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58-4.蘇我氏は石川氏に改姓し生き残った [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

「乙巳の変」で蘇我本宗家が滅び、蘇我氏で生き残ったのは、中大兄皇子・中臣鎌子らに味方した蘇我倉山田石川麻呂とその兄弟(蘇我倉麻呂の息子)だけである。蘇我倉山田石川麻呂は大化元年(645年)右大臣となるが、大化5年(649年)に異母弟の蘇我日向に謀反を企てていると密告され、天皇の軍に追われて長男・興志のいた山田寺に逃げ込み、息子ともども自殺した。後に蘇我倉山田石川麻呂は冤罪だったことが判明し、蘇我日向は筑紫に左遷された。そして、蘇我倉山田石川麻呂の弟の蘇我連子は、天智天皇のもとで大紫の冠位を賜り、右大臣を務めたが、天智3年5月に亡くなっている。

 

『続日本紀』天平元年(729年)八月に「左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也。」とある。蘇我連子の息子の安麻呂は「少納言小花下」である。「小花下」の冠位は、大化5年(649年)2月の冠位19階の制で、以前の冠位「小錦」を「小花」として、上・下に2分割したうちの一つである。天智天皇3年(664年)2月の冠位26階の制では「小花」という呼び方を「小錦」に戻した上で、上・中・下に3分割している。安麻呂の官位が「小花下」と後世に残っていることは、天智天皇3年の冠位26階の制では「小花下」より格下になったからであろう。大紫の冠位を賜り、右大臣を務めた父・蘇我連子が亡くなり、息子の安麻呂は冷や飯を食わされたのかもしれない。

 

天智10年(671年)1月、蘇我連子の兄弟の蘇我赤兄臣が左大臣に、蘇我果安が御史大夫(大納言)に就任している。天智10年10月に天智天皇が病に伏し大海人皇子を召したとき、天智天皇に仕えていた蘇我連子の息子の蘇我臣安麻呂は、大海人皇子に「用心してお話しなさいませ」と耳打ちした。大海人皇子は陰謀を察知して、天皇が皇位を授けようとされたのを辞退し、出家して吉野に入った。天智天皇に仕えていた蘇我臣安麻呂が、大海人皇子に見方したのは、処遇に不満を持っていたからであろう。

 

天智10年12月に近江宮で天智天皇が亡くなり、大友皇子が跡を継ぐと、大海人皇子は吉野を出て挙兵して壬申の乱を起こし、大友皇子率いる朝廷軍を破り、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。大友皇子の側についた蘇我果安は戦に敗れ自殺し、蘇我赤兄は流罪となった。壬申の乱で勝利した大海人皇子(天武天皇)は、武勲のあったものに冠位の加増している。大海人皇子の窮地を救った蘇我臣安麻呂の冠位が「小花下」と後世に残っていることは、安麻呂は壬申の乱の最中、あるいは直後に亡くなっていて、冠位の加増に預からなかったのであろう。

 

『続日本紀』天平元年(729年)八月に「左大弁従三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小花下安麻呂之子也。」とあり、蘇我安麻呂の息子の石足が、石川氏と改姓したことが窺がえる。天武13年(684年)11月に52氏が朝臣の姓を賜ったとき、52氏の中には蘇我臣の名は無く、石川臣が朝臣を賜与されている。これらより、蘇我氏から石川氏に改姓したのは、天武13年(684年)以前であったことが分る。天武2年(673年) 2月、天武天皇は飛鳥浄御原宮で即位し、正妃・鸕野讃良皇女(持統天皇)を皇后とした。鸕野讃良皇女は天智天皇の第二女で、母の遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である。皇后の支援を得て、蘇我氏から石川氏に改姓し、朝臣の姓を賜ったのであろう。

 

『懐風藻』に石川朝臣石足の漢詩「春苑応詔」が収められており、「従三位左大弁石川朝臣石足 一首 年六十三」とある。「年六十三」は享年と考えられており、天平元年(729年)に63歳で薨去したことから、生年は天智天皇6年(667年)になる。石川臣が朝臣を賜与された天武13年(684年)に、石川石足は18歳であったことが分る。蘇我連子の娘である蘇我娼子が藤原不比等の正妻となっていたこともあり、石川朝臣石足は不比等政権において、和銅元年(708年)正五位上・河内守に叙任され、和銅7年(714年)従四位下、養老3年(719年)従四位上と昇進している。大阪府高槻市真上町の酒垂山より発見された国宝の「金銅石川年足墓誌」には、石川年足は石足の長子で、天平宝字六年(762)9月1日に75歳で薨去したとある。年足の最終官位は御史大夫正三位で、曽祖父・蘇我連子の賜った大紫の冠位と同等の地位まで上り詰めている。蘇我氏本宗家は滅び、生き残ったのは石川氏のみであった。


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