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56-2.玉田宿禰は葛城襲津彦の子か、孫か? [56.葛城氏の系譜と興亡]

葛城氏の系譜は、『日本書紀』・『古事記』・『公卿補任』・『紀氏家牒』にある武内宿禰・葛城襲津彦・葦田宿禰・玉田宿禰・円大臣・蟻臣などの、断片的な史料から、Z113に示すような系譜が復元されている。なお、『公卿補任』は、卿の氏名・就任年月・官位などを年代順に記した職員録で、平安時代初期の弘仁2年(811年)に成立した『歴運記(公卿記)』が基となっている。また、『紀氏家牒』は紀氏の古伝承をまとめた記録で、由来は平安初期でないかと考えられており、現在は逸文しか残っていない。葛城氏の系譜が完璧かと言えばそうでもないらしい。それは、前記4つの資料には、「玉田宿禰は葛城襲津彦の子か、それとも孫か」、「円大臣は玉田宿禰の子か、それとも葦田宿禰の子か」という、互いに矛盾する記述が含まれているからだ。これら葛城氏の系譜が正しいか検証してみた。

Z113.葛城氏の系譜.png

『日本書紀』に玉田宿禰が始めて登場するのは、允恭年(448年)の記事で、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯の任務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。天皇に召喚された玉田宿禰は衣の下に鎧を着けて参上した。それを知った天皇は兵に討たせようとしたが宿禰は家に逃げ帰った。天皇の兵は家を取り囲み、宿禰を捕え殺した。」とあり、「葛城襲津彦の孫の玉田宿禰」とある。一方、雄略紀7年には、「吉備上道臣田狭の妻・稚媛は美人の誉れ高く、雄略天皇に夫を国司として任那に飛ばされ、召されて妃となり星川皇子を産んだ。別本によると、田狭臣の妻は名を毛媛といい、葛城襲津彦の子・玉田宿禰の娘である。天皇容姿が美しいと聞いて、夫を殺して自らお召しになった。」とあり、「葛城襲津彦の子、玉田宿禰」とある。『公卿補任』も、玉田宿禰は葛城襲津彦の子としている。『日本書紀』・『公卿補任』の文章から、「玉田宿禰は葛城襲津彦の子か、それとも孫か」を検証することは出来ない。

Z114.襲津彦と玉田宿禰.png玉田宿禰は允恭5年(448年)に反正天皇の殯宮の大夫(殯主)を命ぜられている。国政を担うのは23歳から63歳までとの仮定を適用して、玉田宿禰の誕生の年を求めた。Z114に示すように、玉田宿禰の誕生の年は386年以降であることが分る。襲津彦が最後に新羅征伐に出たのは382年であり、この年以降に子供が生まれることはない。これらからすると、玉田宿禰は葛城襲津彦の子でないことは明白である。また、襲津彦の誕生は326年から329年と比定しており、玉田宿禰の誕生の年に襲津彦が何歳であったかを計算した。それらからすると、襲津彦は58歳から101歳であり、玉田宿禰は葛城襲津彦の孫であることが分る。

雄略紀7年には「別本云」として、吉備上道臣田狭の妻・稚媛が玉田宿禰の娘であるかのように書いている。しかし、雄略天皇が亡くなった雄略23年(486年)に、星川皇子が母・吉備稚媛にそそのかされて謀反を起こし、吉備上道臣が星川皇子を救おうと軍船40艘を出している。吉備稚媛が吉備上道臣の娘でなければ、吉備上道臣が星川皇子を救おうと軍事行動を起こすことは有り得ない。吉備稚媛は吉備上道臣の娘であり、吉備上道臣田狭が入婿で、「稚媛=毛媛」でないことが分る。そうなると別本の「葛城襲彦の子・玉田宿禰」は怪しくなってきて、前述の検証が正しいことが分る。玉田宿禰は葛城襲津彦の孫とする、『日本書紀』允恭5年の記事が正しく、玉田宿禰は葛城襲津彦の子とする、雄略7年の割注に記す別本や『公卿補任』は間違っていると言える。


