者の母は姉妹であり親近者である。それにも関わらず「刺殺の詔」を発したのは、穴穂部皇子が敏達天皇の殯宮に居た炊屋姫尊を犯そうとしたことによるだけでなく、昔から抱いていた物部氏が憎いとの気持ちがあり、排仏派の物部守屋と手を組む穴穂部皇子が許せなかったのであろう。蘇我馬子と炊屋姫尊が強く結びついたのは、両者は幼馴染みであり、幼い頃から仏を敬う気持ちと物部氏を憎む気持ちを二人が共有していたからである。

馬子は諸皇子と群臣にもちかけ、共に軍兵を率いて守屋の家のある渋川に向かった。馬子に味方した皇子には、泊瀬部皇子(穴穂部皇子弟)・竹田皇子(推古天皇の子)・厩戸皇子(聖徳太子)がいる。守屋の軍勢は強豪で、皇子と群臣の軍は三度退却した。厩戸皇子は白膠木(ぬるで:ウルシ科落葉樹)を切り取って四天王像を作り、「敵に勝たせてくれたら寺塔を建立します。」と請願し、蘇我馬子は仏法の守護神に、「戦に勝たせてくれたら寺塔を建立し、三宝を広めます。」と請願して進撃し、守屋とその子を誅殺した。


57-12.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z126.蘇我稲目と馬子.png蘇我稲目・馬子が薨去した年は『日本書紀』に記載されているが、享年については記載がない。『扶桑略歴』には稲目も享年65歳、馬子の享年76歳と記載されている。この享年は稲目・馬子の経歴と齟齬がなかった。蘇我蝦夷が「乙巳の変」皇極4年(645年)で亡くなったときの年齢は、『扶桑略歴』には「蝦夷臨誅自殺。【年□十六。】」とあり、明確ではない。多分、46歳・56歳・66歳の何れかであろう。なお、門脇禎二氏の『蘇我蝦夷・入鹿』に「推古18年(610年)当時の毛人(蝦夷)の年齢は、『扶桑略歴』の諸伝を信ずるならば25歳、父の馬子は60歳であったという。」とあるのは、『扶桑略歴』の「(推古卅四年)同年。蘇我宿祢蝦夷任大臣。卌。」を、「推古34年に40歳で大臣に任ずる。」と解釈して計算している。


Z133.蘇我蝦夷.png表Z133に示すように、蝦夷の享年を46歳・56歳・66歳として、蝦夷の経歴を辿ってみた。蝦夷が『書紀』に登場する初見は推古18年(610年)10月で、新羅・任那の使者が朝廷に拝謁したとき、蘇我豊浦蝦夷臣・大伴咋連・坂本糠手臣・安部鳥子の四人の大夫が使者の奏上を聞き、蘇我馬子大臣に伝える役を果たしている。享年を46歳とすると、蝦夷が大夫の役を成したとき11歳である。親の七光りがあろうとも、11歳では大臣に続く大夫の役は務まらない。

 

蝦夷が享年66歳とすると、皇極元年(642年)に63歳で大臣を拝命したことになり、朝廷に仕える官吏の年齢としては限界の年である。蝦夷が大臣になったとき、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。このため盗賊は恐れて、道に落ちているものも拾わなかった。」と述べている。これらより、入鹿は大臣が勤まる年齢であり、63歳の蝦夷が大臣に就任することも無いように思える。

 

蝦夷が享年56歳とすると、推古18年に大夫の役を勤めた時は21歳であり、親の七光りを考えれば可能な年齢である。蝦夷の享年は56歳で、誕生は590年となる。たとえば、蝦夷が20歳のときに入鹿を生んだとするならば、蝦夷が大臣になった皇極元年(642年)には、入鹿は34齢であり、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。」の文章と齟齬はない。

 

Z134・Z135.蝦夷・入鹿系譜.png皇極2年(643年)の記事に「蘇我大臣蝦夷は、病気のため参朝しなかった。ひそかに紫冠を子入鹿に授けて大臣の位に擬した。また、入鹿の弟を物部大臣と呼んだ。大臣(弟)の祖母は物部弓削(守屋)大連の妹である。」とある。この文章は、入鹿の弟・物部大臣の祖母は物部守屋の妹であるが、入鹿の祖母は物部守屋の妹ではないと言っているように思われる。Z136の蘇我馬子・蝦夷の系譜を見ると、入鹿と物部大臣は異母兄弟である。また、物部大臣は物部守屋の妹の孫であるが、入鹿は物部守屋の妹の孫でないと、皇極2年の記事の通りになっている。Z137は欽明天皇と敏達天皇の系譜である。史実の事例がZ136の蘇我馬子・蝦夷の系譜とまったく同じであり、皇極2年の記事は信憑性があると考える。それでは、入鹿の祖母、蝦夷の母、馬子の妻であるMsXは誰であろうか。

