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36-6.法隆寺五重塔の心柱の謎を解く [36.法隆寺の謎を解く]

D14法隆寺五重塔.jpg世界最古の木造建築と言われている現存の法隆寺(西院伽藍)が、607年頃の創建当時のものか、670年に全焼した後に再建されたものであるかの議論は、四天王寺式の「若草伽藍」の寺院址の発見で、再建されたものであることが決着した。法隆寺西院伽藍は和銅4年(711年)までには完成していたと言うのが通説となっている。 

平成13年に奈良文化財研究所の光谷拓実氏は、法隆寺五重塔の心柱、直径約78㎝の八角形のヒノキ材を年輪年代法測定し、594年に伐採されたものであると発表している。これは法隆寺再建より100年も古く、心柱は他の寺から移築したとか、木を寝かせていたものを使用したとか、様々な説が発表されている。法隆寺五重塔の心柱も法隆寺の大きな謎のひとつである。
 

D15法起寺三重塔.jpg法起寺三重塔は明治時代に解体修理された。そのとき腐朽していた心柱の根元を切断した。それは直径約70㎝の八角形で、最外周が心材のヒノキ材であった。その心柱を年輪年代測定した光谷氏によれば、法起寺三重塔の心柱は、法隆寺五重塔の心柱の年輪パターンと酷似しており、両方の心柱は同じ産地から供給された木材であろうと推察されている。
 

木材の断面は最外周が樹皮、その内側が辺材・心材・髄となっているが、法起寺三重塔の心柱は辺材がまったくないのである。法隆寺五重塔心柱の樹皮直下まである辺材の最大幅は3
.6㎝である。この辺材幅が法起寺三重塔の心柱の木材にもあったとすると、法起寺三重塔心柱の木材は、約78㎝(70+3.6x2+α)の心柱が取れる木材であったことになる。法起寺三重塔の心柱の木材は、法隆寺五重塔の心柱とほぼ同じ大きさのヒノキであったのである。 

光谷拓実氏は、法起寺三重塔心柱の年輪年代を「572年+α」と測定している。この年輪年代は伐採年代ではない。法起寺三重塔の心柱は、最外周が心材であるから、伐採年代は「辺材年輪数+削除された心材年輪数+年輪年代」となる。法隆寺五重塔の心柱の測定データーから読み取ると、辺材幅が3
.6㎝の年輪数は約35層であった。また、削除された心材年輪数を数年と考えると、法起寺三重塔心柱の伐採年代は、約610年頃となる。 

「法起寺塔露盤銘文」には、法起寺三重塔は685年に塔を建て始めたとあり、その塔の心柱の伐採年代が約610年頃であることからすると、法起寺の塔の心柱は、三重塔の建立より約75年間も古い木材が使用されたことになる。法隆寺五重塔の心柱が法隆寺再建より100年も古い木材を使用していたことと同じで、両者共に長年寝かされた木材を使用していた。
 

奈良時代成立の『法隆寺資財帳』には、丁卯年(推古15年、607年)に推古天皇と聖徳太子が「法隆学問寺、四天王寺・中宮尼寺・橘尼寺・蜂岳寺・池後尼寺・葛城尼寺」の七寺を建立したとある。「建立」を「建立の詔」と考えると、伐採年代が約610年頃の法起寺三重塔の心柱は、この推古15年(607年)の「詔」により伐採されたものであると考えられる。
 

『書紀』推古2年(594年)に、「皇太子と大臣に詔して、仏教の興隆を計られた。このとき、多くの臣・連たちは、君や親の恩に報いるため、競って仏舎を造った。これを寺という」とある。伐採年代が594年の法隆寺五重塔の心柱は、この推古2年(594年)の「詔」により伐採されたものであろう。
 法隆寺五重塔の心柱は100年も寝かされた木材を使用している。その伐採木材が何故そのように長い年月寝かされていたのかは解からない。ただ、法起寺三重塔の心柱が75年も、法隆寺五重塔と同じように寝かされていた木材を使用していることが、法隆寺五重塔の心柱の謎を解くヒントになるであろう。
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白壁

