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54-1.天皇からカバネとウジを賜った [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

応神天皇以前のヤマト王権は大和国を盟主国とする連合国家であり、仁徳天皇の時代になって君主(天皇)を頂点とする統一国家が誕生した。律令国家誕生までの間を、私は大和王権と表現している。大和王権の政治体制は「氏(ウジ)(カバネ)制度」である。ウジとカバネの名称については、『日本書紀』の記述に負う所が多いにも関わらず、歴史学者は書紀には後世の潤色・加筆の可能性があるとして、史料としては使えないという態度を取っている。私は、書紀は時代考証をしていないため、後世の用語を用いる潤色があり、物語化するための加筆があるとは思うが、その根底には史実が書かれてあると信じている。ウジとカバネの問題についても、『日本書紀』の記述の中に史実を見つけてみたい。

Z80.カバネ付のウジ.png(カバネ)に関する書紀の記述を調べてみると、「賜姓」・「賜本姓」・「改本姓」の言葉が多く使われていることが分る。それらを表Z80にまとめた。表の「賜前」は天皇から「姓」を賜った人物・氏族の名前であり、「賜後」は賜った「姓」の名称である。賜った「姓」が氏族の名称である場合には「セイ」に丸を付け、賜った「姓」が地位や職掌(担う役目)である場合には「カバネ」に丸を付けている。表Z80を見ると大化改新前代(孝徳天皇より前)は、「姓」は「セイ」と「カバネ」の両方が多く、天皇からカバネ付のウジの称号を賜っており、天武天皇以後は、「姓」は「カバネ」だけであり、天皇から氏族が新たなカバネの称号を賜っていることが分る。

Z81.八色姓.png『日本書紀』天武13年(684年)の記事には、「諸氏の姓を改めて八色姓を作り、天下のすべての姓を一体とする。第一は真人、第二は朝臣、第三は宿禰、第四は忌寸、第五は道師、第六は臣、第七は連、第八は稲置」とある。これが八色姓(やくさのかばね)の詔である。この八色姓が制定されたとき、13の氏族が真人のカバネを賜り、52の氏族が朝臣を賜り、50の氏族が宿禰を賜り、11の氏族が忌寸を賜っている。その前年には52の氏族が連を賜っている。これら八色姓を賜った178氏族の元のカバネ(旧姓)が何であったのかということを調べたのが表Z81である。680年[天武10年]に飛鳥浄御原令の選定を開始したことからして、八色姓の制度も新しい律令国家体制を造る政策の一環であったのであろう。八色姓の詔が史実とするならば、八色姓の詔に出てくる旧姓の公・君・臣・連・直・首・造・史・吉士・縣主の10カバネは、天武朝以前に存在していたことは確かである。

Z82.ウジの本拠地.png『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男)では、「6世紀の倭王権の中枢部を構成したのは、臣と連のカバネをもつウジであったが、両者は対照的な性格を持っていた。前者(臣)は蘇我・和珥・平群・巨勢・波多・安倍の諸氏のように、本拠地のヤマトの地名をウジ名とする氏族が主体を占めている。その多くはもともと倭王権の同盟の構成メンバーであったと見られている。後者(連)としては大伴・物部・中臣・土師などのウジが主要なものであるが、これらのウジの呼称は、おおむね諸氏の王権における職務によっている。大伴氏は「トモ(伴)の大なるもの」という意味で、一般の伴造やトモを総括する地位にあったことから呼ばれ、物部氏は、モノノフ(武人)・モノノグ(武器)に由来するとみられ、王権の軍事を担当するところから生まれた呼称で、中臣氏は「神と人の中(仲)をとりもつ臣」の意味で、職掌である祭祀に由来する。土師氏はハニシ、本来埴土(はにつち)をつかった埴輪作りの技術者で、そこからさらに喪礼や陵墓の管理にも携わるようになったウジである。これらの連姓氏族は、はやくから大王家に臣属し、大王の手足となって職務を遂行してきた氏族と考えられる。」と記載し、図Z82を掲げている。