 

用明2年(587年)八月、炊屋姫尊と群臣の勧めにより、崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位された。蘇我馬子も前の通り大臣となった。崇峻元年(588年)、百済から仏舎利が献上され、同時に僧6名、寺工(寺院建築の技術者)2名、鑢盤博士(塔の露盤などの金属鋳造技術者)、瓦博士(瓦製作の技術者)4名、画工(仏画製作の画家)1名が献上された。蘇我馬子大臣は百済の僧らに受戒の法を問い、善信尼らを百済に学問をするために遣わし、飛鳥の真神原に法興寺(飛鳥寺)を建て始めた。

 

物部守屋を討伐し、法興寺の建築が始まり、仏法が急速に広がりだしたことは、崇仏派の炊屋姫尊と蘇我馬子大臣にとって大きな喜びであった。二人は幼馴染であり、また炊屋姫尊が3年前に敏達天皇を亡くし独り身(寡婦)であったこともあり、結ばれて崇峻3年(590年)に蝦夷が豊浦の地で生まれた。蝦夷が豊浦大臣と呼ばれるのもこのためである。

炊屋姫尊は35歳、蘇我馬子は38歳であった。

 

崇峻5年(592年)11月、蘇我馬子は崇峻天皇が自分を殺そうと謀っているのを知り、東漢直駒を使って天皇を弑殺させた。群臣が炊屋姫尊に即位してくださるように請うたが、炊屋姫尊は辞退された。百官が上表文を奉ってなおも勧めたところ、3度目にやっと承諾され、12月に炊屋姫尊は豊浦宮で即位して推古天皇となった。宮を豊浦に置いたのは、我が子・蝦夷がいたからである。蘇我馬子は引き続き大臣であった。このことからすると、蘇我馬子は崇峻天皇の弑殺について、事前に炊屋姫尊の了解を得て、炊屋姫尊が皇位に就くよう要請していたのであろう。ある意味においては、崇峻天皇の弑殺は蘇我馬子大臣と炊屋姫尊によるクーデターであった。

 

『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子の母・穴穂部間人皇后は、用明天皇が崩御された後、聖徳太子の異母兄の多米王と結婚し、佐富女王を生んだ。」とある。これからすると、「炊屋姫皇后は、敏達天皇が崩御された後、叔父の蘇我馬子と結婚し、蘇我蝦夷が生まれた。」とあっても、問題はないように思えるが、炊屋姫皇后が推古天皇に即位したことから、蝦夷が炊屋姫皇后の子供であることは秘密裏にされ、馬子と物部守屋の妹の子として育てられた。天皇家の長い歴史のなかで、女帝は8人いるが、全員生涯独身か寡婦(夫と死別後再婚していない)である。


57-13.蘇我氏が仏教の興隆を成した [57.蘇我氏の系譜と興亡]

推古元年(593年)に推古天皇が即位し、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とした。蘇我馬子は引き続き大臣であった。崇仏派の三人が政権の中枢に就いたことで、一気に仏教の興隆が加速した。推古元年(593年)、正月に法興寺の仏塔の心柱の礎の中に仏舎利を置き、心柱を立てた。難波の荒陵に四天王寺を起工した。2年に推古天皇は皇太子と蘇我馬子大臣に「三宝を興隆させるように。」と詔を発している。多くの臣・連は天皇と先祖に報いるために競って仏舎(寺)を建造した。4年11月に法興寺が完成した。大臣の子・善徳臣を寺司に任じた。高麗の僧・慧慈と百済の僧・慧聡は法興寺に住んだ。この二人の僧は仏教を広め、三宝の棟梁(中心人物)となった。12年に皇太子により制定された憲法17条の第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧である。」とある。

 

Z136.飛鳥大仏.png推古13年(605年)、天皇は皇太子・大臣と諸王・諸臣に、銅・繡の二体の丈六の仏像を作るようにと命じ、鞍作鳥に命じて仏像を造る匠とした。14年4月に銅・繡の二体の丈六の仏像が完成した。丈六の銅の像を元興寺(法興寺・飛鳥寺)の金堂に安置しようとしたが、金堂の戸より高く収めることが出来なかったが、鞍作鳥は戸を壊すことなく修めた。天皇は鞍作鳥の功績を称え、近江の国の坂田郡の田二十町を与えた。鞍作鳥は天皇のために金剛寺を造った。これが南淵(明日香村坂田)の坂田尼寺である。14年7月、天皇は皇太子に『勝鬘経』を講じるように仰せられ、皇太子は3日間で説き終えられた。この年皇太子は、また『法華経』を岡本宮で講じた。天皇は喜ばれ播磨国の水田百町を与えられた。皇太子は喜ばれて斑鳩寺(法隆寺)に修めた。

