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54-9.出雲出土の大刀銘「額田部臣」を解く [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

Z93.額田寺伽藍並条里図.png

奈良県大和郡山市額田部寺町にある額安寺(額田寺)には、奈良時代の伽藍や寺領の景観を描いた、「大和国額田寺伽藍並条里図」が伝わっており、現在国宝となっている。額田寺はこの地域を本拠地とした額田部氏の氏寺であった。「伽藍並条里図」本図には多くの墓が描かれてあり、「船墓 額田部宿祢先祖」と注記されているものもある。「舟墓」の絵は明らかに前方後円墳の形をしており、額田部町北町に舟墓古墳として現存している。「伽藍並条里図」には、額田部町南町にある額田部狐塚古墳も描かれている。この古墳からは、画文帯二神二獣鏡・馬具・挂甲・銀環・須恵器が出土し、古墳後期・6世紀中頃の古墳とされている。朝顔形埴輪の型式がⅣ式であること、横穴式石室ではないことから6世紀中頃と比定するのには違和感を覚え、古墳年代比定のシステムを使って年代を調べた。すると額田部狐塚古墳は、
朝顔形埴輪Ⅳ式(400~479
)と銀環(370~399,470~
の組合せにより、古墳年代は460~479年と出た。

平安時代初期(弘仁
年:815年)に編纂された『新撰姓氏録』には、大和国の額田部河田連の記事には、「允恭天皇の御世。額田馬を献ずる。天皇は『この馬の額(ひたい)は田町の如し』とおおせになり、よって額田連の姓を賜る也」とある。同様の話が左京の額田部湯坐(ゆえ)連の記事にも、「允恭天皇の御世。薩摩国に遣わされ、隼人を平らぐ。復奏の日に御馬一匹を献ずる。額(ひたい)に町形の廻毛あり。天皇これを嘉こび、額田部の姓を賜る也。」とある。額田部河田連の記事は「額田連」、額田部湯坐連の記事は「額田部」、両方合わせれば「額田部連」である。允恭天皇は443年と451年に宋に貢献した倭王済に比定される天皇である。「縮900年表」によれば、允恭天皇の治政は442年から460年である。これらより、額田部狐塚古墳(460~479年)の被葬者は、允恭天皇から額田部連の姓を賜った、額田部河田連の先祖ではないかと考える。

『日本書紀』神代には「天津彦根は額田部等の遠祖なり。」と額田部氏の名が出てくる。確かに『新撰姓氏録』の額田部河田連・額田部湯坐連の先祖は天津彦根となっている。一方、応神天皇の御子に額田大中彦皇子がいる。額田大中彦皇子は仁徳天皇と異母兄弟で、それも母が姉妹という血の濃いい関係にある。額田大中彦皇子と額田部氏とは、繋がりがあるように思える。仁徳7年の記事に「大兄去来穂別皇子(長子:履中天皇)の為に壬生部を定める。」とある。壬生部とは氏族の名でなく、皇子女の養育のために置かれた部の総称であり、額田部は額田大中彦皇子の養育のために置かれた部と考える。額田部湯坐連の「湯坐
(ゆえ)」には、貴人の養育者との意味もあることからも、それ額田部氏が皇子の養育をしたことが伺える。『新撰姓氏録』にある、允恭天皇から額田部連の姓を賜った話は、額田部の長が氏族として認められ、額田部のウジと連のカバネを賜った話であり、馬の額が田の字の廻毛があったというのは作り話であろう。

『日本書紀』推古前紀には「豊御食炊屋姫
(推古)天皇は、天國排開廣庭(欽明)天皇の皇女で、橘豊日(用明)天皇と同母妹である。幼少の頃は額田部皇女と申し上げた。御年十八の時に、敏達天皇の皇后となられた。」とある。推古天皇の養育、あるいは養育費用を額田部氏が担ったと考えられる。

