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66-3.王は楽浪より鉄製武器を手に入れた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

鋳造鉄斧は甕棺から出土することがなかったが、鉄製の武器(剣・矛・戈)は中期後半の甕棺から出土している。最も早いのが福岡市の吉武樋渡遺跡で61号甕棺のKⅢa(前200~前100)から剣1が、次が飯塚市の立岩遺跡で35号のKⅢb(前100~前50)から剣1・戈1である。それに続くKⅢc(前50~前1)の時代には11遺跡の20基の甕棺から、素環頭大刀2、刀1、剣11、矛3、戈7、刀子1、鉇(ヤリガンナ)3が出土している。もちろん後期の甕棺からも鉄製武器が出土している。『漢書 地理志』には、「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国と為す。歳時を以て来り献じ見ゆ」とある。甕棺墓・木棺墓などの墓に副葬された鉄製武器は、倭国の王や首長が紀元前108年に設置された楽浪郡から鏡と一緒に手に入れたものであろう。鉄製武器が倭国に入ってきたのは、弥生中期後葉(前125~1年)以降からである。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

広島大学の川越哲志氏は「弥生時代鉄器の研究」と題し、平成9年度までに刊行された発掘報告書から弥生時代鉄器資料を抽出して、1998年にその研究成果を報告している。なお、本研究は歴博がAMS法による炭素14年代測定法により、弥生時代の開始を500年遡った紀元前800年頃と発表した以前にまとめられたものであり、その後の広島大学の野島永氏の見解などを基に修正(黄色)している。

  1. 弥生時代の鉄器出土遺跡は、1800遺跡、鉄器数は約8000点以上になり、研究代表者が1970年に集成した201遺跡、542点にくらべると、大幅な増加である。

  2. とくに、3世紀(後期後半、終末期)の鉄器資料が多く、この時期に全国的に鉄器化が進展したといえる。

  3. 出土分布は北部九州が最多で、東にいくほど希薄になり、国内の鉄器やその技術の伝播が北部九州を基点に東方へ拡大したことが明らかである。

  4. 北部九州は弥生時代の開始時期(中期初頭)から鉄器が導入され、中国・四国・近畿地方は中期後葉、中部・関東以北は後期中葉に導入されるが、本州北端までは及ばなかった。

  5. 弥生時代の鉄器の大部分は鍛造品であるが、西日本では中期から中国戦国時代の燕、斉の系譜を引く舶載鋳造鉄器や、その一部分を加工した国産鉄工具があり、鋳造品は関東まで伝えられた。

  6. 生産用具の鉄器化は工具から始まり、農具の鉄器化は遅れて進行した。

  7. 鉄器化の段階には地域性があり、後期になると各地で鉄器の形態、種類、組成に地域性が生じた。

  8. 鉄製武器は中国前漢の馬弩関(馬・武器が関所外に出ることの禁止)の制約から解放された舶載品が中期後葉に北部九州に出現したが、国産の大型鉄剣、鉄刀は後期後半〜終末期に日本海沿岸部に多く、後期後半には関東でも国産小型武器が生産された。

 

我国に燕国から鋳造鉄斧が伝わったのは、弥生中期前葉の紀元前350年頃であり、その鋳造鉄斧は庶民の手に渡っている。王が洛陽から鏡と一緒に鉄製武器を手に入れたのは弥生中期後葉の紀元前100年頃である。我国で製鉄(製錬)が行われるようになったのは、古墳時代後期後半の550年頃であるというのが定説で、鉄の存在を知ってから鉄を産み出すまでに900年かかり、王が鉄器の有用性を知ってからでも、650年もかかったことになる。「弥生時代に製鉄はなされたか?」この議論も火花を散らしている。


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66-2.我国の鉄器の初現は紀元前4世紀後半 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

北部九州の弥生中期の甕棺墓からは、鏡・青銅器・鉄・ガラスなどの遺物が出土する。甕棺の型式別編年はなされており、その相対編年は信頼がおけるが、絶対年代(暦年:西暦)はあまり信頼が置けない。甕棺と日用土器の接点は少なく、炭素14年代測定による日用土器の編年もすんなりとはあてはまらない。私は、歴博の炭素14年代による日用土器の編年と甕棺の編年をマッチングさせることを試みた(Z265)。

 

Z265-Z267.甕棺編年.png

九州大学では型式が明確な甕棺から出土した人骨の炭素14年代測定を行っている(Z266)。歴博が調べた日本産樹木の年輪年代(較正年代:西暦)と炭素14年代のグラフを、私が定めた甕棺型式の編年で区分し、人骨の炭素14年代値をその甕棺型式の範囲の中で当てはめてみた(Z267)。6個の測定置が全て、日本産樹木の炭素14年代値と合致するところにプロット出来た。このことは、甕棺の編年が合っている証であるといえる。そして、弥生時代中期の始まりを紀元前375年と定めることが出来た。甕棺の型式の年代を明確にすることで、北部九州の弥生中期・後期の墳墓に副葬された遺物の出現期・消滅期の暦年が明確にすることが出来た(図Z268)。

