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4-4.有明海に侵出した奴国 [4.卑弥呼は何故共立されたか]


魏志倭人伝に記載された伊都国が糸島平野、奴国が福岡平野・春日丘陵であると定説化したのは、三雲遺跡・井原鑓溝遺跡・平原遺跡・須玖岡本遺跡があるからであり、不弥国が嘉穂盆地に比定されることが多いのも立岩遺跡があるからであろう。これらの遺跡から出土する鏡は、前漢・新・後漢前期の鏡であり、卑弥呼の活躍した魏の時代の鏡ではないのである。魏の時代の奴国は、前漢鏡をもらった前漢時代、金印を貰った後漢時代の奴国と変わっているはずだ。
                             
魏志倭人伝の初めの文章は「倭人は帯方東南の大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通じる所三十国」。また「その国、本また男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」とある。前漢の時代から卑弥呼が登場する間に、百余国の国々が、30ヶ国に集約されている。 

後漢書に「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。」とある。桓帝は147年から167年、霊帝は168年から188年であるので、倭国が乱れたのは160年から188年の頃であったと考えられている。この頃に倭国の盟主である奴国が、筑紫平野に向かって領土を拡張していったのであろう。そうなると連合国を束ねる箍(たが)が緩み、倭国乱れ、相攻伐することになったと思われる。邪馬台国の卑弥呼が共立される頃には、奴国は有明海沿岸まで勢力を伸ばし、三国時代には八女に都を置いていたと考える。                                                              

さて、時代は下るが継体天皇21年(529年)に、筑紫の国造筑紫磐井が大和朝廷に反乱を起こしている。この反乱は肥前・肥後。豊前・豊後の地域、現在の福岡県を中心として、大分県・佐賀県を含む広大な地域であった。筑紫磐井は一年半の戦いの後、大和朝廷の派遣した物部麁鹿(あらかい)によって磐井の本拠地である筑紫国三井郡(久留米市)で討ち取られ、反乱は鎮圧された。磐井の息子筑紫君葛子は糟屋(福岡市)の屯倉を献上して死罪を免れたという。
 

筑紫国風土記には上妻の県(八女市)に筑紫磐井の墓があり、裸で地に伏している石人や石馬がいると書いている。風土記に記載された通りの石人・石馬のある前方後円墳が、八女市吉田にある岩戸山古墳である。また、石人・石馬のある古墳の分布と磐井が起こした反乱の地域と一致している。大和朝廷に一年半も反逆した謀反人が、全長180メートルにおよぶ北九州最大規模の墓に葬られていることは、筑紫磐井を九州の一豪族ととらえたのでは理解出来ない。筑紫磐井は大和朝廷の総本家筋の奴国の末裔であり、大和朝廷にとっては息子筑紫君葛子に糟屋の屯倉を献上させただけで、筑紫磐井の領土であった筑紫の国、もとの奴国も取り上げることも出来ず、また磐井の墓を造ることも黙認したのではないだろうか。 

図9奴国の範囲.jpg倭国の元となった奴国は、弥生中期の始め、秦の時代に早良平野の吉武地区で興り、弥生中期、前漢(前漢鏡)の時代には福岡平野・春日丘陵と勢力を伸ばし、弥生後期、後漢(後漢鏡)の時代に糸島平野・嘉穂盆地を取り込み、奴国連合国の盟主となって、数代の間倭国王を務めた。弥生終末期、三国時代が始まると有明海側まで侵攻した。盟主の奴国が強権的になると、その連合が崩れ、倭国の国々が互いに争そうことになった。戦いが長く続き、倭国の国々は邪馬台国の卑弥呼を共立する。その後奴国は、邪馬台国(女王国)連合国の一員と成り下がり、邪馬台国が東遷して大和の地に建国して、日本全土を統一して行った段階で、筑紫の国造りとして生き残り、筑紫磐井の乱で衰退する。これが、奴国興亡のストーリーである。        (図をクリックすると大きくなります)

「邪馬台国が東遷して大和の地に建国」は、今後証明していく話である。 
                    


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