56-3.円大臣は玉田宿禰の息子か? [56.葛城氏の系譜と興亡]

Z113に葛城氏の系譜を示した。この系譜では、円(つぶら)大臣は玉田宿禰の息子になっている。『日本書紀』には円大臣と玉田宿禰の関係については記載していない。『公卿補任』では円大臣は玉田宿禰の子とするが、『紀氏家牒』には「葛城葦田宿禰の児、履中・反正・允恭・安康の四朝に仕え奉る」と、円大臣は葦田宿禰の子であることを示唆した記述がある。円大臣は玉田宿禰の子か、それとも葦田宿禰の子であるか検証する。

Z113.葛城氏の系譜.png

円大臣については履中2年(433年)の記事には、「都を磐余に造った。この時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執った。」とある。また、雄略前紀の記事には、「安康3年(463年)、父の仇に報いるために安康天皇を殺害した眉輪王を、円大臣が自宅にかくまい、雄略天皇に葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上して許しを乞うたが、許されず焼き殺された。」と記載している。円大臣が大臣に就任した時の記事はないが、安康元年(461年)に就任していたと推定する。


Z115.円大臣の誕生年.png433年に円大使主が国事を執った時の年齢を基にして、461年の円大臣の大臣就任時の年齢を求めZ115に示した。国事を担うのは23歳から63歳まで仮定に照らし合わせると、433年(履中2年)のときの円大使主の年齢は23歳から35歳で、円大臣の誕生は399年から411年であったことが分る。葛城円大臣の娘・韓姫は雄略元年(464年)に雄略天皇の妃となっている。その時の韓媛の年齢が25歳(±5年)とすると、韓媛の誕生は440年(±5年)となる。これを基に、韓媛の誕生の時の円大臣の年齢を求めた。これらよりZ115の下段に示すように、円大臣の年齢は27歳から42歳で整合性がとれている。また、円大臣と葛城襲津彦との関係は、祖父あるいは曽祖父の関係にあると言える。

Z116.円大臣と玉田宿禰.png前節のZ114で示したように、玉田宿禰の誕生の年は386年から426年の範囲にある。また、Z115で示したように、円大臣の誕生は399年から411年である。Z116に示すように、玉田宿禰の誕生が388年(386~389)、円大臣の誕生が410年(
409~411)である場合、玉田宿禰が円大臣の父親であることが
成り立つ。

円大臣は433年(履中2年)に24歳位で国政を執る大使主に命ぜられ、安康元年(461年)に52歳で大臣に就任し、安康3年(463年)に眉輪王を匿い焼死している。一方、玉田宿禰は448年(允恭5年)に61歳で反正天皇の殯宮の大夫を命ぜられたが、殯の任務を怠り葛城で酒宴をしていたことが、葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。天皇に召喚された玉田宿禰は衣の下に鎧を着けて参上しので、天皇の兵に宿禰を討伐されている。448年に玉田宿禰が天皇の使いを殺したため討伐されたにもかかわらず、その息子の円大臣が461年に最高の位の大臣に出世するのにも疑問がある。また、息子の円大臣が24歳で大使主として国政を執った時、父の玉田宿禰は働き盛りの46歳であり、官吏への登用からすれば親子が逆転しているのもおかしい。『公卿補任』では円大臣は玉田宿禰の子とするが、それは間違いであると考える。


56-4.円大臣は葦田宿禰の息子 [56.葛城氏の系譜と興亡]

Z117.葦田宿禰は円大臣の父.png

『紀氏家牒』には「葛城葦田宿禰の児、履中・反正・允恭・安康の四朝に仕え奉る」と、円大臣は葦田宿禰の子であることを示唆した記述がある。円大臣は葦田宿禰の子であるかを検証する。葛城襲津彦の誕生は326年から329年であることから、男性に子供が生まれる時の年齢は18歳から53歳までとの条件を当てはめると、葦田宿禰の誕生は概ね345年から380年の間となる。円大臣の誕生の年は、399年から411年であり、円大臣の誕生の年に葦田宿禰の年齢を求めZ117に示した。葦田宿禰の誕生が360年から375年であれば、『紀氏家牒』に書かれてあるように、葦田宿禰と円大臣の親子関係が成り立つ。

