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49-5.邪馬台国の女王・卑弥呼は玉依姫 [49.神話の背景には史実がある]

瓊瓊杵尊は吾田国の長屋の笠狭崎で大山祗神の娘吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫を娶り、火闌降命・彦火火出見尊・火明命の三人の子が生まれている。兄の火闌降命は海の幸を得、弟の彦火火出見尊は山の幸を得た。兄弟は幸を取替えたが、兄の火闌降命はもとの幸を取り戻そうと弟に迫った。しかし、弟の彦火火出見尊は兄から受け取った釣針を無くしてしまっていたので困窮した。彦火火出見尊は海神と出会い、失った釣針を得ることが出来た。海神の娘の豊玉姫を娶った彦火火出見尊は、海神の援助を得て兄を降伏させることが出来た。後に豊玉姫は妹の玉依姫を連れてやって来た。豊玉姫は出産の時に体が竜になり、それを見られたのを恥じて海路を帰られた。生まれた子を名付けて鸕鷀草葺不合尊という。

これらの神話は「海彦山彦」の話として、多くのページを割いて書いている。『日本書紀』は、弟の彦火火出見尊に降伏した兄の火闌降命は、吾田君小橋らの先祖、隼人の始祖である
と記載している。薩摩の古称が阿多(吾田)と呼ばれ、薩摩隼人が阿多隼人と呼ばれるように、火闌降命は薩摩国の始祖である。
Z32 免田式土器.jpg「海彦山彦」の争った「幸」を「国」の例えであると考えると説話の意味が理
解できる。海の幸を「日向国(邪馬台国)」、山の幸を「薩摩国(投馬国)」
の例えであると考える。瓊瓊杵尊の子の長男・火闌降
命は薩摩半島に進出し投
馬国を造り、次男の彦火火出見尊は宮崎平野に進出し邪馬台国を造った。投馬
国と邪馬台国は一時期領地争いがあり、「海彦山彦」の話として後世に伝わっ
たと考える。
 

弥生時代後期中頃、熊本平野に免田土器と呼ばれる、祭祀に用いられたと見ら
れる「重弧文長頸壺」の土器が出現している。この免田土器は、鹿児島県北西
部、宮崎県五ヶ瀬川流域(高千穂町)、宮崎県大淀川流域と広がり、最後に熊
本県人吉盆地、鹿児島県大口盆地の山間部で隆盛を極めている。免田土器の分
布図を図Z32に示すが、その分布は投馬国の成立に関わっているようにも見
受けられ、投馬国・邪馬台国、そして狗奴国の領域を明快に分けている。

私は、邪馬台国の女王・卑弥呼の誕生を次のように考えている。倭国大乱の頃、日向の邪馬台国の王は彦火火出見尊であった。妃の豊玉姫は妹の玉依姫を連れて嫁いで来ていた。この玉依姫は年が10歳過ぎであったが神懸かりし、物事を良く当てたので、巫女として彦火火出見尊に仕えていた。その鬼道の噂は邪馬台国ばかりか、倭国の国々にも広がった。戦いに辟易としていた倭国の国々の王から、この巫女を倭国の王にとの声があがった。

そこで、彦火火出見尊は息子の鸕鷀草葺不合尊と玉依姫を結婚させ、邪馬台国の王の座を玉依姫に譲り、玉依姫は共立されて倭国の女王となり、卑弥呼と呼ばれるようになった。鸕鷀草葺不合尊は卑弥呼に会うことが出来た唯一の人であり、飲食を給し、情報を伝えるために居室に出入りした。そして四人の男神が生まれた。彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊である。卑弥呼は人に会う事がなかったので、この秘密は守られた。子供が大きくなると、弟として国を治める事を補佐させた。

