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65-3.百済渡来の卓素が帯金式革綴短甲を開発 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の前期後葉(360~400年)になると、墳長が100m以上の大形古墳の分布は、大阪8基、奈良6基、群馬5基、三重3基、京都・兵庫・岡山・岐阜・宮崎が2基、福井・栃木・山口・香川・佐賀が1基となり、大阪の河内(古市・百舌鳥)新たに大形古墳が造られ始めている。前期後葉は埴輪Ⅲ式の時代で、北部九州では、その源流が朝鮮半島であると見られている竪穴系横口式石室を始めとする初期の横穴式石室を持つ古墳が登場し、また三角板革綴短甲や長方板革綴短甲、衝角付冑が副葬されるようになる。前期後葉の前半の時代は、応神天皇(354~378年)の時代にあたる。応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まっている。そして、百済王は368年(応神15年)に阿直岐を遣わして良馬二匹を奉っている。

 

Z253.老司古墳.png老司古墳(福岡市)は竪穴系横口式石室を持つ、初期の横穴式石室系の古墳である。年代確定プログラムでは埴輪Ⅱ式(310~369年)と須恵器・馬具(轡)・金環(400年~)の年代に矛盾が生じ、年代の決定ができなかった古墳の一つである。これらの遺物を除くと、老司古墳の年代は埴輪Ⅱ式と初期横穴式石室(370~479年)から365年から375年となり、百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上した368年とピッタリ一致している。老司古墳は朝鮮半島との往来が行われた玄界灘に面しており、中期古墳から出土する須恵器・馬具(轡)・金環が、それらに先だっていち早くもたらされたと考えられる。老司古墳から出土した轡は、肖古王が献上した馬に使用していたものであろうか?

 Z254.三角板革綴短甲.png

前期後葉(360~400年)の大きな画期は大形古墳が河内の古市・百舌鳥古墳群に築造され始めたことだが、この河内の古墳を中心として370年を境に、方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に替わって三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が副葬され始めている。三角板革綴短甲と長方板革綴短甲は帯金式革綴短甲と称されており、帯金という細長い鉄板で人の胴体に合う形状の骨組みをこしらえ、その帯金に地板という長方形や三角形の鉄板を革で綴じて製作されている。それまでの方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に比べて、鉄板を曲面加工せねばならず、高い鍛造技術が要求される。

 

「63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実」で示したように、『書紀』応神15年の記事と『古事記』応神記を照らし合わせると、368年に百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上し、その翌年に王仁が論語十巻と千文字一巻を携えて渡来してきたことが分かる。『古事記』には、王仁と共にその名を「卓素」という韓系の鍛冶技術者が倭国に渡来している。この「卓素」が、我が国で帯金式革綴短甲を開発したと考える。こう考えると、370年頃から帯金式革綴短甲の三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が古墳に副葬され始めたことが説明できる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』によって、未だ明確になっていなかった帯金式革綴短甲の源流を発見することが出来た。


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65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

日本書紀』は、朝鮮半島の百済・新羅・高句麗の三国との関わりについて多くのページを割いている。中でも百済とは、660年に白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に破れ百済が滅びるまで、友好国(同盟国)として互いに大きな影響を与えて来た。倭国と百済の外交が始まったのは、応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介からであった。その時、百済の肖古王は倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)、鉄鋌四十枚を与えている。

 

また、応神天皇の372年(神功52年:252+120)には、百済の肖古王が使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉り、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。

 

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌があり、表の象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、40枚の鉄鋌が出土した。鉄鋌の平均寸法は長さ30.7cm、幅4.13cm、厚さ1.45cm、重さ1.31kgの棒状で、日本の古墳から出土する厚さ0.2cmで両端が広がった鉄鋌とは異なっている。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

 

Z253.弾琴台土城鉄鋌.png

2016年から17年の弾琴台の南側斜面の発掘調査では、鉄鉱石を溶解し鉄を作る製錬炉が11基と、鉄鉱石を割るために火を炊いた遺構10基が発見されている。11基の製錬炉は3つの層から出ており、使っていた製錬炉を破棄後、その上に土を覆って新しい炉を造っている。焼けた木片の炭素年代を測定した結果は、これらの遺跡は4世紀に造られたことが判った。4世紀、少なくとも100年に渡って忠州の弾琴台で鉄を作ったのは、ここが鉄鉱石の主要産地であるうえ、南漢江の水上交通を通して鉄を運ぶことが出来たためと分析されている。

 

百済の肖古王の在位は346~375年で、都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流に忠州市がある。「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」にある河は漢江のことであり、水源の谷那の山の鉄鉱石から鉄にしたのが、4世紀に稼動した弾琴台の製錬炉であったのであろう。

 

366年に倭国の使者が肖古王より賜った鉄鋌は40枚、弾琴台土城から出土した鉄鋌が40枚、奇しくも40枚と一致しており、肖古王より賜った鉄鋌が弾琴台の製錬炉で作られたと考えてもおかしくない。弾琴台から出土した百済時代の鉄鋌・製錬炉は、書紀』が記す百済の肖古王に関する記事が、史実に基づいていることを照明している。石上神宮の国宝七支刀の鉄素材は、弾琴台で作られたのであろう。