Z118.葦田宿禰の娘・黒姫.png葦田宿禰の娘・黒姫は437年(履中元年)に履中天皇の皇妃となっている。履中天皇の年齢は47歳であるので、黒姫を娶ったのは皇太子の時代であったのかも知れない。履中天皇(去来穂別尊)の年齢から黒姫を娶った年を算出し、黒姫の嫁いだ年齢を25歳(±5歳)として、黒媛誕生の年の、葦田宿禰の年齢を求めZ118に示した。去来穂別尊が30歳以降に黒媛を娶っていたならば、葦田宿禰と黒媛の親子関係は成り立つ。

『紀氏家牒』にあるように、円大臣が葦田宿禰の息子であるとして、葛城氏の系譜をZ119に示した。葛城襲津彦(誕生326~329年)の息子・葦田宿禰(誕生360~375年)は、父・襲津彦が32歳から50歳のときの子供である。葦田宿禰の息子・円大臣(誕生399~411年)は、父が25歳から52歳のときの子供である。円大使主は23歳から35歳の433年(履中2年)に、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連と共に国事を執った。円大臣は履中天皇・允恭天皇・安康天皇に仕えたが、463年(安康3年)に父の仇に報いるために安康天皇を殺害した眉輪王を自宅にかくまい、大泊瀬皇子(雄略天皇)に葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上して許しを乞うたが、許されず焼き殺された。円大臣の娘・韓媛(誕生440年±5年)で、父が27歳から42歳の時に生まれた子供である。464年(雄略元年)に25歳(±5歳)で雄略天皇の妃となり、後の清寧天皇を生んだ。

Z119.葛城系譜私案.png

葦田宿禰の娘・黒姫(誕生391から408年)は、父が22歳から49歳の時の子供である。履中天皇が皇太子の時代に結婚し、履中天皇が即位された408年に皇后となった。黒姫が生んだ市辺押磐皇子は、母の兄弟の蟻臣の娘・荑媛を娶り、億計(仁賢天皇)と弘計(顕宗天皇)の兄弟を生んだ。安康天皇は市辺押磐皇子に皇位を託そうとされていた。それを恨んだ大泊瀬皇子(雄略天皇)に463年(安康3年)にだまし討ちに合い殺された。億計と弘計は難を逃れて明石の縮見屯倉の首に身分を隠して仕えていた。488年(清寧2年)播磨に遣わされた伊与来目部小楯は、弘計と億計に身分をあかされた。跡継ぎのなかった清寧天皇は、億計と弘計とを皇子として迎えた。清寧天皇が亡くなり弟の弘計が顕宗天皇となり、その跡兄の億計が仁賢天皇となった。Z119に示す葛城襲津彦を始祖とする系譜が、何の齟齬もなく説明できる。


56-5.葛城氏の系譜とその墳墓 [56.葛城氏の系譜と興亡]

武内宿禰の本拠地は葛城地域の南半分(葛上郡)であって、葛上郡にある室宮山古墳を武内宿禰の墳墓と比定した。武内宿禰の長男である葛城襲津彦は武内宿禰の本拠地を引き継いだ。ただ、葛城襲津彦は57歳(382年)のとき、新羅を討伐するべく派遣されたが、新羅の差出した美女に籠絡され、天皇の命令に背いため葛城の地に帰ることがなかった。そのため、葛城襲津彦の墳墓は葛城の地には無い。