魏志倭人伝には、「鬼道に仕え、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿無し。男弟ありて、佐けて国を治む。王となりてより以来、見る有るもの少なし。婢千人を以って自ら侍らしめ、唯男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝えて出入りす。」と卑弥呼について述べている。前述の玉依姫の話は、魏志倭人伝とは「夫婿無し」と言う点で大きく違っているが、史実として在り得ない話ではないと思っている。瓊瓊杵尊が高千穂に落ち延びたのが57年とすると、卑弥呼の登場は200年ころであり、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・鸕鷀草葺不合尊の三代にプラス2~3世代が存在するのであろう。神話は歴史を短絡化している。


50-1.『日本書紀』は歴史を900年延長 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

『日本書紀』の編年によると、神武天皇が大和の橿原の地に建国したのは紀元前660年の辛酉の年である。神武天皇の建国を紀元前660年と古い時代に持ってきたのは、「大和政権の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色ないように脚色されている」というのが通説である。私は歴史を延長した意図は、「始馭天下之天皇(始めて天下を治められた天皇)」と称される神武天皇の即位を釈迦誕生(紀元前624年)以前に、「御肇国天皇(国をお始めになられた天皇)」と称される崇神天皇の即位(紀元前97年)を新羅の建国(紀元前57年)以前とし、そして、神功皇后を魏志倭人伝に記載された女王卑弥呼に見立てるために、歴史を延長したと考える。
Z33 日本書紀の編年と構成.png
私は書紀に書かれた記事は全て、史実が根底にあると信じているが、
表Z33の「年齢」欄のように百歳以上の天皇が10人以上いる事を
信じるわけにはいかない。書紀は意図を持って歴史を延長している。
その歴史の延長がどのようになされているかを知るために、各天皇の
在位年数に対する記事の記載年数比率を求めた。表Z33の「記載比
率」欄に示すように、1代の神武天皇から9代の開化天皇までは20
%以下、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までが60~20%、
20代の安康天皇から40代の持統天皇までが80%以上である。
この三つの区間の間に品質管理でいう、明らかな有意差があると考え
られる。

神武天皇から開化天皇までは歴史が作られた時代である。2代の綏靖天皇から9代の開化天皇までは「欠史8代」と言われるように、創作された天皇と考える。神武天皇は記載比率が8%であるが、日向を出発してから大和の橿原に建国するまでの8年間の記載比率は75%であり、神武天皇は実在した天皇と考える。崇神天皇から允恭天皇までは歴史が延長された時代で、史実の中に歴史を古くみせようとする作為が折り込まれていると考える。そして、安康天皇から持統天皇までは、歴史がそのまま記録された時代である。

『日本書紀』には魏志倭人伝・百済記・百済新撰・百済本記から引用し挿入した記事がある。魏志倭人伝からの挿入記事は、神功皇后を卑弥呼に見立てている。また、神功紀・応神紀にある百済記から引用した百済王の薨去・即位の記事は、干支2廻り120年遡らせて挿入されていることがよく知られている。それに伴い、神功紀・応神紀にある倭国と百済・新羅・高麗・呉との外交記事も引用記事と同様、120年遡らせて挿入していると考える。また、雄略紀・継体紀には、百済新撰より挿入したと思われる百済王の記事がある。

書紀に記載されている記述を全て史実と信じ、編年された年月は延長されたものだと信じない。この相反する考えを解決する解は、記載された記事と記事の間の空白の期間に、歴史を延長している年月があると考える。書紀から前述した挿入記事を取り除き、記載された記事と記事の間の空白の期間が4年以上のものは、歴史を古くみせるために挿入させた空白の期間と考えた。ただ、欠史8代と言われる、2代の綏靖天皇から9代の開化天皇までは創作された天皇であるとして、全てが空白の期間として扱かう。