 

Z268.弥生中期後期の遺物.png

我国の初期の鉄器(鋳造鉄斧)の多くは、竪穴式住居に近隣する袋状土坑(貯蔵穴)から見つかる場合が多く、甕棺墓・木棺墓などの墓から出土することは無い。北部九州で城ノ越式土器(前350~300年)と鋳造鉄斧が共伴したのは、北九州市の中伏遺跡、新吉富村の中桑野遺跡、小郡市の北松尾口遺跡、朝倉市の上ノ原遺跡などであり、須玖Ⅰ式土器(前300年~200年)との共伴は、北九州市の馬場山遺跡、小郡市の一ノ口遺跡・若山遺跡・中尾遺跡・大板井遺跡、朝倉市の東小田遺跡などである。城ノ越式土器・須玖Ⅰ式土器の時代は、細形青銅武器(剣・矛・戈)と多鈕細文鏡が甕棺墓に副葬される時代である。韓国で鋳造鉄斧が出現するのは、多鈕粗文鏡が多鈕細文鏡に変わった直後で、合松里遺跡(忠清南道扶余郡)・素素里遺跡(忠清南道唐津郡)の木棺墓から細形銅剣・多鈕細文鏡と鋳造鉄斧が共伴して出土している。韓国と我国の鋳造鉄斧の形状は異なるが、出現する年代はほぼ同じであると考えられる。

 

多くの鉄器の分析を手がけられた大澤正巳氏は、城ノ越式土器と共伴した北九州市の中伏遺跡の二条突帯鋳造鉄斧の破片を分析され、白鋳鉄の表面が脱炭処理された白心加鍛鋳鉄と判定されている。愛媛大学の村上恭通氏は、『東アジア青銅器の系譜』の「東アジアにおける鉄器の起源」の中で、「燕国では戦国時代前期から鋳造鉄器が存在した。前期は硬くて脆い白鋳鉄のみ、後期になってねずみ鋳鉄・可鍛鋳鉄など利器に適した鋳鉄が増加する。しかも、後期には鋳鉄を脱炭する技術も確立されており、強靭な刃物の鍛造が可能となっている。」と述べておられる。中国の戦国時代は、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでとされている。私の編年では城ノ越式土器は350年~300年で戦国時代前期後半である、村上氏の見解に従えば、その時期燕国では脱炭の技術は確立していない。

 

『春秋時代 燕国の考古学』を著した石川岳彦氏は、小林青樹氏との共同で「春秋戦国期の燕国における初期鉄器と東方への拡散」を発表し、燕国では遅くとも紀元前5世紀前半から鉄斧などの日用利器が出現しており、朝鮮半島における鉄器の出現は紀元前5世紀後半であるとしている。従来、燕国での鉄器の出現は戦国時代の初め、紀元前400年頃と考えられていたものが、100年遡り春秋時代、紀元前500年頃と考えられるようになった。こう考えると、燕国で脱炭の技術が確立したのも100年遡り、戦国時代の初めの紀元前400年頃と考えることが出来る。弥生中期の初めの城ノ越式土器(前350~300年)と共伴した鋳造鉄器に脱炭処理がされていても齟齬はない。

 

これらを総合して考えると、我国に燕国の鉄器(鋳造鉄斧)が流入したのは、弥生中期前葉、紀元前4世紀後半(前350年~300年)、戦国時代前期後半と考える。弥生中期になって朝鮮半島から入ってきた細形青銅武器や多鈕細文鏡は威信財として墓に副葬されたが、鋳造鉄斧は墓に埋葬されることがなかった。細形青銅武器や多鈕細文鏡は王や首長の手に渡り、鋳造鉄斧は庶民の手に渡ったことを示している。

 


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66-1.我国に鉄器が出現したのはいつか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

私は歴史好きの仲間と年2回ほど日本全国の遺跡を巡る旅を行っている。昨年の暮れは、琵琶湖周辺の遺跡を巡る旅であったが、この旅を通じて琵琶湖周辺には製鉄遺跡が多いことを始めて知った。旅の企画をしてくれた友人の計らいで、立命館大学びわこ・くさつキヤンパスの陸上競技場の地下にある、木爪原遺跡という7~8世紀の製鉄遺跡も見学することが出来た。友人の説明では、近江は鉄鉱石が産出するため、マキノ・瀬田を中心として約60ヶ所の製鉄遺跡が在り、7世紀~8世紀における近畿地方最大の鉄生産国であったそうだ。ただ、鉱石から製鉄した鉄は脆く、砂鉄から製鉄した強靭な鉄に比較して品位が劣るため、9世紀になると砂鉄製鉄に押されて急激に衰退していったそうだ。私は学生時代に金属学を学び、長年金属に関わる仕事に従事して来たこともあって、我国の製鉄の歴史に興味を覚えた。

 

