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38-2.書紀は多くの漢籍を引用している [38.日本書紀の述作者は誰か]

『日本書紀』の撰者が、その編纂に際して、数多くの漢籍(中国の書物)を利用しているが、小島憲之氏は『上代日本文学と中国文学』(昭和37年)に、その出典を明らかにしている。その主だった出典について、森博達氏の言葉と表記で分類したα群・β群・巻30の三区分に沿ってまとめて見た。『藝文類聚』は武徳7年(624年)に唐の高祖の勅を奉じて撰した百科事典。『文撰』は中国南北朝時代、南朝梁(502~557年)に編纂された詩文集。「金光明経」は唐の義浄が長安3年(703年)に漢訳した『金光明最勝王経』のことである。 

     神代  神武~ 雄略~ 推古・ 皇極~ 天武 持統

                    上下  安康  崇峻  舒明  天智  上下 

β群  β群  α群  β群  α群  β群 巻30

漢書            0   6   5   1   1   0   1 

後漢書              1   2   1   2   2   1

三国志   0   1   4   0   3   0   0 

藝文類聚  1   3   6   0   1   0   0

文撰    0   2   3   0   3   0   0 

金光明経  0   0   4   0   0   0   0

----------------------------------------------------------------------------------------------- 

述作者        ー             B(B1)  C  B(B2)  C   D

  
『書紀』に引用されている漢籍から見ると、述作者は神代を別にすると、神武紀から安康紀のβ群を書いた述作者Aと、雄略紀から崇峻紀と皇極紀から天智紀のα群を書いた述作者B、推古紀・舒明紀と天武紀のβ群を書いた述作者C、持統紀の巻30を書いたDの四人がいることが分かる。ただし、α群の雄略紀から崇峻紀を書いた述作者は、『金光明最勝王経』に造詣が深い人物と思われ、α群は述作者B1と述作者B2の二人がいたのかも知れない。 

引用している漢籍から見ると、神武紀から安康紀には、三国志・藝文類聚・文撰が引用されているが、推古紀・舒明紀と天武紀の両方には、それらが引用されていない。神武紀から安康紀のβ群を書いた述作者Aと、推古紀・舒明紀と天武紀のβ群を書いた述作者Cに分かれることは明らかであり、森博達氏がβ群を書いた述作者を、山田御方一人としているのは納得がいかない。 

また、雄略紀から崇峻紀には『金光明最勝王経』が、顕宗・武烈・継体・欽明紀に引用されている。『金光明最勝王経』が唐の義浄により漢訳されたのが長安3年(703年)10月である。森博達氏は、α群は持統朝(687~696年)に書かれたとし、述作者Bを正音・正格漢文が書ける唐人として、雄略紀から崇峻紀を書いた述作者B1が続守言、皇極紀から天智紀を書いた述作者B2が唐人の薩弘恪としている。しかし、『金光明最勝王経』が漢訳されたのは703年であり、持統朝より後である。まして、文武4年(700年)には、続守言は引退もしくは死亡したものと見られている。α群は持統朝に書かれ、述作者は唐人の続守言・薩弘恪であるとする、森博達氏の説は成り立たないと思う。
 

新しい「儀鳳歴」で書かれた神武紀から安康紀までは、文武朝以降に述作されたことが分かるが、雄略紀から持統紀までが古い「元嘉歴」で書かれているからと言って、これらの巻が「元嘉歴」を採用していた時代、698年以前に書かれたものであることを意味しないと思う。703年に漢訳された『金光明最勝王経』の引用が、それを証明している。

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コメント 4

いしやま

金光明最勝王経の引用について、興味深く拝見しました。遣唐使として、粟田真人が漢籍を大量に持ち帰ったことは、713年以降になるようですが、そのあたりどうなのでしょうか。
引用・・・・・開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には
「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。
日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。・・・・・

by いしやま (2014-01-11 19:58) 

t-tomu

いしやま様、私のブログを丁寧にお読みいただき有難うございます。703年に遣唐使として派遣された粟田真人が帰国したのは704年7月です。引用いただいた『旧唐書 日本紀』にあります「開元の初め・・・」は、717年の遣唐使のことだと思います。このときの随行者には玄昉・吉備真備・阿倍仲麻呂がいました。阿倍仲麻呂は唐に留まったので、書籍を購入し持ち帰ったのは前者の二人のどちらかではないかと思います。なお、1月31日に「金光明最勝王経は粟田真人が持ち帰った」を公開する予定です。
by t-tomu (2014-01-13 15:37) 

いしやま

回答ありがとうございます。
藤原不比等が漢籍に詳しいというような評説を見ますが、遣唐使として渡海もしていないのに、そんなことができるものでしょうか。そもそもこの時期に藤原氏が勢力を持っていたなどということは、考えられないような気がするのですが。また藤原氏の根城となる土地はどこにあるのでしょうか。
by いしやま (2014-01-21 22:14) 

白壁

藤氏家伝は貞観政要を引用しているというような話を聞いたのですがそんなことがありますでしょうか。
by 白壁 (2014-10-12 06:02) 

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