表Z33の黄色の部分、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇の空白年数を合計すると119年で、干支2廻りとほぼ一致する。『日本書紀』の神功紀・応神紀にある百済記から引用した百済王(肖古王・貴須王・枕流王・辰斯王・阿花王・直支王・久爾辛王)の薨去・即位の記事は、干支2廻り120年遡らせて挿入されている。これらより、書紀は記事と記事の空白の期間で、歴史を延長させていることが明白である。表Z33の「空白年数」欄に見られるように、その合計が驚くことに丁度900年となっている。神武天皇の建国は紀元前660年の辛酉の年、それを900年戻すと、900-660=240、
241年の辛酉の年が神武天皇の建国の年となる。
Z34 私の年表(天皇即位の年).png
私は『日本書紀』の編年より挿入記事を取り除き、その上で4年以上の空白の期間を機械的に取り除き、表Z34に示す天皇の即位年の年表を作成した。この操作は、天皇の即位の年を決めるばかりか、『日本書紀』に書かれた全ての記事を、年表に表すことが出来る。これらの年表は魏志倭人伝・宋書倭国伝の中国史書、石上神社七枝刀・好太王碑・武寧王墓碑の金石文と何ら齟齬することがなかった。『日本書紀』は、後世の用語が使われたり、物語化してあったり、誇張があったり、正悪・強弱が反対に書かれたりしているが、その根底は史実に基づいて書かれた歴史書であると考える。

(表をクリックすると大きくなります。)

Z35 日本書紀新年表.png

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Z35-2 垂仁天皇.png 

 

 

 

 

 

 

Z35-3 景行天皇.png














Z35-4 成務天皇.png





Z35-5 応神天皇.png














Z35-6 仁徳天皇(1).png













Z35-7 仁徳天皇(2).png


















Z5-8 履中天皇.png


















Z35-9 雄略天皇.png














Z35-11 継体天皇.png












Z35-10 清寧天皇.png




 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

50-2.900年縮めた年表と「倭の五王」 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

日本の古代史を明らかにする手掛かりは、二冊の中国の歴史書に求められている。その一冊が「卑弥呼」の登場する『三国志』魏志倭人伝であり、もう一冊が「倭の五王」の登場する『宋書』倭国伝である。『宋書』は513年に没した沈約の撰によるもので、中国の南北朝時代(420~587年)の南朝に起こった宋(420~478年)の史書であり、5世紀に倭国より中国に朝貢した倭国王「讃・珍・済・興・武」、通称「倭の五王」について書いてある。この「倭の五王」については、江戸時代の新井白石・本居宣長に始まって、明治・大正・昭和の学者が「魏志倭人伝」と同様に「宋書倭国伝」の解釈に頭を悩まし続けてきた。私が作成した年表が、「宋書倭国伝」に記載された「倭の五王」に関する記事と、何の矛盾もなく通用するか、私の年表の登竜門であると考える。

私が作成した年表は、『日本書紀』の編年より、機械的に算出したものであるが、ただ1件だけ『宋書』倭国伝と整合性を取るために、恣意的に変更している。それは、允恭天皇即位の年である。機械的な算出では、反正天皇が442年1月に亡くなり、空位が1年あり、444年12月に允恭天皇が即位したことになる。空位の1年は、允恭天皇が病弱であることを理由に即位を拒み続けたためであり、12月の即位は、妃の忍坂大中姫の強い進言で即位を承諾された允恭天皇の気が変わらない内にと、即位の儀式を執り行ったためである。私は、允恭天皇が即位を拒み続けたのは、反正天皇が亡くなった442年1月から12月であったと考え、允恭天皇即位を442年12月とした。

Z-36.倭の五王(新).png私の年表の天皇の即位・崩御年と、宋書倭国伝・帝紀に記載された倭王名の記述がある朝貢年を表Z36に記載した。「讃」は仁徳天皇、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇と比定する。以前は「珍」を履中天皇としていたが、年表作成の仕方の変更で反正天皇となった。宋に初めて朝貢したのは仁徳天皇である。日本書紀を基にした私の年表では、仁徳天皇の時代の呉(宋)との関わりを示す記事は次のようになる。カッコは日本書紀記載の年次で、応神○○年としているのは挿入記事で、書紀記載年より120年戻している。
 421年 仁徳41年(仁徳58年)呉国・高麗国が朝貢してきた
 426年 仁徳46年(応神37年)阿知使主を呉に遣わす
 430年 仁徳50年(応神41年)阿知使主が呉から筑紫に着く