Z94.岡田山1号墳.png松江市大草町に島根県立の八雲立つ風土記の丘資料館がある。風土記の丘には7基の古墳があり、一番大きな岡田山1号墳は、横穴式石室のある墳長24mの前方後方墳である。石室内にあった家形石棺からは「長宜子孫」の銘を有する内行花文鏡・環頭大刀・円頭大刀・圭頭大刀・銀環・金銅丸玉・轡・鞍金具・雲珠・辻金具・鈴・須恵器などが出土し、6世紀後半の古墳と考えられている。1983年に円頭大刀の保存処理を依頼されていた奈良市の元興寺文化財研究所が刀身部をX線調査したところ、「各田卩臣」(額田部臣)を含む12文字が
銀象嵌されていることが判明した。

『出雲風土記』大原郡の条の署名欄に「少領
外従八位上 額田部臣」との記載がある。『出雲風土記』は天平5年(733年)に編纂されており、当時岡田山1号墳のある八雲立つ風土記の丘の地域は意宇郡の領域であり、大原郡と接していた。これらからして、岡田山1号墳の円頭大刀に銀象嵌銘にある「額田部臣」は、6世紀後半には出雲在地の豪族であったことが分る。『日本書紀』敏達紀には、敏達天皇4年に皇后の広姫が薨かり、5年に額田部皇女を皇后に迎え、6年に私部を置いている。私部(きさいちべ)は后妃のために置かれた部であり、后妃の名を冠している。敏達6年(577年)に皇后額田部皇女のために、出雲に私部として額田部が置かれたとするならば、岡田山1号墳の鉄剣銘・『出雲風土記』・『日本書紀』が一致してくる。

表Z95に、『日本書紀』の額田部に関係する記述(白色)、氏姓・部の制度に関する記述(黄色)、『新撰姓氏録』の記述(水色)、考古史料(緑色)を年代順に列記した。『日本書紀』の西暦は「縮900年表」で示している。『日本書紀』の記述は、『新撰姓氏録』、『出雲風土記』、岡田山1号墳の鉄剣銘、大和国額田寺伽藍並条里図と何ら矛盾がないことが分る。額田部連の成り立ちが允恭紀(442~460年)であるとすると、表Z90に見られるように、「連」の姓が允恭紀以前から存在することからして納得できることである。


Z95.額田部の記述.png


55-1.ヤマト王権の中枢を担った武内宿禰 [55.武内宿禰は実在した]

応神天皇以前のヤマト王権(古墳時代前期、3世紀中頃から4世紀末)は大和国を盟主国とする連合国家であり、仁徳天皇の時代になって大王(天皇)を頂点とする統一国家が誕生した。それを私は大和王権(古墳時代中期以降、5世紀以降)と表現している。大和王権の中枢で執政を担ったのが、大化の改新前代は大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)であった。表Z96に、『日本書紀』に記載されている大臣大連の人物名を示した。黄色は天皇が即位したとき、「為大臣」「為大連」と正式に任命を受けたものであり、(氏名)は任命を受けてないが大臣大連と称されている人物で、[氏名]は大臣大連の地位ではないが国政に携わったが人物である。大臣大連は大王(天皇)を補佐して政務に携わる役職であるが、大臣は姓(かばね)が臣(おみ)である氏族から選ばれ、大連は姓が連(むらじ)である氏族から選ばれている。

Z96.大臣・大連.png


『日本書紀』で「大臣」の文字が登場する初見は、成務天皇3年の記事で「武内宿禰を大臣と為す。」とある。しかし、それ以前の景行51年には「武
宿禰に命じて、棟梁之臣と為す。」とある。「棟梁之臣」とは、棟木と梁のように重圧に耐える臣、すなわち大臣のことであり、武内宿禰は景行天皇の時代から「大臣」に相当する役職に付いていた。『日本書紀』の文章は時代考証されていないので、成務朝に「大臣」と名付けた役職が存在したとは言えないが、「大臣」に相当する役職があったと考える。しかし、武内宿禰宿は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕えた人物であるが、『日本書紀』の通りに計算すると武内宿禰の年齢が265歳余りになり、伝説上の人物として考えられている。「縮900年表」で計算してみても、113歳余りとなり実在の可能性が無いといえる。