2003年5月、国立歴史民俗博物館(歴博)は日用土器に付着した”おこげ“のAMS法による炭素14年代測定を行い、日用土器の編年と照らし合わせて、弥生時代の前期の始まりは従来よりも500年遡った紀元前800年頃に、中期の始まりは200年遡った紀元前400年頃になると発表した。弥生時代開始年代が500年遡ることの衝撃はあまりにも大きく、この年代感は多くの考古学者から“あまりにも古すぎる”と受け入れられなかった。その反対意見が集中したのが鉄器の問題であった。

 

我国における鉄器の出現は、弥生早期とされる福岡県糸島市の曲り田遺跡から鉄斧が、また弥生時代初頭の熊本県玉名市の斉藤山遺跡からも鉄斧が、そして弥生前期初めの福岡県津福市の今川遺跡から鉄鏃が発見され、弥生時代の当初から鉄器が存在したと考えられていた。弥生時代の始まりが紀元前300年頃と考えられていた時代、考古学者はそれを納得していた。弥生時代が紀元前800年から始まるとすると、鉄器も紀元前800年頃に我国に存在していたことになる。中国での鉄の生産は春秋末から戦国早期、紀元前6・5世紀の頃と見られており、紀元前800年頃に我国に鉄器が存在することは有り得ない話しである。弥生開始年代は紀元前800年頃との説を主張する歴博の春成秀爾氏は、弥生早期・前期に出土したとされる鉄器の出土状況を詳細に検討し、これらの鉄器が弥生早期・前期のものである確証はないと反論している。「我国に鉄器が出現したのはいつか?」、この論議が火花を散らしている。

 

Z263.鋳造鉄斧.png春成氏は「弥生時代と鉄器」の中で、我国に始めてもたらされた鉄器は袋部に二条突帯をもつ鋳造鉄斧であるとし、これらが出土した8遺跡を取り上げ、その上限年代は中期初めとしている(前期後半・前期末は採用していない)。そして、弥生中期初め~中頃つまり戦国中期後半~後期に、主として鋳造鉄斧の破片が我国に入ってきて、弥生中期中頃つまり戦国後期頃に完全品が入ってきたという、鋳造鉄斧流入の二つの段階を設定することが出来るとしている。

   1.中伏遺跡   福岡県北九州市 中期初め
 2.比恵遺跡   福岡県福岡市  中期後半
  3.上の原遺跡  福岡県朝倉町  中期中頃
  4.下稗田遺跡  福岡県行橋市  前期後半~中期中頃
  5.庄原遺跡   福岡県添田町  中期中頃
 Z264.鋳造轍鮒の分布.png 6.大久保遺跡  愛媛県小松町  前期末~中期前葉
  7.西川津遺跡  鳥取県松江市  中期
  8.青谷上寺地遺跡 鳥取県鳥取市 中期中頃~古墳初め


二条突帯鋳造鉄斧は春秋戦国時代に中国東北部の燕国の地域で製作されたものであると考えられている。朝鮮半島から出土する鋳造鉄斧は二条突帯が無いタイプがほとんどであることから、我国の二条突帯鋳造鉄斧の起源は中国東北部の燕国の領域に求められている。Z264のは戦国時代に燕国で流通した明刀銭、は二条突帯鋳造鉄斧である。

 

広島大学の野島永氏の「研究史からみた弥生時代の鉄器文化」によれば、鉄器出現期の遺跡として、扇谷遺跡(京都府丹後市)・中山遺跡(広島県広島市)・大久保遺跡(愛媛県小松町)・綾羅木郷遺跡(山口県下関市)・山の神遺跡(山口県下関市)・下稗田遺跡(福岡県行橋市)・一ノ口遺跡(福岡県小郡市)の七つの遺跡を挙げ、最古段階の舶載鉄器(鋳造鉄斧)は前期末葉頃に出現した可能性が高い。中期前葉には戦国時代後期、中国東北地方を故地とする定型化した二条突帯斧が舶載鋳造鉄器の代表格となる。すでにこの段階の鉄器の多くが二条突帯斧などの鋳造鉄器の破片を再加工したものであるとしている。

 

私は博物館を見学すると、その博物館の年代観を知るために、必ず年表を見ることにしている。最近、弥生時代の開始を紀元前800年頃とする博物館が多くなった感じがする。その新しい年代観に従えば、我国に鉄器が出現したのは、弥生前期末葉あるいは中期の初め頃に、中国の東北部にある燕国から二条突帯鋳造鉄斧、あるいはその再加工された破片が持ち込まれたことに始まると言える。弥生時代の年代観が変わる中で、鉄の歴史も大きく変わろうとしている。


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65-7.韓国に存在する前方後円墳 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

『書紀』雄略23年の記事に「百済の文斤王が亡くなった。天皇は昆支王の五人の子の中で、末多王が若いのに聡明なのを見て、詔して内裏に呼ばれた。・・・その国の王とされ、兵器を与えられ、筑紫の国の兵士五百人を遣わして、国へ届けられた。これが東城王である。この年百済の貢物は、例年よりも勝っていた。筑紫の安致臣・馬飼臣らは舟軍を率いて高麗を討った。」とある。雄略23年の記事は挿入記事であり、「縮900年表」では『書紀』の編年の通りの479年で、雄略天皇(武)が「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号を与えられた翌年のことである。

 

