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60-5.終末の前方後円墳を探す [60.古墳時代の終焉]

前方後円墳が600年には終焉を向かえるとすると、終末(古墳時代後期後半)の前方後円墳はどれであろうか。終末の前方後円墳はTK43あるいはTK209の須恵器を出土する古墳となるが、古墳から出土する全ての須恵器の型式が分っているわけでもない。そこで、後期古墳および終末期古墳から出土する須恵器の器種(提瓶・平瓶・長頸壺・台付長頸壺)について、須恵器の型式別に層別した。また、飛鳥時代(TK217古・飛鳥Ⅰ新)から登場した、宝珠つまみ付き杯(G杯)の原型となった銅椀も調べ表Z163にまとめた。ひとつの古墳から複数の型式の須恵器が出土している場合、型式が離れている場合は古い型式に層別し、前後する2型式が出土している場合は、その数を0.5に按分して層別している。

Z163.須恵器と銅椀.png表163において、台付長頸壺が墳時代後期後半の指標となることは明らかである。平瓶のTK10/MT85にある2個はMT85でありTK43に近いものと判断し、平瓶を古墳時代後期後半の指標とした。銅椀のMT15は佐賀県唐津市の島田塚古墳、TK10は熊本県宇城市の国越古墳、奈良県天理市の星塚2号墳のものである。この3例は一般的に銅椀が普及する以前に、朝鮮半島から入手したもので例外として、銅椀を古墳時代後期後半の指標とした。また、古墳時代後期後半や終末期古墳には切石を使った横穴式石室が登場する。切石積みの横穴式石室を指標とした。全国の前方後円墳をTK43・TK209・平瓶・台付長頸壺・銅椀・切石の要素でシービング(篩い分け)をすると、147基の古墳後期後半(6世紀後半)の前方後円墳が明らかになった。

近つ飛鳥博物館の『考古学からみた推古朝』には、畿内と東国の終末の前方後円墳が記載されているが、末尾の表164にはそのほとんどが網羅されている。表164で古墳後期後半の前方後円墳を府県別でみると、関東・東北では福島3、栃木7、群馬14、茨城5、千葉25、埼玉7、東京1、神奈川1、東海・中部・北陸では愛知5、長野1、福井2、近畿では三重4、滋賀3、京都2、奈良18、大阪8、兵庫4、和歌山2、中国では岡山6、広島1、鳥取県10、四国では香川1、愛媛4、高知1、九州では福岡7、佐賀3、大分1、宮崎1である。

古墳後期後半の前方後円墳が都道府県で最も多いのが千葉県の25基で、要素としては平瓶が9基、TK209が7基、切石積が7基、銅椀4基である。(ひとつの古墳で重複しているものもある。)第2位が奈良県18基で、TK43が12基、台付長頸壺5基である。第3位が群馬15基で、切石積5基、銅椀5基である。一概には言えないが概ね、奈良県(大和)ではTK43(550年~580年)の時代に、千葉県(上総・下総)ではTK209古(580年~600年)の時代に前方後円墳の築造が終焉を向かえたのであろう。

北関東(東国)に古墳後期後半の前方後円墳が多いのが気になるところである。北関東の前方後円墳から銅椀が多く出土するのは、仏具として舶載あるいは生産された銅椀が、威信財として大和王権から北関東の豪族に配布されたものであると考える。近畿においては、銅椀は仏具として用いられ、古墳の副葬品となることは少なかったのであろう。北関東では古墳後期後半には、栃木は凝灰岩、群馬は凝灰岩と角閃石安山岩、千葉は砂岩の軟質石材の切石積横穴式石室が登場している。近畿で切石造りの横穴式石室は花崗岩・閃緑岩等の硬質石材で造られている。前方後円墳の埋葬施設が切石造りであるのは、天理市の岩屋大塚古墳のみであるが、前方部の羨道が残っているだけで、後円部にある石室と前方部石室にある石室は破壊されており、定かな資料ではない。近畿の切石造り横穴式石室が登場するのは、前方後円墳が終わった終末期古墳からと言える。なお、近畿で凝灰岩等の軟質石材での切石積で造られたのは、高松塚古墳・キトラ古墳に見られるように横口式石槨であり、花崗岩による切石造り横穴式石室の後の時代となる。

Z164.終末前方後円墳関東.png
Z164.終末前方後円墳関西.png

60-4.古墳後期と飛鳥の須恵器編年 [60.古墳時代の終焉]

古墳時代後期の須恵器の編年において、その実年代(西暦○○年)を確定する手がかりは以外と少ない。埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣には「辛亥の年7月中に記す・・・」とあり、辛亥の年は471年と考えられている。埼玉稲荷山古墳の造出しから出土した須恵器はTK23・TK47と判定されている。奈良県明日香村の飛鳥寺の下層からTK43の須恵器片が出土している。『日本書紀』には崇峻元年(588年)に「飛鳥衣縫造の先祖樹葉の家を壊して法興寺を作り始めた。この地を飛鳥の真神原と名付けた。」とあり、TK43は588年の直前か、その少し前の年代と見られている。

Z160.杯の変遷4.png古墳後期から古墳終末期(6世紀から7世紀)の須恵器の編年は、杯(杯身・杯蓋)の法量・形状に注目して行われている。杯の変遷からすると大きな画期は、TK217古=飛鳥Ⅰ新の段階から宝珠つまみ付き杯(杯G)が登場することである。杯Gは図Z160にみられるように、杯蓋に宝珠つまみとカエリが付いていて、杯身の口縁にカエリがない。それまでの杯(杯H)は、杯身の口縁にカエリという部分があり、その部分に杯蓋が被さるように出来ており、杯蓋の口縁にはカエリはない。なお、飛鳥Ⅲからは杯Gに高台の付いた杯Bが登場し、古墳時代以来の杯H(カエリ付き杯身)が消滅する。

