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65-6.韓国から出土する倭製の甲冑 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

近年、韓国の古墳から出土した甲冑が倭製であるとの報告が成されるようになってきた。短甲は総数34領で、方形板革綴短甲2点、帯金式革綴短甲の長方板革綴短甲5点、三角板革綴短甲10点、そして帯金式鋲留短甲の三角板鋲留短甲6点、横矧板鋲留短甲8点、その他3点である。冑は総数14領で、三角板革綴衝角付冑2点、三角板鋲留衝角付冑1点、横矧板鋲留衝角付冑2点、小札鋲留眉庇付冑4点、横矧板鋲留眉庇付冑2点、その他3点である。倭製であることは韓国の学者も認めているようだ。

Z260.韓国倭製短甲.pngこれらの出土地を図Z260に示した。赤が方形板革綴短甲、緑が帯金式革綴甲冑、青が帯金式鋲留甲冑である。丸一つが古墳1基であり、1基の古墳から二つの型式の甲冑が出土した場合は一つの丸に2色で示している。図をみてすぐ気が付くことは、洛東江の周辺、特に釜山・金海に丸が多いこと、緑は南部の海岸沿いに出土し、青は内陸部からも出土していることだ。韓国の古墳から出土する倭製の遺物は甲冑ばかりではない。筒形銅器と巴形銅器が洛東江の下流域の金海市・釜山市に集中して出土している。金海市では13基の古墳から筒形銅器が45個、巴形銅器が9個、釜山市では4基の古墳から筒形銅器が9個、威安郡は1基の古墳から筒形銅器が1個出土している。図Z260に、これらを赤で示しており、数字は筒形銅器が出土した古墳数である。この内、倭製甲冑と筒形銅器・巴形銅器が共伴したのは、赤方形板革綴短甲が出土した釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳だけである。福泉洞64号墳からは2個、大成洞1号墳は8個の筒形銅器が出土している。

Z255.4世紀末の朝鮮半島.png「縮900年表」によれば、366年に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まり、百済の肖古王は368年良馬2匹を、372年に七支刀を応神天皇に献上している。その間の369年にあたる『書紀』神功49年の記事には「倭国の荒田別と鹿我別の二人の将軍は兵を整え、百済の使者と共に卓淳国に至り、百済の木羅斤資の率いる精兵の応援も得て、新羅を打ち破った。そして比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国を平定した。・・・百済王の肖古と皇子の貴須は、荒田別・木羅斤資と意流村で一緒になり、相見て喜んだ。・・・百済王は春秋に朝貢しようと誓った。」とある。この比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国はZ255に示す加羅・任那・秦韓の地域の国々であり、伽耶諸国とされている国々である。『書紀』が記す「七ヶ国を平定」は潤色であり、倭国と伽耶諸国との同盟関係が出来たことを示していると考える。百済と伽耶諸国にとっては新羅・高句麗が脅威で、倭国の後ろ盾が必要であったのであろう。

 

私の古墳遺物の編年では、筒形銅器・巴形銅器が320~399年、方形板革綴短甲が340~369年、帯金式革綴甲冑が370~469年、帯金式鋲留甲冑が400~499年である。釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳から方形板革綴短甲(340~369年)が出土していることは、応神天皇(354~378年)の369年に倭国と伽耶諸国との同盟関係が始まったことを証明している。そして、帯金式革綴甲冑(370~469年)が伽耶諸国から多く出土していることは、仁徳天皇(381~431)の時代に、その同盟関係がより強くなり、特に任那(金海)・秦韓(釜山)は倭国との結びつきが強くなったことを意味している。

 

『宋書』倭国伝によれば、451年宋に朝献した済(允恭天皇:443~460年)に「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」が与えられている。順帝の昇明2年(478年)に朝献した武(雄略天皇:464~486年)にも同じ称号が与えられている。倭王に与えられた「使持節・都督・諸軍事」の意味は、軍事・内政面に支配権を与えるという称号であるが、倭国がこれらの国を支配しているという意味ではなく、宋に朝貢していない国々の支配権を認めたということに過ぎない。

 

応神天皇の369年に始まった伽耶諸国との同盟関係や、仁徳天皇の時代に結びつきが強くなった任那(金海)・秦韓(釜山)の関係は、宋の皇帝から「慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」の称号が与えられた允恭天皇(443~460年)・雄略天皇(464~486年)の時代には、加羅との関係を強め、慕韓を支配下に置こうとしたと思える。図260に見られるように、青帯金式鋲留甲冑(400~499年)が任那・秦韓だけでなく、加羅・慕韓の地からも出土しているのは、このことを物語っている。考古学から見た遺物の年代と、「縮900年表」を通してみた『書紀』の年代は、朝鮮半島でも見事に一致している。


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65-5.仁徳朝に掘った大溝は「古市の大溝」 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

Z258.前方後円墳の立地変遷.png前方後円墳の立地の変遷を表Z258にまとめた。前期後葉(360~400年)になると、前期前葉に多く造られた山頂・尾根頂・丘陵頂の比率が減少し、段丘・台地に立地する古墳が多くなり、その傾向は中期・後期前葉と続いている。前期後葉と中期の多くの大形古墳が、河内の古市・百舌鳥古墳群のある台地に存在している。また、古墳の周濠の有無でみても、前期後葉になると周濠を有する古墳が大幅に増加し、その傾向は中期・後期前葉にも続いている。