Z110.葛城大型古墳編年.png葛城襲津彦が父・武内宿禰より引き継いだ葛上郡の地は、襲津彦の長男(玉田宿禰の父)に委ねられた。御所市玉手にある満願寺前は「玉田」と称しされており、玉田宿禰の居住地であったと言われている。御所市玉手から玉手山(165m)を挟んだ反対の御所市柏原に、墳丘長さ150mの前方後円墳、掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳がある。周濠が水田となって周囲を巡っている。古墳の形状、出土遺物などから、築造年代は室宮山古墳よりやや後の、世紀前半でも中頃に近いころと考えられている。私の編年では、円筒埴輪Ⅳ式の存在から築造年代は400~479年としているが、江戸時代の記録から長持形石棺の存在が類推されることを考慮にいれると、400年~469年となる。宮山古墳と掖上鑵子塚古墳の両古墳から出土した形象埴輪には、直弧文やその他の文様に共通性がみられるそうだ。

掖上鑵子塚古墳を葛城襲津彦の長男・玉田宿禰の父の墓に比定する。448年(允恭
年)に、玉田宿禰は殯の職務を怠り葛城で酒宴をしていたのを、葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺したことにより討伐されている。この事件により、葛城地域の南半分(葛上郡)の地は大和王権に没収され、王権の直轄領、葛城縣となった。もちろん、玉田宿禰が討伐される448年以前に、玉田宿禰の父の墳墓・掖上鑵子塚古墳は築造されていた。築造したのは玉田宿禰であろう。

Z109.葛城の大型古墳.png葛城襲津彦が領有した母・葛比売の出自の葛城国造の地、葛城北半分(葛下郡・忍海郡)は次男の葦田宿禰に委ねられた。北葛城郡王寺町・上牧町には葦田池とか葦田原と呼ばれていた地名がある。万葉集の柿本人麻呂の歌に「明日からは 若菜摘まむと 片岡の あしたの原は 今日ぞ焼くめる」がある。「あしたの原」は「明日の原」と「葦田の原」の掛詞である。「葦田の原」とは、葛城山から馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯をさしていると言われている。現王寺町の町名の起源と考えられている「片岡王寺」は、現在では放光寺として存続しているが、鎌倉時代に成立した『放光寺古今縁起』には「葦田池」が出てくる。葦田池は推古15年(607年)に大和国に造られた4つのため池(肩岡池、高市池、藤原池、菅原池)の一つ、肩岡池のことであり、芦田池として王寺市本町に現存する。

Z120.川合大塚山古墳.png芦田池の東3.5kmの河合町川合に川合大塚山古墳がある。墳丘長193mの前方後円墳で、世紀中頃~後半の築造と推定され、周濠があったことが周囲を巡っている水田に痕跡を残しており、同時期では奈良盆地内で最大級の古墳である。私の編年では、円筒埴輪Ⅳ式の存在から築造年代は、掖上鑵子塚古墳と同じ400~479年としている。川合大塚山古墳を葦田宿禰の墓と比定する。葦田宿禰の誕生は360年から375年で、息子の円大臣が生まれたのが399年から411年と計算しており、古墳の築造年代との齟齬はない。葦田宿禰の姉妹には仁徳天皇の皇后・磐之媛がおり、娘の黒姫は履中天皇の皇后となり、息子の葛城円大臣は履中天皇・允恭天皇・安康天皇に仕え国政を担っている。同時期では奈良盆地内で最大級の古墳に葬られてもおかしくない。もちろん、古墳は円大臣が眉輪王をかくまい焼き殺された463年前には葦田宿禰の墓・川合大塚山古墳は築造されていた。築造したのは円大臣であろう。

463年(安康3年)に、円大臣は父の仇に報いるために安康天皇を殺害した眉輪王と、その共謀を疑われた坂合黒彦皇子(雄略天皇の同母兄)を自宅にかくまった。雄略天皇に葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上して許しを乞うたが許されず、円大臣・黒彦皇子・眉輪王は焼き殺されている。『日本書紀』は「そのとき、坂合部連贄宿禰が皇子の屍を抱いて焼き殺された。その舎人どもは、焼け跡を片付けたが、ついに骨を区別することが出来なかった。一つの棺に入れて、新漢の槻本の南の丘に合わせ葬る」とある。「皇子の屍を抱いて焼き殺された」ことからすると、黒彦皇子は焼け死ぬ前に既に死んでいた。史実は、天皇の許しが得られないと知った円大臣は、眉輪王と黒彦皇子の死の介添えをし、自ら家に火を放ち、妻と共に自殺したと想像する。『古事記』では、円大臣は願いにより眉輪王を刺殺し、自分も首を斬って死んだとしている。新漢の槻本の南の丘に葬られたのは、皇子と皇子の屍を抱いて焼け死んだ坂合部連贄宿禰であろう。