大阪狭山市にある狭山池は、『書紀』にも記載がある我が国最古のため池である。平成の改修工事の発掘調査で、コウヤマキの丸太を刳り抜いた樋管が発見された。このコウヤマキの樋管は年輪年代法の測定より、616年(推古24年)に伐採された木材であることが確定された。この樋管が埋められていた地層にある池尻遺跡、その地層の上に築かれた堤防上に作られた須恵器の窯(狭山池一号窯)から出土した須恵器はTK217型式の古層段階(飛鳥Ⅰ併行)であった。狭山池一号窯(616年+α)の灰原からは、わずかである宝珠つまみ付き杯(G杯)が出土している。

豊浦寺の軒丸瓦を焼成した隼上り窯跡(京都府宇治市)の2号窯から、少量のG杯が出土している。豊浦寺の発掘調査では、豊浦寺下層や周辺から宮殿跡と思われる掘立柱建物や石敷が発見され、豊浦寺は推古天皇の豊浦宮(592年~603年)の跡に建てられたと考えられている。『書紀』推古36年(628年)の記事に、聖徳太子の息子の山背大兄王が「以前に叔父(蘇我馬子)の病を見舞おうと、京に行って豊浦寺に滞在した。」とある。蘇我馬子は推古34年(626年)に亡くなっている。これらより豊浦寺の創建は603年から626年の間であることが分る。狭山池一号窯と隼上り窯2号窯から、TK217古=飛鳥Ⅰ新の始まり、宝珠つまみ付き杯(杯G)の登場は620年と比定することが出来る。

飛鳥の山田寺跡(桜井市山田)の整地層やその下層から飛鳥Ⅰの新しい段階の須恵器が出土している。山田寺は『聖徳法王定説』の裏書から辛丑年(641年)に造営が開始されたとしている。明日香村甘樫丘東麓遺跡の焼土層から飛鳥Ⅰの新しい段階の須恵器が出土している。この遺跡の焼土層は645年の乙巳の変で焼かれた蘇我氏邸宅のものと推定されている。明日香村の水落遺跡から飛鳥Ⅱの新しい段階の須恵器が出土している。この遺跡は斉明6年(660年)に中大兄皇子が設けた漏剋(水時計)の跡と考えられている。この漏剋は天智6年(667年)の近江遷都、あるいは天智10年(671年)の近江での漏剋設置まで使われていたと考えられている。

 Z161.須恵器の編年(完).png

これらを基本として、「41-5。須恵器の編年表」に示したものと重ね合わせて、須恵器の編年に実年代を定め表Z161に示した。新たに定めた年代は、TK10・MT85(520~549年)、TK43(550~579年)、TK209(580~619年)、TK217(620~669年)であり、飛鳥編年は飛鳥Ⅰ(600~639年)、飛鳥Ⅱ(640~669年)と定めた。飛鳥Ⅲの年代は表示していないが、TK217と飛鳥Ⅱの後の670年以降となる。なお、表162に飛鳥時代の宮と須恵器の編年表を重ね合わせてみた。

Z161-Z162.須恵器の編年(完).png

60-3.須恵器の杯は年代のものさし [60.古墳時代の終焉]

Z154.須恵器編年古墳後期.png須恵器は「年代のものさし」といわれ、遺跡より出土した須恵器の型式を判別することにより、遺跡の年代を比定している。須恵器編年でよく用いられるのが、田辺昭三氏がまとめられた陶邑窯編年で、須恵器を焼成する一つの窯の資料を1型式(TK○○、ON○○、MT○○)として、各々の窯の操業時期の相対的な年代を編年している。また、奈良文化財研究所の西弘海氏は、飛鳥・藤原京域から出土する須恵器の型式を飛鳥Ⅰから飛鳥Ⅴ期に編年(飛鳥編年)している。陶邑窯編年と飛鳥編年については、近つ博物館の『年代のものさしー陶邑の須恵器』にある「須恵器編年対照表」の一部を図Z154に示した。


古墳後期から古墳終末期(6世紀から7世紀)の須恵器の編年は、杯(杯身・杯蓋)の法量・形状に注目して行われている。法量とは容量のことで、杯身の口径と高さにより決まる。形状の中で特に注視されているのが、「カエリ」という杯身の口縁部にある立ちあがり(杯蓋の噛み合わせ部分)の形状(高さ・角度)である。「古墳時代須恵器編年の限界と展望」の論文を書かれた植田隆司氏は、それらをまとめ「杯身法量の変遷」図155と「杯身立ち上がり形状の変遷」図156に示している。なお、これらの測定値は図157に依っている。


Z155-157.須恵器編年杯.png

杯(杯身・杯蓋)の法量・形状でみると、古墳後期・古墳終末期の須恵器はTK23・TK47、MT15・TK10・MT85、TK43・TK209古、TK209新・TK217古、TK217新の5グループに分けることが出来る。私はTK209を、TK43に近いTK217古と、TK217古に近いTK209新に2分した。私は横穴式石室の形状(両袖式・片袖式・無袖式)の変遷を須恵器の型式別に層別したが、その中で、TK209・TK217と飛鳥I・飛鳥Ⅱ・飛鳥Ⅲの関係が表158のように現れる。飛鳥Ⅰも古・新と2分されるとするならば、TK209新=飛鳥Ⅰ古であり、TK217古=飛鳥Ⅰ新であり、TK217新=飛鳥Ⅱ、飛鳥ⅢはTK217新以降であると言える。