『日本書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれて、武内宿禰に問われた。武内宿禰は『わが大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、倭の国では雁が産卵することは、私は聞いておりません。』と歌を返した。」とある。

この歌謡は万葉仮名で書かれており、天皇が詠まれた歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞である。「阿曾」が「朝臣」を示す用例は、万葉集に3首ある。「池田乃阿曽(池田の朝臣)」(
16/3841)、「穂積乃阿曽(穂積の朝臣)」(16/3842)、「平群乃阿曽(平群の朝臣)」(16/3843)である。

『日本書紀』で「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『日本書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、『日本書紀』に挿入されている歌謡は伝承そのものであり、万葉仮名で書かれているのもそのためである。そのため、歌謡には『日本書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は、八色姓で朝臣の姓が出来た以後に作られたことがわかる。仁徳50年(413年)に茨田堤に雁が子を産んだことは史実であろうが、「たまきはる 内の朝臣」で始まる歌謡は、その時に詠われた歌ではないとすることが出来る。武内宿禰が実在したとすれば、その年齢は引き延ばされている。


55-2.武内宿禰は実在し、誕生は302年 [55.武内宿禰は実在した]

仁徳紀で武内宿禰の名前が出てくるのは、仁徳元年と仁徳50年である。仁徳50年の「たまきはる 内の朝臣」で始まる歌は、「朝臣」という言葉より、八色姓で朝臣の姓が出来た以後に作られたことがわかり、仁徳50年まで、武内宿禰の年齢が引き延ばされていることが分る。仁徳元年(381年)の記事は、「応神天皇の御子(仁徳天皇)が生まれたとき産殿に木菟(ミミズク)が入ってきた。同じ日に生まれた武内宿禰の子の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が入ってきた。これは吉兆の印なので、鳥の名を相互に交換して子供の名としようと、応神天皇が仰せられた。太子は大鷦鷯(おおさざき)皇子、大臣の子は木菟(つく)宿禰と名付けられた。木菟宿禰は平群臣の始祖である。」とある。この話は応神天皇の時代の話であり、仁徳天皇の時代に武内宿禰が生存していたとは言えない。


応神紀で武
宿禰の名前が出てくる最後の記事は、応神9年(362年)の武宿禰に謀反の嫌疑がかけられた記事である。武宿禰を筑紫に遣わして百姓(人民)を監察させた。その時、武宿禰の弟の甘美宿禰が兄を廃しようとして、天皇に「武宿禰は常に天下望む野心があります。今筑紫において、筑紫を割いて、三韓を招き、自分に従わせれば、天下が取れると密に謀っていると讒言した。そこで天皇はただちに使いを遣わして、武宿禰を殺すことを命じた。その時、武内宿禰に容姿が似ていた壹伎直の祖の眞根子が身代わりとなって自決した。武宿禰は筑紫を脱出し、朝廷に参上して罪の無いことを弁明した。天皇は武宿禰と甘美宿禰とを対決させて問われたが、決着がつかなかった。天皇の勅命により、探湯が行われて武宿禰が勝った。武宿禰は甘美宿禰を殺そうとしたが、天皇の勅命で許され、紀伊直等の先祖に賜ったとある。武宿禰が362年には生存していたことは確かである。

神功皇后46年から65年までの記事は、百済の肖古王・貴須王・枕流王・辰斯王が登場しており、
『日本書紀』の編年を干支2廻り、120年下らせば、正規の編年になることが分っている。この間に武内宿禰の名が出てくるのは神功47年(367年)と神功51年(371年)で、両者とも応神天皇の時代のことになる。ちなみに、神功52年(372年)には百済の肖古王から七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝が献上されている。

371年に武内宿禰が生存していたとして、武内宿禰の年齢を計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、景行天皇の即位の2年前である。成務天皇の母の八坂入姫は景行4年(307年)に妃とされたと記載されており、成務天皇の誕生と矛盾しているが、即位前に妃としていたのを、
『日本書紀』の述作者が、皇后を娶った後に妃を召されたように書いたのであろう。武内宿禰の誕生が302年とすれば、371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。武内宿禰は302年に誕生し、325年(景行52年)に24歳で棟梁之臣となって以降、大臣として景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕え活躍した。

