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58-2.「乙巳の変」で滅んだのは蘇我氏本宗家 [58.「乙巳の変」で蘇我氏が滅んだ]

皇極3年(644年)、中臣鎌子連(中臣鎌足)は蘇我臣入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家を我がものにする野望を抱いていることを憤り、王家の人々と接触し、企てを成し遂げることの出来る英知の人を求めた。そして中大兄皇子に心を寄せたが、心中を打ち明ける機会がなかった。たまたま中大兄が法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で蹴鞠をした時、その仲間に加わった。中臣鎌足は中大兄の皮鞋が鞠とともに脱げ落ちたのを拾い、跪いて差し出した。これより二人は親密になって、互いに隠し立てすることなく、心中を語りあった。また、頻繁に接するのを他人に疑われるのを恐れて、周公・孔子の教えを南淵先生の所で学び、その往還に計画を立てた。そこで鎌足は、中大兄が蘇我倉山田麻呂(入鹿の従兄弟)の娘・遠智娘を妃とすることで、倉山田麻呂臣を助力者としようと提案した。中大兄は大変喜び、それに従った。鎌足は佐伯連小麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に推挙した。

 

皇極4年(乙巳、645年)6月8日、中大兄は倉山田麻呂臣に密かに「三韓が調(みつぎ)をする日に、その上表文を読み上げてもらいたい。」と語り、入鹿(43歳)惨殺の謀略を打ち明け、麻呂臣は承諾した。6月12日、天皇は大極殿にお出ましになり、古人大兄がその傍らに控えた。鎌足は俳優を使って、入鹿が剣をはずして座すように仕向けた。麻呂臣は進み出て三韓の上表文を読み上げた。その時、中大兄は衛門府に十二の通門を閉めさせ、衛門府に賞禄を与える振りをして、彼らを一箇所に集めた。そして、中大兄は長槍を取って大極殿のわきに隠れ、鎌足は弓矢を持って警護した。

 

Z137.乙巳の変.png中大兄は小麻呂と網田に剣を授け、「一気に切れ」と指示した。倉山田麻呂は上表文が終わろうとしているのに、小麻呂が現れないので不安になり、声を乱し手が震えた。入鹿はそれを不審に思い「どうして震えるのか」と尋ねた。中大兄は小麻呂らが入鹿の威勢に萎縮して、たじろいでいるのを見て「ヤア」と掛声もろとも小麻呂らとともに、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は転がって玉座にたどりつき、「皇位に座すべきは天の御子です。私は何も罪を犯していません。」と申し上げた。天皇は驚き、「何事があってのことか」と尋ねられ、中大兄は「鞍作り(入鹿)は、天の御子をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとした。どうして天孫をもって、鞍作りに代えられましょうか。」と答えた。

 

天皇は立って殿中にお入りになった。皇極天皇の傍にいた古人大兄皇子は私邸に帰り、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。」と、人に語り外には出なかった。小麻呂と網田は入鹿を斬り殺した。中大兄は法興寺に入って蝦夷を討つべく準備した。諸々の皇子・王・大夫・臣・連・伴造・国造がこれに従った。中大兄は鞍作臣の屍を蝦夷大人に引き渡した。漢直らが大臣を助けるべく、甲を着け武器を持ち軍陣を設営しようとしたが、高向臣に説得され逃げ去った。蝦夷は誅殺されるにあたり、天皇記・国記・珍宝を焼いたが、船史恵尺が国記を取り中大兄に奉った。中大兄は蝦夷と鞍作の屍を葬ることを許した。14日、皇極天皇は軽皇子(皇極天皇の弟)に譲位した。軽皇子は即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子に、安部内麻呂臣を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣に、中臣鎌子連(鎌足)を内臣とした。皇極4年を改め大化元年(乙巳:645年)とした。


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