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34-6.大友皇子の漢詩に「皇」がある [34.「天皇号」の成立を解く]

『懐風藻』は日本で最古の漢詩集である。選者は不明だが、序文には天平勝宝3年(751年)に完成したとある。天智天皇の御代から奈良時代にいたるまでの作者64名、120編の詩文を治めている。その第一番目の詩が大友皇子の詩である。大友皇子は天智天皇の第一皇子で、壬申の乱において叔父・大海人皇子(天武天皇)に敗北し自害している。大友皇子の漢詩の現代訳は、『懐風藻』(講談社学術文庫)、江口 孝夫による。
  皇明光日月  天子の威光は日月のようにこの世に光り輝き
  帝徳載天地  天子の聖徳は天地に満ちあふれている
    三才並泰昌  天・地・人ともに太平で栄え
  万国表臣義  四方の国々は臣下の礼をつくしている 

この詩が詠まれた年月の記載はないが、表題には「侍宴」とあり、天智天皇の宴で、天皇の徳をたたえ、威光をのべ、隆盛を祝福している。『書紀』によれば、天智天皇は斉明天皇が崩御されてから、即位式を上げないで政務をとられていた。この間に白村江の海戦があり唐に敗れている。
そして、天智7年(668年)1月3日に即位され、7日に内裏で群臣を集め宴が催されている。漢詩の内容からすれば、この宴で大友皇子が詠ったのであろう。 

この詩の「皇明」とは、天皇の威光という意味であると江口氏は解説しており、「皇」のみならず、「天皇」の語も天智7年(668年)には存在していた可能性があると思われる。683年以前と考えられている「天皇」木簡より以前に、「皇」の語が漢詩に詠われていた。大友皇子の漢詩は、唐の高宗が674年8月に採用した「天皇大帝」の称号は、倭国の「天皇号」成立の源流ではなく、倭国独自で称号として使用したことを証明している。

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コメント 4

白壁

柿本人麻呂には大王表記の歌があります。天皇ができてから、大王と表記することはありうるでしょうか。天皇があるとすれば、人麻呂の歌はそれ以前に詠まれていたことになります。つまり人麻呂は天皇成立以前の人ということですが、そんなことはありうるでしょうか。
by 白壁 (2014-09-18 08:34) 

t-tomu

天平勝宝7年(755年)、兵部少輔として防人管轄の任に当たっていた大伴家持が難波において詠んだ歌があります。
「天皇乃 等保伎美与尓毛 於之弖流 難波乃久尓々 阿米能之多 之良志賣之伎等 伊麻能乎尓 多要受伊比都々 可氣麻久毛 安夜尓可之古志 可武奈我良 和其大王乃・・・」。
訓読では「天皇の遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ かけまくも あやに畏し 神ながら 我ご大王の・・・」。
755年でも「天皇(すめろき)」を「大王(おほきみ)」と呼んでいます。

by t-tomu (2014-09-18 21:18) 

白壁

大変ありがとうございました。当方不勉強ですみませんでした。次について、もしご存知でしたらお教えいただければ幸いです。
難波京出土の歌木簡は一字一音表記のようなので、略体歌を知る人麻呂はこの辺りまで遡る人ではないかと思いました。人麻呂の歌は呉音表記であるという記事も見ましたので、漢音なしの時代に成人したとすれば、唐との交流の始まる時点、620年頃になると思いますが、どうなのでしょうか。
たびたびですみません。

by 白壁 (2014-09-20 05:00) 

白壁

懐風藻の大津の漢詩は桓武頃以降の漢籍によるという話もあるようです。
713年の遣唐使は、唐に記録が残されていた。日本では消されてしまった。
この時に国書で伝えられていたものが、天皇号の始まりである総持から阿用への継承であった。
それ以前は大王であり、総持からが富本銭を発行し七曜紋を持つ、大官大寺、藤原京を作ったものだった。しかしこの天皇制定の歴史は奝然の時代までに改竄され、時の政権の意向を受けて改めて奝然により、一系の王統が唐に伝えられた。しかし国書によりそれと同時代にすでに伝えられていた王統と対比することで、総持--文武--阿用---聖武  として新唐書に残された。日本書紀による王統は 天武-持統-文武-元明-元正-聖武 であるのだが・・・・・・・・。


by 白壁 (2015-12-30 09:44) 

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