歴史上の人物で、肖像として一番長く使われた紙幣は武内宿禰で、1889年(明治22年)5月1日から1958年(昭和33年)10月1日まで発行され、法律上は現在も使用できる。武内宿禰はお札の中で128年以上も生きている。

 A100-2.武内宿禰紙幣.png


55-3.武内宿禰七人の息子の検証 [55.武内宿禰は実在した]

武内宿禰の宿禰が実在し、その誕生は302年であった。大臣として景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕えて活躍した。武内宿禰の子供については、『日本書紀』には平群木菟宿禰のみの記載しかないが、『古事記』には「建宿禰の子は、男七人・女二人の九名。波多八代宿禰、次に許勢小柄宿禰、次に蘇賀石河宿禰、次に平群都久宿禰者、次に木角宿禰、次に久米能摩伊刀比賣、次に怒能伊呂比賣、次に葛城長江曾都毘古、又若子宿禰。」とある。『新撰姓氏録』には、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65の氏族があり、全体の5.5%を占めている。

『古事記』の武内宿禰の息子達の記事が正しいか「縮900年表」でもって検証してみる。その手掛かりは、男性に子供が生まれる時の年齢は18歳から53歳まで、孫が生まれる時の年齢は38歳から100歳まで、職務に携わる年齢は、国政を担うのは23歳から63歳まで、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳まで、女性が皇后・妃となるのは18歳か30歳までと仮定した。『日本書紀』に記載された年号は、最後部に示している
「縮900年表による日本書紀年号の西暦変換表」(表Z83)により西暦に変換している。

Z97.武内宿禰息子.png『古事記』で武内宿禰の息子としてある七人のうち、『日本書紀』に登場するのは、羽田矢代宿禰(波多八代宿禰)、石川宿禰(蘇賀石河宿禰)、平群木菟宿禰(平群都久宿禰者)、紀角宿禰(木角宿禰)、葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)の五人である。この五人が『日本書紀』に登場する年代を表 Z97に示す。〇は本人の活躍を示し、*は名前のみの記載を示す。応神3年の記事には「百濟の辰斯王が立って、貴国の天皇に対して礼を失した。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰を遣わして、その礼のないことを叱責した。それによって、百濟国は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花を王に立て帰国した。」とある。五人のうち四人が392年(応神3年)に百済に派遣されている。

『三国史記』百済本紀の392年には、「辰斯王は狗原で田猟していたが十日経っても帰ってこなかった。王が狗原の行宮で薨去した。辰斯王が薨去したので阿華王(阿花王)が即位した。」とある。応神3年は『日本書紀』の編年では272年になるが、干支2廻り120年戻すと392年となり、『日本書紀』の記事と『三国史記』の記事が一致する。二つの記事を合わせれば、辰斯王は狗原で殺害されたことが読み取れる。紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の四人が、392年に百済に派遣された時の年齢を23歳から57歳として誕生の年を求め、そのとき武内宿禰(誕生302年)が何歳であるかを表98に示した。表Z98からは、四人が百済に派遣された時の年齢が40歳以上であれば、武内宿禰の息子であると言えることが読み取れる。

Z98.百済派遣4人.png葛城襲津彦は、351年(神功5年)に新羅に派遣されている。『日本書紀』神功5年の記事は、「新羅王(波沙寐錦)は三人の使者を遣わして朝貢して来た。そして、人質の微叱許智旱岐の一時帰国を願い出た。神功皇后はそれを許し葛城襲津彦を付き添わせ遣わした。新羅の使者は対馬で襲津彦を欺き、微叱許智を奪還して、配していた船で新羅に逃れさせた。襲津彦は新羅に行き蹈鞴津(多大浦)に泊り、草羅城を攻め落として帰還した。この時の捕虜は桑原・佐糜・高宮・忍海などの四っの邑の漢人らの始祖である。」とある。

