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3-4.伊都国は東南の方角にある [3.邪馬台国を解く]

 ここで魏志倭人伝の世界に立って、「方角」について考えてみる。このためには二つの前提条件が存在する。一つはこの時代、方角を調べるための磁石はなかった。二つ目は、地図は無かったということである。魏志倭人伝に書かれた方角には、「東」「南」「北」「東南」「南北」がある。「西」の文字は出てこないが方角としては、東西南北と、東南、東北、西南、西北の八方位があったと考えられる。東南東、南南東と言う十六方位の概念は無かったのかも知れない。それからすると、例えば、東南とは「だいたい東南の方角」と言う程度と考えたい。 

磁石のない時代、これらの方角は何によって決めたのであろうか。「北極星が北を指す」、北極星は日中の旅程の方角としては役に立たない。「日の出る方向が東、日の沈む方向が西」、日の出、日の入りの方向が日中の旅程の一番の目安になったであろう。しかし、春夏秋冬では日の出る方向、日の沈む方向が違い、東西の方向は明確でない。古代人は現代の我々よりも太陽の動きについては、詳しかったと思われる。我々は知識としては古代人より詳しいが、実際の天体の動きは、古代人のほうがよく観察していたであろう。現在でも自然を相手とする漁師は、太陽、月、風、雲の動きには非常に詳しい。私は魏志倭人伝に書かれた時代の方向感覚は、「日の出る方向と日の沈む方向の中間が南北」という知識で、いつの季節でも正確に南北の方角を示す事が出来たと考える。 

また、一つの国から他の国の方角を示す場合、出発地点からみて最も目的地に近い、目で見える目標物がその国のある方角となる。具体的に言うと、それは、山の頂や、山と山の間の峠あるいは谷筋が多い。目的地が山や峠を超えてから、方向を大きく変える場合でも、その国の方角は出発地点から見える最も遠くで、通過する付近の目標物、山の頂や峠の方向を指し示すであろう。 

図3吉野ヶ里遺跡.jpg
それでは伊都国への道をたずねたい。「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。唐津市から「東南」の方向とは、松浦川に沿った国道203号線、佐賀市に抜ける唐津線が通るルートしかない。唐津市から松浦川沿いに約25キロメートル程度で厳木(きゅうらぎ)町に着く。魏志倭人伝の末盧国の様子に「草木茂盛して行くに前人見えず」とあるが、松浦川沿いの道はピッタリである。厳木町から200メートルの峠を登ると、もうそこは玄界灘と有明海との分水嶺である。峠を下った所が多久市、そこから10キロメートルで、羊羹で有名な小城市に入る。そこから東15キロメートルの所に、日本中の古代史に興味を持つ人、いや、そうで無い人も含めて、注目を集めた吉野ヶ里遺跡が存在する。 


私はこの吉野ヶ里遺跡こそ伊都国であると考える。末盧国からの方角としては、前述した魏志倭人伝の方角に関する定理「出発地から見て最も遠い、通過する付近の見える目標物、山の頂や峠の方向」で考える。末盧国に特定した唐津市からの目標物としては、松浦川の谷筋、あるいは筑紫山地の天山(1046メートル)と考えると、末盧国からまさに東南の方向に見えるのである。
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コメント 6

maeki

私も伊都国は吉野ヶ里だと思います。
それだけに、糸島地域で「伊都」の名称を使った施設等が多いことが気になり(心配になり)ます。
by maeki (2011-10-31 20:16) 

t-tomu

私の気持ちもコメントに書いていただいた通りです。糸島地域が「伊都」と呼ばれていたことは、日本書紀の仲哀紀をみれば明らかです。
カテゴリー「5.伊都国の謎を解く」の「5-3.筑紫の伊都の県主」に、何故糸島地域が「伊都」と呼ばれるようになったかを書いています。
「伊都国が吉野ヶ里」、これが私のブログの原点です。
by t-tomu (2011-11-05 17:00) 

