So-net無料ブログ作成
検索選択

57-6.古墳後期、飛鳥は渡来人居住の地 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

『日本書紀』応神20年の記事に、「倭漢直の先祖、阿知使主がその子の都加使主、並びに十七県の自分の党類(同族)を率いてやってきた。」とある。『書紀』の編年に従うと応神20年は289年だが、干支2廻り120年下らすと409年となり、「縮900年表」で仁徳27年にあたる。応神37年(426年:仁徳44年)の記事には「阿知使主・都加使主を呉に遣わした。」とある。『宋書』倭国伝には「太祖の元嘉2年(425年)に、讃が司馬曹達を遣わして方物を献ず。」とあり、「讃」は仁徳天皇で、「司馬曹達」が阿知使主にあたる。阿知使主が倭漢直の先祖である。

 

『続日本紀』宝亀3年(772年)には、坂上大忌寸刈田麻呂の奏上に、「檜前忌寸をもって、大和国高市郡司に任ずる由来は、先祖阿智使主。軽島豊明宮に駆宇天皇(応神天皇)の御世、十七県の人夫を率いて帰化せり。詔して、高市郡の檜前村を賜いて居らしむ。およそ高市郡内の者、檜前忌寸および十七県の人夫が地に満ちて居る。他の姓の者は十に一か二である。」とある。刈田麻呂は征夷大将軍・坂上田村麻呂の父親である。坂上氏も檜前氏も東漢氏の系統であり、先祖に阿智使主(阿知使主)を持つ。倭漢(やまとのあや)氏と東漢(やまとのあや)氏は同じ氏族とされている。

 

『日本書紀』雄略7年(470年)の記事には「天皇は大伴大連室屋に詔して、東漢直掬に命じ、新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・眞神原の三ヶ所に居住させた。」とある。「新漢」とは新来漢人(今来漢人)のことで、「陶部」は土器を焼く陶工、「鞍部」は馬具の製作、「画部」は画士、「錦部」は錦織の文様を織る工人、「訳語」は通訳のことである。雄略の時代に陶・鞍・画・錦・訳語の先進技術・文化を携えた渡来人が、大和国高市郡檜前(明日香村檜前)を本拠地とする東漢氏(倭漢氏)の管轄下のもと上桃原・下桃原・眞神原の三ヶ所に居住していたことになる。

 

上桃原・下桃原・眞神原の3ヶ所の内、「眞神原」は『日本書紀』崇峻元年(588年)に「蘇我馬子が飛鳥衣縫造の祖の樹葉の家を壊し、始めて法興寺を造った。此の地を飛鳥の眞神原と名付けた。または飛鳥の苫田という。」と出てくる。『万葉集』には柿本人麻呂が高市皇子の殯宮で詠った長歌に「明日香の真神の原に ひさかたの天つ御門を かしこくも定めたまひて 神さぶと磐隠ります やすみしし我が大君の」とある。「大君」は天武天皇で、「天つ御門」は宮殿であり、天武天皇の飛鳥浄御原宮が明日香の真神原にあったことが分かる。真神原は飛鳥盆地(明日香村飛鳥・岡・川原)に比定されている。

 

「桃原」については、推古34年(626年)の記事に「蘇我馬子大臣が薨じ、桃原墓に葬った。大臣は稻目宿禰の子で、性格は武略や辨才があり、三寶(仏法)を敬った。家は飛鳥河の傍にあり、庭の中に小さな池を開き、池の中に小嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣といった。」とある。桃原墓は明日香村島庄にある石舞台古墳とする説がほぼ確定している。石舞台古墳の近くで、飛鳥川の傍に島庄遺跡がある。島庄遺跡から7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池が見つかっている。小島は見つかっていないが、その規模や築造時期からみて、大臣馬子の邸宅内にあった池と判断されている。和田萃氏の「飛鳥の苑池―嶋宮の池と舎人達の歌―」を読むと、この方形の池から多量の桃の種が出土しているそうだ。明日香村島庄は桃原の一部の地域にあたるのであろう。

 