 

394年、『書紀』仁徳14年の記事には「大溝を感玖に掘った。石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦、四ヶ所の原を潤し、四万頃(しろ=百畝)あまりの田が得られた。その地の百姓は豊な稔りのために、凶作の恐れが無くなった。」とある。石河は大和川の支流の石川で、感玖(こむく)は河内国石川郡紺口(こむく)で現在大阪府南河内郡河南町から千早赤阪村のあたり、鈴鹿はどこかはっきりしないが、豊浦は大阪府東大阪市豊浦町とされている。

 

Z259.感玖の大溝.png感玖の推定地(河南町から千早赤阪村)は南北に流れる石川の東側、豊浦の推定地(東大阪市豊浦町)は南北に流れる旧大和川の東側である。大和川は奈良盆地から大阪平野に向かうときは東から西に流れ、石川との合流地点で90度流れを変え旧大和川となり、南から北に流れ河内湖に流れ込んでいる。これらからすると、石川の東側と旧大和川の東側を結ぶ大溝は、東西に流れる大和川を横断せねばならず存在し得ない。大溝は南北に流れる石川・旧大和川の西側にあり、古市古墳群内を通っていたと予想できる。

 

昭和39年に航空写真を観察していた秋山日出雄氏は、藤井寺市野中付近に見られる直線的な溜池群の配置に注目し、古市古墳群内を通る巨大な水路跡を発見し、その後の発掘調査や研究により「古市の大溝」の存在が確認された。「古市の大溝」は石川を源流とし、取水口を富田林市川面町付近(石川の西側)として、古市古墳群内を通り東除川に注ぐ、全長12キロメートルの流路が復元された。その水路に沿って「今井樋上」「井路間」「井路側」「水守東」「水守田」「溝マタゲ」「上ノミゾ」といった小字が続き、人工的な水路を想定させている。「古市の大溝」の発掘調査はまだ点にしか過ぎないが、溝渠の堆積物は8世紀から12世紀の間に堆積したことが分かっている。

 

前期後葉(360~400年)の時代、応神天皇は難波(大阪市)に大隅宮を、仁徳天皇は難波に高津宮を造っており、河内の地の台地で水田開発が行われたことが想像できる。段丘・台地の水田開発と古墳の造営に関係があったと考える。『書紀』仁徳14年に書かれた「大溝」が古市古墳群のある台地にあったとの証拠はないが、「古市の大溝」はその前身であろうと想像できる。


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65-4.帯金式鋲留甲冑の源流は高句麗の鉄盾 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳中期(400~470年)でも、大形古墳の分布は大阪15基、奈良9基、福岡3基、京都・兵庫・岡山・三重・千葉・群馬・栃木・鹿児島が1基で、河内には大形古墳が9基造られている。百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は墳丘長486mで古墳規模が全国No1である。仁徳天皇陵古墳の年代は、宮内庁書陵部が1998年(平成10年)に採取した須恵器の大甕がON46型式であることより、440年から459年となる。「縮900年表」によると、430年(仁徳67年)に河内の石津原(百舌鳥耳原野)に陵地を定められ、431年(仁徳87年)に天皇が崩御され百舌鳥野陵に葬ったことになるが、実際の完成はもう少し後であろうと思われ、仁徳天皇陵古墳の年代とほぼ合っている。

中期の始まりは400年で、前期古墳の代表的な遺物の三角縁神獣鏡、石製腕飾(石釧・鍬形石・車輪石)・筒形銅器・巴形銅器・銅鏃などは副葬されなくなり、須恵器・馬具・帯金式鋲留短甲が副葬され、墳丘には窖窯(あながま)焼成された円筒埴輪Ⅳ式や人物埴輪・馬形埴輪が並び立つようになる。窖窯・須恵器・馬具は朝鮮半島、特に洛東江周辺の伽耶の地より伝わったものと考えられている。
Z255.4世紀末の朝鮮半島.png
図Z255の4世紀末の朝鮮半島の勢力図に示すように、伽耶諸国(任那・秦韓・加羅)にとっては、新羅と百済そして高句麗は脅威であったので、その後ろ盾として、倭国との結びつきを求めたと思われる。“遠交近攻”は古今東西を問わず、戦術として使われている。好太王碑の銘文にあるように、仁徳天皇(381~431年)が百済・新羅を勢力下に置こうとしたのも、鉄の供給源としての伽耶諸国との関係を重視したからかも知れない。これらにより、伽耶諸国から倭国に須恵器の製造技術者や馬・馬飼いがやってきたのであろう。しかし、帯金式鋲留短甲の源流は伽耶諸国ではないと見られている。それでは鋲留技術はどこからもたらされたのであろうか?

