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59-7.「天皇」の称号は聖徳太子が考案した [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

船氏王後墓誌銘と野中寺の弥勒菩薩像台座銘は、天智朝に「天皇」号が使われたことを示しており、法隆寺の釈迦像光背銘はそれをさらに遡らせ、推古朝(593~620年)に「天皇」号が使われたことを証明していた。これらより、唐の高宗皇帝が上元元年(674年)に「天皇」の君主称号を使う以前から、倭国では「天皇」の語句が使われていたことが分る。我が国の「天皇」号の源流は、どこに求められるのであろうか。

 

中国の戦国時代の終わりごろから発達した星占術的な天文学の中で、天体観測の最高基準になる北極星が神格化され、宇宙の最高神として太一神が生れた。紫宮にいる太一神を祀れば神仙になれると信じた前漢の武帝は、紫の幕を張りめぐらして太一神を祀っている。前漢の終わり頃になると、太一神は「天皇大帝」と呼ばれるようになり、星占術的な天文学を取り入れた讖緯(しんい:予言)書には「天皇大帝は北辰の星なり」、「紫宮は天皇の治むる所なり」の記述がある。

 

中国の国家は儒教を規範として統治されおり、儒家の経典『詩経』や『書経』には、帝王の行う国家祭祀の最高神は「昊天上帝」であったとしている。後漢末の儒教学者である鄭玄(127~200年)により、帝王の行う国家祭祀の対象としての「昊天上帝(皇天上帝)」と、宗教的な信仰の対象としての「天皇大帝」とが同一視されるようになった。「天皇大帝」が国家祭祀の対象とされたのは、南北朝時代の南朝の梁(502~557年)である。唐の時代の801年に完成した『通典』巻42には、梁の武帝が「天皇大帝」を主神として祀ったと記載している。

 

百済の武寧王(501~523年)、聖王(523~554年)は、度々中国の南朝の梁に朝貢し、特に聖王19年(541年)には、毛詩(詩経)博士・涅槃経義などを要請し許されている。これらより、6世紀後半の百済には「天皇大帝」という概念が伝わり、儒教・道教の師は知っていたと考える。聖徳太子は百済の覚哿博士に593年から儒教を習い、百済の僧観勒は602年に暦の本・天文地理の本・遁甲方術の本を奉っており、聖徳太子は「天皇大帝」という概念を知っていたと思われる。

 

『隋書』には、倭国からの国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあり、帝はこれを見て悦ばず、鴻臚卿曰く「蛮夷の書に無礼あり、再び聞くことなかれ」とある。「蛮夷の書に無礼あり」としたのは、皇帝と同じ「天子」の称号を使ったこと、「日出処天子」>「日没処天子」と判断したからである。国書には「中国の皇帝何するものぞ」との思いが込められていたのであろう。

 

『書紀』には推古16年(608年)の記事に「東の天皇、敬みて西の皇帝に申す。」とある。『書紀』は時代考証がされていないため、天皇が「大王(おおきみ)」と呼ばれている時代でも、「天皇」と表記している。もし推古朝に天皇号が使用されていなかったならば、「東の天皇」の表記は、「東の大王」であった。そうすると言葉の重みからすると、「東の大王」<「西の皇帝」であり、国書に表わした意思とは違ったものになる。推古朝に天皇号が使用されていたとすれば、表記は「東の天皇」であった。中国の儒教・道教の概念からすれば、「天子(皇帝)は天神(昊天上帝・天皇大帝)の命により天下を治める。」であり、「東の天皇」>「西の皇帝」となり、国書と同じ意思となる。これらからしても、推古朝には「天皇」号が使われていたと思われる。「天皇」の称号は聖徳太子が考案したものであろう。


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