Z127.飛鳥は渡来人の地.png雄略14年(477年)に「見狭村主青らが、呉国の使者と共に、呉の献上した手末の才伎、漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津に停泊した。・・・そして呉人を檜隈野においた。そこで呉原と名づけた。衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の先祖である。」とある。この記事より、漢織・呉織の裁縫(衣縫)の技術職人(手末の才伎)が明日香村檜前(檜隈)の東にある明日香村栗原(呉原)に居住していたことが分かる。図127にみるように古墳後期(470~590年)には、飛鳥の大部分(明日香村、雷・豊浦以北を除く)は渡来人の居住する地であり、倭漢(東漢)氏の管轄する地域であった。『続日本紀』宝亀3年の「およそ高市郡内の者、檜前忌寸および十七県の人夫が地に満ちて居る。他の姓の者は十に一か二である。」とある記事はこのことを示している。

 

Z128.高取町遺跡.png平成13年に明日香村檜前から約2km南にある高取町清水谷の清水谷
遺跡から、床に
煙の熱で暖をとる「煙道」(オンドル)を備え、何本も
の柱を壁土で塗り固めた「大壁建物」と呼ばれる朝鮮半島系の
6棟の建
物跡が出土した。また、韓国南部の伽耶地域の陶質土器破片数十点も見
つかり、時期は5世紀後半と考えられている。清水谷遺跡の近くには、
ホラント遺跡・観覚寺遺跡・森カシ谷遺跡など渡来人の痕跡を残した遺
跡がある。ただ、大壁・オンドル・陶質土器の三点セットが揃ったのは、
清水谷遺跡のみである。清水谷遺跡よって、
5世紀後半に高取町に渡来
人が居住していたことが明確となり
5世紀後半に渡来系氏族を飛鳥地
域に住まわせたとする
『日本書紀』の記述が、史実であったことが証明
された。高取町も飛鳥の範疇に入るのであろう。古墳後期(470~590年)、飛鳥は渡来人居住の地であり、その渡来人を束ねていたのが倭漢(東漢)氏であった。


57-7.蘇我稲目と倭漢(東漢)氏との関わり [57.蘇我氏の系譜と興亡]

蘇我氏の出自については、「57-3.蘇我氏には百済人の血が流れている」の節で述べたように、百済の官吏・木満致の血が流れている。そのいきさつは、応神3年(392年)に百済に遣わされた蘇我石川宿禰は、百済の接待役であった木満致と面識をもった。百済の直支王が倭国の人質となっていた397年から405年の9年間、木満致は付き人として倭国に滞在した。その間に木満致は蘇我石川宿禰の娘と出会い、子供が生まれ蘇我満知と名づけられた。木満致は直支王に従い妻子を残して帰国し、国政に携わった。420年直支王が亡くなり、幼い久爾辛が王となってからは、木満致は国政を執ったが、四面楚歌にあい窮地に陥っていた。その頃、中国の王朝と国交を開くことを模索していた仁徳天皇は、直支王が東晋の安帝から爵号を授けられたときの外交経験を持つ木満致を、外交顧問として招聘した。木満致としても、妻子の待つ倭国に行くことに拘りは無かった。そして、木満致は使者として421年に宋に朝貢した。『宋書』倭国伝には「永初二年(421年)に倭王・讃が朝貢し叙授を賜った。」とある。

 

一方、倭漢(東漢)氏の出自については、409年(仁徳27年)に倭漢直の先祖、阿知使主はその子の都加使主、並びに十七県の自分の党類(同族)を率いてやって来ている。そして、426年(仁徳44年)には、阿知使主と都加使主は呉に遣わされている。『宋書』倭国伝には「太祖の元嘉2年(425年)に、讃が司馬曹達を遣わして方物を献ず。」とある。「讃」は仁徳天皇であり、「司馬曹達」が阿知使主にあたる。420年から仁徳天皇に遣わされて宋に朝貢した木満致は、425年に宋に遣わされた阿知使主に、色々のアドバイスをしたことであろう。その後、木満致と阿知使主は付き合うようになり、蘇我氏と倭漢氏との親しい関係が生まれた。

 

Z125.稲目の関わった地.png蘇我稲目は倭漢氏の協力を得て曽我川・飛鳥川の流域の開発を行い、曽我(橿原市曽我町)の地を本拠地とし、曲川(橿原市曲川町)の地を安閑天皇に屯倉(屯家)として献上し、宣化元年(536年)に31歳の若さで大臣となった。蘇我稲目の出世は倭漢氏のお陰であった。蘇我稲目は倭漢氏に、本拠地である飛鳥の檜隈(明日香村檜前)の檜隈廬野を屯倉(屯家)として天皇に献上することを薦めた。倭漢氏の束ねる渡来人は、陶部・鞍部・画部・錦部・訳語・衣縫部の先進技術・文化を携えた人々であり、その生業は宮廷に関するものである。倭漢氏にとって、宮()が本拠地の傍にあるということは、朝廷での仕事が増え、メリットは大きい。蘇我稲目は倭漢氏の発展を考え、檜隈廬野の献上を薦めたのであった。