好太王碑の銘文には「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」とあるように、仁徳天皇は朝鮮半島への進出を計っている。『書紀』仁徳12年(392年)の記事に「高麗国が鉄の盾と鉄の的を奉った。高麗の客を朝廷でもてなされた。群臣百寮を集めて、高麗の奉った盾と的を試した。多くの人が的を射通すことが出来なかった。ただ的臣の先祖の盾人宿禰だけが鉄の的を射通した。高麗の客たちは、その弓射る力のすぐれているのを見て、共に起って拝礼した。翌日盾人宿禰をほめて、的戸田宿禰と名を賜った。」とある。高麗の使者が訪れた年は、好太王碑にある辛卯の年(391年)の翌年であり、高麗の用件は百済と新羅から手を引くよう要請しに来たのであろう。

石上神宮は社宝として神庫に国宝の七枝刀や重要文化財の鉄盾2面を所蔵している。この2面の鉄盾は縦143cmx横約84~68~80cmと縦139cmx横約71~65~77cmの中すぼみの長方形で、矩形または鍵形の厚さ3mmの鉄板を矧ぎ合わせ鋲留している。この2面の鉄盾は、『書紀』仁徳12年の記事にある鉄盾とされるとの言い伝えがあるが、製作手法や型式の上から否定され、製作年代は古墳時代の5世紀末から6世紀初頭の頃と見られている。

Z256.鉄盾(石上神宮).png私は次の3つの視点から、石上神宮の鉄盾は『書紀』仁徳12年(392年)の記事にある、高麗が献じた鉄盾と考える。

1)石上神宮が所蔵する七枝刀は、その金象嵌の銘文と『書紀』の記事から、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かっている。それを現在まで所蔵していたのであれば、392年に高麗が仁徳天皇に献じた鉄盾を、石上神宮が現在まで所蔵していたとしても不自然ではない。

2)ウエブサイトの「遺跡ウォーカー」で「盾形埴輪」で検索すると、273基の古墳がヒットする。「鉄盾」でヒットする古墳は皆無である。これからすると、古墳時代の「盾」は革等の有機質系のもので出来ていたと考えられる。

3)石上神宮の鉄盾の製作技法は、横矧板鋲留短甲の製作技法に類似しているとされている。「遺跡ウォーカー」で横矧板鋲留短甲が出土する古墳は30基ヒットする。横矧板鋲留短甲が元で鉄盾が作られたとするならば「鉄盾」でヒットする古墳が皆無であるのは不自然に思える。鉄盾を元に横矧板鋲留短甲が作られたと、逆にする方が自然である。

 

Z257.三角板鋲留短甲.png帯金式革綴短甲(三角板革綴短甲・長方板革綴短甲)については前節で述べたように、369年に百済より王仁と共に渡来した、韓系の鍛冶技術者の卓素によって開発されたと考えた。我が国で帯金式革綴短甲を開発した鍛冶技術者の「卓素」、あるいはその弟子が、392年に高麗が仁徳天皇に献上した鉄盾の鋲留を見て、帯金式鋲留短甲(三角板鋲留短甲・横矧板鋲留短甲)を開発したと考える。400年から古墳に。帯金式鋲留甲冑が副葬され始めることと一致する。帯金式鋲留甲冑の鋲留め技術の源流は高句麗の鉄盾であった。


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65-3.百済渡来の卓素が帯金式革綴短甲を開発 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の前期後葉(360~400年)になると、墳長が100m以上の大形古墳の分布は、大阪8基、奈良6基、群馬5基、三重3基、京都・兵庫・岡山・岐阜・宮崎が2基、福井・栃木・山口・香川・佐賀が1基となり、大阪の河内(古市・百舌鳥)新たに大形古墳が造られ始めている。前期後葉は埴輪Ⅲ式の時代で、北部九州では、その源流が朝鮮半島であると見られている竪穴系横口式石室を始めとする初期の横穴式石室を持つ古墳が登場し、また三角板革綴短甲や長方板革綴短甲、衝角付冑が副葬されるようになる。前期後葉の前半の時代は、応神天皇(354~378年)の時代にあたる。応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まっている。そして、百済王は368年(応神15年)に阿直岐を遣わして良馬二匹を奉っている。

 

Z253.老司古墳.png老司古墳(福岡市)は竪穴系横口式石室を持つ、初期の横穴式石室系の古墳である。年代確定プログラムでは埴輪Ⅱ式(310~369年)と須恵器・馬具(轡)・金環(400年~)の年代に矛盾が生じ、年代の決定ができなかった古墳の一つである。これらの遺物を除くと、老司古墳の年代は埴輪Ⅱ式と初期横穴式石室(370~479年)から365年から375年となり、百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上した368年とピッタリ一致している。老司古墳は朝鮮半島との往来が行われた玄界灘に面しており、中期古墳から出土する須恵器・馬具(轡)・金環が、それらに先だっていち早くもたらされたと考えられる。老司古墳から出土した轡は、肖古王が献上した馬に使用していたものであろうか?