『三国史記』によれば、百済は蓋鹵王21年(475年)に高句麗によって漢城(ソウル)が陥落した。蓋鹵王の子の文周が即位し、都を熊津(公州)移している。477年に文周王は重臣の解仇により殺害され、子の十三歳の三斤が位を継いだ。478年に解仇が反乱を起し、三斤王側の二千人の軍隊も勝てなかったが、五百人の精鋭な軍隊により解仇を撃ち殺すことが出来た。479年に三斤王が薨去し、文周王の弟の昆支の子である東城王が即位した。王は胆力が人よりまさり、弓が上手で百発百中であったとある。

 

『三国史記』は、478年に解仇が撃ち殺され、479年に三斤王が薨去したとしているが、史実は478年に解仇が三斤王を殺し、479年に解仇が五百人の精鋭な軍隊により撃ち殺されたと考える。五百人の精鋭な軍隊こそ、『書紀』雄略23年(479年)の記事にある「兵器を与えられて帰国した東城王と筑紫の国の兵士五百人」であったと思える。その後、倭国は百済の弱体化に乗じて「慕韓」の地を支配化に入れた。東城王は高句麗に対抗するためには倭国の後ろ盾が必要で、それを認めざるを得なかったということではないかと考える。

 

継体6年(519年)に、百済の使者が調を奉り、上表文で任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を欲しいと願った。哆唎の国守、穂積臣押山は「この4県は百済に連なっており、百済に賜って同国とすればこの地を保つためにこれに過るものはない。」と百済を援護している。大伴大連金村はこれらの意見に同調して天皇に奏上し、4県が百済に与えられている。これらからすると、雄略23年(479年)から継体6年(519年)の間、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県は倭国の支配下にあり、倭人の国守や官吏が赴任していたと考えられる。

 

Z261.Z262.韓国四県.jpg

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の比定地については諸説あるが、田中俊明氏は『古代の日本と伽耶』の中で、図461に示すように韓国南西部の全羅南道の栄山江流域に定めておられる。の栄山江流域には図462(ピンクは前方後円墳)に示すように13基の前方後円墳が存在する。1980年の発見当初は、韓国において日本の前方後円墳の起源になる古墳として注目されたこともあったが、埋葬施設が横穴式石室で、玄室は百済の方形で穹窿状(ドーム状)の天井とは異なり長方形で平天井であることから、倭国の前方後円墳の影響を受け造られたものであり、その築造年代は5世紀末から6世紀前半であるとされている。私の遺構・遺物の編年では、横穴式石室は470年からであり、倭国で横穴式石室が造られ出した時代に、韓国で造られたことになる。

 

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を倭国が支配下に置いた年代と、栄山江流域の前方後円墳の築造年代とが一致しており、前方後円墳に埋葬された被葬者は、4県に赴任していた倭人の国守や官吏と考えられる。栄山江流域の前方後円墳は、『書紀』が記す「任那四県割譲」が史実であったことを物語っている。


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65-6.韓国から出土する倭製の甲冑 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

近年、韓国の古墳から出土した甲冑が倭製であるとの報告が成されるようになってきた。短甲は総数34領で、方形板革綴短甲2点、帯金式革綴短甲の長方板革綴短甲5点、三角板革綴短甲10点、そして帯金式鋲留短甲の三角板鋲留短甲6点、横矧板鋲留短甲8点、その他3点である。冑は総数14領で、三角板革綴衝角付冑2点、三角板鋲留衝角付冑1点、横矧板鋲留衝角付冑2点、小札鋲留眉庇付冑4点、横矧板鋲留眉庇付冑2点、その他3点である。倭製であることは韓国の学者も認めているようだ。

Z260.韓国倭製短甲.pngこれらの出土地を図Z260に示した。赤が方形板革綴短甲、緑が帯金式革綴甲冑、青が帯金式鋲留甲冑である。丸一つが古墳1基であり、1基の古墳から二つの型式の甲冑が出土した場合は一つの丸に2色で示している。図をみてすぐ気が付くことは、洛東江の周辺、特に釜山・金海に丸が多いこと、緑は南部の海岸沿いに出土し、青は内陸部からも出土していることだ。韓国の古墳から出土する倭製の遺物は甲冑ばかりではない。筒形銅器と巴形銅器が洛東江の下流域の金海市・釜山市に集中して出土している。金海市では13基の古墳から筒形銅器が45個、巴形銅器が9個、釜山市では4基の古墳から筒形銅器が9個、威安郡は1基の古墳から筒形銅器が1個出土している。図Z260に、これらを赤で示しており、数字は筒形銅器が出土した古墳数である。この内、倭製甲冑と筒形銅器・巴形銅器が共伴したのは、赤方形板革綴短甲が出土した釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳だけである。福泉洞64号墳からは2個、大成洞1号墳は8個の筒形銅器が出土している。