『日本書紀』は、仲哀9年(346年)に神功皇后が攻め込んだ新羅の王の名を「波沙寐錦」と書いている。「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも永楽十年
(400年)の記事に「新羅寐錦」の刻字があったが、日中韓の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。日本書紀は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅征伐が史実であった証拠であると考える。それゆえ、神功5年(351年)の記事も史実であると考える

武内宿禰の六男である
葛城襲津彦が351年に23歳で新羅に派遣されたとすると、兄の紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰の四人が百済に派遣された392年には、葛城襲津彦は64歳である。当然、兄の四人も64歳以上となる。そうなると、四人と武内宿禰の親子関係は成り立つが、百済・加羅・新羅に派遣されるのは57歳までとする仮定に反する。もちろん例外はあるだろうが、四人全員となると『古事記』の記述を疑いたくなる。羽田矢代宿禰・石川宿禰・平群木菟宿禰・紀角宿禰・葛城襲津彦が、武内宿禰の息子ならば兄弟関係(長男から七男)の順序が違うとか、五人の中には武内宿禰の息子でなく孫が入っているとか、『古事記』の記述に間違いがあるのであろう。

Z83.縮年表西暦変換表.png

 


55-4.武内宿禰の息子、平群木菟宿禰の検証 [55.武内宿禰は実在した]

『日本書紀』では武内宿禰の子供については、平群木菟宿禰のみの記載しかない。仁徳元年(381年)の記事には、「応神天皇の御子(仁徳天皇)が生まれたとき産殿に木菟(ミミズク)が入ってきた。同じ日に生まれた武内宿禰の子の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が入ってきた。これは吉兆の印なので、鳥の名を相互に交換して子供の名としようと、応神天皇が仰せられた。太子は大鷦鷯(おおさざき)皇子、大臣の子は木菟(つく)宿禰と名付けられた。木菟宿禰は平群臣の始祖である。」とあり、この記事より平群木菟宿禰は武内宿禰の息子で、仁徳天皇と同じ日に誕生したことが分る。

Z99.群木菟宿禰検証.png応神13年(366年)に応神天皇は、お召しになろうとしていた髪長媛に、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が恋心を抱いていることを知り、二人を結婚させようと考えられた。天皇は二人を宴に招き歌を詠って、その意向を伝えた。大鷦鷯皇子は髪長媛を賜ることが出来ることを喜び、「天皇のお心づかいを知らないで、もう二人は同衾していました」と返歌を奉っている。この年の大鷦鷯皇子の年齢を20歳頃だと考える。仁徳天皇の誕生は347年となる。これだと仁徳天皇は431年に85歳で崩御した事になり辻褄は合っている。平群木菟宿禰の誕生は、仁徳天皇と同じ347年で、武内宿禰(誕生302年)が46歳のときの子供となり、『日本書紀』が記載している、武内宿禰と平群木菟宿禰の親子関係が成り立つ。これらを表Z99に示した。

応神16年(369年)に、平群木菟宿禰は的戸田宿禰と共に加羅に遣わされて、新羅の王から百済の弓月君の人夫と、その奪還のため加羅に遣わされ3年間帰国していなかった葛城襲津彦を連れ戻している。この時の平群木菟宿禰の年齢は、誕生の年347年から計算すると23歳であり、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳までの仮定は満足している。しかしながら、履中2年(433年)には、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執っている。この時の平群木菟宿禰の年齢は87歳で、国政を執る年齢ではない。平群木菟宿禰の誕生の347年が怪しくなる。