表Z36の宋書倭国伝の讃の朝貢の年、421年・425年・430年の記事と年次はほぼ合っている。面白いことに、『宋書』倭国伝では讃が再々朝貢して来たとなっているが、『日本書紀』では呉の要請に応じ朝貢した形になっている。朝鮮の史書『三国史記』百済記によると、416年東晋の安帝が使者を百済に派遣し、王を冊命して「鎮東将軍・百済王」の称号を与えている。420年に建国した南朝の宋は、北朝の北魏に対抗して、自国の権勢の及ぶ範囲を拡大しておきたい事情があった。421年の倭王讃が朝貢し叙授を賜ったとする『宋書』倭国伝の記事は、『日本書紀』の記事のように、宋の武帝が使者を倭国に派遣し、叙授を与えた可能性もあると考える。


さて、「倭の五王」の比定が長年に渡って解決していないのは、表Z36に示すように、『宋書』倭国伝に記載された「倭の五王」の親子関係と、『日本書紀』に示された親子関係が一致しないためである。『宋書』倭国伝では、珍は讃の弟としている。『日本書紀』では、反正天皇(珍)は仁徳天皇(讃)の息子であり、両者は一致していない。

438年反正天皇の使いが宋に朝貢して、「昨年、兄の前王(履中天皇)が亡くなり、弟(反正天皇)が王に即位した。倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事安東大将軍倭国王の称号を頂きたい」と要求したと考える。宋は王(反正天皇)を「珍」と称し、「安東将軍倭国王」の称号を与えている。宋からすれば、天子(皇帝)が倭国王を冊命するのだから、一度も朝貢しなかった履中天皇の存在は知らなかったので、兄の前王は讃と理解し、「倭王讃死し、弟珍立つ、珍遣使献ず」の文章が記録されたと考える。本来「子」と記載すべきところが「弟」の間違いになったのは、履中天皇が一度も宋に朝貢していないことが原因である。

私の年表では、反正天皇
珍)、允恭天皇(済)、安康天皇(興)は、即位した年かその翌年に朝貢している。しかし、雄略天皇武)の朝貢は、即位から14年後のことである。これについては、武は上表文のなかで「高句麗が百済の征服を図り、朝貢の使者を派遣しても目的達することが出来なかった」と言い訳をしている。これらにより、私の年表が如何に正確であるか、分かっていただけると思う。『日本書紀』の編年を900年縮めた私の年表は、歴史・考古学者の考える編年をはるかに超えた精度である。事実は小説より奇なりである。今後、900年縮めた私の年表を「縮900年表」と表現する。


50-3.神武東征の熊野迂回は朱の探索 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

「縮900年表」からは、邪馬台国は日向にあって、神武天皇が東征し、241年に大和国(考古学者の言うヤマト王権)を建国したことが読み取れる。図Z37に磐余彦尊(神武天皇)が日向を出発して、橿原宮で建国するまでの書紀に記載された経路を示した。磐余彦尊が諸皇子・舟軍を率いて日向を出発したのは、「縮900年表」では234年(甲寅)10月となり、卑弥呼の存命中である。速吸之門(豊予海峡)・筑紫国の宇佐(大分県宇佐市)から、筑紫国の遠賀川の河口にある岡水門(福岡県遠賀郡)に行っている。航海としてはリスクの高い関門海峡を通り岡水門に向かっているのは、その昔、饒速日命に従って既に大和に行っている物部一族から、大和の情報を集めるためであったと考える。
Z-37.神武東征図.png
12月に安芸の国の埃宮(広島県安芸郡府中町)に入り、235年(乙卯)3月には吉備国に移り、高島宮(岡山県児島郡)で3年間滞在している。その間、船舶を調え、兵器や食糧を蓄え、天下を平定しようと準備している。日向を出発して吉備国までの間、戦いは一度も行っていない。吉備国が邪馬台国連合国の東の端の国であるとする、私の説と合致している。