『大王から天皇へ』ではウジの誕生を6世紀前半としている。また、氏姓制度の成立は6世紀からと言うのが通説である。6世紀の前半といえば、書紀の編年からすると継体天皇の時代からということになる。私は書紀に記載された「賜姓」や「改本姓」の用語が使われた記述は、史実が書かれていると考えている。表Z80をみると、ウジやカバネは継体天皇より前の時代から存在したように思える。これらについて史実を探してみたい。なお、『日本書紀』に記載された年号は全て、表Z83に示す「縮900年表」により、西暦に変換している。なお、宣化天皇以降については、『日本書紀』の編年も、「縮900年表」の編年も同じである。

Z83.縮年表西暦変換表.png

 


54-2.氏姓制度は雄略天皇の時代に出来上がった [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

ヤマト王権(応神天皇以前)は連合国家であり、大和王権(仁徳天皇以後)は君主(天皇)を頂点とする統一国家である。倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制は「氏制度」である。氏姓制度と言っても「ウジとカバネ」制度と「ウジのカバネ」制度とは大きく違う。後者は天武13年の八色姓(やくさのかばね)の詔であり、既に存在していた「ウジのカバネ」について、新たなカバネを設け身分秩序を再構築したものであった。前者の「ウジとカバネ」がどのように成立してきたかを明らかにしてみたい。

天武13年(684年)の八色姓制度で第一位の真人の旧姓は公(13氏族)である。公のカバネを持つ氏族の多くは、継体天皇と宣化天皇の皇子の後裔である。第二位の朝臣の旧姓は君(11)・臣(39)・連(2)、第三位の宿禰の旧姓は臣(1)・連(49)であった。倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制で上位のカバネと目されていた君・臣・連のカバネをもった氏族の内、『日本書紀』の欽明朝以前にウジ・カバネを冠した氏族について表84に示した。緑色の氏族は八色姓で朝臣を賜った氏族、青色は宿禰を賜った氏族である。●は「ウジ+カバネ+名前」、■は「ウジ+カバネ」、
は「名前+カバネ」、は「ウジ」のみが記載されたものである。はその氏族の先祖(遠祖・始祖・祖)が記載されている天皇紀で、はその氏族の先祖が確認できる天皇紀を示している。なお、君・臣・連のカバネを持つ氏族であっても、『日本書紀』に一代の天皇紀にしか記載のない氏族は省いている。

Z84.ウジ・カバネと氏族.png


『日本書紀』允恭4年(447年)の記事には、「上古の治政では姓名の錯はなかった。即位から4年になるが、上下相争って人民は安穏でない。あるいは
誤って自分の姓を失い、あるいは高い氏を自認している。治政の治まらないのはこのためである。どうして、この錯をたださずにいられようか。」、「群卿・百官および諸国の国造たち皆それぞれ、あるいは帝皇の裔だとか、あるいは天降の裔と言う。永い歳月を経て、一氏が繁栄して万姓となり、その真偽を確かめるのは困難である。諸々の氏姓の人どもは、沐浴斎戒して盟神探湯をせよ。」、「諸人はそれぞれ木綿のたすき着けて、釜に赴いて探湯をした。真実であるものは何事もなく、真実でないものは皆傷ついた。これによって、故意に錯の者はおじ気づいて進むことが出来なかった。これ以後、氏姓は自然に定まって、詐(偽)る人はなくなった。」とある。

天武13年の八色姓の制度より前の天皇紀に記載された「賜姓」や「改本姓」を見ると、「姓」とはウジとカバネの合わさったものであり、「姓」を「氏姓」と解釈して読む。「錯」と「詐」は同じで「偽り」と読んだ。黄色の部分の原文は「誤失己姓」で「誤失己姓」として「誤って自分の姓を失う」と多くの解説書が現代語訳しているが、これでは探湯
(くかたち)を行った真意が通じない。私は「誤己姓」として「自分の姓の誤りを失う」、すなわち「自分の姓が間違っているのが分からなくなる」と解釈した。

允恭天皇より以前について見ると、「ウジとカバネ」を持たない先祖が居たことを表す
の記号が多いことが目立つ。しかし、「ウジとカバネ」が全く無かったかと言えば、そうでもない。「連」のカバネを持つ氏族は、垂仁天皇以後「ウジとカバネ」を持っている。「臣」のカバネを持つ氏族は、伝説上の人物とされる武内宿禰と膳臣を別にすると、「ウジ」を持つが「カバネ」は持っていない。「君」のカバネを持つ氏族は、諸縣君以外は允恭天皇より以前には「ウジとカバネ」は無い。