Z255.4世紀末の朝鮮半島.png「縮900年表」によれば、366年に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まり、百済の肖古王は368年良馬2匹を、372年に七支刀を応神天皇に献上している。その間の369年にあたる『書紀』神功49年の記事には「倭国の荒田別と鹿我別の二人の将軍は兵を整え、百済の使者と共に卓淳国に至り、百済の木羅斤資の率いる精兵の応援も得て、新羅を打ち破った。そして比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国を平定した。・・・百済王の肖古と皇子の貴須は、荒田別・木羅斤資と意流村で一緒になり、相見て喜んだ。・・・百済王は春秋に朝貢しようと誓った。」とある。この比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国はZ255に示す加羅・任那・秦韓の地域の国々であり、伽耶諸国とされている国々である。『書紀』が記す「七ヶ国を平定」は潤色であり、倭国と伽耶諸国との同盟関係が出来たことを示していると考える。百済と伽耶諸国にとっては新羅・高句麗が脅威で、倭国の後ろ盾が必要であったのであろう。

 

私の古墳遺物の編年では、筒形銅器・巴形銅器が320~399年、方形板革綴短甲が340~369年、帯金式革綴甲冑が370~469年、帯金式鋲留甲冑が400~499年である。釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳から方形板革綴短甲(340~369年)が出土していることは、応神天皇(354~378年)の369年に倭国と伽耶諸国との同盟関係が始まったことを証明している。そして、帯金式革綴甲冑(370~469年)が伽耶諸国から多く出土していることは、仁徳天皇(381~431)の時代に、その同盟関係がより強くなり、特に任那(金海)・秦韓(釜山)は倭国との結びつきが強くなったことを意味している。

 

『宋書』倭国伝によれば、451年宋に朝献した済(允恭天皇:443~460年)に「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」が与えられている。順帝の昇明2年(478年)に朝献した武(雄略天皇:464~486年)にも同じ称号が与えられている。倭王に与えられた「使持節・都督・諸軍事」の意味は、軍事・内政面に支配権を与えるという称号であるが、倭国がこれらの国を支配しているという意味ではなく、宋に朝貢していない国々の支配権を認めたということに過ぎない。

 

応神天皇の369年に始まった伽耶諸国との同盟関係や、仁徳天皇の時代に結びつきが強くなった任那(金海)・秦韓(釜山)の関係は、宋の皇帝から「慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」の称号が与えられた允恭天皇(443~460年)・雄略天皇(464~486年)の時代には、加羅との関係を強め、慕韓を支配下に置こうとしたと思える。図260に見られるように、青帯金式鋲留甲冑(400~499年)が任那・秦韓だけでなく、加羅・慕韓の地からも出土しているのは、このことを物語っている。考古学から見た遺物の年代と、「縮900年表」を通してみた『書紀』の年代は、朝鮮半島でも見事に一致している。


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65-5.仁徳朝に掘った大溝は「古市の大溝」 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

Z258.前方後円墳の立地変遷.png前方後円墳の立地の変遷を表Z258にまとめた。前期後葉(360~400年)になると、前期前葉に多く造られた山頂・尾根頂・丘陵頂の比率が減少し、段丘・台地に立地する古墳が多くなり、その傾向は中期・後期前葉と続いている。前期後葉と中期の多くの大形古墳が、河内の古市・百舌鳥古墳群のある台地に存在している。また、古墳の周濠の有無でみても、前期後葉になると周濠を有する古墳が大幅に増加し、その傾向は中期・後期前葉にも続いている。

 

394年、『書紀』仁徳14年の記事には「大溝を感玖に掘った。石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦、四ヶ所の原を潤し、四万頃(しろ=百畝)あまりの田が得られた。その地の百姓は豊な稔りのために、凶作の恐れが無くなった。」とある。石河は大和川の支流の石川で、感玖(こむく)は河内国石川郡紺口(こむく)で現在大阪府南河内郡河南町から千早赤阪村のあたり、鈴鹿はどこかはっきりしないが、豊浦は大阪府東大阪市豊浦町とされている。

 

Z259.感玖の大溝.png感玖の推定地(河南町から千早赤阪村)は南北に流れる石川の東側、豊浦の推定地(東大阪市豊浦町)は南北に流れる旧大和川の東側である。大和川は奈良盆地から大阪平野に向かうときは東から西に流れ、石川との合流地点で90度流れを変え旧大和川となり、南から北に流れ河内湖に流れ込んでいる。これらからすると、石川の東側と旧大和川の東側を結ぶ大溝は、東西に流れる大和川を横断せねばならず存在し得ない。大溝は南北に流れる石川・旧大和川の西側にあり、古市古墳群内を通っていたと予想できる。

 

昭和39年に航空写真を観察していた秋山日出雄氏は、藤井寺市野中付近に見られる直線的な溜池群の配置に注目し、古市古墳群内を通る巨大な水路跡を発見し、その後の発掘調査や研究により「古市の大溝」の存在が確認された。「古市の大溝」は石川を源流とし、取水口を富田林市川面町付近(石川の西側)として、古市古墳群内を通り東除川に注ぐ、全長12キロメートルの流路が復元された。その水路に沿って「今井樋上」「井路間」「井路側」「水守東」「水守田」「溝マタゲ」「上ノミゾ」といった小字が続き、人工的な水路を想定させている。「古市の大溝」の発掘調査はまだ点にしか過ぎないが、溝渠の堆積物は8世紀から12世紀の間に堆積したことが分かっている。

