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58-3.「乙巳の変」の舞台裏、中臣鎌足の策謀 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

「乙巳の変」は、その2年前の皇極2年(643年)に、蘇我入鹿が聖徳太子の息子・山背大兄王とその一族を滅ぼしたことに端を発している。蘇我入鹿に遣わされて、山背大兄王を襲い死に至らしめた巨勢徳太臣は、「乙巳の変」の後に蘇我氏に組した者として、断罪されてもおかしくない人物である。しかし、巨勢徳太臣は大化5年(649年)に、大紫(十九階冠位の第五)を授けられ左大臣に出世している。これには何か陰謀が隠されている気がする。

 

平安時代初期に書かれた『上宮聖徳太子伝補闕記』には、「宗我大臣并びに林臣入鹿、致奴王子の兒・名は軽王、巨勢德太古臣、大臣大伴馬甘連公、中臣鹽屋枚夫等六人、悪逆を発し太子が子孫を計るに至る。男女廿三王、罪無くして害さる。」とある。『上宮聖徳太子伝補闕記』が史料として信頼できるかどうかは別として、少なくとも平安時代初期に、山背大兄王の殺害に、直接的・間接的に関わった人物として、蘇我蝦夷・入鹿以外に、軽皇子・巨勢德太・大伴馬甘(馬飼)・中臣鹽屋枚夫に疑いの目を向けていたことは事実である。軽皇子は後の孝徳天皇であり、大伴馬甘は大伴馬飼(長徳)で、巨勢徳太臣と同様大化5年に小紫を授けられ右大臣となっている。平安時代の人も、蘇我入鹿が山背大兄王を殺し、上宮一族が滅んだ事件には、裏があると感じたのであろう。

 

山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた3ヶ月後で、中臣鎌足が中大兄皇子と親密になる以前の皇極3年1月の記事に、「中臣鎌足と軽皇子は以前から親交があった。鎌足が皇子の宮に参上して宿直したとき、妃から丁重なもてなしを受け、舎人に『皇子が天下の王となるのに、いったい誰が逆らえましょうか』と言い、それを聞いた軽皇子は、たいそう喜ばれた。」とある。中臣鎌足は軽皇子(孝徳天皇)を天皇にして、自分自身が蘇我氏に代わり政権の中枢に座そうと考えた。そのための策略の第一が、巨勢德太臣を使って入鹿をそそのかし、入鹿に山背大兄王を殺させることであった。次の天皇を目指している山背大兄王を消し、蘇我入鹿・蝦夷を滅ぼす大義名分を得る、一挙両得の策略であった。蘇我入鹿はまんまと、その策略にはまった。入鹿が山背大兄王を殺したことを聞いて、蝦夷が「入鹿はなんと馬鹿なことをしたのだ。お前の命も危うい。」と怒り罵ったのは、その策略を感じていたのであろう。

 

中臣鎌足の策略の第二は、中大兄皇子を隠れ蓑として、蘇我入鹿・蝦夷を殺害することであった。その振る舞いが横暴な蘇我氏を滅ぼすことで、その主役となる中大兄皇子が、群臣の信を得たとしても、年齢が二十歳前であり天皇になるには程遠い。また、蘇我氏滅亡で古人大兄皇子は後ろ盾を無くすることになり、これもまた一挙両得の策略であった。中臣鎌足は中大兄皇子に近づき親密となり、蘇我氏打倒の計画を打ち明けた。まず初めに行ったのが、蘇我倉山田麻呂を見方に引き入れ、蘇我氏を分断させるために、中大兄皇子が蘇我倉山田麻呂の娘・遠智女を嬪として娶ることであった。蘇我倉山田麻呂は「乙巳の変」において、上表文を読み上げる役目を果たした。

 

また、中臣鎌足は古人大兄皇子を蘇我氏から離反させるために、中大兄皇子に古人大兄皇子の娘・倭姫を娶ることを勧めている。中皇極4年(645年)6月、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を斬殺したとき、皇極天皇の傍にいた古人大兄皇子が私邸に帰り、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。」と人に語ったのは、娘婿・中大兄皇子への配慮であった。しかし、大化元年9月に古人大兄皇子は謀反の疑いをかけられて中大兄皇子に殺された。古人大兄皇子の娘・倭姫は天智天皇(中大兄皇子)の皇后となっている。

 

「乙巳の変」の後、皇極天皇は中大兄皇子に譲位しようとしたが、中大兄皇子は中臣鎌足の助言により、叔父(皇極天皇の弟)の軽皇子を推した。軽皇子は「古人大兄皇子は先の天皇の皇子であり、年長である。」と言って固辞したが、古人大兄皇子は「私は出家して吉野に入り、仏道を修めて、天皇をお助けします。」と辞退した。結局、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、年号を大化元年(645年)とした。中臣鎌足のもくろみ通りであった。蘇我氏滅亡の全てを中臣鎌足が策謀した。

 

新政権で中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足は内大臣となっている。蘇我倉山田麻呂は右大臣となったが、大化4年に謀反の疑いをかけられ殺されている。中臣鎌足は、孝徳天皇・斉明天皇(皇極天皇)・天智天皇の三代に内大臣として仕え、政権の中枢にいて権力を行使した。鎌足は蘇我氏に取って代わることができたのである。天智8年(669年)10月に天皇は鎌足の病気を見舞い、大織の冠(冠位二十六階の最高階)と「藤原」の姓を授けられた。その翌日に鎌足は薨去した。中臣鎌足の次男、藤原不比等は元明天皇の和銅元年(708年)に大臣に就任し、藤原氏の黄金時代を築いた。

 

ここで「乙巳の変」の登場人物の年齢を明らかにしておく。「57-2.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供」の表Z133で示したように、蝦夷は「乙巳の変」で殺された時は56歳であり、入鹿は36歳前後であったと考えられる。中大兄皇子については、舒明13年(641年)に舒明天皇が崩御されたとき、殯宮で中大兄皇子が16歳で誄を読んだと、『書紀』は記載してあり、これらから「乙巳の変」(645年)を起したとき、中大兄皇子の年齢は20歳であることが分る。

 

一方、中臣鎌足の年齢については、天智8年(669年)の記事には、「藤原内大臣(中臣鎌足)が薨じた。日本世記には『五十歳で私邸にて薨じた。碑は五十六歳で薨じたという。』」とある。鎌足が50歳で薨去したとすれば生年は620年である。鎌足の長男・定恵は白雉4年(653年)に遣唐使の学問僧として中国に渡っており、この時の年齢を18歳以上であったとすると、定恵は鎌足が17歳以下の時に生まれたことになり無理がある。鎌足の享年は56歳で、生誕は614年であったと考える。「乙巳の変」を起したとき、鎌足は32歳で、中大兄皇子より12歳年上である。「乙巳の変」は中臣鎌足が仕切っていたことが明らかである。


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