Z158.飛鳥編年.png


Z159.古墳時代後期編年.png近畿の横穴式石室資料集成」には、飛鳥Ⅰの型式の須恵器を出土する古墳が145基記載されているが、前方後円墳は皆無である。このことより、TK217古=飛鳥Ⅰ新から飛鳥時代が始まったと考えられる。古墳後期・古墳終末期を須恵器で編年すると、TK23・TK47は古墳中期後期の併行期、MT15・TK10・MT85は古墳後期の前半、TK43・TK209古は古墳後期の後半、TK209新・飛鳥Ⅰ古から古墳終末期となりは飛鳥時代の始まりである。表Z159にこれらの関係を示した。次節ではこれらに実年代(西暦○○年)を与えて見る。



60-2.前方後円墳の終焉と共に埴輪も消滅した [60.古墳時代の終焉]

古墳時代後期の指標は、横穴式石室と埴輪型式V期であり、須恵器の型式でみるとTK23以降である。Web「遺跡ウォーカー」と「近畿の横穴式石室資料集成」から、古墳時代後期の前方後円墳を須恵器の型式別に探し表Z152にまとめた。古墳後期の前方後円墳の数は多数あるが、型式が明確な須恵器が出土している古墳は意外と少ない。横穴式石室の場合、追葬が行われていることが多く、一つの石室から複数の型式の須恵器が出土している。複数の型式の須恵器が出土している場合、型式が離れている場合は古い型式に層別し、前後する2型式が出土している場合は、その数を0.5に按分した。また、一つの古墳に複数個の石室(主体)が存在する場合は、最も古い石室から出土した須恵器で判定している。

 

Z152.須恵器と前方後円墳.png表152からは、前方後円墳はTK209の時代に終焉を迎え、TK217の時代には造られてないことが分る。前方後円墳の埋葬施設が横穴式石室である比率を見ると、時代が降る程高まっていることが分る。前方後円墳が造られなくなったTK217の時代には、方墳・円墳・八角墳が造られ終末期古墳と呼ばれているが、これらの埋葬施設の殆どが横穴式石室・横口石槨である。前方後円墳に埴輪が据えられる比率は時代が降る程、比率が減少している。終末期古墳には埴輪は一切据えられておらず、埴輪は古墳時代、前方後円墳の時代の終焉と共に消滅している。

 

古墳時代後期の古墳の指標は横穴式石室であるが、横穴式石室の形状には両袖式・片袖式・無袖式の形がある。これら横穴式石室の形状の変遷を須恵器の型式別に層別し表153にまとめた。なお、表にある飛鳥Ⅰ・飛鳥Ⅱ・飛鳥Ⅲは、奈良文化財研究所の西弘海氏によって提唱された飛鳥時代以降の須恵器の型式編年である。表より、横穴式石室の形状は時代が降る程、片袖式が無袖式に変わっていく様子が伺える。無袖式は羨道幅と石室幅が同じであり、両袖式・片袖式より石室(玄室)が小さくなっていったことを示している。なお、終末期古墳には羨道幅より石室幅が小さくなり、石室が石棺を兼ね、内部に木棺や乾漆棺が納められた横口式石槨が登場している。奈良県明日香村の高松塚古墳・キトラ古墳などが代表的な例である。

Z153.横穴式石室の変遷.png

60-1.敏達天皇陵は最後の前方後円墳陵 [60.古墳時代の終焉]

古墳時代は前方後円墳が築造された時代と定義されている。この定義に従えば、最古の大型前方後円墳とされている箸墓古墳(墳丘長276m)が築造された時代が古墳時代の始まりということになる。国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行い、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるとした。歴博が導きだした箸墓古墳の築造年代は、考古学で編年が明らかにされている9型式の土器に附着した炭化物の炭素14年代と、日本産樹木の年輪に基づいた炭素14年代とをマッチングさせた結果であり、確かなものである。

 

『日本書紀』崇神9年の記事に、「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳のある桜井市箸中は、中世までは大和国城上郡大市郷と称されており、倭迹迹日百蘇姫の墓が箸墓古墳であることは確かである。「縮900年表」によると、崇神9年は259年にあたり、歴博が炭素14年代測定から導き出した箸墓古墳の築造年代の240年から260年と合致している。

 

歴代の天皇陵について表Z150に掲げる。表の天皇の即位は「縮900年表」に依っている。天皇陵の治定は江戸時代・明治時代に成されたものであるが、その治定ついては考古学的な見地、埴輪型式からみて仲哀天皇陵・履中天皇陵・継体天皇陵のように疑問符が付けられるものもある。天皇陵でみると最初の前方後円墳は崇神天皇陵(行燈山古墳)であり、最後の前方後円墳は敏達天皇陵(太子西山古墳)である。敏達天皇以降の天皇陵は方墳・円墳・八角墳となっており、古墳時代は敏達天皇陵が造られた時代に終焉を迎えたことが分る。

Z150.天皇陵と墳形.png


Z151.磯長谷1.png敏達天皇陵については、『書紀』には「磯長陵」、『古事記』には「御陵は川内の科長に在り」、『延喜式』には「磯長中尾陵、河内国石川郡に在り」とあり、大阪府南河内郡太子町大字太子にある太子西山古墳(前方後円墳:墳丘長93m)に治定されている。敏達天皇陵については、『書紀』崇峻4年(591年)に「敏達天皇を磯長陵に葬りまつった。これはその亡母の皇后が葬られている陵である。」とある。「亡母の皇后」とは欽明天皇の皇后・石姫である。敏達元年(572年)の記事には「石姫皇后を皇太后と申し上げた。」とあることから、572年には石姫は生存していたことが分る。これらより、敏達天皇の磯長陵の築造年代は572年から592年の間にあること考えられる。敏達天皇陵のある磯長谷には、用明天皇陵の春日向山古墳(方墳:65x60m)、推古天皇陵の山田高塚古墳(方墳:59x55m)、聖徳太子墓の叡福寺古墳(円墳:直径54m)がある。

 