四天王寺は知りませんでしたが、調べるてみると次のようでした。
 593年 推古元年。四天王寺着工
 594年 五重塔心柱。仏教興隆の詔
 601年 斑鳩宮造営
 617年 聖徳太子、熊凝寺を建てる
 639年 舒明天皇、百済大寺を建てる
創建時期は、四天王寺の出土瓦から四天王寺は620年ころとされるようなので、推古、聖徳太子、天智まではフィクションとなってしまうようですが どうなのでしょうか。

by 白壁 (2014-09-10 19:02) 

t-tomu

『日本書紀』によると、推古元年(593年)の1月に法興寺(飛鳥寺)の心礎に仏舎利を安置し、塔の心柱を建ています。そして、その年の最後に「是歲、始造四天王寺於難波荒陵」、「この年、はじめて四天王寺を難波の荒陵に造り始めた」とあります。
「造り始めた」とはどういうことをいうのでしょうか。聖徳太子が四天王のための寺塔を建てると誓ったのが、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした用明2年(587年)のことです。物部守屋の邸宅が難波にあったことからすると、四天王寺の敷地(難波荒陵)は物部一族のものだったかも知れません。593年の四天王寺着工は、寺院の地盤整備、あるいは用材の伐採くらいではないでしょうか。
コメントにあります「594年五重塔心柱」の記事は『日本書紀』にはありません。推古元年の次に四天王寺の事が出てくるのは、推古31年(623年)の「新羅あるいは任那が奉った舎利・金塔・観頂幡などを四天王寺に納めた」という記事です。これより、623年には四天王寺は完成していたことが伺えます。
たとえ、四天王寺の創建瓦が620年頃であったとしても、『日本書紀』と間に齟齬はないのではないかと考えます。

by t-tomu (2014-09-11 16:24) 

白壁

近江京について探しましたが、適当なところがありませんでしたので、ここに書きます。よろしくお願いします。
崇福寺が天智設立とされていますが、根拠はわかりますでしょうか。崇福寺は聖武の時に出てくるようなので、そこで設立したようなのですが、桓武、嵯峨との関係を含めて良く分かりません。よろしくお願いします、済みません。
by 白壁 (2014-09-16 04:23) 

白壁

聖徳太子つながりで、お尋ねしたいのですが。
川原寺は大寺として重要視されながら、何故、成立時期さえ書かれていないのでしょうか。対して、百済大寺は、聖徳太子以来の流れを示すためだけに存在しているようなのに、前後の経緯を含め何故詳しいのか、作為的としか思えませんがどうでしょうか。
by 白壁 (2014-09-16 04:40) 

t-tomu

百済大寺について『日本書紀』は、舒明天皇11年7月に「造作大宮及大寺」とあり、12月に「於百濟川側建九重塔」とあるのみで、聖徳太子との関係は述べていません。川原寺・百済大寺などについて調べたことがありませんので悪しからず。
by t-tomu (2014-09-17 11:41) 

白壁名

法起寺、法隆寺ともに、芯柱が100年近く放置されていたとは考えにくく、その年代付近で立てられたとすることが正当と思います。その際に一つの問題は複弁蓮華丸瓦、ヤマト地域では、川原寺以後に複弁が入り出し、藤原京で全部複弁になったという様子です。もともと複弁は隋・唐様式のようなので、600年頃から交流があった地域では、素弁と並列存在と考えられるようです。そうなら百済から入ったヤマト以外はそれが入っていたとしても、不思議はありません。そうすれば、その地域で法隆寺、法起寺が複弁で作られ、後に移設されたとすれば、すんなり理解できます。仏像銘通り法興年代建立、どうなのでしょうか。
by 白壁名 (2014-09-24 07:34) 

t-tomu

白壁様は大宰府の観世音寺が法隆寺に移築されたと考えておられるのでしょうか。話としては面白いのですが、史実であるかどうか、私は疑問を持っています。それは、日本書紀に書かれた歴史が大筋では史実に近いのではないかと、私は考えているからです。
by t-tomu (2014-09-24 15:38) 

白壁

観世音寺のことは、それは良く分かりません。川原寺の建立時期は、584頃から674年までのようで、650-660年頃ということは可能なようです。そうなれば何故日本書紀がそのことを書けなかったのかが分かります。天智の近江京の話は成立しなくなるわけです。それはどうなのでしょうか。法隆寺の成立もそれに近いものとなると思います。
by 白壁 (2014-09-25 17:58) 

白壁

薬師寺は吉備から移設ということはないのでしょうか、賞田廃寺というのがありますが。
by 白壁 (2014-10-05 05:49) 

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