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34-5.「天皇」の源流は高宗の称号でない [34.「天皇号」の成立を解く]

新羅と唐は648年に羅唐同盟を結び、663年に白村江の戦いで百済と倭国の連合軍を破り、668年には高句麗を滅ぼすことに成功した。しかし、唐が朝鮮半島全体を支配しようとしたので、唐と新羅は対立し羅唐戦争(670~676年)が起こっている。これらは、唐は高宗(650~683年)で、新羅は文武王(661~681年)の時代である。新羅の文武王は弟の金仁問を人質として唐に送り込み、また戦をしながらも謝罪使を派遣するなど巧みな戦術を取っている。そして、主要な戦いで唐を打ち負かし、676年には高句麗・百済の地を支配下におき朝鮮半島を統一した。 

この文武王と金仁問の墓碑に、唐の高宗を指す「天皇大帝」の文字が刻まれてある。文武王の碑は1796年に慶州の農民が発見している。この「文武王陵碑」には、表面では新羅の国土の境界と由来、太宗武烈王・文武王の事績、百済平定を記し、裏面では文武王の遺言とその葬儀などを記している。その葬儀に関する箇所に「天皇大帝」の文字がある。この碑の建立年代は、文武王が亡くなった翌年の682年7月25日とされている。
 

『三国史記』、『三国遺事』によると、文武王が681年7月1日に薨去し、7月7日に長子の神文王が即位した。同年唐の高宗が使者を派遣し、王を冊立して新羅王とし、先王の官爵を襲名している。このことは『旧唐書』本紀巻5高宗下に開耀元年(681年)10月22日の条に記載されている。「文武王陵碑」に書かれた「天皇大帝」の文字は、高宗が神文王を新羅王と冊立した681年10月22日付けの勅書に使われていたと考える。この勅書に使用された「天皇大帝」の情報が倭国に伝わったであろうか。
 

『書紀』によると、新羅と倭国の間の往来が、天武4年(675年)から毎年行われているが、681年10月22日以後で、新羅と倭国の間に往来があったのは、天武12年(683年)11月13日に新羅が調を奉ったときである。たとえ「天皇大帝」の情報がこの11月13日に倭国に伝わったとしても、この情報で683年中に木簡に「天皇」表記がなされるまでに至ったとは考え難い。木簡の「天皇」表記が先であったと可能性が遥かに高いと思われる。「文武王陵碑」に書かれた「天皇大帝」の文字が、天皇号の成立に関わることはなかったと考える。
 

なお、文武王の弟の金仁問の墓碑にも「高宗天皇大帝」の金石文字がある。金仁問は694年4月に唐で亡くなり、唐の中宗は遺体を新羅に送っている。そして翌年の10月に慶州に埋葬されている。金仁問の墓碑にある「高宗天皇大帝」の文字は、天皇号の成立に関わることはなかった。

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