 

前期後葉(360~400年)の時代、応神天皇は難波(大阪市)に大隅宮を、仁徳天皇は難波に高津宮を造っており、河内の地の台地で水田開発が行われたことが想像できる。段丘・台地の水田開発と古墳の造営に関係があったと考える。『書紀』仁徳14年に書かれた「大溝」が古市古墳群のある台地にあったとの証拠はないが、「古市の大溝」はその前身であろうと想像できる。


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65-4.帯金式鋲留甲冑の源流は高句麗の鉄盾 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳中期(400~470年)でも、大形古墳の分布は大阪15基、奈良9基、福岡3基、京都・兵庫・岡山・三重・千葉・群馬・栃木・鹿児島が1基で、河内には大形古墳が9基造られている。百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は墳丘長486mで古墳規模が全国No1である。仁徳天皇陵古墳の年代は、宮内庁書陵部が1998年(平成10年)に採取した須恵器の大甕がON46型式であることより、440年から459年となる。「縮900年表」によると、430年(仁徳67年)に河内の石津原(百舌鳥耳原野)に陵地を定められ、431年(仁徳87年)に天皇が崩御され百舌鳥野陵に葬ったことになるが、実際の完成はもう少し後であろうと思われ、仁徳天皇陵古墳の年代とほぼ合っている。

中期の始まりは400年で、前期古墳の代表的な遺物の三角縁神獣鏡、石製腕飾(石釧・鍬形石・車輪石)・筒形銅器・巴形銅器・銅鏃などは副葬されなくなり、須恵器・馬具・帯金式鋲留短甲が副葬され、墳丘には窖窯(あながま)焼成された円筒埴輪Ⅳ式や人物埴輪・馬形埴輪が並び立つようになる。窖窯・須恵器・馬具は朝鮮半島、特に洛東江周辺の伽耶の地より伝わったものと考えられている。
Z255.4世紀末の朝鮮半島.png
図Z255の4世紀末の朝鮮半島の勢力図に示すように、伽耶諸国(任那・秦韓・加羅)にとっては、新羅と百済そして高句麗は脅威であったので、その後ろ盾として、倭国との結びつきを求めたと思われる。“遠交近攻”は古今東西を問わず、戦術として使われている。好太王碑の銘文にあるように、仁徳天皇(381~431年)が百済・新羅を勢力下に置こうとしたのも、鉄の供給源としての伽耶諸国との関係を重視したからかも知れない。これらにより、伽耶諸国から倭国に須恵器の製造技術者や馬・馬飼いがやってきたのであろう。しかし、帯金式鋲留短甲の源流は伽耶諸国ではないと見られている。それでは鋲留技術はどこからもたらされたのであろうか?

好太王碑の銘文には「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」とあるように、仁徳天皇は朝鮮半島への進出を計っている。『書紀』仁徳12年(392年)の記事に「高麗国が鉄の盾と鉄の的を奉った。高麗の客を朝廷でもてなされた。群臣百寮を集めて、高麗の奉った盾と的を試した。多くの人が的を射通すことが出来なかった。ただ的臣の先祖の盾人宿禰だけが鉄の的を射通した。高麗の客たちは、その弓射る力のすぐれているのを見て、共に起って拝礼した。翌日盾人宿禰をほめて、的戸田宿禰と名を賜った。」とある。高麗の使者が訪れた年は、好太王碑にある辛卯の年(391年)の翌年であり、高麗の用件は百済と新羅から手を引くよう要請しに来たのであろう。

石上神宮は社宝として神庫に国宝の七枝刀や重要文化財の鉄盾2面を所蔵している。この2面の鉄盾は縦143cmx横約84~68~80cmと縦139cmx横約71~65~77cmの中すぼみの長方形で、矩形または鍵形の厚さ3mmの鉄板を矧ぎ合わせ鋲留している。この2面の鉄盾は、『書紀』仁徳12年の記事にある鉄盾とされるとの言い伝えがあるが、製作手法や型式の上から否定され、製作年代は古墳時代の5世紀末から6世紀初頭の頃と見られている。

Z256.鉄盾(石上神宮).png私は次の3つの視点から、石上神宮の鉄盾は『書紀』仁徳12年(392年)の記事にある、高麗が献じた鉄盾と考える。

1)石上神宮が所蔵する七枝刀は、その金象嵌の銘文と『書紀』の記事から、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かっている。それを現在まで所蔵していたのであれば、392年に高麗が仁徳天皇に献じた鉄盾を、石上神宮が現在まで所蔵していたとしても不自然ではない。

2)ウエブサイトの「遺跡ウォーカー」で「盾形埴輪」で検索すると、273基の古墳がヒットする。「鉄盾」でヒットする古墳は皆無である。これからすると、古墳時代の「盾」は革等の有機質系のもので出来ていたと考えられる。