Z3-8.弥生・古墳時代の大阪.jpg

238年(戌午)2月、磐余彦尊は船団を組んで東に進み、潮の流れが速い難波崎(大阪市)を経て、3月に河内国の草香村(東大阪市日下町)の白肩津に着いた。軍は兵を整え竜田に向かったがその道は狭くけわしかったので引き返し、東の方の生駒山を越えようとして、長髄彦と孔舎衛坂(中河内郡孔舎衛村)で戦いとなった。兄の五瀬命が流れ矢に当たり負傷し、盾津(中河内郡盾津町)に引き返えした。図Z38に弥生後期の河内湖と遺跡を示す。河内湖にある難波崎・草香(日下)・盾津の位置関係、生駒山を越える竜田・孔舎衛坂など『日本書紀』の表現に齟齬はない。

磐余彦尊は「日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは、天道に逆らっている。背中に太陽を背負い、日神の威光をかりて、敵におそいかかるのが良い。」と茅渟の海(大阪湾)の雄水門を通り、紀の国の竃山に来て、軍中で亡くなった五瀬命を葬った。和歌山市和田に五瀬命を祭神とする竃山神社があり、隣接する丘の上の墳丘を陵墓に比定している。その後、磐余彦尊は熊野(新宮市・熊野市)まで行き、そこから宇陀に向け北上している。宇陀に行くには、紀の川を遡上すればしよいことで、熊野に行く必然性が全くない。これらからして、神武東征が史実であったことが疑われている。

弥生時代の青銅器は、銅剣・銅矛・銅戈と銅鐸の文化圏に分けられるが、和歌山県は銅鐸文化圏に属し、銅鐸の出土が兵庫県・島根県に続く全国第3位で、徳島県と同じ42個である。和歌山・有田付近では、「聞く銅鐸」と言われる古いタイプの扁平鈕式が多く、御坊・南部・田辺付近では、「見る銅鐸」と言われる大型の突線鈕式が多い。田辺市より南では、新宮市の上倉山コトビキ岩から突線鈕式の破片が唯一出土しているが、銅鐸を使用していた形跡はない。

和歌山県の古墳の分布をみると、紀ノ川流域から有田川流域にかけて約1300基あるが、日高川以南には300基しかない。さらに田辺市より南ではすさみ町の上ミ山古墳(日置川と串本の間)と太子町の下里古墳(大田川河口)の2基しかない。三重県側は古墳があるのは紀伊長島町までである。熊野灘沿岸地域(那智勝浦・新宮・熊野・尾鷲)には、古墳が作られた形跡はない。

飛鳥時代の天皇の行幸は、紀伊国では田辺・白浜あたりまで、伊勢国への行幸は伊勢・志摩あたりまでで、熊野の地に足を踏み入れることはなかった。弥生・古墳・飛鳥時代は、熊野灘沿岸地域(那智勝浦・新宮・熊野・尾鷲)は、まだ「熊野」と呼ばれていなかった。この時代の「熊野」は、有田・御坊・南部・田辺・白浜であったと考える。

238(戊午)年6月、磐余彦尊は名草邑で女賊の名草戸畔を誅している。その後、遂に狭野を越えて、熊野神邑に至り天磐盾に登っている。磐余彦尊は軍を勧め、海を渡るとき急に暴風に遇い、兄の稲飯命と三毛入野命を亡くし、熊野の荒坂の津(丹敷浦)に着いて女賊の丹敷戸畔を討った。そのとき神が毒気を吐いて人々は病み伏してしまい、皇軍は起き上がる事が出来なかった。

