So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

61-9.聖徳太子墓は磯長谷にある長方墳 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z200.叡福寺北古墳の石室.png聖徳太子墓(叡福寺古墳)の石室は明治初めまでは中に入れ、色々な記録が残っている。それによると石室は両袖式の横穴石室で、花崗岩の切石造りである。石室には三つの棺があって、奥の棺は刳抜式の家形石棺で、その手前二つの棺は石の棺台に夾紵棺が置かれていたと見られている。奥の棺は母の穴穂部間人皇女、手前の右側の棺が聖徳太子、左側の棺が膳夫人とされており、中世では三棺合葬の形を阿弥陀三尊信仰と結びつけ、「三骨一廟」と呼び信仰の対象としていた。

 

平安前期に成立したと考えられている『上宮聖徳法王帝説』によると、間人女王(穴穂部間人皇女)は、用明天皇が崩御された後、義理の息子・多米王と結婚し、佐富女王を産んでいる。間人女王は聖徳太子からも疎んじられていたとの指摘もあり、聖徳太子と間人女王が合葬されているとは思われない。『延喜式』の「諸陵寮」によると、間人女王の墓・龍田清水墓は大和國平群郡に在るとしている。『書紀』に登場する間人皇女は二人いる。一人が用明天皇の皇后で聖徳太子の母である。もう一人の間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の皇后で、天智6年(667年)2月の記事に「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女を小市(おち)崗上陵に合葬した。」とあるように、斉明天皇の越智崗上陵に合葬されている。『延喜式』の間人女王の墓は聖徳太子の母の墓と考えられる。

 

叡福寺古墳の二つの棺は、麻布を漆で何重にも貼り重ねて作った夾紵棺である。夾紵棺が出土した古墳は、叡福寺古墳を含めて5例しかない。牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)、阿武山古墳(藤原鎌足)、野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)、平野塚穴山古墳である。牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であり、阿武山古墳が藤原鎌足の墓であることは、多くの学者の唱えるところである。また、天武・持統天皇陵は被葬者が確定できる古墳の一つである。

 

夾紵棺の破片が出土している平野塚穴山古墳は、奈良県香芝市平野にある一辺21mの方墳で、凝灰岩切石の横口式石槨を持つ、玄室は長さ1.7mx幅1.5mx高さ1.7mで、唐尺で設計されており、7世紀末から8世紀初めの古墳と考えられている。夾紵棺の存在が確認された古墳の被葬者からみると、聖徳太子の薨去621年頃、斉明天皇の崩御は661年、藤原鎌足の薨去が669年、天武天皇の崩御は686年、平野塚穴山古墳の築造年代は7世紀末から8世紀初めとなる。夾紵棺の存在からみると、叡福寺古墳を聖徳太子墓とするには、無理があるように感じられる。

 

前方後円墳が終焉した後に築造された大型方墳は、蘇我氏との関わり、あるいは仏教・寺院との関わりがあると指摘されている。聖徳太子の父母は二人とも蘇我稲目の孫で、二人の妃も稲目の孫と曽孫であり、聖徳太子は蘇我氏と最も関わりの深い人物である。また、聖徳太子は推古天皇の皇太子として、蘇我馬子と共に仏教の興隆に貢献している。Z193の「天皇家と蘇我氏の系譜」に見られるように、聖徳太子墓は方墳であることが相応しい。聖徳太子墓に治定されている叡福寺古墳は円墳であること、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が合葬されていること、二基の夾紵棺の年代が合わないこと、どれをとっても叡福寺古墳が聖徳太子墓であることに否定的である。

 