漢江地形図1.png

 


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65-1.箸墓古墳の築造年代は260年前後 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の象徴が前方後円墳であり、それは大和王権の象徴でもある。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、考古学的に導き出した古墳の編年とをマッチングさせ、古墳時代を解明したいと考える。なお、これ以降「縮900年表」による年代は青字で表示することにする。

 

Z252.前方後円墳の規模.png前方後円墳の時代別・規模別の変遷を表Z252に示す。前方後円墳が出現した前期前葉(260~320年)の地域別分布は、墳長が100m以上の大形前方後円墳では、奈良7基、京都・岡山2基、群馬1基で、大和王権発祥の地が奈良県にあったことが判る。一方、100m未満の古墳では、岡山13基、京都・兵庫・長野が2基、奈良・大阪・広島・香川・三重・茨城・群馬が1基と岡山県が圧倒的に多く、岡山が大和王権誕生に大きく関わっていたことが分かる。また下段に示すように、葺石は古墳の出現期(前期前葉)の時代から非常に高い比率で存在している。葺石は出雲の四隅突出弥生墳丘墓の影響を受けているといわれており、出雲が大和王権誕生に関わっていることを意味している。

 

『書紀』は、神武天皇は東征において吉備に3年間滞在し、船舶を揃え兵器や食糧を蓄え、天下を平定する準備を整え、そして大和に攻め入り橿原の地に建国(241年)したと記している。出現期の前方後円墳が岡山県に圧倒的に多いのは、大和王権の誕生に吉備が関係していることを暗示している。また、神武天皇が橿原の地に建国したとき、正妃に媛蹈鞴五十鈴媛命を召している。媛蹈鞴五十鈴媛命は出雲の大己貴神(大国主神)の孫にあたる。大和王権の誕生に出雲が関係していることを暗示している。

 

箸墓古墳.png最古の大型前方後円墳とされている箸墓古墳(墳丘276m)が築造された時代が古墳時代の始まりとになる。その箸墓古墳の話が『書紀』崇神9年の記事に「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳のある桜井市箸中は、中世までは大和国城上郡大市郷と称され、また纏向遺跡からは「市」と墨書きされた飛鳥時代の土器が出土しており、倭迹迹日百蘇姫の大市墓が箸墓古墳であることは確かである。箸墓古墳の後円部墳頂からは、奈良盆地と大阪平野の境にある二上山の山麓の芝山の石が出土しており、『書紀』の「大阪山の石を運んで造る。」と合致している。「縮900年表」によると、箸墓が造られた崇神9年は259年にあたる。

 

国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行い、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるとしている。箸墓古墳からは吉備系の都月型の特殊器台形埴輪が出土しており、古墳年代は260年から289年となる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、暦博の炭素14年代測定と、私の古墳年代決定プログラムで算出した古墳年代は、三者共に箸墓古墳の年代を260年前後としている。『魏志倭人伝』は邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのを247年前後のこととしており、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと言われている。

 

『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓は“径百余歩”と記されている。前節で述べたように、前方後円墳の主丘が埋葬施設のある後円部で、墳丘の寸法が後円径を基に定められていることからすれば、卑弥呼の墓が前方後円墳とするならば“後円径”が“百余歩”であることになる。箸墓の後円径は157mである。魏の時代の1尺の長さは24.2cmであり、1歩は6尺で1.45mである。箸墓の後円径は108歩であり、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓は“径百余歩”と一致する。

日向にあった邪馬台国は狗奴国に滅ぼされたのかも知れない。そうならば、磐余彦尊が日向から東征し建国した大和の地が、邪馬台国にとっての新天地である。その大和に邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が築かれても不思議ではない。「縮900年表」によれば、神武天皇が崩御されたのが、卑弥呼と同じ247年となる。箸墓古墳には卑弥呼と神武天皇の二人が葬られているのかも知れない。


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64-10.出現期前方後円墳の設計思想 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

墳丘形態は後円径が基となって設計されており、墳長/後円径と前方幅/後円径の関係から、出現期の前方後円墳は墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあることが分かった。しかし、この方法では墳長400m、後円径200m、前方幅150mの古墳と、墳長40m、後円径20m、前方幅15mの古墳は全く同じ点となり、古墳の規模が全く甘味されていない。

 

そこで、古墳規模を墳長と後円径、後円径と前方幅の関係で調べてみた。ただ、墳長の最大値は486m、最小値は18mであり、50m以下の古墳が多数ある。このような母集団を図に表すと、大きな値の所では点がパラパラとあり、小さな値の所では点が密集してしまう結果となる。そこで、それぞれの値を自然対数の値に変換(エクセルの関数:LN(数値))して図にあらわしている。目盛の値に対応する実際の値を図の下に示した。なお、自然対数の数値を実際の数値に直すエクセルの関数はEXP(数値)である。

 

墳長と後円径の関係はZ248の図のようになっている。の出現期の前方後円墳は、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、①X/Y=1.5と②X/Y=2.5の間に挟まれていた。数学的に“y=ax”の直線式を自然対数の式に直すと“y=x+loge a”直線式となる。エクセルの関数で“loge a”は“LN(a)”である。①のY=0.67Xは、自然対数の式ではY=X+LN(.67)でY=X-0.4の直線となる。Z247の図で①の直線がこれである。②のY=0.4XはY=X-0.92の直線となる。の出現期古墳は①と②の間に挟まれ存在している。①の直線より上の点が帆立貝式の前方後円墳である。