『書紀』によれば、欽明32年(571年)4月に欽明天皇が崩御し、5月に河内の古市で殯があり、8月に新羅が弔使を派遣してきて殯に哀悼を表し、9月に檜隈坂合陵に葬られたとある。これらからすると欽明天皇の檜隈坂合陵は、敏達天皇の磯長陵より少し前の時期に造られたことになる。欽明天皇陵は奈良県高市郡明日香村大字平田にある平田梅山古墳(前方後円墳:墳丘長140m)に治定されている。

 

平田梅山古墳の北800m、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある見瀬(五条野)丸山古墳は墳丘長318mの前方後円墳で、全国で第6位の古墳規模である。埋葬施設は自然石を用いた両袖式横穴石室で、石室長は28.4mで横穴式石室としては最大のものである。見瀬丸山古墳は江戸時代には長らく天武・持統合葬陵とされていた。それは石室には二つの石棺が安置されていることが知られていたからである。しかし、新たに発見された資料により、天武・持統陵は平田梅山古墳の西600mにある野口王墓古墳(八角墳:東西58m)に治定され直されている。平成3年見瀬丸山古墳の石室の写真が新聞に公表された。これは近くに在住の人が偶然石室の中に入り、写真に撮ったものである。この写真には、石室の中に二つの石棺が写っている。翌年に宮内庁書陵部による開口部の閉塞工事にあわせて簡単な実測調査が行われたが、採集された須恵器片はいずれもTK43型式のものであった。『書紀』推古20年(612年)の記事には、「皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬した。この日、軽の往来で誄(しのびごと)の儀式を行った。」とある。見瀬丸山古墳の被葬者が欽明天皇であるという考えが強まってきている。


59-13.聖徳太子の命日を解く [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

聖徳太子の薨日については、『書紀』は推古29年(621年)2月5日としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘は、推古30年(622年)2月22日となっている。『法隆寺東院縁起』には、天平8年(736年)2月22日の聖徳太子の忌日に、太子のために法隆寺で法華経講会がはじめて開催していることが記載してある。これらより、聖徳太子の薨日は推古30年(622年)2月22日が定説化している。


『書紀』は何故、推古29年2月5日を聖徳太子の薨日としたのであろうか。聖徳太子の薨去の記事には、「この時、既に高麗に帰国していた恵慈が、上宮皇太子が薨じたことを聞き、僧を集め斎会を設け、経を説き請願した。『日本国に聖人有り、上宮豊聡耳皇子という。天から奥深い聖の徳をもって、日本国に生れた。中国の夏・殷・周三代を包み越えるほどの立派な聖王である。三宝を恭敬し、もろもろの厄のもとを救い、実に大聖なり。太子が薨じたいま、我は国を異にするとは言え、心の絆は断ち難い。独り生き残っても何の益もない。我は来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めよう。』と言った。そして、恵慈はその期日通りに亡くなったので、人々は『上宮太子だけでなく、恵慈もまた聖である。』と言った。」と記載されている。


この文章が史実であったとは思えない。云うまでもないことであるが、「来年の2月5日に必ず死に」がなされるためには、上宮皇太子が薨じた情報が、その年のうちに高麗(高句麗)まで届いていなければならない。そのような往来があったような史料はない。だからと言って、これらは『書紀』編纂者が、聖徳太子を偉大なる聖人とするために捏造したとも思わない。これらの文章には、史実が隠されている気がする。

『書紀』には、推古33年(625年)1月7日に、高麗王が僧恵灌をたてまつったので僧上に任じられたとある。この月日は「正月壬申朔戌寅」と記載されている。『三正綜覧』で確認すると、推古33年(625年)1月朔の干支は「丙申」で、1月朔が「壬申」であるのは、推古32年(624年)である。聖徳太子が亡くなった推古30年(622年)2月22日から、2年後の推古32年1月7日に、高麗から僧恵灌が来日しているのである。恵灌は聖徳太子の恩師であった僧恵慈のことを知っており、また来日して聖徳太子が亡くなったことも知ったのであろう。

推古32年1月7日に、高句麗の僧恵灌が来日した時の話を、私は以下のように空想した。「高句麗におりましたとき僧恵慈から、『日本国に聖人有り、上宮豊聡耳皇子という。天から奥深い聖の徳をもって、日本国に生れた。中国の夏・殷・周三代を包み越えるほどの立派な聖王である。三宝を恭敬し、もろもろの厄のもとを救い、実に大聖なり。』と聞いておりました。来日して、その上宮太子が推古30年2月22日に薨去されたと知り、残念でなりません。実は、僧恵慈も上宮太子が薨去された1年前、推古29年2月5日にお亡くなりになっております。お二人の師弟の間柄は、国を異にするとは言え、心の絆は断ち難く、相次いでお亡くなりになったのでしょう。きっと、浄土に於いて恵慈と上宮太子はお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めておられるでしょう。」

この話が伝承されていたが、『書紀』編纂者により、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われ、恵慈が聖徳太子を追慕して、「来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」という文言が作りだされ、偉大なる聖人としての聖徳太子を演出したと考える。これは、『書紀』編纂者が歴史を捏造したのではなく、史実を物語化するために潤色したのであろう。聖徳太子の薨日は、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘に記された、推古30年(622年)2月22日が正しいと考える。


59-12.聖徳太子は道後温泉に浸かったか! [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『伊豫国風土記』には、上宮聖徳皇が高麗の僧恵慈と共に伊豫の湯に行幸し、湯の岡(伊社邇波の岡)の側に碑文を立てたとある。その碑文の一首は、梅原猛氏の著『聖徳太子』(集英社)に「思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」と訳されている。