葛城円大臣は葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上することと、自らの命を差し出すことを条件として、葛城氏の安堵を得たのであろう。464年
(雄略元年)に、韓媛は雄略天皇の妃となっている。葛城領地7ヶ所は後世の忍海郡と葛下郡南部と考える。『古事記』には献上したのは5村で、「五村の屯倉は、今の葛城の五村の苑人なり」とある。『倭名類聚抄』には忍海郡園人郷が出てくる。また、大和国の六縣に設けられた御県神社の一つである葛城御県神社は、葛城市新庄町に在り葛下郡に属していた。葛下郡の南部の一部は葛城縣であったと考えられる。大和王権は葛上郡と忍海郡、そして葛下郡の南部の領域を葛城縣にすることが出来たのである。葛下郡(除く南部)の地域は、円大臣の息子あるいは兄弟の蟻臣によって引き継がれた。
Z121.狐井城山古墳.png
奈良県香芝市狐井にある狐井城山古墳は、全長が140mの前方後円墳でただ、長持石棺と家形石棺の蓋石が狐井城山古墳の前方部東北隅に外堤に接して流れる灌漑水路(初田川)の中から昭和44年に発見され、狐井城山古墳のものと推測されている。狐井城山古墳は戦国時代に土豪の岡氏が城砦(狐井塁)として使っていたようであり、その時に石棺が掘り出されたのであろう。長持石棺の蓋石は竜山石(兵庫県)で造られており、長さ約2
.7m、幅1.3mで蒲鉾形をしているのが特徴で、通常の長持形石棺より舟形石棺に近い形状で、このような特異な形態はほかに類例がないそうだ。

狐井城山古墳の築造年代は5世紀末から6世紀前半とされている。私は円筒埴輪Ⅴ型式(470~)と長持式石棺(340~469)から古墳年代は465~475年と比定している。私が調査した2248基の前方後円
()墳の中で、円筒埴輪Ⅴ型式が出土した古墳は166基ある。その中で長持形石棺が出土した古墳は狐井城山古墳1基のみである。ちなみに、舟形石棺は7基、家形石棺は16基の古墳から出土している。狐井城山古墳からは長持形石棺(340~469)と家形石棺(400~)が同時に見つかっていることからしても、長持形石棺が造られる終わりの時期と判断できる。狐井城山古墳(465~475年)を463年に亡くなった、葛城円大臣とその妻の墳墓に比定する。

『新撰姓氏録』で武内宿禰とその息子を始祖とするのは65氏族ある。その内、葛城襲津彦を始祖と仰ぐのは12氏族で最も多い。これらからすると、葛城氏は滅亡していなかったことになる。雄略天皇亡き後、円大臣の娘・韓媛が産んだ皇子が清寧天皇となり、蟻臣の娘・荑媛が産んだ皇子が顕宗天皇・仁賢天皇となったこともあり、葛城氏は葛下郡(除く南部)で生き延びたのである。


57-1.蘇我氏の本拠地は何処か [57.蘇我氏の系譜と興亡]

飛鳥時代は、古墳時代と奈良時代の間にあって、崇峻天皇5年(592年)に推古天皇が豊浦宮(高市郡明日香村)で即位してから、和銅3年(710年)に平城京に遷都するまでの118年間にかけて、飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指すとされている。ただし、孝徳天皇の難波長柄豊崎宮(大阪市)、天智天皇の近江大津宮(大津市)、持統・文武天皇の藤原宮(橿原市)に遷都されていた時代も含まれている。この飛鳥時代にあって、645年の大化改新(乙巳の変)まで、大和朝廷の中枢を担っていたのが蘇我氏である。