 

Z248.墳長と後円径.png

後円径と前方幅の関係はZ249の図のようになっている。の出現期の前方後円墳は、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあり、③W/Y=0.5、④W/Y=1.0の間に挟まれていた。Z248 の図において③のW=0.5YはY=X-0.69の直線となり、④のW=YはW=Yの直線となる。の出現期古墳は③と④の間に挟まれ存在している。③の直線より下の点の多くが帆立貝式のもので、④の直線より上がテルテル坊主形の前方後円墳である。

 

Z250.墳長と後前高差.png出現期前方後円墳の特徴としては、前方部の高さが後円部の高さより低いことが挙げられている。そこで、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にある前方後円墳について、墳長と後前高差(前方部高さー後円部高さ)の関係をZ250に示した。墳長は自然対数で示している。の出現期古墳は、1例を除いて後前高差はー2m以下であることがわかる。また、1例を除いて墳長はEXP(.)=44.7m以上である。なお、後円径と後前高差の関係から、後円径は1例を除いてEXP(.)=22.2m以上であった。

 

前方後円墳を築造した当時、44.7mとか22.2m、そしてー2mという“m”の単位は存在しない。だから、これらの数値が古墳設計の値とはならない。前方後円墳の出現した前期前葉は260~320年の時代で、中国では西晋(265~316年)の時代にあたる。魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百余歩とあり、古墳の寸法は歩の単位であったと思われる。西晋の時代の長さの単位は魏の時代と同じで、1尺の長さは24.2cmである。1歩は6尺で1.45mとなる。これらからすると、墳長が44m以上は30歩(43.5m)以上で、後円径22m以上は15歩(21.8m)以上で、後前高差がー2m以下はマイナス1.5歩(―2.18m)以下となる。

 

出現期(前期前葉)の前方後円墳は墳長が後円径の1.5~2.5倍、前方幅が後円径の0.5~1.0倍、くびれ幅が後円径の0.25~0.75倍の範囲にある。築造当時、小数点の概念はなかっただろうが、半分とか3分の1、4分の1の概念はあったと考える。そして、前方部高さが後円部高さより1.5歩(―2.18m)低く、墳長が30歩(43.5m)以上、後円径が15歩(21.8m)以上の範囲にある。この範囲こそが出現期前方後円墳の設計思想であり、考古学でよく使われている“定型化された初期の前方後円墳”の定型範囲であろう。定型化された前方後円墳の代表格が箸墓であり、これまでの図にその位置を示している。

 

Z251.定型範囲の古墳数.png前方後円墳の形態は前期前葉に定まった定型範囲から、後方長が短くなった帆立貝式の古墳が生まれ、前方幅が後円径より広いテルテル坊主形の古墳が生まれ、後円部と前方部の高さの差が少なくなり、墳長が30歩、後円径が15歩より小さな古墳が多く造られていった。Z251に、定型範囲をクリアーした古墳数を時代別に列記した。なお、くびれ幅は測定値が少ないので、くびれ幅/後円径が0.25~0.75の範囲にある条件は除いている。前期前葉に91%であった定型化された前方後円墳が後期後葉には3%になっている。


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64-9.前方後円墳は後円径を基に設計された [64.古墳の年代をエクセルで決める]

前方後円墳(前方後方墳を含む)は我が国独自の墳丘形態で、後円部と前方部より成り立っている。後円部には埋葬施設があり、弥生時代の円墳・方墳の流れを汲み墳墓としての主丘となっている。前方部の起源については、祭祀を行う場としての祭壇説や、弥生周溝墓の陸橋が発達した墓道説などがあり明確にはなっていない。最も古い大型の前方後円墳が箸墓古墳である。箸墓古墳は定型化された前方後円墳といわれるが、何をもって“定型”というのか定かではない。前方後円墳の墳丘規模や形態を古墳の年代別に層別して、出現期の古墳の設計思想を探ってみる。

 

Z245.前方後円墳図面.png墳丘の規模や形態は、墳長・後円径・前方幅・くびれ幅・後前高差などの値から解析した。これらの値はエクセルに取り込んだ「遺跡ウォーカー」の情報から「SEARCH」命令を使って抽出した。“後円径”の値には、前方後方墳の“後方幅”をも含めて表示し、“前方長”の値については「墳長ー後円径」と定義し、“後前高差”の値が無いものは「前方部高さー後円部高さ」で計算した。

 