 Z254.三角板革綴短甲.png

前期後葉(360~400年)の大きな画期は大形古墳が河内の古市・百舌鳥古墳群に築造され始めたことだが、この河内の古墳を中心として370年を境に、方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に替わって三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が副葬され始めている。三角板革綴短甲と長方板革綴短甲は帯金式革綴短甲と称されており、帯金という細長い鉄板で人の胴体に合う形状の骨組みをこしらえ、その帯金に地板という長方形や三角形の鉄板を革で綴じて製作されている。それまでの方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に比べて、鉄板を曲面加工せねばならず、高い鍛造技術が要求される。

 

「63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実」で示したように、『書紀』応神15年の記事と『古事記』応神記を照らし合わせると、368年に百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上し、その翌年に王仁が論語十巻と千文字一巻を携えて渡来してきたことが分かる。『古事記』には、王仁と共にその名を「卓素」という韓系の鍛冶技術者が倭国に渡来している。この「卓素」が、我が国で帯金式革綴短甲を開発したと考える。こう考えると、370年頃から帯金式革綴短甲の三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が古墳に副葬され始めたことが説明できる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』によって、未だ明確になっていなかった帯金式革綴短甲の源流を発見することが出来た。


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65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

日本書紀』は、朝鮮半島の百済・新羅・高句麗の三国との関わりについて多くのページを割いている。中でも百済とは、660年に白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に破れ百済が滅びるまで、友好国(同盟国)として互いに大きな影響を与えて来た。倭国と百済の外交が始まったのは、応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介からであった。その時、百済の肖古王は倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)、鉄鋌四十枚を与えている。

 

また、応神天皇の372年(神功52年:252+120)には、百済の肖古王が使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉り、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。

 

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌があり、表の象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、40枚の鉄鋌が出土した。鉄鋌の平均寸法は長さ30.7cm、幅4.13cm、厚さ1.45cm、重さ1.31kgの棒状で、日本の古墳から出土する厚さ0.2cmで両端が広がった鉄鋌とは異なっている。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

 

Z253.弾琴台土城鉄鋌.png

2016年から17年の弾琴台の南側斜面の発掘調査では、鉄鉱石を溶解し鉄を作る製錬炉が11基と、鉄鉱石を割るために火を炊いた遺構10基が発見されている。11基の製錬炉は3つの層から出ており、使っていた製錬炉を破棄後、その上に土を覆って新しい炉を造っている。焼けた木片の炭素年代を測定した結果は、これらの遺跡は4世紀に造られたことが判った。4世紀、少なくとも100年に渡って忠州の弾琴台で鉄を作ったのは、ここが鉄鉱石の主要産地であるうえ、南漢江の水上交通を通して鉄を運ぶことが出来たためと分析されている。

 

百済の肖古王の在位は346~375年で、都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流に忠州市がある。「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」にある河は漢江のことであり、水源の谷那の山の鉄鉱石から鉄にしたのが、4世紀に稼動した弾琴台の製錬炉であったのであろう。

 

366年に倭国の使者が肖古王より賜った鉄鋌は40枚、弾琴台土城から出土した鉄鋌が40枚、奇しくも40枚と一致しており、肖古王より賜った鉄鋌が弾琴台の製錬炉で作られたと考えてもおかしくない。弾琴台から出土した百済時代の鉄鋌・製錬炉は、書紀』が記す百済の肖古王に関する記事が、史実に基づいていることを照明している。石上神宮の国宝七支刀の鉄素材は、弾琴台で作られたのであろう。

漢江地形図1.png

 


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65-1.箸墓古墳の築造年代は260年前後 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の象徴が前方後円墳であり、それは大和王権の象徴でもある。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、考古学的に導き出した古墳の編年とをマッチングさせ、古墳時代を解明したいと考える。なお、これ以降「縮900年表」による年代は青字で表示することにする。

 

Z252.前方後円墳の規模.png前方後円墳の時代別・規模別の変遷を表Z252に示す。前方後円墳が出現した前期前葉(260~320年)の地域別分布は、墳長が100m以上の大形前方後円墳では、奈良7基、京都・岡山2基、群馬1基で、大和王権発祥の地が奈良県にあったことが判る。一方、100m未満の古墳では、岡山13基、京都・兵庫・長野が2基、奈良・大阪・広島・香川・三重・茨城・群馬が1基と岡山県が圧倒的に多く、岡山が大和王権誕生に大きく関わっていたことが分かる。また下段に示すように、葺石は古墳の出現期(前期前葉)の時代から非常に高い比率で存在している。葺石は出雲の四隅突出弥生墳丘墓の影響を受けているといわれており、出雲が大和王権誕生に関わっていることを意味している。

 

『書紀』は、神武天皇は東征において吉備に3年間滞在し、船舶を揃え兵器や食糧を蓄え、天下を平定する準備を整え、そして大和に攻め入り橿原の地に建国(241年)したと記している。出現期の前方後円墳が岡山県に圧倒的に多いのは、大和王権の誕生に吉備が関係していることを暗示している。また、神武天皇が橿原の地に建国したとき、正妃に媛蹈鞴五十鈴媛命を召している。媛蹈鞴五十鈴媛命は出雲の大己貴神(大国主神)の孫にあたる。大和王権の誕生に出雲が関係していることを暗示している。

 