 

宣化天皇が檜隈廬野に宮()を遷してから、倭漢氏の朝廷での働きも多くなり、地位も高まった。欽明朝に東漢氏直糠児と東漢坂上直子麻呂が外国使臣の接待役として活躍したのは、蘇我稲目の推挙があったのであろう。また、欽明17年(556年)に蘇我稲目が高市郡身狹(橿原市見瀬町)に、大身狹屯倉と小身狹の屯倉を置くことが出来たのは、倭漢氏の協力あってのことである。蘇我稲目の時代、蘇我氏と倭漢(東漢)氏の結びつきはより強固なものとなった。


57-8.飛鳥時代の宮都は真神原 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z129.石舞台古墳.png『日本書紀』推古34年(626年)の記事に「(蘇我馬子)大臣が薨じ、桃原墓に葬った。大臣は稻目宿禰の子で、性格は武略や辨才があり、三寶(仏法)を敬った。家は飛鳥河の傍にあり、庭の中に小さな池を開き、池の中に小嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣といった。」とある。桃原墓は明日香村島庄にある石舞台古墳とする説がほぼ確定している。石舞台古墳の近くで、飛鳥川の傍にある島庄遺跡がある。島庄遺跡は橿原考古学研究所による発掘調査が度々行われ、平成16年には7世紀前期、中期、後期の3つの時代の大型の建物跡が見つかっている。前期の建物跡は、幅7.2m、長さ13m以上、柱の直径が約40cmもあり、この規模から蘇我馬子の邸宅跡ではないかと推測されている。なお、中期の建物跡は、皇極4年(645年)の「乙巳の変」の後の記事に「中大兄皇子が宮殿を嶋大臣の家に接して建て、中臣鎌足と密かに入鹿を殺す計画を練った。」とあることから中大兄皇子の邸宅、後期の建物跡は、天武天皇(672~686年)の皇太子であった草壁皇子の東宮「嶋宮」と考えられている

 

Z130.島庄遺跡方形池.pngまた、昭和47年に島庄遺跡から7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池が見つかっている。池は7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池で、池の底には径20cmほどの川原石が敷きつめられており、西北の護岸の石組は豪壮なものである。宣化天皇の檜隈入野宮があったとされる明日香村檜前の檜隈寺跡から1km南にある高取町の観覚寺遺跡は、3棟の朝鮮半島系の「大壁建物」の建物跡が見つかり、6世紀代の遺構とみられている。また、観覚寺遺跡からは石組みの人工池跡(6世紀)が出土している。東西約5m、南北約4m、深さ約40cmの方形で池の岸や縁は人頭大の石で組まれ、底にも石が敷かれていた。町教委は、蘇我馬子邸があったとされる明日香村の島庄遺跡(7世紀)で見つかった石組みの方形池跡(約42メートル四方)の原形とみている。蘇我馬子の邸宅を造ることにも倭漢(東漢)氏が関わっていると考える。

 

蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(桃原墓)から南東約400mの明日香村阪田に都塚古墳がある。平成26年の調査では一辺が40mの方墳で、約30~60cmの石積みの階段が4段以上あり、国内に例がない階段ピラミッド状の形をしていることが分かった。段積みの石は拳から人頭大の川原石で、古墳の高さは7メートル以上と推定されている。埋葬施設は全長12mの両袖式横穴式石室があり、長さ2.2mの刳り抜き式家形石棺が収められていた。石棺の蓋には6個の縄掛式突起を持ち、その形状から古墳の築造年代は6世紀後半から6世紀末と比定され、蘇我馬子とされる石舞台古墳に近いことから、欽明31年(570年)に亡くなった蘇我稲目の墓でないかと考えられている。都塚古墳のルーツを高句麗の王陵・将軍塚古墳や百済の階段ピラミッド状の古墳に求める説があるが、都塚古墳の築造には、蘇我馬子の邸宅の方形池の石組みを行った、倭漢(東漢)氏の配下の渡来人が関わったのではないかと考える。