名草邑は和歌山市の名草山周辺、佐野は紀伊と熊野の境界で宮崎の鼻ある有田市宮崎町あたり、熊野の神邑で登った天磐盾は、吉備町の田殿丹生神社の裏山にある白山に比定する。白山はみごとな形の神奈備山で巨大な磐座がそそり立っており天磐盾と言える。暴風にあった海は日ノ御崎を廻った太平洋で、荒坂の津を田辺湾に比定する。女賊の邑とは、男が航海に出ている海人の邑の事であろう。神の毒気で病み伏し起き上がれなかとは、白浜で温泉に入り旅の疲れ眠り込んでしまったことを表わしていると考える。

Z-39.熊野迂回は朱の探索.png図Z39は、私が考えた紀伊から宇陀までの熊野迂回ルートである。このルート上には、丹生の地名・丹生神社・水銀鉱山が多数ある。磐余彦尊は朱の探索を行ったと考える。『日本書紀』が記す神武東征の記述の中には、朱の探索について書かれた記事が多数ある。磐余彦尊は八咫烏の先導で内陸部に向かい、宇陀の穿邑(宇陀市莬田野区宇賀志)に着き、宇陀の頭目である兄猾を殺した。その血で染まった地を宇陀の血原という。宇陀には丹砂を含む赤地土があり、それが血原と呼ばれたと考える。宇陀市莬田野区大沢には日本第2位の大和水銀鉱山がある。その後、磐余彦尊は軽装の兵を連れて、井戸・国栖・阿太(阿田)と吉野を巡幸している。吉野の井光では「井戸の中から体が光って尻尾のある人が出て来た」とある。松田寿男氏は「丹生の研究」で、腰に尻当を紐でぶらさげた水銀採掘者が竪坑から出て来た様子としている。磐余彦尊の熊野から宇陀への迂回、吉野の巡幸など、大和を攻めることだけを考えると不可解な行動だが、丹砂の探索と考えれば十分納得が出来る行動である。

書紀は次のように書いている。「宇陀川の朝原で水の泡がかたまりつく所があった。」「沢山の平瓦で水なしに飴を作ろう、もし飴が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る。」「厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が浮いて流れたら、この国を平定出来る。」。宇陀川の支流の丹生川に丹砂の鉱脈や露頭があり、川の流れが淀む所(水の泡がかたまりつく所)に、比重の重い丹砂が堆積しており、平瓦に丹砂の混じった砂をのせ、水中でゆすって丹砂を採取したのであろう。古代の飴は水飴であるが、その水飴に例えた物は「水銀」と考える。丹砂を厳瓮(御神酒瓮)に入れて400度程度に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生する。このガスを水中に入れると、水銀蒸気から球状の水銀が取れる。また、亜硫酸ガスは毒性がり、水に溶けるので魚が死んで浮かんでくることになる。

なお、弥生時代・古墳時代に使用された赤色の顔料は、真っ赤な朱(丹砂・朱砂・辰砂)と黒ずんだ赤色のベンガラの両者がある。朱は硫化水銀で色も鮮やかで高価なもの、ベンガラは酸化第二鉄で安物であるが、両者の区別は難しい。磐余彦尊が行った水銀の精製は、丹砂が間違いなく朱であると確認する方法だったと思われる。磐余彦尊は朱の探索に成功し、長脛彦を討ち破り、そして大和の橿原に宮を建て建国した。その後、ヤマト王権は朱(丹砂)を魏に献上して、三角縁神獣鏡などの鏡を得た。その鏡を倭国の国々に配布することにより、国を平定することが出来たのである。

前期前方後円墳である桜井茶臼山古墳からは81面の銅鏡片が出土、石室は約200kgの朱で塗られていた。大和天神山古墳からは20面の銅鏡と41kgの朱が出土、椿井大塚山古墳からは37面の鏡と10kgを超える朱が出土、黒塚古墳からは34面の鏡が出土し木棺内や粘土床には朱が使われていた。「飴(水銀)が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る」。まさに、日本書紀に記載された通りの歴史である。神武東征は史実であった。