Z147.道後温泉本館.png碑文を立てた湯の岡(伊社邇波の岡)は、
道後温泉本館に隣接する湯築城跡(元の伊佐爾波神社)とされている。道後温泉本館の湯釜には山部赤人が伊予の温泉に至り詠んだ長歌(万葉集:巻3の323)「神である天皇がお治めになっている国のいたるところに、温泉は多くあるけれども、その中でも島と山の立派な国である。険しくそそり立つ伊予の高嶺の、射狭庭の岡にお立ちになって、歌の想いを練り、詞の想いを練られた。出で湯の上の林を見ると、臣(もみ)木絶えることなく生い茂り、鳴く鳥の声も昔と変わらない。遠い末の世まで、ますます神々しくなってゆくだろう、この行幸のあった場所は。」が彫られている。山部赤人は「ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年のしらなく」と短歌も歌っている。

山部赤人の長歌・短歌には、『伊豫国風土記』に記載されている、聖徳太子が伊社邇波(射狭庭)の岡に碑文を立てた話、舒明天皇が木に稲穂を掛けて鳥に与えた話、斉明天皇が再び伊豫の湯を訪れた話が含まれている。また『書紀』には、斉明7年(661年)に斉明天皇が百済からの援軍要請に応えて九州に向かう途中に、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊ったとある。このとき作られた歌、「熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」(万葉集:巻1の0008)は、額田王の作とされているが、山部赤人は斉明天皇の作と考えているようだ。山部赤人は、険しくそそり立つ伊予の高嶺の、射狭庭の岡にお立ちになって、歌の想いを練ったのが斉明天皇であり、詞の想いを練ったのが聖徳太子であると、長歌に歌い込んだのであろう。

射狭庭(伊社邇波)の岡から見える「険しくそそり立つ伊予の高嶺」は、四国の最高峰・石鎚山(1982m)とされている。聖徳太子と斉明天皇、そして山部赤人が見たであろう石鎚山は、道後温泉本館に隣接する湯築城跡(元の伊佐爾波神社)からは見えないのである。「険しくそそり立つ伊予の高嶺」が石鎚山かどうかの喧々諤々の論争がある。

Z148.石鎚山.jpg『釈日本記』にある『伊豫国風土記』逸文に「伊豫の郡。郡家より東北のかたに天山あり、天山と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。因りて天山と謂う。」とある。この天山(標高51m)からは石鎚山の山頂が見える。特に冬の晴れた日、冠雪の石鎚山は近くに感じる。天山こそ「湯の岡」・「伊社邇波(射狭庭)の岡」であると考える。

山の南東1.7kmには、飛鳥~奈良時代の役所跡である「久米郡衛(かんが)遺跡」がある。遺跡が飛鳥時代に遡るとされたのは「久米評」銘の須恵器が出土したからだ。藤原宮から発掘された木簡によって、大宝律令制定(701年)以前は「評」と表現される地方行政組織があったことが明らかになっている。また遺跡からは7世紀中葉に比定される単弁十葉蓮華文軒丸瓦が出土しており、斉明天皇の石湯行宮は「久米郡衛遺跡」と考えられるようになった。

天山の南東1.5kmに椿神社がある。正式には伊豫豆比古命神社で、延喜式神名帳にも記載されている。「伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱の神様が境内にある舟山に御舟を寄せた。」との伝承があるように、往古神社周辺は一面の海原であり、「津の脇(つわき)神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と訛ったとの学説の一方、境内一帯に藪椿が自生していることから「椿神社」と呼ばれるようになったとの民間伝承がある。椿神社の近辺の海が熟田津であった。

Z149。石鎚山.png

斉明天皇の伊豫の熟田津の石湯行宮が久米郡衛遺跡とするならば、その近くにある鷹の子温泉あたりに「熟田津の石湯」があったと考えられ、聖徳太子の湯岡の碑文に記された、椿の茂った「伊豫の湯」であるといえる。『書紀』によると、天武13年(684年)に大地震があり、「伊豫の温泉、没して出でず」とある。この白鳳地震で湯脈が変わり、その後、現在の道後の地から新たに温泉が湧き出したのではないだろうか。なお、現在の鷹の子温泉はボーリングより湧出している温泉である。聖徳太子や斉明天皇が浸かった「伊豫の湯」は鷹の子温泉あたりで、山部赤人が浸かった「伊豫の湯」は道後温泉であったと考える。

山部赤人の先祖は伊豫来目(久米)部小楯といい、清寧2年(488年)播磨の国の巡察使の時に、明石で世をのがれていた皇子兄弟(後の顕宗・仁賢天皇)を見つけ出した。小楯はその功績によって山部連に任ぜられている。伊豫来目(久米)部小楯の墓の伝承がある播磨塚古墳が、天山から石鎚山を見る方向にある。山部赤人は射狭庭の岡に登り、伊豫の高嶺を見ながら、先祖への想いを巡らし、先祖の地を「遠い末の世まで神々しくなる場所」と詠ったのであろう。




59-11.文部省学習指導要領「聖徳太子 表記変えず」 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

平成29年3月21日日本経済新聞は、「聖徳太子 表記変えず 次期指導要領 文部省が検討」の見出しで、次の記事が記載されていた。

「文部科学省が2月に公表した中学校社会の次期学習指導要領で「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」などとした表記について、今月末に告示予定の最終版で「聖徳太子」に修正するよう検討していることが20日分った。「鎖国」を「幕府の対外政策」と変えた表記なども、もとに戻す方向で検討している。

 最近の歴史研究などを反映させた変更だったが、一般からの意見公募で、「表記が変わると教えづらい」といった声が教員などから多く寄せられたという。

 文部省は新指導要領案公表時、小学校では伝記を読む機会が多いことや、聖徳太子は死後につけられた称号であることから、小学校社会は「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」と教えると説明していた。現行の指導要領は小中学校とも「聖徳太子」と表記している。」

 

文部省はこの件に関し、一般からの意見公募(パブリックコメント)を3月15日締め切りで行っていた。私は聖徳太子に関する「最近の歴史研究」が、必ずしも史実ではないとの思いから、パブリックコメントに応募していた。応募要領には2000字以内と制限されていたので、思いを分り易く説明できていないが、これまで私のブログを読んでいただいた方には、理解していただけると思う。

