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57-12.蘇我蝦夷は炊屋姫尊(推古天皇)の子供 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z126.蘇我稲目と馬子.png蘇我稲目・馬子が薨去した年は『日本書紀』に記載されているが、享年については記載がない。『扶桑略歴』には稲目も享年65歳、馬子の享年76歳と記載されている。この享年は稲目・馬子の経歴と齟齬がなかった。蘇我蝦夷が「乙巳の変」皇極4年(645年)で亡くなったときの年齢は、『扶桑略歴』には「蝦夷臨誅自殺。【年□十六。】」とあり、明確ではない。多分、46歳・56歳・66歳の何れかであろう。なお、門脇禎二氏の『蘇我蝦夷・入鹿』に「推古18年(610年)当時の毛人(蝦夷)の年齢は、『扶桑略歴』の諸伝を信ずるならば25歳、父の馬子は60歳であったという。」とあるのは、『扶桑略歴』の「(推古卅四年)同年。蘇我宿祢蝦夷任大臣。卌。」を、「推古34年に40歳で大臣に任ずる。」と解釈して計算している。


Z133.蘇我蝦夷.png表Z133に示すように、蝦夷の享年を46歳・56歳・66歳として、蝦夷の経歴を辿ってみた。蝦夷が『書紀』に登場する初見は推古18年(610年)10月で、新羅・任那の使者が朝廷に拝謁したとき、蘇我豊浦蝦夷臣・大伴咋連・坂本糠手臣・安部鳥子の四人の大夫が使者の奏上を聞き、蘇我馬子大臣に伝える役を果たしている。享年を46歳とすると、蝦夷が大夫の役を成したとき11歳である。親の七光りがあろうとも、11歳では大臣に続く大夫の役は務まらない。

 

蝦夷が享年66歳とすると、皇極元年(642年)に63歳で大臣を拝命したことになり、朝廷に仕える官吏の年齢としては限界の年である。蝦夷が大臣になったとき、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。このため盗賊は恐れて、道に落ちているものも拾わなかった。」と述べている。これらより、入鹿は大臣が勤まる年齢であり、63歳の蝦夷が大臣に就任することも無いように思える。

 

蝦夷が享年56歳とすると、推古18年に大夫の役を勤めた時は21歳であり、親の七光りを考えれば可能な年齢である。蝦夷の享年は56歳で、誕生は590年となる。たとえば、蝦夷が20歳のときに入鹿を生んだとするならば、蝦夷が大臣になった皇極元年(642年)には、入鹿は34齢であり、「入鹿が自ら国政を執り、その権勢は父に勝っていた。」の文章と齟齬はない。

 

Z134・Z135.蝦夷・入鹿系譜.png皇極2年(643年)の記事に「蘇我大臣蝦夷は、病気のため参朝しなかった。ひそかに紫冠を子入鹿に授けて大臣の位に擬した。また、入鹿の弟を物部大臣と呼んだ。大臣(弟)の祖母は物部弓削(守屋)大連の妹である。」とある。この文章は、入鹿の弟・物部大臣の祖母は物部守屋の妹であるが、入鹿の祖母は物部守屋の妹ではないと言っているように思われる。Z136の蘇我馬子・蝦夷の系譜を見ると、入鹿と物部大臣は異母兄弟である。また、物部大臣は物部守屋の妹の孫であるが、入鹿は物部守屋の妹の孫でないと、皇極2年の記事の通りになっている。Z137は欽明天皇と敏達天皇の系譜である。史実の事例がZ136の蘇我馬子・蝦夷の系譜とまったく同じであり、皇極2年の記事は信憑性があると考える。それでは、入鹿の祖母、蝦夷の母、馬子の妻であるMsXは誰であろうか。

 

用明2年(587年)八月、炊屋姫尊と群臣の勧めにより、崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位された。蘇我馬子も前の通り大臣となった。崇峻元年(588年)、百済から仏舎利が献上され、同時に僧6名、寺工(寺院建築の技術者)2名、鑢盤博士(塔の露盤などの金属鋳造技術者)、瓦博士(瓦製作の技術者)4名、画工(仏画製作の画家)1名が献上された。蘇我馬子大臣は百済の僧らに受戒の法を問い、善信尼らを百済に学問をするために遣わし、飛鳥の真神原に法興寺(飛鳥寺)を建て始めた。

 

物部守屋を討伐し、法興寺の建築が始まり、仏法が急速に広がりだしたことは、崇仏派の炊屋姫尊と蘇我馬子大臣にとって大きな喜びであった。二人は幼馴染であり、また炊屋姫尊が3年前に敏達天皇を亡くし独り身(寡婦)であったこともあり、結ばれて崇峻3年(590年)に蝦夷が豊浦の地で生まれた。蝦夷が豊浦大臣と呼ばれるのもこのためである。

炊屋姫尊は35歳、蘇我馬子は38歳であった。

 

崇峻5年(592年)11月、蘇我馬子は崇峻天皇が自分を殺そうと謀っているのを知り、東漢直駒を使って天皇を弑殺させた。群臣が炊屋姫尊に即位してくださるように請うたが、炊屋姫尊は辞退された。百官が上表文を奉ってなおも勧めたところ、3度目にやっと承諾され、12月に炊屋姫尊は豊浦宮で即位して推古天皇となった。宮を豊浦に置いたのは、我が子・蝦夷がいたからである。蘇我馬子は引き続き大臣であった。このことからすると、蘇我馬子は崇峻天皇の弑殺について、事前に炊屋姫尊の了解を得て、炊屋姫尊が皇位に就くよう要請していたのであろう。ある意味においては、崇峻天皇の弑殺は蘇我馬子大臣と炊屋姫尊によるクーデターであった。

 

『上宮聖徳法王帝説』には、「聖徳太子の母・穴穂部間人皇后は、用明天皇が崩御された後、聖徳太子の異母兄の多米王と結婚し、佐富女王を生んだ。」とある。これからすると、「炊屋姫皇后は、敏達天皇が崩御された後、叔父の蘇我馬子と結婚し、蘇我蝦夷が生まれた。」とあっても、問題はないように思えるが、炊屋姫皇后が推古天皇に即位したことから、蝦夷が炊屋姫皇后の子供であることは秘密裏にされ、馬子と物部守屋の妹の子として育てられた。天皇家の長い歴史のなかで、女帝は8人いるが、全員生涯独身か寡婦(夫と死別後再婚していない)である。


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