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57-13.蘇我氏が仏教の興隆を成した [57.蘇我氏の系譜と興亡]

推古元年(593年)に推古天皇が即位し、厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とした。蘇我馬子は引き続き大臣であった。崇仏派の三人が政権の中枢に就いたことで、一気に仏教の興隆が加速した。推古元年(593年)、正月に法興寺の仏塔の心柱の礎の中に仏舎利を置き、心柱を立てた。難波の荒陵に四天王寺を起工した。2年に推古天皇は皇太子と蘇我馬子大臣に「三宝を興隆させるように。」と詔を発している。多くの臣・連は天皇と先祖に報いるために競って仏舎(寺)を建造した。4年11月に法興寺が完成した。大臣の子・善徳臣を寺司に任じた。高麗の僧・慧慈と百済の僧・慧聡は法興寺に住んだ。この二人の僧は仏教を広め、三宝の棟梁(中心人物)となった。12年に皇太子により制定された憲法17条の第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧である。」とある。

 

Z136.飛鳥大仏.png推古13年(605年)、天皇は皇太子・大臣と諸王・諸臣に、銅・繡の二体の丈六の仏像を作るようにと命じ、鞍作鳥に命じて仏像を造る匠とした。14年4月に銅・繡の二体の丈六の仏像が完成した。丈六の銅の像を元興寺(法興寺・飛鳥寺)の金堂に安置しようとしたが、金堂の戸より高く収めることが出来なかったが、鞍作鳥は戸を壊すことなく修めた。天皇は鞍作鳥の功績を称え、近江の国の坂田郡の田二十町を与えた。鞍作鳥は天皇のために金剛寺を造った。これが南淵(明日香村坂田)の坂田尼寺である。14年7月、天皇は皇太子に『勝鬘経』を講じるように仰せられ、皇太子は3日間で説き終えられた。この年皇太子は、また『法華経』を岡本宮で講じた。天皇は喜ばれ播磨国の水田百町を与えられた。皇太子は喜ばれて斑鳩寺(法隆寺)に修めた。

 

推古32年(624年)9月の記事には、「寺と僧尼とを調べて、その寺を造った由来や、僧尼の入道の理由と得度の年月日を詳細に記録した。この時、寺46ヶ所、僧816人、尼569人、合わせて1385人であった。」とある。推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子大臣に、「三宝を興隆させるように」と仰せになってから30年間の間に、仏教が急速に広まり、寺院・僧尼が多大に増加した様子が伺える。近つ飛鳥博物館の『考古学からみた推古朝』によると、推古朝の寺院遺跡から出土する瓦の文様は、素弁蓮華文の内、飛鳥寺式・奥山廃寺式・豊浦廃寺式であるそうだ。これらの文様の瓦が出土する寺院遺跡は、大和24・河内12・山背7・和泉4・摂津1・近江2・武蔵1の51ヶ所あるという。『書紀』の記す、寺46ヶ所も史実である。

 

仏教の興隆は推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三人で成し得たものである。厩戸豊聡耳皇子尊(聖徳太子)は推古29年(621年)2月5日に薨去し磯長陵に葬られ、蘇我馬子大臣が34年(626年)5月20日に薨去し桃原墓に葬られ、推古天皇が36年(628年)3月7日崩御し遺言により竹田皇子の陵に葬られ、三人は極楽浄土の天寿国に旅立っている。蘇我馬子は稲目の嫡男、推古天皇は蘇我稲目の孫であり、聖徳太子も蘇我稲目の曽孫である。仏教興隆は蘇我氏が成したと言える。


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