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59-9.天寿国繡帳は推古朝に作られた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z146.天寿国繡帳.png天寿国曼荼羅繡帳(天寿国繡帳)は、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)で、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵し、国宝に指定されている。鎌倉時代に中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・信如により、法隆寺の蔵から再発見されたと伝えられている。現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦89センチ、横83センチの額装仕立てとなっており、4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍で表されている。制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであり、100個の亀形の甲羅に計400文字が刺繍されていたと推定されている。この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用されている。この銘文によると、天寿国繡帳は推古三十年に聖徳太子が薨去した後、妃である橘大郎女(推古天皇の孫)が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと発願し、推古天皇の詔で製作されたものである。

天寿国繡帳の銘文には、「辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半 太子崩」とある。聖徳太子の母・穴穂部間人王の命日「辛巳十二月廿一癸酉」は、辛巳の年が621年(推古29年)にあたることから、621年12月21日であり、聖徳太子の命日「翌年二月廿二日甲戌」は622年2月22日である。我が国に百済から伝わった暦法は元嘉暦であった。持統4年(690年)から元嘉暦と儀鳳歴が併用され、文武元年(697年)以降は儀鳳歴のみが用いられるようになった。天寿国繡帳が推古朝に製作されたとするならば、その銘文にある年月日の干支は、元嘉暦で記していなければならない。元嘉暦でみると、穴穂部間人王の命日621年12月21日の干支は、銘文と違って「甲戌」となり、聖徳太子の命日622年2月22日の干支は、銘文通りの「甲戌」となる。

2001年に「天寿国繡帳の成立年代」の論文を発表された金沢英之氏は、儀鳳歴による計算結果から、穴穂部間人王の命日の621年12月21日の干支は「癸酉」となり、聖徳太子の命日の622年年2月22日の干支は「甲戌」となり、両者とも天寿国繡帳に記載された干支と一致することを発見された。そして、天寿国繡帳銘の成立は、早くても儀鳳歴と元嘉暦の併用が詔された持統4年以降、もしくは儀鳳歴が単独で用いられた文武朝以降であるとされた。この論文により、法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものである確実な証拠とされ、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。」との説が勢い付いている。

天寿国繡帳が儀鳳歴で記載されているとしたら、天寿国繡帳は推古朝に成立したものでないことは確実である。しかし、私には引っかかることがある。それは釈迦像光背銘の「辛巳十二月 鬼前太后薨 明年正月廿二日 上宮法皇枕病弗悆 干食王后仍以労疾・・・・二月廿一日癸酉 王后即世 翌日法皇登遐。」である。鬼前太后は穴穂部間人王、上宮法皇は聖徳太子、干食王后は膳夫人である。釈迦像光背銘でも聖徳太子の命日は、622年年2月22日で同じである。私が注目したのは、釈迦像光背銘の膳夫人の薨去の「二月廿一日癸酉」と、天寿国繡帳の穴穂部間人王の薨去の「辛巳十二月廿一癸酉日入」と、黄色マーカーのところが全く同一であることだ。

天寿国繍帳と釈迦像光背銘の「二月廿一日癸酉」は全く同一であることは、偶然ではなく作為があるように思える。聖徳太子は多くの人に看取られて、惜しまれ亡くなったのであろうから「甲戌夜半」と時刻まで記録されていたのであろう。『法王帝説』によると、用明天皇の皇后であった穴穂部間人王は、天皇が崩御された後、義理の息子・多米王と結婚し、佐富女王を産んでいる。穴穂部間人王の置かれた立場からすると、内内の人に看取られた最後であったと思われる。聖徳太子も病気で臨終に立ち会えなかったのかもしれない。穴穂部間人王が亡くなった日が「癸酉日入」と時刻まで記録されるのは不自然である。「癸酉日入」に亡くなったのは、聖徳太子の前日に亡くなった膳夫人であると考える。間人母王・膳夫人・聖徳太子の薨去した日は、前太后(間人母王)は「辛巳十二月」、王后(膳夫人)は「明年二月廿一日癸酉日入」、法皇(聖徳太子)は「翌日二月廿二日甲戌夜半」であったと考える。

これを文章にすると下記の上段になる。上段から青の「王后即世 翌日二月」を取り除き、緑色の「間人母王崩 明年二月」を挿入すると下段の天寿国繍帳の文章となる。天寿国繍帳は亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍するデザインで、字数を合わせるため「廿一癸酉日入」とピンクの「日」の字を抜いている。
「辛巳十二月間人母王崩 明年二月廿一日癸酉日入王后即世  翌日二月廿二日甲戌夜半太子崩」
「辛巳十二月          廿一癸酉日入間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」

天寿国繡帳は、聖徳太子の妃である橘大郎女が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと願い、祖母の推古天皇の詔で製作されたものである。聖徳太子が前日に亡くなった膳夫人と天寿国で一緒であっては、橘大郎女が天寿国繡帳を見るたび嫉妬の心が起こり、心穏やかではなくなる。膳夫人の命日の記載を削除したため、日時・干支が間人母王の命日に紛れ込んだと考える。

膳夫人の命日は622年年2月21日で干支は、元嘉暦・儀鳳歴ともに、釈迦三尊像光背銘の通りの「癸酉」である。もちろん翌日に亡くなった聖徳太子の命日は622年年2月21日で、干支は元嘉暦・儀鳳歴ともに天寿国繡帳に記載された通りの「甲戌」である。天寿国繡帳・釈迦三尊像光背銘に齟齬は起こらず、元嘉暦の問題も起こらない。天寿国繡帳は釈迦三尊像と同様、推古朝に作られたものである。




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