ミッキー

図3を見ると、壱岐から九州北岸まで約100キロ。うっすらと九州の北岸の海岸が視認できる距離ですね。
「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」
これを壱岐の土地から、水先案内人?が説明したとすると、今まで南に向かって来たのですから、
さらに南は、最短の岸である、まつらの土地が見えているわけですが、離れた東南の海岸を指差して、
「東南に行けば伊都国に到る。まつらから陸を歩けば五百里」と。
by ミッキー (2013-12-19 17:05) 

t-tomu

魏志倭人伝に書かれた方角を釜山を基準とすれば、「南」に対馬国(対馬)・一支国(壱岐)・末盧国(唐津市)があり、「東南」に伊都国(前原市)・奴国(福岡市)があると考えられます。しかし、奴国から百里の不弥国を「東」と考えることには無理があるように思えます。
壱岐を基準にすれば、「南」に末盧国(唐津市)、「東南」に伊都国(前原市)・奴国(福岡市)、「東」は不弥国(北九州市)と考えられますが、「南」の投馬国を出雲と考えることは出来ません。
邪馬台国の女王卑弥呼がいた弥生時代の終わり、出雲・吉備は注目すべき地域であります。魏志倭人伝に言う「これ女王の境界の尽きる所なり」こそ、邪馬台国の連合国の東端の出雲・吉備であると、私は考えています。
by t-tomu (2013-12-25 07:20) 

ホケ老

九州北岸から「東南陸行五百里」にして「津」ある所、且つフミ国&奴国を勘案した時には、この地域以外に伊都国は考えられせんネ。

定説論者」の多くは「東南陸行五百里」に触れず突然に、「伊都国は・・・」と前原市辺りを比定地に・・・・。または、方角について「実は・・・」と我田引水の解釈。
少なくとも、海の近くにある「前原市辺り」へ行くのになぜ「陸行五百里」だったのか?。これの必然性を説明しなければならないと感じています。

多々ある邪馬台国論は伊都国の比定地が「????」のまま、ここを出発点に考察するから、その論の全体が「????論」になってしまっている。
言い過ぎでしょうか?

胸のすく思いで、有り難く記事を拝読させて頂きました。


by ホケ老 (2017-01-16 13:47) 

淤能碁呂太郎

まず、前提条件である「地図」はない。これには賛成です。あったとしても、非常に粗末。使えるものじゃありません。ただし、「磁石」これについては、私は違う意見をもっています。みなさん、魏志倭人伝の時代に磁石がないと断定されますが、そんなことありません。方角を測るための磁石「指南魚」は、すでに1世紀ごろからあります。磁性をもった鉱石、磁鉄鉱は紀元前から朝鮮南部から産出されます。なかったのは羅針盤であり、方位盤と磁石が一つの機械として一体となったものが登場したのが、11世紀というだけです。私は、いろいろな遺跡の位置関係、方位関係を調べるうち、古代人が磁石を駆使して驚くほど正確に方位を測れたことを実感しています。yahooやgoogle地図で検証してみると間違いありません。
では、なぜ実方位と記述方位が違うのか?海洋考古学者の茂在虎雄は、「今と方位観念が45度ほどずれている」と著書に書いています。私は、45度ではなく約30度であると思っています。それは、夏至の日出方位を「真東」とする方位観念です。
これは、似たようなことをおっしゃる方もいますが、なにも魏の使いが夏に出発したからということではありません。太陽信仰を基盤とした、方位観念であったということです。最も太陽の勢いが盛んになる日の日の出方位を、最も尊いものとしたのではないでしょうか。当然、南も現在の真南から30度東に振ります。これを基準にすれば、全ての方位のずれの謎が解けます。「南」→南南東、「南東(東南)」→東南東、「東」→東北東と考えることができます。松浦国も伊都国も奴国も不彌国も、今考えられている場所として何の問題もありません。「邪馬台国は会稽陶冶の東」の記述も、南西諸島ではなく九州本島ということになります。
一里の長さも、「長里」と「短里」の観念の違いがあるように、方位も「北極星基準方位」と「夏至日の出基準方位」の二種類があったと考えると魏志倭人伝の方位・距離観念が一貫して、しかも正確なものとなります。
by 淤能碁呂太郎 (2017-06-12 23:39) 

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