50-4.13歳の女王・壱与は崇神天皇 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

魏志倭人伝には「卑弥呼が死んだので、続いて男王が立ったが国中が承服せず戦が起こり、千人余の人が亡くなった。そこで卑弥呼の宗女、13歳の壱与を王に立てて国中が治まった」とある。卑弥呼の亡くなったのは247年頃である。一方「縮900年表」では、247年に神武天皇が亡くなり、その後3年間空位で、251年に崇神天皇が即位している。卑弥呼の亡くなった年に、神武天皇が亡くなったことになっている。

このことを私は次のように解釈している。神武天皇が東征に成功し、241年に大和国を建国した。247年頃に卑弥呼が亡くなった後、神武天皇(男王)が倭国王として立つたが、大和国が強国になることを恐れた倭国連合の国々は承服せず、248年に戦が起こった。そこで神武天皇は、祖父の彦火火出見尊が玉依姫に王位を譲り、玉依姫が倭国連合の女王・卑弥呼として共立されたことに倣い、卑弥呼の宗女である13歳の壱与に大和国の王位を譲り、倭国連合の女王(崇神天皇)として立てることにより国中を収めた。その後、神武天皇は大彦命として、崇神天皇の後ろ盾となって活躍したと考えている。

崇神天皇は女王で卑弥呼の宗女・壱与と比定した。「宗」の字を漢和辞典で引くと「よつぎ。長子。正妻から生まれた長男」とあり、「宗女」は「長男の娘」と解釈できる。卑弥呼(玉依姫)の長男は五瀬命で、233年に磐余彦尊と一緒に日向より東征に出発して、途中吉備に235年から3年間滞在し、船舶を整え武器や食料を蓄えた後に東に向かい、河内国の生駒で傷つき、237年に紀の国の亀山で亡くなっている。吉備の高島宮に滞在していた3年間の間に、五瀬命と吉備国王の娘との間に出来た子が壱与であると考える。崇神天皇の即位は251年であり、五瀬命が吉備を離れて14年目のことであり、壱与の年齢13歳と合っている。

崇神天皇が女王であったと言うことを唱えた人は、『日本書紀』の研究が盛んに行われた平安~江戸時代、明治以降の学者・研究者の誰一人いない。奈良大学学長であられた水野正好氏の「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」という非常に近い説があるくらいだ。書紀では崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇と呼ばれ、皇后は御間城姫で天皇も皇后も同じ「御間城」と言う名が付いている。「御間城入彦」は「御間城姫」の入り婿であることを示している。251年に即位した崇神天皇(御間城姫)は女天皇であった。

260年崇神天皇は大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に、四道将軍を派遣し討伐を命じている。吉備津彦を派遣した西海は、平安時代の西海道と同じとして、九州を指すと考えられているが、私は、西海は四国であると思っている。
卑弥呼を倭国王に共立し、また壱与(崇神天皇)が倭国王になることで戦いを治めた国々は、吉備・出雲以西の中国と九州(除く大隅:狗奴国)にある29ヶ国の倭国連合の国々である。倭国連合の国々の討伐を命じることはなかったであろう。

崇神天皇が四道将軍を北陸・東海・四国・丹波に派遣したのは、
日向にあった邪馬台国を盟主国とする倭国連合から、大和国を盟主国とする倭国連合の時代になって、大和国(ヤマト王権)の領域・支配域を、連合国以外の地に拡げる行動であったのであろう。神武天皇は大和に倭国の領域を拡げ「始馭天下之天皇(始めて天下を治められた天皇)」と称され、崇神天皇は北陸・東海・四国・丹波に大和国(ヤマト王権)の領域・支配域を拡げ「御肇国天皇(国をお始めになられた天皇)」と称されている。