前方後円墳の主丘が後円部であることからして、墳丘の形態は後円径が基となって設計されていると考え、墳長/後円径と前方幅/後円径の関係をZ246に示した。図を見ると、㊥の四角の領域にの出現期(前期前葉)の前方後円墳の全てが入っていることが分かる。出現期の前方後円墳は、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲で、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にある。後円径を基本とした非常にシンプルな設計であることが分かる。墳長/後円径(X/Y)が1.5以下の㊧の領域は、帆立貝式と呼ばれる前方後円墳の領域である。前方長が墳長に比べて非常に短い帆立貝式の領域が㊧であることは数学的に証明できる。前方長は“墳長ー後円径”(Z=X-Y)と定義しており、X/Y<1.5にY=X-Zを代入するとZ<0.33Xとなり、前方長が墳長の1/3以下であることを示している。前方幅/後円径が1より大きい(前方幅が後円径より大きい)㊤の領域の古墳の名称は特にないようだが、私はテルテル坊主形と呼んでいる。前方幅/後円径が最大の2倍ある古墳は、清寧天皇陵に治定されている墳長115mの白髪山古墳(大阪府羽曳野市)である。

Z246.初期前方後円墳範囲1.png

後方幅/後円径とくびれ幅/後円径の関係をZ247に示した。図を見ると、㊥の四角の範囲にの全てが入っている。前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあるのはZ246と同じであり、くびれ幅/後円径が0.25~0.75の範囲にある。()の直線はV=Yの関係にあり、この直線の近くにある古墳はくびれ幅と前方幅が同じで、柄鏡式と呼ばれているタイプの前方後円墳である。()の直線はV=0.5Yの関係にあり、この直線の近くにある古墳はくびれ幅が前方幅の半分であり、撥(ばち)型と呼ばれるタイプの前方後円墳である。最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳が撥型であり、の出現期の多くの古墳がの直線の近くに多いことが分かる。しかし、図Z247からは、出現期の古墳の形態は、撥形から柄鏡形までの間の色々のタイプがあることも示している。


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64-8.円筒埴輪Ⅲ式は前期に属している [64.古墳の年代をエクセルで決める]

古墳の年代決定のプログラムにより、3294基の古墳の年代を決定したが、その年代幅が前期・中期・後期の3期に明確に区分できた前方後円()墳は1512基で、前期(260~400年)462基、中期(400~470年)165基、後期(470~600年)885期であった。前期と後期は年代幅が大きいので、前期は前期前葉(260~320年)38基と前期後葉(360~400年)103基、後期は後期前葉(470~520年)107基と後期後葉(550~600年)45基の古墳を抽出した。各期の終りと次の期の始まりの年代が重なっているのは、±10年の重なりがあるためである。また、前期と中期にまたがる395~405年の年代と判定された古墳には円筒埴輪Ⅲ式が多いため前期に、また中期と後期にまたがる465~475年と判定された古墳には円筒埴輪Ⅳ式が多いため中期に編入している。巻末のZ243には、年代幅が30年以内であった385基の前方後円()墳の一覧を示した。

 

Z244.巨大古墳.png全国の古墳で墳長が200mを越える巨大古墳は、白石太一郎編
『古代を考える 古墳』には35基が掲載されており、その内訳は
前期11基、中期21基、後期3基である。年代が明確に区分され
た1512基の中で、巨大古墳はZ244に示すように29基、
その内訳は前期21基、中期7基、後期1基である。これらの巨大古墳は、『古代を考える 古墳』に記載された数よりも6基少ないにも関わらず、前期では10基も多い結果となっている。その原因は、
円筒埴輪のⅢ式の時代を、私は前期に編入しているが、白石氏(現在の考古学では)は中期に編入しているからである。

 

古墳を研究する者のバイブルである『前方後円墳集成』では、全国的規模での前方後円墳の横並びの関係をつかむために、広瀬和雄氏が作成した「畿内における前方後円墳の編年基準」を共通の編年基準として、古墳時代を10期に区分することを採用している。この編年基準では、川西宏幸氏の円筒埴輪編年と田辺昭三氏の須恵器編年を基本として、その他の要素を加えて編年基準が作成されている。この編年基準は「集成編年」として、研究者の間でもっぱら用いられている。

編年基準の5期の定義は、「円筒埴輪のⅢ式、同種多量の滑石製農工具が顕著となる。鉄鏃は4期出現の型式が、また短甲は三角板革綴・長方板革綴型式がそれぞれ主体を占める。銅鏃・筒形銅器・巴形銅器・石製腕飾類などは4期で消滅し、この時期には続かない。」とある。これに従えば、「石製腕飾(石釧・鍬形石・車輪石)・筒形銅器・巴形銅器・銅鏃」は、円筒埴輪のⅢ式と共伴しないことになる。

私が調査した古墳では、これら4種の副葬品は円筒埴輪Ⅲ式と共伴している。石製腕飾では島の山古墳(奈良)で石釧・鍬形石・車輪石が、遊塚古墳(岐阜)で車輪石が出土し、巴形銅器は鳥居前古墳(京都)、行者塚古墳(兵庫)、千足古墳(岡山)、白鳥古墳(山口)で出土し、銅鏃は久津川車塚古墳(京都)、乙女山古墳(奈良)、千足古墳(岡山)、愛宕山古墳(徳島)で出土している。また、前期古墳の象徴とされる三角縁神獣鏡が室宮山古墳(奈良)、久津川車塚古墳(京都)から出土している。