箸墓古墳.png最古の大型前方後円墳とされている箸墓古墳(墳丘276m)が築造された時代が古墳時代の始まりとになる。その箸墓古墳の話が『書紀』崇神9年の記事に「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳のある桜井市箸中は、中世までは大和国城上郡大市郷と称され、また纏向遺跡からは「市」と墨書きされた飛鳥時代の土器が出土しており、倭迹迹日百蘇姫の大市墓が箸墓古墳であることは確かである。箸墓古墳の後円部墳頂からは、奈良盆地と大阪平野の境にある二上山の山麓の芝山の石が出土しており、『書紀』の「大阪山の石を運んで造る。」と合致している。「縮900年表」によると、箸墓が造られた崇神9年は259年にあたる。

 

国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行い、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるとしている。箸墓古墳からは吉備系の都月型の特殊器台形埴輪が出土しており、古墳年代は260年から289年となる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、暦博の炭素14年代測定と、私の古墳年代決定プログラムで算出した古墳年代は、三者共に箸墓古墳の年代を260年前後としている。『魏志倭人伝』は邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのを247年前後のこととしており、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと言われている。

 

『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓は“径百余歩”と記されている。前節で述べたように、前方後円墳の主丘が埋葬施設のある後円部で、墳丘の寸法が後円径を基に定められていることからすれば、卑弥呼の墓が前方後円墳とするならば“後円径”が“百余歩”であることになる。箸墓の後円径は157mである。魏の時代の1尺の長さは24.2cmであり、1歩は6尺で1.45mである。箸墓の後円径は108歩であり、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓は“径百余歩”と一致する。

日向にあった邪馬台国は狗奴国に滅ぼされたのかも知れない。そうならば、磐余彦尊が日向から東征し建国した大和の地が、邪馬台国にとっての新天地である。その大和に邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が築かれても不思議ではない。「縮900年表」によれば、神武天皇が崩御されたのが、卑弥呼と同じ247年となる。箸墓古墳には卑弥呼と神武天皇の二人が葬られているのかも知れない。


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64-10.出現期前方後円墳の設計思想 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

墳丘形態は後円径が基となって設計されており、墳長/後円径と前方幅/後円径の関係から、出現期の前方後円墳は墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあることが分かった。しかし、この方法では墳長400m、後円径200m、前方幅150mの古墳と、墳長40m、後円径20m、前方幅15mの古墳は全く同じ点となり、古墳の規模が全く甘味されていない。

 

そこで、古墳規模を墳長と後円径、後円径と前方幅の関係で調べてみた。ただ、墳長の最大値は486m、最小値は18mであり、50m以下の古墳が多数ある。このような母集団を図に表すと、大きな値の所では点がパラパラとあり、小さな値の所では点が密集してしまう結果となる。そこで、それぞれの値を自然対数の値に変換(エクセルの関数:LN(数値))して図にあらわしている。目盛の値に対応する実際の値を図の下に示した。なお、自然対数の数値を実際の数値に直すエクセルの関数はEXP(数値)である。

 

墳長と後円径の関係はZ248の図のようになっている。の出現期の前方後円墳は、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、①X/Y=1.5と②X/Y=2.5の間に挟まれていた。数学的に“y=ax”の直線式を自然対数の式に直すと“y=x+loge a”直線式となる。エクセルの関数で“loge a”は“LN(a)”である。①のY=0.67Xは、自然対数の式ではY=X+LN(.67)でY=X-0.4の直線となる。Z247の図で①の直線がこれである。②のY=0.4XはY=X-0.92の直線となる。の出現期古墳は①と②の間に挟まれ存在している。①の直線より上の点が帆立貝式の前方後円墳である。

 

Z248.墳長と後円径.png

後円径と前方幅の関係はZ249の図のようになっている。の出現期の前方後円墳は、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあり、③W/Y=0.5、④W/Y=1.0の間に挟まれていた。Z248 の図において③のW=0.5YはY=X-0.69の直線となり、④のW=YはW=Yの直線となる。の出現期古墳は③と④の間に挟まれ存在している。③の直線より下の点の多くが帆立貝式のもので、④の直線より上がテルテル坊主形の前方後円墳である。

 

Z250.墳長と後前高差.png出現期前方後円墳の特徴としては、前方部の高さが後円部の高さより低いことが挙げられている。そこで、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にある前方後円墳について、墳長と後前高差(前方部高さー後円部高さ)の関係をZ250に示した。墳長は自然対数で示している。の出現期古墳は、1例を除いて後前高差はー2m以下であることがわかる。また、1例を除いて墳長はEXP(.)=44.7m以上である。なお、後円径と後前高差の関係から、後円径は1例を除いてEXP(.)=22.2m以上であった。

 

前方後円墳を築造した当時、44.7mとか22.2m、そしてー2mという“m”の単位は存在しない。だから、これらの数値が古墳設計の値とはならない。前方後円墳の出現した前期前葉は260~320年の時代で、中国では西晋(265~316年)の時代にあたる。魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百余歩とあり、古墳の寸法は歩の単位であったと思われる。西晋の時代の長さの単位は魏の時代と同じで、1尺の長さは24.2cmである。1歩は6尺で1.45mとなる。これらからすると、墳長が44m以上は30歩(43.5m)以上で、後円径22m以上は15歩(21.8m)以上で、後前高差がー2m以下はマイナス1.5歩(―2.18m)以下となる。