 

「大山氏を初めとする聖徳太子を否定する学者は、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『書紀』の中で誕生した架空の人物である。」と主張している。しかし、『書紀』より早く編纂された『播磨国風土記』には「聖徳王」、『伊豫国風土記』には「上宮聖徳皇」とあり、『書紀』が撰上される以前から、聖人である聖徳太子が伝承されていたことが分る。

 

聖徳太子を否定する学者は、聖徳太子(太子・東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命)が記された国宝の薬師如来像・釈迦像・天寿国繍帳の金石文には、天武朝に作られた天皇号、実在しない法興という年号、持統4年から使われた儀鳳暦が記されており、厩戸王の死後一世紀後に捏造されたとしている。

 

日本最古の漢詩集である『懐風藻』の第一番目は天智天皇の長男・大友皇子の詩で「皇明光日月」の語句がある。「皇明」とは天皇の威光という意味であり、「天皇」の称号が天智朝には存在していた可能性を示す。

 

国宝・船氏王後墓誌には乎娑陀宮天皇(敏達天皇)、等由羅宮天皇(推古天皇)、阿須迦宮天皇(舒明天皇)の天皇銘があるが、墓誌には戊辰の年(天智7年:668年)に成立したと刻字されている。

 

野中寺の重要文化財・弥勒像の台座には「丙寅年四月大○八日癸卯開記」と「中宮天皇」の刻字がある。「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」は、元嘉歴で天智5年(666年)4月8日のみが該当する。通説では「○」の字を「旧」と読み、旧の暦(元嘉暦)で記したと解釈し、儀鳳歴と元嘉暦が併用された持統4年(690年)以降に、銘文が刻字されたとしている。韓国公州市で出土した武寧王の墓誌には「癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」とあり、朔の干支を記載している。野中寺弥勒像の銘文の「○」の字は「朔」で、「丙申朔」を省略する時、「朔」を省き忘れている。弥勒像の銘文は天智5年に刻字されたと考える。大友皇子の漢詩、船氏王後墓誌、野中寺の弥勒象の銘文は、天智朝には天皇号があったことを示している。

 

法隆寺の釈迦三尊像は箱形台座の上に釈迦像と両脇侍像が安置されている。台座の補足材に「辛巳の年八月九月作」等の墨書があることが、平成3年の解体修理で見つかった。台座は釈迦像と一体となっており、墨書銘は台座が組まれる前に書かれている。墨書銘にある「辛巳の年」は、釈迦像光背銘にある「癸未の年に仏師の司馬鞍首止利が造った。」の2年前にあたる。釈迦像の金石文は推古31年(癸未:623年)に成立しており、推古朝に天皇号が使われたこと証明している。天皇号は天武朝に作られたという、多くの研究者によって作り上げられた固定概念は否定することが出来る。

 

釈迦像光背銘の出だしには、「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」とある。辛巳の年は推古29年(621年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。『伊豫国風土記』逸文には「法興六年十月、歳丙辰に在り。我が法王大王と恵慈の法師・・・」とある。「法興6年丙辰」は推古4年(596年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。全く関係の無い釈迦三蔵像光背銘と『伊豫国風土記』とに使われた「法興」の私年号の元年が同じ年であることは、「法興」の年号が実際に存在していた証拠である。

 

天寿国繍帳の銘文には、「辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」とある。この命日は持統4年から使われた儀鳳暦で記されており、天寿国繍帳は推古朝のものでない証拠とされている。釈迦像光背銘には「辛巳十二月鬼前太后崩、明年二月廿一癸酉王后即世、翌日法皇登遐」とある。天寿国繍帳と釈迦像光背銘の「二月廿一日癸酉」は全く同一であることに注目し、前太后(間人母王)の薨去は「辛巳十二月」、王后(膳夫人)の薨去は「明年二月廿一日癸酉日入」、法皇(太子)の薨去は「翌日二月廿二日甲戌夜半」と考える。日入・夜半と時刻まで記録が残されているのは、薨去が1日違いであったためである。膳夫人と聖徳太子の命日の干支は、元嘉暦で記されている。天寿国繍帳は、聖徳太子の妃・橘大郎女が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと推古天皇に願い製作された。橘大郎女は、聖徳太子と膳夫人が天寿国で一緒であることを望まず、膳夫人の命日の記載を削除したため、日時・干支が間人母王の命日に紛れ込んだと考える。天寿国繍帳は推古朝に作られたものである。

 

大山氏を初めとする聖徳太子を否定する学者の説は絶対ではない。律令国家の確立にいたるまでの過程において、推古朝で皇太子として活躍したのは、厩戸王ではなく、聖徳太子と認識すべきである。日本人のアイデンティティ「和を以って貴しとなす」を創ったのは、聖徳太子でなければならない。」

 

文部省の学習指導要領で聖徳太子が取り上げられたことを契機に、聖徳太子に関する新たな研究が盛んになり、「聖徳太子は捏造された」という聖徳太子の存在を否定する学者の説、「最近の歴史研究」なるものが払拭されることを願うものである。そうなれば、法隆寺の薬師如来像や釈迦三尊像、中宮寺の天寿国曼荼羅繡帳、野中寺の弥勒菩薩、船氏王後墓誌などが歴史遺産として、より輝きを放つであろう。


59-10.「憲法十七条」は聖徳太子が制定したか [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『書紀』は推古12年(604年)4月3日に、聖徳太子が自ら始めて「憲法十七条」を作ったとしている。上宮聖徳法王帝説には、推古天皇の御世乙丑の年(605年)7月、「十七余の法」を作ったとある。ただ、「憲法十七条」の文章が引用され残っているのは、『書紀』だけである。その主な条文の出だしを下記に示した。

