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26A-1.イネ栽培の起源地は珠江中流域 [26A.イネ栽培の起源地は何処か]

2012年10月5日、国立遺伝研究所は、長年にわたって論争が繰り広げられてきたイネ栽培化の起源地および起源の系統について、イネのゲノム(遺伝情報)の解読を行い、その初発の起源地と栽培化のプロセスを明らかにし、論争に終止符を打つことが出来たと発表した。この研究論文は国立遺伝研究所と中国科学院との共同研究でおこなったものであり、10月3日の英科学誌『Nature』オンライン版に掲載されている。

研究チームは、世界各地から収集した栽培イネ(Oryza sativa1083品種、その起源種とされる野生イネ(O.rufipogon446系統を対象としてゲノム解析を行い、イネの栽培化は中国南西部を流れる珠江の中流域(広西省)で始まり、野生イネ(O.rufipogon)のかぎられた集団からジャポニカ(O.sativa japonica)が生れ、そのジャポニカと東南アジア・南アジアの野生イネとの交配によりインディカ(O.sative indica)が生れたとしている。

 私は2012年1月から「稲の起源はスンダランド」をブログに投稿し、アジアの栽培イネをWaxy(粘性)遺伝子で分類して、イネの栽培化の起源地について述べている。海底に沈んだ大陸、スンダランドのデルタ地帯には野生イネのルフィポゴン(多年生)が群生していた。氷河期の終わりの海面上昇による海水の浸入のストレスで、種子をつけないルフィポゴンが穂を出し、花を咲かせ、種子を実らせた。こうして人類はイネの種子、コメを多量に手に入れた。約1万年前にはルフィポゴンの種子を栽培する人々も出て来た。熱帯においては水辺で栽培するとルフィポゴンは野生に戻り実をつけないが、陸地で栽培するとストレスを受け種子を実らせることを人々は発見し、焼畑での栽培が始まった。これがイネの栽培化の起源であり、陸稲(おかぼ)・熱帯ジャポニカの誕生である。

スンダランドでイネの栽培していた人々は、スンダランドが水没するにつれ、1万~8千年前頃に熱帯ジャポニカの種子をもって海や大陸に逃避した。海洋民族の人々は舟で中国の長江下流域に達し、イネの栽培を行った。温帯の長江下流域は、熱帯のスンダランドと比較して、夏の暑さはそれほど変わらないが、春と秋の気温差は10~12度もある。その温度差にストレスを受けた熱帯ジャポニカは、水辺で栽培しても野生に戻ることが少なく種子を実らせた。長江中・下流域で水田稲作が始まり、温帯ジャポニカが誕生した。一方、メコン川を遡った人々は、タイ東北部のコラート高原で焼畑による熱帯ジャポニカを栽培していた。そこには一年生のルフィポゴン(ニヴァラ)が自生しており、熱帯ジャポニカとニヴァラの交配の繰り返しにより、5千年前の頃にインディカが誕生した。以上が私の考えたイネの栽培化のストーリーである。

イネの栽培化は中国南西部を流れる珠江の中流域(広西省)で始まり、野生イネ・ルフィポゴン(多年生)のかぎられた集団からジャポニカが生れ、そのジャポニカと東南アジア・南アジアの野生イネとの交配によりインディカが生れたとしている国立遺伝研究所と中国科学院との共同研究の結論が真実であれば、私の考えたイネ栽培化のストーリーなど絵そらごとになってしまう。この共同研究の論文を詳細に読み、イネの栽培化の起源が珠江の中流域(広西省)であることが、真実であるかどうかを検証してみる。


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タイラ  フミオ

ブログを拝見させていただきました。
ビックリしましたのが、小生の自説とソックリなのです。
勿論、小生は、好き勝手に書いているだけで、先生のような、博識も無ければ、真剣に調査したわけでもありません。
しかし、従来の伊都国を糸島市(旧前原市)に比定した考え方に大きな疑問を持っておりました。
小生、定年(現在65歳)まで、某航空会社で旅客機の機長をしておりましたが、古代であっても、方位を間違えばトンでも無いことだと、考えておりまして、東南500里の伊都国は、佐賀大和近辺しかあり得ないと考えておりました。更にここから南へ水行となりますと、有明海しか他に倭人伝の記述を満足させる地点は無いと考えておりましたので、先生の説を拝見しまして、驚いている次第です。
今後も是非拝見させていただきたく存じます。
尚、小生はパソコンが苦手で簡単なブログしか書けませんが、タイラの邪馬台国高千穂説ぼタイトルで時々書き込んでおります。
先生の説と比べますと、あまりにも稚拙で恥ずかしいのですが、たまに目を通して頂ければ光栄です。
by タイラ  フミオ (2014-05-11 17:13) 

タイラ  フミオ

質問です。

先生は、その余の21国について、コメントされておられますが、実は小生も調べてみました。

240年頃の地名なら、好字二文字令が出されたと言っても、当時の地名が残っている国もいくらかは、あるのではないでしょうか?

県主・国造等、全国のものを調べましたが、好字令以前の地名が現在まで残っている処が、半数近くあります。

しかし、その余の21ヶ国に類似するような地名はありませんでした。

ここら辺について、先生のお考えを教えて頂きたいのですが?

宜しくお願いします。



by タイラ  フミオ (2014-05-11 19:31) 

t-tomu

伊都国に関して、同じ考えを持たれている方がおられることに心強く思います。風土記について調べているときに思いついたのですが、何故唐津市が福岡県でなく佐賀県であるのか。筑前国でなく肥前国に所属していたのか。もっと遡っても、筑紫国でなく肥国であったとされている。交通手段、道路事情が未発達の時代から、唐津と有明海へのルートは開かれ、唐津市から福岡市に行くよりはるかに容易であったのだと考えます。唐津市は佐賀県。このことが「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」が、唐津市より有明海に抜けるルートである証拠だと思っています。
卑弥呼は共立され邪馬台国連合国の女王となったので、「その余の21ヶ国」は連合した国々で、その東のはずれが、吉備であり出雲であると考えます。弥生時代の地域社会は地形によって分かれていたのでしょうが、その連合国の国々は、後世に縣主や国造が統治する地域に近いものであったと考えます。ただ、地名の呼称についはあまり調べたことはありません。中国語は表音文字であり、中国の当時の発音で探さなければならないのかも知れません。
by t-tomu (2014-05-13 19:05) 

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