3)石上神宮の鉄盾の製作技法は、横矧板鋲留短甲の製作技法に類似しているとされている。「遺跡ウォーカー」で横矧板鋲留短甲が出土する古墳は30基ヒットする。横矧板鋲留短甲が元で鉄盾が作られたとするならば「鉄盾」でヒットする古墳が皆無であるのは不自然に思える。鉄盾を元に横矧板鋲留短甲が作られたと、逆にする方が自然である。

 

Z257.三角板鋲留短甲.png帯金式革綴短甲(三角板革綴短甲・長方板革綴短甲)については前節で述べたように、369年に百済より王仁と共に渡来した、韓系の鍛冶技術者の卓素によって開発されたと考えた。我が国で帯金式革綴短甲を開発した鍛冶技術者の「卓素」、あるいはその弟子が、392年に高麗が仁徳天皇に献上した鉄盾の鋲留を見て、帯金式鋲留短甲(三角板鋲留短甲・横矧板鋲留短甲)を開発したと考える。400年から古墳に。帯金式鋲留甲冑が副葬され始めることと一致する。帯金式鋲留甲冑の鋲留め技術の源流は高句麗の鉄盾であった。


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65-3.百済渡来の卓素が帯金式革綴短甲を開発 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の前期後葉(360~400年)になると、墳長が100m以上の大形古墳の分布は、大阪8基、奈良6基、群馬5基、三重3基、京都・兵庫・岡山・岐阜・宮崎が2基、福井・栃木・山口・香川・佐賀が1基となり、大阪の河内(古市・百舌鳥)新たに大形古墳が造られ始めている。前期後葉は埴輪Ⅲ式の時代で、北部九州では、その源流が朝鮮半島であると見られている竪穴系横口式石室を始めとする初期の横穴式石室を持つ古墳が登場し、また三角板革綴短甲や長方板革綴短甲、衝角付冑が副葬されるようになる。前期後葉の前半の時代は、応神天皇(354~378年)の時代にあたる。応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まっている。そして、百済王は368年(応神15年)に阿直岐を遣わして良馬二匹を奉っている。

 

Z253.老司古墳.png老司古墳(福岡市)は竪穴系横口式石室を持つ、初期の横穴式石室系の古墳である。年代確定プログラムでは埴輪Ⅱ式(310~369年)と須恵器・馬具(轡)・金環(400年~)の年代に矛盾が生じ、年代の決定ができなかった古墳の一つである。これらの遺物を除くと、老司古墳の年代は埴輪Ⅱ式と初期横穴式石室(370~479年)から365年から375年となり、百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上した368年とピッタリ一致している。老司古墳は朝鮮半島との往来が行われた玄界灘に面しており、中期古墳から出土する須恵器・馬具(轡)・金環が、それらに先だっていち早くもたらされたと考えられる。老司古墳から出土した轡は、肖古王が献上した馬に使用していたものであろうか?

 Z254.三角板革綴短甲.png

前期後葉(360~400年)の大きな画期は大形古墳が河内の古市・百舌鳥古墳群に築造され始めたことだが、この河内の古墳を中心として370年を境に、方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に替わって三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が副葬され始めている。三角板革綴短甲と長方板革綴短甲は帯金式革綴短甲と称されており、帯金という細長い鉄板で人の胴体に合う形状の骨組みをこしらえ、その帯金に地板という長方形や三角形の鉄板を革で綴じて製作されている。それまでの方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に比べて、鉄板を曲面加工せねばならず、高い鍛造技術が要求される。

 

「63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実」で示したように、『書紀』応神15年の記事と『古事記』応神記を照らし合わせると、368年に百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上し、その翌年に王仁が論語十巻と千文字一巻を携えて渡来してきたことが分かる。『古事記』には、王仁と共にその名を「卓素」という韓系の鍛冶技術者が倭国に渡来している。この「卓素」が、我が国で帯金式革綴短甲を開発したと考える。こう考えると、370年頃から帯金式革綴短甲の三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が古墳に副葬され始めたことが説明できる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』によって、未だ明確になっていなかった帯金式革綴短甲の源流を発見することが出来た。


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65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

日本書紀』は、朝鮮半島の百済・新羅・高句麗の三国との関わりについて多くのページを割いている。中でも百済とは、660年に白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に破れ百済が滅びるまで、友好国(同盟国)として互いに大きな影響を与えて来た。倭国と百済の外交が始まったのは、応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介からであった。その時、百済の肖古王は倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)、鉄鋌四十枚を与えている。

 

また、応神天皇の372年(神功52年:252+120)には、百済の肖古王が使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉り、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。

 

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌があり、表の象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、40枚の鉄鋌が出土した。鉄鋌の平均寸法は長さ30.7cm、幅4.13cm、厚さ1.45cm、重さ1.31kgの棒状で、日本の古墳から出土する厚さ0.2cmで両端が広がった鉄鋌とは異なっている。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

 