第1条、和を以って貴しとなす。争いごと無きを旨とせよ。(略)

第2条、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。(略)

第3条、詔は必ず謹んで承れ。君を則ち天とし、臣を則ち地とす。(略)

第4条、群卿百寮、礼をもって本とせよ。民を治める本は、必ず礼にあり。(略)

第8条、群卿百寮、朝早く、遅く退け。公事暇なし、終日にも尽し難し。(略)

第12条、国司国造、百姓にむさぼるなかれ。国に二君なく、民に両主なし。(略)

第15条、私に背きて、公に向うは、これ臣の道なり。(略)

 

戦時中に『書紀』を否定した罪で弾圧を受け、戦後華々しく蘇り高い評価を受けた津田左右吉氏は、憲法十七条が推古朝のものとしては不自然であると指摘して、「奈良時代に太子の名をかりて、このような訓戒を作り、官僚に知らしめようとしたものである」と結論付けている。その根拠の第一は、「第12条に「国司」という語が見えるが、国司は国を単位に行政的支配を行う官人のことで、大化改新前にはありえない。」であった。

 

『書紀』には古墳時代の天皇の記事に、「国司」の表記が8ヶ所出て来るが、その内の5ヶ所は清寧・顕宗・仁賢天皇紀にある「播磨國司 來目部小楯」である。『古事記』の清寧天皇記では、「山部連小楯、任針間國之宰」とあり、「国司」が「国宰」となっている。「国宰」・「宰」の表記は、『常陸国風土記』では久慈郡・行方郡・多可郡の3郡で、『播磨国風土記』では讃容郡・飾磨郡の2郡で使われている。また、藤原宮跡の南面内濠からは、「粟道(あわじ)宰熊鳥」の木簡が出土している。「国宰(くにのみこともり)」は、「国司(くにのつかさ)」に先行して地方官司の呼称として使われていたと見られる。『書紀』には一切出てこない「国宰」の表記が、『古事記』・『風土記』に記載されているのは、両者が口伝を記録したものであるからであろう。

 

大和朝廷は全国を統一していく段階で、地方の王(豪族)を「国造」とすることで、地方での領地の支配を認め、朝廷の支配下に組み入れたと考える。朝廷側からみれば、国造の領地を朝廷の権限がおよぶ領地とし、官吏に運営させたいと考えたに違いない。だから、江戸時代に幕府が外様大名に行った施策と同じように、後継者や権力争いで問題を起こした「国造」を取り潰し、「国宰」を派遣したと考えられ、聖徳太子の時代には「国宰」と「国造」の両方が存在していたと思える。時代考証感覚のない書紀の編纂者は、憲法十七条に「国宰・国造」と書くべきところを、同じ役回りである後世の「国司」を使い、「国司・国造」と表記しただけのことである。

 

憲法十七条が推古朝の時代のものでないとする根拠の第二は、「憲法の全体が君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれているが、推古朝はまだ氏族制度の時代でありふさわしくない。」である。確かに、憲法十七条は群卿・群臣・百寮の語があり、官僚への戒めが多く書かれている。『随書』倭国伝には「内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信、官員には定員がない。」とある。あきらかに、推古朝の時代に大和朝廷に直接使える内官(官僚)がいたことは確かである。氏族制度下においても、律令制度下の「臣」「卿」「寮」に相当する官僚としての職務があったのであろう。大和朝廷に直接使える者への戒めが憲法十七条に書かれていたのである。

 

第三は、「中国の古典からの引用語句が多く、『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ている。」である。『書紀』の編纂者は、歴史のストーリーを漢文で書き残そうとしたのであって、過去に用いられた言葉・語句を歴史史料としてそのまま書き残そうとしたのではない。『書紀』は天皇に撰上されるものであり、天皇が読んで解かる文章でなければならない。たとえ、憲法十七条の記録が残っていたとしても、それをただ単に書き写すのではなく、編纂当時の言葉・語句で書き直すほうが、読み手にとっては理解し易いからである。

 

歴史学者は原史料として原文の語句をそのままを残すことを歴史書として求めるであろうが、『書紀』の編纂者は歴史学者ではない。文章を編纂当時の言葉・語句に書き直したからと言って、歴史を捏造しているわけではない。こう考えると、「憲法十七条」は聖徳太子が制定したということを、否定する要素は無いように思える。「史料批判」の名の下に、『書紀』を全て否定したのでは、我が国の歴史は何も語れなくなってしまう。ただ、『書紀』は歴史をストーリーとして残すための、脚色・潤色が多いのも否めない事実である。だからこそ、『書紀』から史実をあぶり出すことが求められていると思う。

 

推古11年(603年)12月に冠位制度が創設され、翌年の正月には、始めて諸侯に冠位を賜っている。冠位は徳・仁・礼・信・義・智の六階に、それぞれ大・小の二階あって、全部で十二階である「憲法十七条」は推古天皇の時代に創られたものでないとする学者も、推古朝の冠位十二階は史実であると認めている。それは、『隋書』に冠位十二階の事が記載されているからだ。もし、『隋書』に記載がなかったならば、冠位十二階も後世の捏造であると、憲法十七条と同じ運命をたどったのかも知れない。聖徳太子は仏法を高麗の僧恵慈に、儒教の経典を覚哿博士に習ったと『書紀』は記載しているが、僧観勒により道教・五行思想を習ったのではないかと思われる。聖徳太子は儒教・仏教・道教の三教を習得し、その知識を基にしで、冠位十二階制度と憲法十七条を創設したと考える。

 

1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、聖徳太子が制定したとする憲法十七条や、聖徳太子の実在を示す語句(東宮聖王・上宮法皇・豊聡耳命)がある法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦三尊像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとして、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」としているが、これまで述べてきたように、これら大山氏の根拠の全てを覆すことが出来、「聖徳太子は実在した。」と言うことができる。