 

用明2年(587年)の記事に、「天皇の疱瘡が重くなり、亡くなられようとしたとき、鞍作多須奈が進み出て、『私は天皇のために出家して仏道を修め、丈六の仏像と寺とをお造りいたします。』と奏上した。・・・今、南淵(明日香村稲渕・坂田)の坂田寺にある木の丈六の仏像、脇侍の菩薩がこれである。」とある。明日香村坂田には坂田寺跡があり、奈良時代の金堂や回廊の礎石が出土しているが、創建当時の寺跡はまだ見つかっていない。明日香村稲渕・坂田は鞍作氏の本拠地で、「上桃原」の地である。都塚古墳・石舞台古墳・島庄遺跡(馬子邸宅)のある「下桃原」の地も、もともとは鞍作氏の本拠地であったが、馬子に譲られたのであろう。

 

なお、鞍作多須奈は鞍部村主司馬達等の子である。司馬達等は、蘇我馬子が仏教の師とした恵便を探し出し、娘の嶋を日本最初の尼僧(善信尼)として馬子に仕えさせた人物であり、雄略7年(470年)に飛鳥に居住した鞍部堅貴の子孫である。推古13年(605年)に丈六の仏像を造った鞍作鳥(鞍作止利)は司馬達等の孫にあたる。蘇我馬子は仏教においても、倭漢(東漢)氏と深く関わっている。

 

崇峻元年(588年)に、蘇我馬子は飛鳥の真神原の飛鳥衣織造の先祖の樹葉の家を壊して、法興寺(飛鳥寺)を建てている。この樹葉は雄略14年(477年)に呉からやって来て、飛鳥の檜隈野(明日香村呉原)に居住した飛鳥衣縫部の子孫であり、倭漢(東漢)氏の管轄下にあった。倭漢(東漢)氏は蘇我馬子の薦めもあって、真神原(飛鳥盆地:明日香村飛鳥・岡・川原)を朝廷の屯倉(屯家)として献上したと考える。推古天皇は真神原の入り口に豊浦宮(明日香村豊浦)・小墾田宮(明日香村雷)を造ったが、その後の天皇は、舒明天皇と斉明天皇が飛鳥岡本宮、皇極天皇と孝徳天皇が飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮、天武天皇と持統天皇が飛鳥浄御原蓋宮と真神原(飛鳥盆地)に宮を設けている。

 

Z131.飛鳥盆地.png図Z131の地図に見られるように、飛鳥盆地(明日香村飛鳥・岡・川原)
には、
「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で国の史跡に指定された区域がある。この
地の発掘調査の結果、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかり、
最上層が飛鳥浄御原宮と斉明天皇の後飛鳥岡本宮、その下層が蘇我入鹿暗殺
の舞台となった飛鳥板蓋宮、さらに最下層が舒明天皇の飛鳥岡本宮の遺構で
あると考えられた。694年に持統天皇が藤原京に遷都するまで、
真神原
6人の天皇が繰り返し宮を営んだ地である。飛鳥時代の宮都が
真神原になっ
たのは、蘇我馬子と
倭漢(東漢)氏の貢献によるところが大きい。


57-9.蘇我稲目・馬子が仏教の礎を築いた [57.蘇我氏の系譜と興亡]


飛鳥時代は宮都が飛鳥に営まれた時代というだけでなく、我が国が仏教文化を受容した時代でもある。『日本書紀』の欽明13年(552年)の記事には、「百済の聖明王が金堂仏像一体と幡蓋若干・経論若干を献じ、仏を広く礼拝する功徳を上表した。」とある。仏教伝来については、『日本書紀』が552年とするのに対して、『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では538年としており、どちらが史実であるか議論がなされているが、ここでは、『日本書紀』に従って記してみる。

欽明13年(552年)10月、欽明天皇は百済の聖明王の上表を聞き、「西の国が献上した仏像の容貌は荘厳で美しい、礼拝すべきかどうか」と群臣に問うた。蘇我稲目大臣は「西の諸国はみな礼拝しています。我が国だけが背くわけにはいかないでしょう。」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿大連・中臣鎌子連らは「我が国の王(天皇)は、天地の百八十神を春夏秋冬にお祀りされてこられた。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りを受けるでしょう。」と反対した。欽明天皇が「稲目宿禰に試しに礼拝させてみよう。」と仰せになったので、蘇我稲目は小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を寺とした。小墾田は大和国高市郡雷(明日香村雷)に、向原は大和国高市郡豊浦(明日香村豊浦)に比定されている。