 

出現期(前期前葉)の前方後円墳は墳長が後円径の1.5~2.5倍、前方幅が後円径の0.5~1.0倍、くびれ幅が後円径の0.25~0.75倍の範囲にある。築造当時、小数点の概念はなかっただろうが、半分とか3分の1、4分の1の概念はあったと考える。そして、前方部高さが後円部高さより1.5歩(―2.18m)低く、墳長が30歩(43.5m)以上、後円径が15歩(21.8m)以上の範囲にある。この範囲こそが出現期前方後円墳の設計思想であり、考古学でよく使われている“定型化された初期の前方後円墳”の定型範囲であろう。定型化された前方後円墳の代表格が箸墓であり、これまでの図にその位置を示している。

 

Z251.定型範囲の古墳数.png前方後円墳の形態は前期前葉に定まった定型範囲から、後方長が短くなった帆立貝式の古墳が生まれ、前方幅が後円径より広いテルテル坊主形の古墳が生まれ、後円部と前方部の高さの差が少なくなり、墳長が30歩、後円径が15歩より小さな古墳が多く造られていった。Z251に、定型範囲をクリアーした古墳数を時代別に列記した。なお、くびれ幅は測定値が少ないので、くびれ幅/後円径が0.25~0.75の範囲にある条件は除いている。前期前葉に91%であった定型化された前方後円墳が後期後葉には3%になっている。


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64-9.前方後円墳は後円径を基に設計された [64.古墳の年代をエクセルで決める]

前方後円墳(前方後方墳を含む)は我が国独自の墳丘形態で、後円部と前方部より成り立っている。後円部には埋葬施設があり、弥生時代の円墳・方墳の流れを汲み墳墓としての主丘となっている。前方部の起源については、祭祀を行う場としての祭壇説や、弥生周溝墓の陸橋が発達した墓道説などがあり明確にはなっていない。最も古い大型の前方後円墳が箸墓古墳である。箸墓古墳は定型化された前方後円墳といわれるが、何をもって“定型”というのか定かではない。前方後円墳の墳丘規模や形態を古墳の年代別に層別して、出現期の古墳の設計思想を探ってみる。

 

Z245.前方後円墳図面.png墳丘の規模や形態は、墳長・後円径・前方幅・くびれ幅・後前高差などの値から解析した。これらの値はエクセルに取り込んだ「遺跡ウォーカー」の情報から「SEARCH」命令を使って抽出した。“後円径”の値には、前方後方墳の“後方幅”をも含めて表示し、“前方長”の値については「墳長ー後円径」と定義し、“後前高差”の値が無いものは「前方部高さー後円部高さ」で計算した。

 

前方後円墳の主丘が後円部であることからして、墳丘の形態は後円径が基となって設計されていると考え、墳長/後円径と前方幅/後円径の関係をZ246に示した。図を見ると、㊥の四角の領域にの出現期(前期前葉)の前方後円墳の全てが入っていることが分かる。出現期の前方後円墳は、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲で、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にある。後円径を基本とした非常にシンプルな設計であることが分かる。墳長/後円径(X/Y)が1.5以下の㊧の領域は、帆立貝式と呼ばれる前方後円墳の領域である。前方長が墳長に比べて非常に短い帆立貝式の領域が㊧であることは数学的に証明できる。前方長は“墳長ー後円径”(Z=X-Y)と定義しており、X/Y<1.5にY=X-Zを代入するとZ<0.33Xとなり、前方長が墳長の1/3以下であることを示している。前方幅/後円径が1より大きい(前方幅が後円径より大きい)㊤の領域の古墳の名称は特にないようだが、私はテルテル坊主形と呼んでいる。前方幅/後円径が最大の2倍ある古墳は、清寧天皇陵に治定されている墳長115mの白髪山古墳(大阪府羽曳野市)である。

Z246.初期前方後円墳範囲1.png

後方幅/後円径とくびれ幅/後円径の関係をZ247に示した。図を見ると、㊥の四角の範囲にの全てが入っている。前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあるのはZ246と同じであり、くびれ幅/後円径が0.25~0.75の範囲にある。()の直線はV=Yの関係にあり、この直線の近くにある古墳はくびれ幅と前方幅が同じで、柄鏡式と呼ばれているタイプの前方後円墳である。()の直線はV=0.5Yの関係にあり、この直線の近くにある古墳はくびれ幅が前方幅の半分であり、撥(ばち)型と呼ばれるタイプの前方後円墳である。最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳が撥型であり、の出現期の多くの古墳がの直線の近くに多いことが分かる。しかし、図Z247からは、出現期の古墳の形態は、撥形から柄鏡形までの間の色々のタイプがあることも示している。


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64-8.円筒埴輪Ⅲ式は前期に属している [64.古墳の年代をエクセルで決める]