Z253.弾琴台土城鉄鋌.png

2016年から17年の弾琴台の南側斜面の発掘調査では、鉄鉱石を溶解し鉄を作る製錬炉が11基と、鉄鉱石を割るために火を炊いた遺構10基が発見されている。11基の製錬炉は3つの層から出ており、使っていた製錬炉を破棄後、その上に土を覆って新しい炉を造っている。焼けた木片の炭素年代を測定した結果は、これらの遺跡は4世紀に造られたことが判った。4世紀、少なくとも100年に渡って忠州の弾琴台で鉄を作ったのは、ここが鉄鉱石の主要産地であるうえ、南漢江の水上交通を通して鉄を運ぶことが出来たためと分析されている。

 

百済の肖古王の在位は346~375年で、都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流に忠州市がある。「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」にある河は漢江のことであり、水源の谷那の山の鉄鉱石から鉄にしたのが、4世紀に稼動した弾琴台の製錬炉であったのであろう。

 

366年に倭国の使者が肖古王より賜った鉄鋌は40枚、弾琴台土城から出土した鉄鋌が40枚、奇しくも40枚と一致しており、肖古王より賜った鉄鋌が弾琴台の製錬炉で作られたと考えてもおかしくない。弾琴台から出土した百済時代の鉄鋌・製錬炉は、書紀』が記す百済の肖古王に関する記事が、史実に基づいていることを照明している。石上神宮の国宝七支刀の鉄素材は、弾琴台で作られたのであろう。

漢江地形図1.png

 


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65-1.箸墓古墳の築造年代は260年前後 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の象徴が前方後円墳であり、それは大和王権の象徴でもある。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、考古学的に導き出した古墳の編年とをマッチングさせ、古墳時代を解明したいと考える。なお、これ以降「縮900年表」による年代は青字で表示することにする。

 

Z252.前方後円墳の規模.png前方後円墳の時代別・規模別の変遷を表Z252に示す。前方後円墳が出現した前期前葉(260~320年)の地域別分布は、墳長が100m以上の大形前方後円墳では、奈良7基、京都・岡山2基、群馬1基で、大和王権発祥の地が奈良県にあったことが判る。一方、100m未満の古墳では、岡山13基、京都・兵庫・長野が2基、奈良・大阪・広島・香川・三重・茨城・群馬が1基と岡山県が圧倒的に多く、岡山が大和王権誕生に大きく関わっていたことが分かる。また下段に示すように、葺石は古墳の出現期(前期前葉)の時代から非常に高い比率で存在している。葺石は出雲の四隅突出弥生墳丘墓の影響を受けているといわれており、出雲が大和王権誕生に関わっていることを意味している。

 

『書紀』は、神武天皇は東征において吉備に3年間滞在し、船舶を揃え兵器や食糧を蓄え、天下を平定する準備を整え、そして大和に攻め入り橿原の地に建国(241年)したと記している。出現期の前方後円墳が岡山県に圧倒的に多いのは、大和王権の誕生に吉備が関係していることを暗示している。また、神武天皇が橿原の地に建国したとき、正妃に媛蹈鞴五十鈴媛命を召している。媛蹈鞴五十鈴媛命は出雲の大己貴神(大国主神)の孫にあたる。大和王権の誕生に出雲が関係していることを暗示している。

 

箸墓古墳.png最古の大型前方後円墳とされている箸墓古墳(墳丘276m)が築造された時代が古墳時代の始まりとになる。その箸墓古墳の話が『書紀』崇神9年の記事に「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳のある桜井市箸中は、中世までは大和国城上郡大市郷と称され、また纏向遺跡からは「市」と墨書きされた飛鳥時代の土器が出土しており、倭迹迹日百蘇姫の大市墓が箸墓古墳であることは確かである。箸墓古墳の後円部墳頂からは、奈良盆地と大阪平野の境にある二上山の山麓の芝山の石が出土しており、『書紀』の「大阪山の石を運んで造る。」と合致している。「縮900年表」によると、箸墓が造られた崇神9年は259年にあたる。

 

国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行い、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるとしている。箸墓古墳からは吉備系の都月型の特殊器台形埴輪が出土しており、古墳年代は260年から289年となる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、暦博の炭素14年代測定と、私の古墳年代決定プログラムで算出した古墳年代は、三者共に箸墓古墳の年代を260年前後としている。『魏志倭人伝』は邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのを247年前後のこととしており、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと言われている。

 

『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓は“径百余歩”と記されている。前節で述べたように、前方後円墳の主丘が埋葬施設のある後円部で、墳丘の寸法が後円径を基に定められていることからすれば、卑弥呼の墓が前方後円墳とするならば“後円径”が“百余歩”であることになる。箸墓の後円径は157mである。魏の時代の1尺の長さは24.2cmであり、1歩は6尺で1.45mである。箸墓の後円径は108歩であり、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓は“径百余歩”と一致する。

日向にあった邪馬台国は狗奴国に滅ぼされたのかも知れない。そうならば、磐余彦尊が日向から東征し建国した大和の地が、邪馬台国にとっての新天地である。その大和に邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が築かれても不思議ではない。「縮900年表」によれば、神武天皇が崩御されたのが、卑弥呼と同じ247年となる。箸墓古墳には卑弥呼と神武天皇の二人が葬られているのかも知れない。


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