表84を見ると、允恭天皇以後、特に雄略天皇以後は●と■がほとんどを占めている。また、雄略紀には臣・連・伴造・国造の用語が出てくる。伴造
(とものみやつこ)の用語が出てくるのは雄略紀が初めてである。これは雄略天皇の時代に、有力豪族に「ウジとカバネ」の称号を与える氏姓制度が出来上がっていたことを示している。雄略朝の年代は「縮900年表」によれば464~486年である。氏姓制度の成立は6世紀からというのが通説であるが、氏姓制度の定義にもよるが、氏姓制度は5世紀後半に出来上がっていたと思われる。


54-3.土師氏を知れば臣・連の起源が分かる [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

倭国(ヤマト王権と大和王権)の政治体制で最も重要な役割を果たしたのは、臣(おみ)のカバネをもった蘇我氏・和珥氏・平群氏・巨勢氏と連(むらじ)のカバネを持った大伴氏・物部氏・中臣氏などの氏族である。臣のカバネを持つ氏族が連のカバネを持つことは無く、またその逆もない。しかし、土師(土部)氏は連のカバネを持つ氏族であるが、臣のカバネを持った時代があったのである。土師氏を知ることにより、臣・連の意味する所やその起源が分かると考える。

土師(土部)氏が登場するのは、『日本書紀』垂仁32年の記事である。皇后日葉酢媛が亡くなられたとき、野見宿禰は出雲国の土部を使い、埴輪を造って陵墓に立て、殉死の代りとした。天皇は大そうお喜びになられ、この功績により野見宿禰は土部の職掌に任じられ、本姓を改めて土部臣を賜っている。そして、「これが、土部連らが天皇の喪葬を掌ることになった縁であり、野見宿禰は土部連らの始祖である。」と結んでいる。

そもそも、野見宿禰が書紀に登場するのは、相撲の起源となった垂仁7年の記事である。当麻邑に当麻蹶速という力自慢の者がいて「四方を探しても、私に匹敵する者はいないだろう。」と豪語していた。そこで、出雲国の野見宿禰という勇士と蹶速を取り組ませようということになった。野見宿禰が召し出されて、出雲からやって来て、当麻蹶速と相撲をとった。野見宿禰は彼の腰を踏み折って殺し勝ったので、当麻蹶速の土地を賜った。野見宿禰は、そのまま留まって朝廷にお仕えしたという話である。野見宿禰は出雲国の家臣から、ヤマト王権の臣下へと鞍替えしたのである。

Z82.ウジの本拠地.png野見宿禰が「土部」というウジを賜ったのは、土部の職掌に任じられたからであり、「臣」というカバネを賜ったのは、朝廷に仕える臣下となったからであろう。ヤマト王権時代の「臣」は王権に直接仕えるものに与えられた尊称で、カバネ「臣」の起源となるものと考える。允恭紀以前にウジあるいはウジと臣のカバネを持つ氏族、穂積臣・阿倍臣・葛城臣・平群臣・蘇我臣・膳臣の本拠地は、図Z82に示すように、全て大和国(奈良盆地)にあり、ヤマト王権に直接仕えていたことが分る。

仁徳53年(416年)の記事には、「白鳥陵の陵守どもを土師連らに授けられた。」とある。垂仁32年(291年)の記事と比較すると、ウジが「土部」から「土師」に変わっている。どちらも「はじ」と読んでいるが、本来「はじ」と呼ばれていたのは「土師」で、「はにし」が転訛したのであろう。「土部」は「はにべ」と呼ばれていたと考える。埴輪作りの技術者集団であった土部
(はにべ)氏は、王権における重要な役割である天皇の喪葬を掌り、陵墓の管理にも携わる氏族として、ウジの呼称を土師(はにし)氏と格上げされたと想像する。