古墳の年代決定のプログラムにより、3294基の古墳の年代を決定したが、その年代幅が前期・中期・後期の3期に明確に区分できた前方後円()墳は1512基で、前期(260~400年)462基、中期(400~470年)165基、後期(470~600年)885期であった。前期と後期は年代幅が大きいので、前期は前期前葉(260~320年)38基と前期後葉(360~400年)103基、後期は後期前葉(470~520年)107基と後期後葉(550~600年)45基の古墳を抽出した。各期の終りと次の期の始まりの年代が重なっているのは、±10年の重なりがあるためである。また、前期と中期にまたがる395~405年の年代と判定された古墳には円筒埴輪Ⅲ式が多いため前期に、また中期と後期にまたがる465~475年と判定された古墳には円筒埴輪Ⅳ式が多いため中期に編入している。巻末のZ243には、年代幅が30年以内であった385基の前方後円()墳の一覧を示した。

 

Z244.巨大古墳.png全国の古墳で墳長が200mを越える巨大古墳は、白石太一郎編
『古代を考える 古墳』には35基が掲載されており、その内訳は
前期11基、中期21基、後期3基である。年代が明確に区分され
た1512基の中で、巨大古墳はZ244に示すように29基、
その内訳は前期21基、中期7基、後期1基である。これらの巨大古墳は、『古代を考える 古墳』に記載された数よりも6基少ないにも関わらず、前期では10基も多い結果となっている。その原因は、
円筒埴輪のⅢ式の時代を、私は前期に編入しているが、白石氏(現在の考古学では)は中期に編入しているからである。

 

古墳を研究する者のバイブルである『前方後円墳集成』では、全国的規模での前方後円墳の横並びの関係をつかむために、広瀬和雄氏が作成した「畿内における前方後円墳の編年基準」を共通の編年基準として、古墳時代を10期に区分することを採用している。この編年基準では、川西宏幸氏の円筒埴輪編年と田辺昭三氏の須恵器編年を基本として、その他の要素を加えて編年基準が作成されている。この編年基準は「集成編年」として、研究者の間でもっぱら用いられている。

編年基準の5期の定義は、「円筒埴輪のⅢ式、同種多量の滑石製農工具が顕著となる。鉄鏃は4期出現の型式が、また短甲は三角板革綴・長方板革綴型式がそれぞれ主体を占める。銅鏃・筒形銅器・巴形銅器・石製腕飾類などは4期で消滅し、この時期には続かない。」とある。これに従えば、「石製腕飾(石釧・鍬形石・車輪石)・筒形銅器・巴形銅器・銅鏃」は、円筒埴輪のⅢ式と共伴しないことになる。

私が調査した古墳では、これら4種の副葬品は円筒埴輪Ⅲ式と共伴している。石製腕飾では島の山古墳(奈良)で石釧・鍬形石・車輪石が、遊塚古墳(岐阜)で車輪石が出土し、巴形銅器は鳥居前古墳(京都)、行者塚古墳(兵庫)、千足古墳(岡山)、白鳥古墳(山口)で出土し、銅鏃は久津川車塚古墳(京都)、乙女山古墳(奈良)、千足古墳(岡山)、愛宕山古墳(徳島)で出土している。また、前期古墳の象徴とされる三角縁神獣鏡が室宮山古墳(奈良)、久津川車塚古墳(京都)から出土している。

これらからして、円筒埴輪のⅢ式の時代は前期に編入するのが相応しいと考える。なお、古墳時代中期の代表的副葬品は、須恵器・馬具・鋲留短甲であるが、須恵器は後世のものが混入する可能性が高いので除くと、円筒埴輪のⅢ式から出土した馬具は新沢274号墳(奈良)と溝口の塚古墳(長野)の2基のみで、鋲留短甲は皆無である。新沢274号墳・溝口の塚古墳は前期と中期の接点の古墳で、年代は395~405年と考えれば、何も矛盾は起こらない。円筒埴輪のⅢ式の時代は、前期後葉(360~400年)の時代であるといえる。

古墳には盗掘されているものが多く、また天皇陵のように発掘調査されていないものも多い。そのような古墳で、築造年代を前期・中期・後期の3期に別けようとするとき、埴輪の型式は有効な指標となる。しかし、埴輪が出土している古墳でも、その型式が判定されている古墳は17%程度で意外と少ない。埴輪の型式判定の因子の一つ「黒班」は、最も容易に見つけることが出来る。円筒埴輪のⅢ式の時代を前期にいれると、「埴輪に黒班が有れば前期」という単純明快な指標が出来る。「遺跡ウォーカー」の検索で、「埴輪」は5574件がヒットするが、「黒班」でヒットしたのはたったの8件で、「黒班」が資料として重要視されていないのは残念である。

Z243-1.古墳前期前葉.png

Z243-2.古墳前期中葉.png












































Z243-3.古墳前期後葉.png


















































Z243-4.古墳中期.png





























































Z243-5.古墳後期前葉.png





























































Z243-6.古墳後期中葉.png





Z243-7.古墳後期後葉.png








































































































































































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64-7.紫金山古墳の埴輪型式に物申す [64.古墳の年代をエクセルで決める]