後に国に疫病が流行し、多くの人民が若死にした。物部尾輿・中臣鎌子は「このようなことが起こったのは、私どもの計を用いなかったからだ。」と奏上し、仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけて焼いた。『上宮聖徳法王帝説』には、「勅して蘇我稲目宿祢大臣に授け、興隆せしむ。庚寅の年、佛殿・佛像を焼き滅ばし、難波の堀江に流し却てき。」とある。庚寅の年は欽明31年(570年)で、蘇我稲目が亡くなった年である。物部尾輿が仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけて焼いたのは、稲目が亡くなった年であった。

明31年(570年)蘇我稲目が薨去し、欽明32年には欽明天皇が崩御された。敏達元年(572年)に敏達天皇が即位され、物部守屋が大連に、蘇我馬子が大臣に就任した。敏達13年(584年)9月、蘇我馬子は百済からもたらされた仏像二体を請い受け、鞍部村主司馬達等らが探し出した、播磨國の高麗から来た還俗者の惠便を仏法の師とした。また、司馬達等の女・嶋(11歳)を出家させて善信尼とし、二人尼を弟子に付けた。馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼を崇め尊んだ。仏殿を家の東方に造営して弥勒の石造を安置し、また石川の家にも仏殿を造った。仏法の初めは、ここから起こった。

敏達14年(585年)2月、蘇我馬子は塔を大野丘の北に建て、塔頭に舎利を納めた。蘇我馬子が病気になったとき、天皇から「卜者の言葉に従って、父の崇めた仏を祭れ。」との詔を得て、弥勒の石像を礼拝した。この時、国に疫病が流行って、人民がたくさん死んだ。物部守屋大連と中臣勝海大夫は「欽明天皇から陛下の御世に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えようとしているのは、蘇我臣が仏法を起こして信仰しているからです。」と奏上し、天皇は「明らかなことだ。仏法を止めよ。」と仰せになった。物部守屋は自ら寺に赴き、塔を倒し仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に棄てさせた。そして、役人は善信尼等の尼を鞭打ちの刑に処した。その後、疱瘡で死ぬものが国に満ちた。老いも若きも「仏像を焼いたせいだろう」と密かに語り合った。天皇は蘇我馬子に「お前一人だけは仏法を行ってもよい。他の人は禁止する。」と仰せになり、三人の尼をお返しになった。馬子は大変喜び、新たに精舎を造り、仏像を迎え入れ供養した。

話は少し下るが、皇極4年(645年)6月の「乙巳の変」で、蘇我入鹿と蝦夷が討たれ、蘇我氏本宗家が滅び、皇極天皇の譲位により孝徳天皇が即位して、元号が大化と始めて制定された。その大化元年8月に孝徳天皇は使いを大寺(百済大寺)に遣わして僧尼に「欽明天皇の13年に、百済の聖明王が仏法を我が大倭に伝え奉った。この時、群臣は広めることを欲しなかった。しかし、蘇我稲目宿禰だけが仏法を信じた。天皇は蘇我稲目に詔にて仏法を信奉させた。敏達天皇の世に蘇我馬子宿禰は父の態度を敬い、釈迦の教えを重んじた。しかし、他の臣は信じなかったので、仏法は危うく滅びそうになった。そこで、天皇は馬子宿禰に詔にて信奉させた。推古天皇の世に、馬子宿禰は天皇のために丈六の繡像(繡帳)と丈六の銅像を造って、仏教を興隆し僧尼を敬った。・・・」と仰せになっている。

中大兄皇子・中臣鎌子らによって蘇我氏本宗家が滅ぼされてから、たった2ヶ月後の大化元年(645年)8月に、孝徳天皇は「欽明13年(552年)に仏教が伝わってから約100年の間に、仏教がこれほどまでに広がったのは蘇我稲目と蘇我馬子の功績である。」と賞賛している。朝廷が仏教を保護し、仏教によって国家の安泰を念願する鎮護国家(国家仏教)の道を歩み始めようとする孝徳天皇にとっては、逆賊蘇我氏といえども、仏教の礎を築いた蘇我稲目と馬子の功績は、称えずにはおられなかったのであろう。