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59-1.聖徳太子は架空の人物か [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

厩戸皇子(聖徳太子)は用明天皇と穴穂部間人皇后の長男として生まれた。父も母も蘇我稲目の孫であり、厩戸皇子には蘇我氏の血が半分流れている。『書紀』には厩戸皇子の生年については記載がないが、蘇我馬子が用明2年(587年)に物部守屋を滅ぼした戦に、束髪於額(ひさごはな:十五、六歳の小年の髪型)の厩戸皇子が加勢したと記載している。『法王帝説』には、上宮聖德法王は甲午の年に生まれたとあり、敏達3年(574年)に誕生したとしている。これからすると物部守屋を滅ぼした戦のあった用明2年には14歳であり、厩戸皇子の生年について、『書紀』と『法王帝説』は概ね合っている。

『書紀』は厩戸皇子について、「生まれてすぐ言葉を話され、優れた知恵があり、成人になると一度に十人の訴えを聞き分けることが出来き、先々の事まで見通された。仏教を高麗の僧慧慈に習い、儒教を博士覚哿に学んで、どちらもことごとく習得された。」とある。厩戸皇子が厩戸豊聡耳皇子と呼ばれ、別名に豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王・法主王とされているのは、これらの逸話からであろう。なお、『書紀』は厩戸皇子を「皇太子」「上宮太子」と表記しているが、「聖徳太子」の呼称は一切使用していない。『書紀』の厩戸皇子についての文章は、誇張があり、信用できる分けではないが、厩戸皇子が有能で仏教・儒教に精通していた「聖徳太子」に価する人物であったと考える。


推古元年(593年)に推古天皇が即位し、厩戸皇子は皇太子となり、
蘇我馬子が大臣となった。推古天皇は40歳、厩戸皇子は20歳、蘇我馬子は43歳であった。『書紀』は厩戸皇子が摂政となり、一切の政務を執り、国政をすべて委任されたと記しているが、「57-12.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供」で述べたように、推古天皇の蘇我馬子に対する信頼は厚く、年齢からしても国政を任されたのは馬子であったと思われる。推古天皇が始めての女帝であったため、また馬子が崇峻天皇を殺害した側面もあり、国政を牛耳っているというように見られたくないため、厩戸皇子が皇太子で摂政となった形をとったのであろう。ただ、厩戸皇子は有能であり、皇太子として大臣と共に推古天皇を支えたと考える。今後、皇太子となった厩戸皇子を聖徳太子と表記していく。

『書紀』は、聖徳太子が単独で行った事柄については、斑鳩宮を建て住んだこと、秦造河勝に仏像を授けたこと、憲法17条を定めたこと、勝鬘経・法華経を講じたこと、片岡の飢者を埋葬したことを挙げている。また斑鳩寺(法隆寺)・四天王寺を創建したことも、文章から推察することが出来る。冠位十二階の制定、小野妹子の遣隋使派遣は、聖徳太子と馬子大臣が共同で行ったのであろう。



1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、聖徳太子が制定したとする憲法十七条や、東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命などの聖徳太子を示す語句がある法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとして、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」とした。大山氏の発表以降、それまでに燻っていた聖徳太子に対する疑義に火が付き、多くの研究者が聖徳太子の実在を否定する論文を発表している。




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