59-9.天寿国繡帳は推古朝に作られた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z146.天寿国繡帳.png天寿国曼荼羅繡帳(天寿国繡帳)は、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)で、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵し、国宝に指定されている。鎌倉時代に中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・信如により、法隆寺の蔵から再発見されたと伝えられている。現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦89センチ、横83センチの額装仕立てとなっており、4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍で表されている。制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであり、100個の亀形の甲羅に計400文字が刺繍されていたと推定されている。この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用されている。この銘文によると、天寿国繡帳は推古三十年に聖徳太子が薨去した後、妃である橘大郎女(推古天皇の孫)が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと発願し、推古天皇の詔で製作されたものである。

天寿国繡帳の銘文には、「辛巳十二月廿一癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半 太子崩」とある。聖徳太子の母・穴穂部間人王の命日「辛巳十二月廿一癸酉」は、辛巳の年が621年(推古29年)にあたることから、621年12月21日であり、聖徳太子の命日「翌年二月廿二日甲戌」は622年2月22日である。我が国に百済から伝わった暦法は元嘉暦であった。持統4年(690年)から元嘉暦と儀鳳歴が併用され、文武元年(697年)以降は儀鳳歴のみが用いられるようになった。天寿国繡帳が推古朝に製作されたとするならば、その銘文にある年月日の干支は、元嘉暦で記していなければならない。元嘉暦でみると、穴穂部間人王の命日621年12月21日の干支は、銘文と違って「甲戌」となり、聖徳太子の命日622年2月22日の干支は、銘文通りの「甲戌」となる。

2001年に「天寿国繡帳の成立年代」の論文を発表された金沢英之氏は、儀鳳歴による計算結果から、穴穂部間人王の命日の621年12月21日の干支は「癸酉」となり、聖徳太子の命日の622年年2月22日の干支は「甲戌」となり、両者とも天寿国繡帳に記載された干支と一致することを発見された。そして、天寿国繡帳銘の成立は、早くても儀鳳歴と元嘉暦の併用が詔された持統4年以降、もしくは儀鳳歴が単独で用いられた文武朝以降であるとされた。この論文により、法隆寺系史料(薬師如来像光背銘、釈迦像光背銘、天寿国曼荼羅繡帳)の金石文は、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものである確実な証拠とされ、「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。」との説が勢い付いている。

天寿国繡帳が儀鳳歴で記載されているとしたら、天寿国繡帳は推古朝に成立したものでないことは確実である。しかし、私には引っかかることがある。それは釈迦像光背銘の「辛巳十二月 鬼前太后薨 明年正月廿二日 上宮法皇枕病弗悆 干食王后仍以労疾・・・・二月廿一日癸酉 王后即世 翌日法皇登遐。」である。鬼前太后は穴穂部間人王、上宮法皇は聖徳太子、干食王后は膳夫人である。釈迦像光背銘でも聖徳太子の命日は、622年年2月22日で同じである。私が注目したのは、釈迦像光背銘の膳夫人の薨去の「二月廿一日癸酉」と、天寿国繡帳の穴穂部間人王の薨去の「辛巳十二月廿一癸酉日入」と、黄色マーカーのところが全く同一であることだ。

天寿国繍帳と釈迦像光背銘の「二月廿一日癸酉」は全く同一であることは、偶然ではなく作為があるように思える。聖徳太子は多くの人に看取られて、惜しまれ亡くなったのであろうから「甲戌夜半」と時刻まで記録されていたのであろう。『法王帝説』によると、用明天皇の皇后であった穴穂部間人王は、天皇が崩御された後、義理の息子・多米王と結婚し、佐富女王を産んでいる。穴穂部間人王の置かれた立場からすると、内内の人に看取られた最後であったと思われる。聖徳太子も病気で臨終に立ち会えなかったのかもしれない。穴穂部間人王が亡くなった日が「癸酉日入」と時刻まで記録されるのは不自然である。「癸酉日入」に亡くなったのは、聖徳太子の前日に亡くなった膳夫人であると考える。間人母王・膳夫人・聖徳太子の薨去した日は、前太后(間人母王)は「辛巳十二月」、王后(膳夫人)は「明年二月廿一日癸酉日入」、法皇(聖徳太子)は「翌日二月廿二日甲戌夜半」であったと考える。

これを文章にすると下記の上段になる。上段から青の「王后即世 翌日二月」を取り除き、緑色の「間人母王崩 明年二月」を挿入すると下段の天寿国繍帳の文章となる。天寿国繍帳は亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繍するデザインで、字数を合わせるため「廿一癸酉日入」とピンクの「日」の字を抜いている。
「辛巳十二月間人母王崩 明年二月廿一日癸酉日入王后即世  翌日二月廿二日甲戌夜半太子崩」
「辛巳十二月          廿一癸酉日入間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩」

天寿国繡帳は、聖徳太子の妃である橘大郎女が、聖徳太子が往生した天寿国を描き見てみたいと願い、祖母の推古天皇の詔で製作されたものである。聖徳太子が前日に亡くなった膳夫人と天寿国で一緒であっては、橘大郎女が天寿国繡帳を見るたび嫉妬の心が起こり、心穏やかではなくなる。膳夫人の命日の記載を削除したため、日時・干支が間人母王の命日に紛れ込んだと考える。

膳夫人の命日は622年年2月21日で干支は、元嘉暦・儀鳳歴ともに、釈迦三尊像光背銘の通りの「癸酉」である。もちろん翌日に亡くなった聖徳太子の命日は622年年2月21日で、干支は元嘉暦・儀鳳歴ともに天寿国繡帳に記載された通りの「甲戌」である。天寿国繡帳・釈迦三尊像光背銘に齟齬は起こらず、元嘉暦の問題も起こらない。天寿国繡帳は釈迦三尊像と同様、推古朝に作られたものである。




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