これらからして、円筒埴輪のⅢ式の時代は前期に編入するのが相応しいと考える。なお、古墳時代中期の代表的副葬品は、須恵器・馬具・鋲留短甲であるが、須恵器は後世のものが混入する可能性が高いので除くと、円筒埴輪のⅢ式から出土した馬具は新沢274号墳(奈良)と溝口の塚古墳(長野)の2基のみで、鋲留短甲は皆無である。新沢274号墳・溝口の塚古墳は前期と中期の接点の古墳で、年代は395~405年と考えれば、何も矛盾は起こらない。円筒埴輪のⅢ式の時代は、前期後葉(360~400年)の時代であるといえる。

古墳には盗掘されているものが多く、また天皇陵のように発掘調査されていないものも多い。そのような古墳で、築造年代を前期・中期・後期の3期に別けようとするとき、埴輪の型式は有効な指標となる。しかし、埴輪が出土している古墳でも、その型式が判定されている古墳は17%程度で意外と少ない。埴輪の型式判定の因子の一つ「黒班」は、最も容易に見つけることが出来る。円筒埴輪のⅢ式の時代を前期にいれると、「埴輪に黒班が有れば前期」という単純明快な指標が出来る。「遺跡ウォーカー」の検索で、「埴輪」は5574件がヒットするが、「黒班」でヒットしたのはたったの8件で、「黒班」が資料として重要視されていないのは残念である。

Z243-1.古墳前期前葉.png

Z243-2.古墳前期中葉.png












































Z243-3.古墳前期後葉.png


















































Z243-4.古墳中期.png





























































Z243-5.古墳後期前葉.png





























































Z243-6.古墳後期中葉.png





Z243-7.古墳後期後葉.png








































































































































































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64-7.紫金山古墳の埴輪型式に物申す [64.古墳の年代をエクセルで決める]

紫金山古墳(茨木市)は古墳年代決定プログラムにおいて、円筒埴輪Ⅰ式(290~319年)と竪矧板革綴式短甲(340~369年)の交差により、年代の決定が不可となった古墳である。紫金山古墳は未盗掘の古墳で京都大学が発掘調査を行っており、その関係者である坂口英毅氏は『前期古墳解明への道標 紫金山古墳』(以降『紫金山古墳』)を著している。その本にも紫金山古墳の円筒埴輪はⅠ式と書かれてあり、埴輪Ⅰ式の判定が間違っているのか、私の埴輪型式の年代、あるいは竪矧板革綴式短甲の年代が間違っているか、『紫金山古墳』の著者との一騎打ちである。

 

近つ飛鳥博物館編集の『考古学からみた日本の古代国家と古代文化』には、円筒埴輪の編年についてまとめている。それを参考にして、埴輪Ⅰ式と埴輪式の違いをZ239にまとめた。これを見ると、埴輪式と断定できる要因は数個あるが、埴輪Ⅰ式と断定できる要因は、突帯と突帯の間の円周に▽・△・□の形状のスカシ孔が3個以上あるかどうかだけである。『紫金山古墳』の終りには、「第二次調査以降は、円筒埴輪列を検出することができておらず、その詳細はほとんど明らかになっていない。出土した埴輪にも、全形を復元できるような遺存状況の良好な固体はなく、今後の資料の増加が期待される。」と書かれてある。
Z239.円筒埴輪編年.png

紫金山古墳の円筒埴輪の写真を見ると、黒班と△形状のスカシ孔が1個あるものが復元されている。これからは埴輪Ⅲ式ではないことが分かるが、埴輪Ⅰ式か埴輪Ⅱ式かの判断は付かない。紫金山古墳の円筒埴輪が埴輪Ⅰ式である証拠は無いのである。坂口氏は状況証拠として、「紫金山古墳の円筒埴輪は最上段突帯が口縁端部の直下をめぐり、外反が短く終わる極狭口縁である。「極狭口縁」をもつ円筒埴輪が出土した古墳には、副葬品から前期中頃に位置づけられる例が多いことから、紫金山古墳の円筒埴輪はⅠ期でも後半段階の所産と見てよい。」としている。

 

坂口氏は「副葬品を利用して古墳の年代を検討しようとする場合、多くの古墳から出土例があり、なおかつそれ自体の編年研究が進んでいる品目を選択することが望ましい。紫金山古墳の場合は、鏡と(腕輪型)石製品がもっとも有効な品目であろう。貝輪・筒形銅器・竪矧板革綴短甲などは、品目そのものや同一の型式に属する事例が稀少ないし皆無であるため、条件に適さない。」としている。紫金山古墳からは、舶載三角縁神獣鏡のC段階1面と仿製(倭製)三角縁神獣鏡のⅠ段階6面・Ⅱ段階3面、そして鍬形石6個、車輪石1個が出土している。表Z240は埴輪の型式別に、これらの品目が出土する古墳の数を求めたものである。これらからすると、紫金山古墳の三角縁神獣鏡と石製腕飾は円筒埴輪をⅠ期とする状況証拠にはなり得ないことが分かる。

Z240.紫金山古墳遺物1.png

 

