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59-10.「憲法十七条」は聖徳太子が制定したか [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『書紀』は推古12年(604年)4月3日に、聖徳太子が自ら始めて「憲法十七条」を作ったとしている。上宮聖徳法王帝説には、推古天皇の御世乙丑の年(605年)7月、「十七余の法」を作ったとある。ただ、「憲法十七条」の文章が引用され残っているのは、『書紀』だけである。その主な条文の出だしを下記に示した。

第1条、和を以って貴しとなす。争いごと無きを旨とせよ。(略)

第2条、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。(略)

第3条、詔は必ず謹んで承れ。君を則ち天とし、臣を則ち地とす。(略)

第4条、群卿百寮、礼をもって本とせよ。民を治める本は、必ず礼にあり。(略)

第8条、群卿百寮、朝早く、遅く退け。公事暇なし、終日にも尽し難し。(略)

第12条、国司国造、百姓にむさぼるなかれ。国に二君なく、民に両主なし。(略)

第15条、私に背きて、公に向うは、これ臣の道なり。(略)

 

戦時中に『書紀』を否定した罪で弾圧を受け、戦後華々しく蘇り高い評価を受けた津田左右吉氏は、憲法十七条が推古朝のものとしては不自然であると指摘して、「奈良時代に太子の名をかりて、このような訓戒を作り、官僚に知らしめようとしたものである」と結論付けている。その根拠の第一は、「第12条に「国司」という語が見えるが、国司は国を単位に行政的支配を行う官人のことで、大化改新前にはありえない。」であった。

 

『書紀』には古墳時代の天皇の記事に、「国司」の表記が8ヶ所出て来るが、その内の5ヶ所は清寧・顕宗・仁賢天皇紀にある「播磨國司 來目部小楯」である。『古事記』の清寧天皇記では、「山部連小楯、任針間國之宰」とあり、「国司」が「国宰」となっている。「国宰」・「宰」の表記は、『常陸国風土記』では久慈郡・行方郡・多可郡の3郡で、『播磨国風土記』では讃容郡・飾磨郡の2郡で使われている。また、藤原宮跡の南面内濠からは、「粟道(あわじ)宰熊鳥」の木簡が出土している。「国宰(くにのみこともり)」は、「国司(くにのつかさ)」に先行して地方官司の呼称として使われていたと見られる。『書紀』には一切出てこない「国宰」の表記が、『古事記』・『風土記』に記載されているのは、両者が口伝を記録したものであるからであろう。

 

大和朝廷は全国を統一していく段階で、地方の王(豪族)を「国造」とすることで、地方での領地の支配を認め、朝廷の支配下に組み入れたと考える。朝廷側からみれば、国造の領地を朝廷の権限がおよぶ領地とし、官吏に運営させたいと考えたに違いない。だから、江戸時代に幕府が外様大名に行った施策と同じように、後継者や権力争いで問題を起こした「国造」を取り潰し、「国宰」を派遣したと考えられ、聖徳太子の時代には「国宰」と「国造」の両方が存在していたと思える。時代考証感覚のない書紀の編纂者は、憲法十七条に「国宰・国造」と書くべきところを、同じ役回りである後世の「国司」を使い、「国司・国造」と表記しただけのことである。

 

憲法十七条が推古朝の時代のものでないとする根拠の第二は、「憲法の全体が君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれているが、推古朝はまだ氏族制度の時代でありふさわしくない。」である。確かに、憲法十七条は群卿・群臣・百寮の語があり、官僚への戒めが多く書かれている。『随書』倭国伝には「内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信、官員には定員がない。」とある。あきらかに、推古朝の時代に大和朝廷に直接使える内官(官僚)がいたことは確かである。氏族制度下においても、律令制度下の「臣」「卿」「寮」に相当する官僚としての職務があったのであろう。大和朝廷に直接使える者への戒めが憲法十七条に書かれていたのである。

 

第三は、「中国の古典からの引用語句が多く、『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ている。」である。『書紀』の編纂者は、歴史のストーリーを漢文で書き残そうとしたのであって、過去に用いられた言葉・語句を歴史史料としてそのまま書き残そうとしたのではない。『書紀』は天皇に撰上されるものであり、天皇が読んで解かる文章でなければならない。たとえ、憲法十七条の記録が残っていたとしても、それをただ単に書き写すのではなく、編纂当時の言葉・語句で書き直すほうが、読み手にとっては理解し易いからである。

 

歴史学者は原史料として原文の語句をそのままを残すことを歴史書として求めるであろうが、『書紀』の編纂者は歴史学者ではない。文章を編纂当時の言葉・語句に書き直したからと言って、歴史を捏造しているわけではない。こう考えると、「憲法十七条」は聖徳太子が制定したということを、否定する要素は無いように思える。「史料批判」の名の下に、『書紀』を全て否定したのでは、我が国の歴史は何も語れなくなってしまう。ただ、『書紀』は歴史をストーリーとして残すための、脚色・潤色が多いのも否めない事実である。だからこそ、『書紀』から史実をあぶり出すことが求められていると思う。

 

推古11年(603年)12月に冠位制度が創設され、翌年の正月には、始めて諸侯に冠位を賜っている。冠位は徳・仁・礼・信・義・智の六階に、それぞれ大・小の二階あって、全部で十二階である「憲法十七条」は推古天皇の時代に創られたものでないとする学者も、推古朝の冠位十二階は史実であると認めている。それは、『隋書』に冠位十二階の事が記載されているからだ。もし、『隋書』に記載がなかったならば、冠位十二階も後世の捏造であると、憲法十七条と同じ運命をたどったのかも知れない。聖徳太子は仏法を高麗の僧恵慈に、儒教の経典を覚哿博士に習ったと『書紀』は記載しているが、僧観勒により道教・五行思想を習ったのではないかと思われる。聖徳太子は儒教・仏教・道教の三教を習得し、その知識を基にしで、冠位十二階制度と憲法十七条を創設したと考える。

 

1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、聖徳太子が制定したとする憲法十七条や、聖徳太子の実在を示す語句(東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命)がある法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとして、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」としているが、これまで述べてきたように、これら大山氏の根拠の全てを覆すことが出来、「聖徳太子は実在した。」と言うことができる。


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