ウジの呼称が土部
(はにべ)から土師(はにし)に代わると同時に、カバネも臣から連に代わっている。土師氏の職務からして連のカバネが相応しいが、仁徳天皇の時代には、天皇からカバネ付のウジを賜るシステムはあったが、職位を賜るカバネ制度はなかったと考える。それではどうして、土師氏のカバネは臣から連に代わったのであろうか。『日本書紀』の神代には、土師連の先祖は天照大神の第2子である天穂日命としている。天穂日命は出雲平定のため派遣されるが、大己貴神(大国主命)におもねって高天原に復命しなかった神で、出雲臣の先祖である。出雲国造は代替わりのたびに都に出向いて、天皇の前で「出雲国造 神賀詞」を奏上した。この祝詞の中に「出雲臣達の遠祖天穂日命」と出ている。この儀式は『日本書紀』編纂より前の、霊亀2年(716年)から始まっており、出雲臣の先祖が天穂日命であることは確かであろう。一方、当麻蹶速の相撲の相手として出雲より召し出された野見宿禰が、天照大神の子の天穂日命の末裔となっているのは、まゆつばものである。

允恭4年(447年)の探湯
(くかたち)の記事には、「群卿・百官および諸国の国造たち皆それぞれ、帝皇(天孫)の末裔だとか、あるいは天降りし者(天神)の末裔と言う。・・・その真偽を確かめるのは困難である。諸々の氏姓の人どもは、沐浴斎戒して盟神探湯をせよ。」とある。土部氏は始祖の野見宿禰が出雲出身であることから、自ら天穂日命の末裔と名乗ったのであろう。土部氏が、王権における重要な役割である、天皇の喪葬を掌り、陵墓の管理にも携わる氏族になったことから、その自称が認められたと思える。物部連は天磐船に乗って大和に天降った饒速日命の末裔であり、中臣連は瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に随伴した天児屋命の末裔であり、大伴連もまた天孫降臨に随伴した天忍日命の末裔である。ヤマト王権の時代の「連は、「天神・天孫に連なる」氏族に与えられた尊称で、カバネ「連」の起源になるものと考える。


54-4.野見宿禰は形象埴輪を開発した [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

野見宿禰が殉死の代りとして、人や馬および種々の物の形を造って陵墓に立てたとある、土師氏誕生の話は史実であろうか。垂仁32年は、「縮900年表」では291年にあたる。「51-1.考古学から見た「縮900年表」の信頼性」で示したように、古墳の形態・埋葬施設・副葬品の70項目・102品目の相互関係を調べ、その編年表を作成している。この編年表を適用して、2300基余りの古墳をフルイ別けしたとき、矛盾が生じたのは11基のみであったことから、その絶対年の正確さは別にして、70項目・102品目の相互関係は正確であると自負している。

この編年表では、円筒埴輪・朝顔形埴輪が280年~、形象埴輪の器財埴輪・動物埴輪が290年~、人物・馬埴輪は400年~、と編年している。野見宿禰が埴輪を造って陵墓に立てた年代、291年[垂仁32年]と、人物・馬埴輪の年代は大きく異なるが、形象埴輪の器財埴輪・動物埴輪の登場とは一致する。野見宿禰が種々の物の形の埴輪(形象埴輪)を製作したというのは史実であろうが、殉死の代りとか人や馬の埴輪というのは、書紀が物語化するための加筆であろう。

Z85.形象埴輪.png


埴輪の前段階の特殊器台は260~289年と編年しているが、特殊器台発祥の地は吉備であり、吉備には弥生墳丘墓に特殊器台が備えられている。出雲にある弥生後期の西谷2号・3号・4号四隅突出型墳丘墓からは、吉備の特殊器台が出土している。出雲では山陰型特殊器台が、吉備の特殊器台に引き続き、弥生後期から古墳時代初期まで製作されている。これらからすると、弥生後期から古墳時代初期に出雲に埴輪の前段階の特殊器台を製作する人々がいたことは確かで、野見宿禰が出雲の土部百人を呼んで埴輪を作ったというのも史実と考えられる。

仁徳天皇陵古墳がある堺市の百舌鳥古墳群のある地区には、土師町という地名が現在でも残っており、応神天皇陵古墳のある古市古墳群のある藤井寺市には土師という地名は無いが、土師の里遺跡と命名された、古市古墳群の築造開始と軌を一にして成立した、古墳造りに関わった遺跡がある。垂仁天皇の時代から仁徳天皇の時代にかけては古墳時代の最盛期であり、土師氏はヤマト王権にとっては重要な役目を担っていた氏族であった。なお、土師氏は天武13年の八色姓で宿禰の姓を賜り、土師連から土師宿禰となっている。