蘇我氏が『日本書紀』に始めて登場するのは応神3年(356年)の記事で、「百濟の辰斯王が立って、貴国の天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰を遣わして、その礼のないことを叱責した。それによって、百濟国は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花を王に立て帰国した。」とある。石川宿禰が蘇我石川宿禰であり、『古事記』では建內(武内)宿禰の子として、蘇賀石河宿禰が登場している。蘇我氏の系譜は、わが国神代以降の公卿記録(貴族の職員録)として知られている『公卿補任』には、下記のように記されている。
  武内宿禰→蘇我石川宿禰→蘇我満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿

蘇我氏の本拠地については、河内国石川郡とする説、大和国高市郡曽我とする説、大和国葛城郡とする説、百済系渡来人とする説がある。百済系渡来人は後述するとして、大和国葛城郡説から述べてみる。大和国葛城郡説が提唱されたのは、「57-7.武内宿禰の本拠地は葛城の葛上郡」で述べたように、推古32年(624年)に、蘇我大臣馬子が推古天皇に「葛城縣はもともと臣(蘇我臣)の本居(本拠地)である。だからその縣にちなんで姓名としている。そこで永久にこの縣を賜って、臣の封縣としたいと思います。」と要求したことと、皇極元年(642年)に、蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を建てて、八佾(やつら)の舞(8列64人の群舞)をしたことの二つの事例を以て、蘇我氏が葛城氏の流れをくむ氏族と考えられている。この説がまかり通るのは、武内宿禰は伝説上の人物であるとしているからである。武内宿禰は実在し、その本拠地は葛城地域の南半分を占める葛上郡であったと考えれば、蘇我氏が葛城に拘った謎が氷解する。

蘇我氏の本拠地を河内国石川郡とする説は、平安時代に編纂された『日本三代実録』に「始祖大臣武内宿禰の男宗我石川、河内国石川別業に生まれる。故に石川を以って名と為す。宗我大家を賜り居と為す。因りて姓宗我宿禰を賜る。」の記事に由来している。河内国石川郡とは、大和川の支流・石川の東側で、金剛山地の西側(南河内郡・富田林市一部)にあたる。一方、大和国高市郡曽我とする説は、平安時代に作られた『紀氏家牒』に「曽我石河宿禰の家、大倭国高市県曽我里、故に名を蘇我石河宿祢という。蘇我臣は・川辺臣の祖なり。」の記事に由来している。大和国高市郡曽我とは、現在の奈良県橿原市曽我町あたりで、曽我町の西北にある宗我都比古神社は蘇我石川宿禰を祀る神社で、石川宿禰より第5世の蘇我馬子の頃、推古天皇の御世に創建されたと伝えられている。

Z122.大和の豪族.png蘇我氏が全盛であった6世紀の半ばから7世紀の半ば、蘇我稲目・馬子・蝦夷の時代、蘇我氏の本拠地は飛鳥(現在の橿原市・明日香村)にあったということは間違いないであろうが、蘇我石川宿禰の時代(5世紀初め)に蘇我氏の本拠地は、河内国石川郡にあったか大和国高市郡曽我にあったか定かではない。図Z122に見られるように、武内宿禰の本拠地は葛城の葛上郡とすると、その息子の氏族、葛城氏・平群氏・蘇我氏・羽田氏・巨勢氏は、武内宿禰の葛上郡を取り囲むようにあり、武内宿禰が息子の姻戚関係から勢力範囲を拡大したようにも見受けられる。なお、蘇我氏の本拠地が河内国石川郡(南河内郡・富田林一部)の地であっても、葛上郡からは二上山の南にある竹内峠、あるいは葛城山の南にある水越峠を通ると近く、武内宿禰の葛上郡を取り囲む位置にある。