鳥Z100.平群眞.png平群木菟宿禰の息子とされている平群眞鳥は、雄略天皇の元年(464年)と清寧天皇の元年(487年)に大臣に任命され、仁賢11年(505年)に仁賢天皇が崩御された年、平群眞鳥大臣は国政を専らにしたとして大伴金村に討たれている。平群眞鳥は仁賢元年にも大臣に就任していたのであろう。雄略天皇元年に平群眞鳥が大臣になった時の年齢を基にして、清寧元年・仁賢元年の大臣就任の年齢を計算して表Z100にまとめた。これらからすると、平群眞鳥が始めて大臣になった464年は23歳から30歳であり、平群眞鳥の誕生は435年から442年であったと考えられる。平群木菟宿禰の誕生は仁徳天皇と同じ347年とすると、平群眞鳥が誕生のとき、平群木菟宿禰の年齢は89歳から96歳となり、平群木菟宿禰と平群眞鳥の親子関係はあり得ないことになる。

Z101.平群眞鳥は孫.png履中2年(433年)の記事に出てくる国政を執った平群木菟宿禰は、平群木菟宿禰の息子木菟息子宿禰と表記)と考えると、平群木菟宿禰と木菟息子宿禰の親子関係と、木菟息子宿禰と平群眞鳥の親子関係は成り立つであろうか。433年に国政を執った菟息子宿禰の年齢を基にして、菟息子宿禰の誕生の年を求めた。そして菟息子宿禰の誕生の年の平群木菟宿禰(誕生347年)の年齢と、平群眞鳥の誕生の年の菟息子宿禰の年齢を求め表Z101に表した。すると、菟息子宿禰の誕生が394年から399年であれば、平群木菟宿禰と木菟息子宿禰、木菟息子宿禰と平群眞鳥の親子関係は成り立つことが分った。

平群氏の系譜(誕生年:父親の年齢)は、武内宿禰(誕生302年)→平群木菟宿禰(347年:46歳)→
木菟息子宿禰(394~399年:48~53歳)→平群眞鳥(435~442年:37~49歳)になる。平群木菟宿禰は369年(応神16年)に23歳で加羅へ遣わされ、木菟息子宿禰は433年(履中2年)に35歳から40歳で国政を担い、平群眞鳥は464年(雄略元年)に23~30歳で初めて大臣となり、487年(清寧元年)に46~53歳で大臣に再任され、顕宗天皇・仁賢天皇とも大臣を務めたが、505年(仁賢11年)の64~71歳のとき、大伴金村に討たれた。平群木菟宿禰と平群眞鳥の間に1世代あると仮定すると、平群氏に関して、『日本書紀』と「縮900年表」は一致する。平群木菟宿禰は武内宿禰が46歳のときに生まれた息子である。

これまでに、武内宿禰と同じ日に生まれた成務天皇、平群木菟宿禰と同じ日に生まれた仁徳天皇の誕生の年を定めることが出来た。そこで、崇神天皇から履中天皇までの誕生の年を『日本書紀』と「縮900年表」から求めた。崇神天皇の誕生の年は、「50
-4.13歳の女王・壱与は崇神天皇」で説明したように、魏志倭人伝より正始8年(247年)頃に卑弥呼が亡くなり、その数年後に13歳の壱与(崇神天皇)が女王となっていることから定めた。景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・履中天皇については、各天皇の即位前紀に皇太子になった年と、その時の年齢が記載してあり、「縮900年表」に照らし合わせれば、誕生の年を決めることが出来る。仁徳天皇についてこの節の初めに書いた通り、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が応神天皇より髪長媛を賜った年を20歳として計算した。なお、垂仁天皇については母親・崇神天皇の年齢を考慮して定めた。なお、垂仁前紀には皇太子になった年と、その時の年齢が記載してあるが、これは採用しなかった。応神天皇については、仲哀天皇の年齢を考慮して定めた。したがって、神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を身ごもったまま新羅征伐をしたというのは、新羅征伐は史実であるが、「誉田別皇子を身ごもったまま」というのは作られた説話である。この時代、天皇の継承は崩御されてから行われている。前代の天皇が長生きされた場合、次の天皇が即位される時には年配となっている。『日本書紀』は皇后を娶った年を即位後に記載しているが、それは皇后になった年であり、それ以前に皇子は生まれている。Z102に示すように、「縮900年表」は天皇の誕生の年においても、齟齬が興らないよう定めることが出来た。
Z102.天皇誕生年.png