紫金山古墳の円筒埴輪が埴輪Ⅰ式であることが状況証拠でしかないのであれば、私にも言い分がある。紫金山古墳から出土した遺物に、ひれ付円筒埴輪、竪矧板革綴短甲1領、筒形銅器1個、棗玉4個がある。表Z241は、埴輪の型式別にこれらの遺物が出土する古墳の数を求めたものである。埴輪Ⅰ式に示す“1”は全て紫金山古墳である。埴輪Ⅰ式の出土する古墳で、ひれ付円筒埴輪、短甲(竪矧板革綴以外も含む)、筒形銅器、棗玉の遺物が出土する古墳は紫金山古墳以外にはまったく無く、状況証拠としては、紫金山古墳の円筒埴輪は埴輪Ⅱ式と言える。

 

Z242.松岳山鰭付楕円筒埴輪.pngなお、紫金山古墳からは、ひれ付楕円筒埴輪の破片が出土している。このひれ付楕円筒埴輪はひれの形状、突帯間隔などが大阪府柏原市の松岳山古墳出土(Z242:右下隅は紫金山古墳)のものと似ている。松岳山古墳のひれ付楕円筒埴輪には突帯と突帯との間に三角の形状のスカシ孔が6個あり埴輪Ⅰ式と言える要素である。近つ飛鳥博物館編集の『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』では、松岳山古墳の円筒埴輪の型式をⅠ式としているが、「遺跡ウォーカー」では松岳山古墳の円筒埴輪の型式をⅡ式とある。楕円筒埴輪のスカシ孔の数は、川西氏の定義した円筒埴輪の型式に当てはまらないのではないかと思う。

 

『紫金山古墳』では紫金山古墳の年代は4世紀前半としているが、古墳年代決定プログラムよれば、円筒埴輪の型式を無視すれば年代の決め手が竪矧板革綴短甲で年代は340~369年となり、違いはそれほど大きくない。紫金山古墳の円筒埴輪の型式がⅠ式ではなくⅡ式であり、私の埴輪型式の年代、あるいは竪矧板革綴式短甲の年代は間違っていないと思える。


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64-6.年代が決められなかった17基の古墳 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

古墳年代決定プログラムでもって、3294基の古墳の年代を決定した。これらの古墳の内、遺構・遺物の年代に矛盾があり、古墳年代を決定できなかったのは17基のみであった。ただし、須恵器については横穴式石室の追葬、墳上祭祀、周濠・墳丘への混入など後世のものが遺物として多く出土している。副葬品よりも後世と思われる須恵器はコンタミとして省き、複数の型式の須恵器が出土している場合は一番古い型式のものを採用し、年代の検定に矛盾が起こらないようにしている。遺構・遺物の年代に矛盾が生じた17基の古墳について、その原因別に分類し表Z237に示した。Z237.年代未決古墳.png

「舶載異常」は、副葬品として普及する以前に海外から持ち込まれたものと考えられるものである。新山古墳(葛城郡広陵町)から出土した透彫りした金銅製帯金具は、中国西晋時代(265~316年)のものと類似性が強いとされており、5世紀以降に普及した帯金具とは別のものと見られている。帯金具を除くと新山古墳の年代は、倭製三角縁神獣鏡のⅡ段階と(320~399年)と埴輪Ⅰ式(290~319)の関係から315~325年となり、西晋の帯金具とする見解と合致する。

 

「遺物混入」とは、本来その古墳の副葬品でない後世のものが、副葬品として混入したものである。平尾城山古墳の金銅環は前節のZ236に示したように金銅環(95)と埴輪Ⅰ式(27)に年代の矛盾があった。金銅環は学術調査がなされた以前の出土品で、「遺跡ウォーカー」にも「一括性・出土地など疑問が残る。」との記載があり、「遺物混入」と考えた。副葬品として普及する以前に海外から持ち込まれた「舶載異常」とも考えられる。

 

「新旧混合」の川井稲荷山古墳(佐波郡玉村町)は、埴輪Ⅰ式を有する前期の古墳の上に、埴輪Ⅴ式を有する後期の古墳が築造されたもので、前期古墳は竪穴系の石室で三角縁神獣鏡が出土し、後期古墳は両袖式横穴式石室で馬具の轡が出土している。

Z238.帆立貝式.png同名別種」に掲げた弁天塚古墳(橿原市)は、帆立貝式前方後円墳の墳形と宮山特殊器台形埴輪・都月型埴輪が矛盾したものである。Z238は前方後円()墳と帆立貝式前方後円()墳の墳形を比較した。縦軸は後前高差(前方高さー後円部高さ)で、横軸は前方長(墳長ー後円径)を墳長で割った値である。前方長/墳長が0.4を越しているのも帆立貝式とされており、また0.3以下であるのに帆立貝式になっていないものもあり、帆立貝式の定義が曖昧であることが分かる。帆立貝式と呼べるのは前方長/墳長が0.33未満くらいではないかと思える。弁天塚古墳は墳丘が消滅しており、正確ではないが墳長が60m後円径は40mで、前方長/墳長は0.33程度であり、帆立貝式の範疇にはかろうじて入っている。矛盾原因である帆立貝形を取り除くと、弁天塚古墳の築造年代は最古の大型前方後円墳とされる箸墓と同じ260~289年であり、帆立貝式と称するよりは、前方後円形をなす弥生墳丘墓(纏向型前方後円墳)の延長と捉えた方がよいと思う。