蘇我氏の本拠地が河内国石川郡であるか、それとも大和国高市郡曽我であったかを文献史料から結論を導き出すことは困難なので、視点を変えて検討した。大和川は、水源を笠置山地に発して初瀬川渓谷を下り、奈良盆地周辺の山地より南流する4支流、北流する4支流を合わせて西に流れ、大阪府と奈良県の府県境にある亀の瀬狭窄部を経て河内平野に入っている。この亀の瀬の現在の標高は40m程度で、奈良盆地の最も低い斑鳩町近辺と同じである。亀の瀬は奈良湖の扇の要であり、標高によって奈良盆地には奈良湖(大和湖)が出来ている。

Z123.古代奈良湖.png縄文期6000年前頃の奈良湖の水面は標高約70㍍と推定され、弥生期2500年前頃には標高50㍍ほどになり、湖岸に弥生文化が発達したとみられている。図Z123は、ホームページ「古代で遊ぼ」に掲載されている奈良湖推定図である。国土交通省近畿整備局の大和川地形図と比較すると、紺色は標高40m以下、青色は50m以下、水色は60m以下であることがわかる。黒色の家形は縄文遺跡、白色の家形は弥生遺跡、黄色の丸・四角は古墳である。国土地理院・5万分の1集成図「奈良」によると、文奈良盆地は奈良時代までには、紺色の部分を除いて陸地化されていた模様である。しかし、奈良湖の扇の要である亀の瀬(図Z123の大和川川床開削)は日本有数の地すべり地帯で、「地すべり面」が大和川の河床の下に広がる特殊な地形で、現在でも国土交通省により大規模な地すべり対策工事がなされている。もし、この地で次で大規模場な地すべりが発生した場合、大和川の流れを堰き止めて、奈良盆地が古代のように水で浸されることになる。奈良盆地が陸化された後も、亀の瀬は「畏(かしこ)の坂」として万葉集にも登場するほど、地すべりで恐れられてきた。

図Z123で奈良湖の中央にある島の山古墳は、標高50mの地にある。島の山古墳からは円筒埴輪Ⅲ型(370-409)、二重口縁壷(290-389)、車輪石・鍬形石(300-399)、馬具(390- )が出土し、古墳年代は385~395年に比定している。島の山古墳の西にある河合大塚山古墳は標高43mにあり、円筒埴輪Ⅳ型(400-479)の存在から築造年代は400~479年である。一概には言えないが、奈良盆地は5世紀の初めには標高40m以上は陸地化していたのであろう。ただ、島の山古墳の名のごとく、亀の瀬の地すべりにより、標高50m程度までは水没することもあったのではないかと想像する。因みに、最も古い前方後円墳である桜井市纏向にある箸墓古墳(260~289年)は標高72mにある。奈良盆地にあって、標高が低くかつ古い古墳と言えば広陵町大塚にある新山古墳(320~339年)で標高60mにある。新山古墳からは円筒埴輪Ⅰ型(280-339)や三角縁神獣鏡などが出土している。

奈良盆地の標高60m以下の地は、陸地化されたのが4世紀程度と考えられ、川筋も定まっておらず洪水に見まわれることが多く、天皇の宮、氏族の邸宅には適さない土地であった。崇神天皇から崇峻天皇の古墳時代(251~592年)において、図Z123の水色(標高60m以下)の地域に天皇の宮が置かれたことはない。最も標高の低い場所に建てられた宮は、安閑天皇(534~535年)の勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で奈良県橿原市曲川町にあったとされている。図Z123で、勾金橋宮(赤丸)の北東に接する中曽司遺跡は宗我都比古神社(標高57m)を中心に、東西200m、南北300mに広がる遺跡で弥生時代前・中・後期をはじめ古墳時代前期までの遺構である。この地域が蘇我氏の本拠地とされる大和国高市郡曽我の地であり、これらの地域は蘇我稲目の時代に開発された地域だと考える。5世紀初め、蘇我石川宿禰の時代に蘇我氏の本拠地は、河内国石川郡にあり、6世紀中頃、蘇我稲目の時代に大和国高市郡曽我の地に進出したと考える。