 

推古32年(624年)9月の記事には、「寺と僧尼とを調べて、その寺を造った由来や、僧尼の入道の理由と得度の年月日を詳細に記録した。この時、寺46ヶ所、僧816人、尼569人、合わせて1385人であった。」とある。推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子大臣に、「三宝を興隆させるように」と仰せになってから30年間の間に、仏教が急速に広まり、寺院・僧尼が多大に増加した様子が伺える。近つ飛鳥博物館の『考古学からみた推古朝』によると、推古朝の寺院遺跡から出土する瓦の文様は、素弁蓮華文の内、飛鳥寺式・奥山廃寺式・豊浦廃寺式であるそうだ。これらの文様の瓦が出土する寺院遺跡は、大和24・河内12・山背7・和泉4・摂津1・近江2・武蔵1の51ヶ所あるという。『書紀』の記す、寺46ヶ所も史実である。

 

仏教の興隆は推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三人で成し得たものである。厩戸豊聡耳皇子尊(聖徳太子)は推古29年(621年)2月5日に薨去し磯長陵に葬られ、蘇我馬子大臣が34年(626年)5月20日に薨去し桃原墓に葬られ、推古天皇が36年(628年)3月7日崩御し遺言により竹田皇子の陵に葬られ、三人は極楽浄土の天寿国に旅立っている。蘇我馬子は稲目の嫡男、推古天皇は蘇我稲目の孫であり、聖徳太子も蘇我稲目の曽孫である。仏教興隆は蘇我氏が成したと言える。


58-1.聖徳太子の息子・山背大兄王の運命 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

推古34年(626年)に蘇我馬子大臣が72歳で薨去し、息子の蘇我蝦夷が大臣を引き継いだ。推古36年(628年)推古天皇が75歳で崩御された。皇位の継承についての遺言が曖昧であったこともあって、田村皇子(敏達天皇の孫、蝦夷の妹婿)と山背大兄王(聖徳太子の長男、蝦夷の甥)の対立が起こった。山背大兄王は、父の聖徳太子が用明天皇の嫡男(正室の長男)で、推古天皇の皇太子であり、次の天皇に最も近い立場にありながら、推古29年(推古30年?)に亡くなったこともあって、皇位に就きたい気持ちが強かったのであろう。大臣の蘇我蝦夷は独断で皇嗣を決めようと思ったが、群臣が承服しないことを恐れ、夫々の意見を聞いたが、その見解は割れた。最終的には、蝦夷が肩入れをした田村皇子が即位して舒明天皇となった。山背大兄王が天皇になれなかったのは、年齢が田村皇子より若かったためと思われる。皇位を争ったことからすれば、このとき山背大兄王は、少なくとも30歳前後であったのであろう。

 

舒明天皇が崩御された舒明13年(641年)に、再び皇位継承の問題が起こった。天皇家の系譜からすれば、皇位を継承するのは舒明天皇の嫡男である中大兄皇子であったが、16歳で皇位を継げる年齢ではなかった。舒明天皇の長男である古人大兄皇子も、皇位を継げる年齢には達していなかったのだろう。山背大兄王は43歳前後となっており、皇位に付くには十分な年であった。しかしながら、舒明天皇の皇后(敏達天皇の曽孫)が即位して皇極天皇となった。『書紀』は皇極天皇が即位した経緯について記載していないが、蘇我蝦夷大臣の差し金と考えられる。山背大兄王はフラストレーションが溜まったのであろう。

 

皇極天皇のもと蘇我蝦夷は引き続き大臣となったが、息子の入鹿が国政を執り、その権勢は父以上であった。皇極2年(643年)、病気のため朝廷に出仕できない蝦夷は、勝手に紫冠を入鹿に授け、大臣の位であるかのようにさせた。入鹿は独断で古人大兄皇子(舒明天皇の息子)を天皇にしようと謀り、山背大兄王を廃しておかなければ、古人大兄皇子を天皇にすることが出来ないと、皇極2年11月に巨勢徳太臣・土師娑婆連を遣わして、斑鳩の山背大兄王を襲わせた。山背大兄王は妃や子弟を連れ、一旦生駒山に逃れたが、斑鳩寺に帰り自害した。蝦夷は山背大兄王とその一族がすべて滅ぼされたことを聞いて、「入鹿はなんと馬鹿なことをしたのだ。お前の命も危うい。」と怒り罵った。