「伝世」という言葉は先祖から受け継いだ遺品という意味で鏡によく使われるが、ここでは前世の遺物が何らかの要因で後世の古墳に副葬品として供えられたことも意味している。三玉大塚古墳(三次市)は朝顔形埴輪Ⅳ式、人物埴輪、横矧板鋲留短甲、馬具、須恵器のTK208が出土することより、中期の古墳であることは間違いない。しかし、前期古墳の副葬品である筒形銅器が1個出土している。「遺跡ウォーカー」で収集できた筒形銅器がする古墳は33基であるが、その内前期古墳以外で出土したのは三玉大塚古墳のみである。三玉大塚古墳に筒形銅器が副葬された原因が伝世かどうかは分からない。筒形銅器を除くと、三玉大塚古墳の年代は、須恵器のTK208より440~459年となる。

城山1号墳(香取市)は三角縁神獣鏡(260~399年)と横矧板鋲留衝角付冑(400~499年)と年代の違う二つの遺物が矛盾の原因となっている。私の古墳リストでは三角縁神獣鏡が出土した古墳は舶載と倭製(仿製)合わせて147基である。その内、前期古墳以外で出土したのは金鶏塚古墳(瀬戸内市)と城山1号墳の2つの古墳のみである。横矧板鋲留衝角付冑は、その製作技法が同じである横矧板鋲留短甲と同時に5世紀末で消滅したと考える。両者のどちらかが出土した古墳は22基であるが、6世紀になって出現する遺物、双龍環頭大刀・捩り環頭大刀・圭頭大刀・円頭大刀・頭椎大刀・須恵器(TK10MT85TK43TK209・平瓶)と共伴した古墳は城山1号墳のみである。城山1号墳の年代は三角縁神獣鏡と横矧板鋲留衝角付冑を除くと、TK43より550~579年となる。

「判定」に掲げた塚の越古墳は須恵器の型式で、妻塚古墳は埴輪の型式で、割地山古墳は短甲の品目で年代の矛盾を起した。これらの古墳については、「遺跡ウォーカー」にもその型式や品目に疑問符が付いており、古墳年代決定プログラムが“正直”であることを物語っている。紫金山古墳の埴輪型式については次節で詳しく述べてみたい。

 


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64-5.古墳の年代決定プログラム [64.古墳の年代をエクセルで決める]

Z233.年代決定プログラム.png古墳年代の決定は143種の遺構・遺物の有無を示す古墳コードと、遺構・遺物の編年コードとを付き合せて行っており、そのプログラムをSheet[年代決定PG]に作成する。shee3[編年コード]をコピーして、G列・H列の2行目に貼り付ける。Z233の番号に従って命令を記入する。

 1)I列2行に「=SEARCH("1",$H$1,1)」の命令を記入。
 2)J列2行に「=SEARCH("1",$H$1,I2+1)」の命令を記入。AZ列2行までコピー。
 3)I列3行に「=IF(MID($H3,I$2,1)=""," ",1)」の命令を記入。AZ列3行までコピー。
 4)I列3行からAZ列3行までドラッグして、I列40行までコピー。
 5)F列3行に「=COUNT(I3:AZ3)」の命令を記入。F列40行までコピー。
 6)E列3行に「=IF(AND(F3=0,F4>0.5),G3+9," ")」の命令を記入。E列40行までコピー。
 7)D列3行に「=IF(AND(F3>0.5,F4=0),G4," ")の命令を記入。D列40行までコピー。
 8)D列2行に「=SUM(D3:D40)」の命令を記入。
 9)E列2行に「=SUM(E3:E40)」の命令を記入。


Sheet7[古墳コード]から年代を決定する古墳の行をコピーして、Sheet[年代決定PG]の1行目に貼り付ける。Z234は池田茶臼山古墳(大阪)の事例である。I列~Q列の2行にある数字は、池田茶臼山古墳に存在した遺構・遺物、前方後円墳()、竪穴式石槨()、割竹形木棺(12)、円筒埴輪(25)、埴輪Ⅰ式(27)、石釧(60)、剣(107)、刀(108)を示している。I列~Q列の3行以下の“ ”(空白)はその遺構・遺物が存在した年代で、“1”はその遺構・遺物が存在しなかった年代、ある。なお、編年コード・古墳コードでは“1”は遺構・遺物の存在したことを示している。反対にしているのは、年代計算が安易であったためである。池田茶臼山古墳の年代は300~319年で、決め手は石釧(60)と埴輪Ⅰ式(27)である。D列・E列2行に古墳年代が表示されている。Z234.池田茶臼山古墳.png


Z235は花光寺山古墳(岡山)の事例で、D列・E列2行に年代は出ていない。I列以降を見ると、石棺直葬(11)・長持形石棺(15)と埴輪Ⅰ式(27)が310年と320年で接しており、年代は315~325年としている。Z235.花光寺山古墳.png


Z236は平尾城山古墳の事例で、金銅環(95)と埴輪Ⅰ式(27)が交差しており年代は出ていない。金銅環は金銅製品が普及する以前に海外から持ち込まれた“舶載異常”と考えられる。金銅環を除いて年代をみると、粘土槨()・動物埴輪(39)・鶏埴輪(41)・倭製三角縁(45)・倭製鏡(56)・合子(63)と埴輪Ⅰ式(27)で、300~319年と思われる。これら3事例からみても埴輪型式の年代、特に消滅の年代が年代決定の決め手になっていることがわかる。