紫金山古墳(茨木市)は古墳年代決定プログラムにおいて、円筒埴輪Ⅰ式(290~319年)と竪矧板革綴式短甲(340~369年)の交差により、年代の決定が不可となった古墳である。紫金山古墳は未盗掘の古墳で京都大学が発掘調査を行っており、その関係者である坂口英毅氏は『前期古墳解明への道標 紫金山古墳』(以降『紫金山古墳』)を著している。その本にも紫金山古墳の円筒埴輪はⅠ式と書かれてあり、埴輪Ⅰ式の判定が間違っているのか、私の埴輪型式の年代、あるいは竪矧板革綴式短甲の年代が間違っているか、『紫金山古墳』の著者との一騎打ちである。

 

近つ飛鳥博物館編集の『考古学からみた日本の古代国家と古代文化』には、円筒埴輪の編年についてまとめている。それを参考にして、埴輪Ⅰ式と埴輪式の違いをZ239にまとめた。これを見ると、埴輪式と断定できる要因は数個あるが、埴輪Ⅰ式と断定できる要因は、突帯と突帯の間の円周に▽・△・□の形状のスカシ孔が3個以上あるかどうかだけである。『紫金山古墳』の終りには、「第二次調査以降は、円筒埴輪列を検出することができておらず、その詳細はほとんど明らかになっていない。出土した埴輪にも、全形を復元できるような遺存状況の良好な固体はなく、今後の資料の増加が期待される。」と書かれてある。
Z239.円筒埴輪編年.png

紫金山古墳の円筒埴輪の写真を見ると、黒班と△形状のスカシ孔が1個あるものが復元されている。これからは埴輪Ⅲ式ではないことが分かるが、埴輪Ⅰ式か埴輪Ⅱ式かの判断は付かない。紫金山古墳の円筒埴輪が埴輪Ⅰ式である証拠は無いのである。坂口氏は状況証拠として、「紫金山古墳の円筒埴輪は最上段突帯が口縁端部の直下をめぐり、外反が短く終わる極狭口縁である。「極狭口縁」をもつ円筒埴輪が出土した古墳には、副葬品から前期中頃に位置づけられる例が多いことから、紫金山古墳の円筒埴輪はⅠ期でも後半段階の所産と見てよい。」としている。

 

坂口氏は「副葬品を利用して古墳の年代を検討しようとする場合、多くの古墳から出土例があり、なおかつそれ自体の編年研究が進んでいる品目を選択することが望ましい。紫金山古墳の場合は、鏡と(腕輪型)石製品がもっとも有効な品目であろう。貝輪・筒形銅器・竪矧板革綴短甲などは、品目そのものや同一の型式に属する事例が稀少ないし皆無であるため、条件に適さない。」としている。紫金山古墳からは、舶載三角縁神獣鏡のC段階1面と仿製(倭製)三角縁神獣鏡のⅠ段階6面・Ⅱ段階3面、そして鍬形石6個、車輪石1個が出土している。表Z240は埴輪の型式別に、これらの品目が出土する古墳の数を求めたものである。これらからすると、紫金山古墳の三角縁神獣鏡と石製腕飾は円筒埴輪をⅠ期とする状況証拠にはなり得ないことが分かる。

Z240.紫金山古墳遺物1.png

 

紫金山古墳の円筒埴輪が埴輪Ⅰ式であることが状況証拠でしかないのであれば、私にも言い分がある。紫金山古墳から出土した遺物に、ひれ付円筒埴輪、竪矧板革綴短甲1領、筒形銅器1個、棗玉4個がある。表Z241は、埴輪の型式別にこれらの遺物が出土する古墳の数を求めたものである。埴輪Ⅰ式に示す“1”は全て紫金山古墳である。埴輪Ⅰ式の出土する古墳で、ひれ付円筒埴輪、短甲(竪矧板革綴以外も含む)、筒形銅器、棗玉の遺物が出土する古墳は紫金山古墳以外にはまったく無く、状況証拠としては、紫金山古墳の円筒埴輪は埴輪Ⅱ式と言える。

 

Z242.松岳山鰭付楕円筒埴輪.pngなお、紫金山古墳からは、ひれ付楕円筒埴輪の破片が出土している。このひれ付楕円筒埴輪はひれの形状、突帯間隔などが大阪府柏原市の松岳山古墳出土(Z242:右下隅は紫金山古墳)のものと似ている。松岳山古墳のひれ付楕円筒埴輪には突帯と突帯との間に三角の形状のスカシ孔が6個あり埴輪Ⅰ式と言える要素である。近つ飛鳥博物館編集の『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』では、松岳山古墳の円筒埴輪の型式をⅠ式としているが、「遺跡ウォーカー」では松岳山古墳の円筒埴輪の型式をⅡ式とある。楕円筒埴輪のスカシ孔の数は、川西氏の定義した円筒埴輪の型式に当てはまらないのではないかと思う。

 

『紫金山古墳』では紫金山古墳の年代は4世紀前半としているが、古墳年代決定プログラムよれば、円筒埴輪の型式を無視すれば年代の決め手が竪矧板革綴短甲で年代は340~369年となり、違いはそれほど大きくない。紫金山古墳の円筒埴輪の型式がⅠ式ではなくⅡ式であり、私の埴輪型式の年代、あるいは竪矧板革綴式短甲の年代は間違っていないと思える。


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