Z236.平尾城山古墳.png

 


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64-4.古墳の遺構・遺物の有無をコード化 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

古墳コードを作成する方法は、Sheet[編年コード作成]の先頭行から3行コピーして、Sheet6[古墳コード作成]に貼り付け、「前方後円墳」の列がI列になるよう、6列挿入する。I列の4行目に「=IF(IFERROR(SEARCH("",$E4,1),0)>0,1,0)」の命令を記入し、「前方後円墳」のI列から「銅椀」のEU列までコピーしておく。Z232に示すように、I列の3行目のセル「前方後円墳」をクリックして、ボードに表示される横文字の「前方後円墳」をドラッグしてコピーし、I列4行目の「=IF(IFERROR(SEARCH("",$E4,1),0)>0,1,0)」の命令「""」の中に貼り付ける。この作業をEU列の「銅椀」まで繰り返す。ただし、編年要素名に赤字があるときは、赤字はコピーしない。また、埴輪の型式は文字ではなく、半角の英大文字のI(アイ)V(ヴイ)を組み合わせた文字(I,II,III,IV,V)とする。

 

Z232.古墳コードの作成.png

また、余分なデータを拾い出さないように、L列「造出」の4行目は、
=IF(IFERROR(SEARCH("造出なし",$E4,1),0)>0,0,IF(IFERROR(SEARCH("造出",$E4,1),0)>0,1,0))」に、
BK列「鏡」の4行目は、
=IF(IFERROR(SEARCH("鏡板",$E4,1),0)>0,0,IF(IFERROR(SEARCH("鏡",$E4,1),0)>0,1,0))」に、
CW列「楕円形」の4行目は同じ命令で"楕円形埴輪"と"楕円形"に、ET列「子持」の4行目は"子持勾玉"と"子持"書き改める。最後に「コード」のEV列3行目の命令「=CONCATENATE(I3,J3,K3,・・・・・ES3,ET3,EU3)」を4行目にコピーしておく。

 

なお、三角縁神獣鏡の型式(A段階~D段階)と倭製三角物神獣鏡の型式(Ⅰ段階~V段階)は「遺跡ウォーカー」のデータには記載されていない。私は福永伸哉著『三角縁神獣鏡の研究』の最後にある「三角縁神獣鏡一覧」をもとに、Sheet6[古墳コード作成]のE列「データ」の最後に、型式の「A段階」~「Ⅴ段階」の文字を書き入れている。また、「遺跡ウォーカー」のデータには「初期横穴式石室」の表現はない。埴輪型式がⅡ式・Ⅲ式・Ⅳ式で横穴式石室の場合は、「初期横穴式石室」といえるので、それらについては「横穴式石室」のP列を強制的に「0」にして、「初期横穴式」のO列を「1」にする。

 

後はSheet5の古墳リストをA列~H列に見出しが3行目になるように貼り付け、4行目のI列からEV列をコピーして、古墳リストの最後の行まで貼り付けると、EV列に143桁の古墳コードが出来上がる。古墳コードを4行目以降終りまでコピーして、H列4行目に「値」のみを選択して貼り付ける。そして、Sheet6[古墳コード作成]のA列~H列をコピーしてSheet7[古墳コード一覧]に貼り付ける。I列を「0」で埋めておくと、古墳コードがはみ出さず見やすい。以上がウエブサイトの「遺跡ウォーカー」より古墳の情報を抽出し、古墳コードを作成する方法である。

 

古墳コードに誤った情報が入ると、古墳年代の確定が狂ってくる。例えば、古墳が築造された後に造られた石槨や石室(第2主体以降)の副葬品のデータも入っている。須恵器は横穴式石室の追葬、墳上祭祀、周濠・墳丘への混入などで、後世のものが遺物として多く出土している。また、須恵器の器種の「高杯・ハソウ・短頸壺・長頸壺」は土師器ものも抽出している。これらは、プログラムでは自動的に排除できない。年代決定を行った際、年代の決定に矛盾が生じる結果が出るので、その際「データ」の内容を読んで、Sheet6[古墳コード作成]で、該当の項目のセルの「1」を強制的に「0」に書き換えればよい。

 

「遺跡ウォーカー」以外の資料から古墳コードを作成する場合は、Sheet6[古墳コード作成]で、A列「通しNo」、B列「編年要素」、C列「整理No」、D列「古墳名」、F列「所在地」、G列「都道府県」、H列「古墳コード」を記入し、E列に「データ」として資料にある古墳の遺構・遺物のデータを記載すれば良い。その順序はランダムで良いが、その記載する遺構・遺物の名称には、編年コード表に記載した編年要素名(赤字を除く)が使われていなければならない。もちろん、“三角縁神獣鏡”のように、その編年要素名「三角縁」の前後に名称が付いていてもあっても構わない。円筒埴輪の型式は英文字半角の「I,II,III,IV,V」であることに注意が必要である。

 


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