Z193.天皇家と蘇我氏の墳墓.png

磯長谷には葉室塚古墳(越前塚古墳)がある。東西75mx南北55mの長方墳で、2基の横穴石室がある。古墳の規模は推古天皇陵(59mx55m)・用明天皇陵(65mx60m)より大きく天皇陵クラスである。『書紀』崇峻4年の記事に「敏達天皇を磯長墓に葬りまつった。これは亡母の皇后が葬られている陵である。」とあることから、葉室塚古墳にある2基の横穴式石室に、敏達天皇と亡母・欽明天皇の皇后石姫が葬られているとして、敏達天皇陵の候補であるとする意見もある。私は、葉室塚古墳は聖徳太子墓で、2基の横穴式石室は聖徳太子と前日に亡くなった膳夫人であると考える。『延喜式』には、磯長墓(聖徳太子墓)の兆域は東西三町,南北二町となっており、葉室塚古墳(越前塚古墳)の東西75mx南北55mの長方墳に似合う兆域である。

 


61-8.叡福寺古墳はいつ聖徳太子墓になったか [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z199.叡福寺と聖徳太子御廟.png聖徳太子墓(磯長墓)は大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある叡福寺古墳(円墳:径54mx高さ7m)に治定されている。叡福寺は聖徳太子墓の墓前寺であるとされており、聖徳太子墓が叡福寺古墳であると比定された年代は、叡福寺の創建まで遡る。一方、九条家本『諸寺縁起集』(鎌倉年代成立)に引用されている『天王寺事』の「聖徳太子御墓」の項には、「治安四年6月14日記す、聖徳太子の墓所を訪ねることが出来ない。墓の所在が不明となっている。河内国普光寺の僧・慈円が古文書『延喜式』を見つけ出した。それには<聖徳太子の磯長墓は河内国石川郡に在る>と書かれている。」とある。これにより、治安四年(1024年)には叡福寺はまだ創建されていなかったことが分かる。

 

叡福寺は「太子御記文」という碑文のある大理石(45x21x7cm)を所蔵している。「太子御記文」とは、聖徳太子が書かれとされる予言文書である。この碑文については鎌倉初期の説話集である『古事談』(1215年編)に記載されている。大筋は、天喜2年(1054年)9月20日に、聖徳太子御廟近辺の坤(ひつじ)の方に石塔を立てようとしたら、長さ1尺5寸、幅7寸の筥(はこ)石が地中から出てきた。身と蓋があり、開けてみると御記文があったので、四天王寺を通じてことの次第を奏上した。御記文の上石文には「今年歳次辛巳、河内国石川郡磯長の里に、最も優れ称美に足りる地があり、故に墓所と定めた。吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや、その時の国王・大臣は寺塔を発起し、仏法を願求していること。」とある。

 

また『古事談』には「小野宮右府記」の引用文を記載している。四天王寺別当の桓舜僧都が関白の仰せにより、御廟に参向し事情聴取をした。其の地の住僧が私堂を建てようと整地したが、その夜の夢に「此の地に堂舎を建ててはならない。早く停止しなさい。この傍の地が良い。」とのお告げがあったので、初めの地を止め他所に建立した。今年になって初めの地を整地した時、石の函(はこ)を掘り出した。函は身と蓋があり、針のようなもので銘が刻まれている。「彼の年より今年に及び、四百三十六年云々と。」

 

この「太子御記文」については、法隆寺僧の顕真が著した『聖徳太子伝私記』(1238年著)にも同様のことが書かれているが、『古事談』には書かれていない内容もある。「太子御記文」を発見した僧は忠禅という僧侶であること、天喜2年9月に忠禅が聖徳太子の御廟の中に入り「不可思議な作法」を行ったので、太子の舎利が破損していないかを確かめるために、勅宣(天皇の詔)でもって法隆寺の三興(僧官)康仁が御廟の中に入り三つの棺を拝見したこと、忠禅は法を談じたことが露顕し、康平6年(1063年)に禁獄されたことなどが記載されている。

 

「太子御記文」にある「今年歳次辛巳」とは、推古29年(621年)の辛巳の年で、聖徳太子が薨去した年にあたる。御記文が発見された天喜2年(1054年)は、聖徳太子が薨去してから433年であり、御記文の「吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや」と全く一致している。余りにも出来すぎた話で、これは偽物であることは明らかだ。

 

四天王寺は「太子御記文」が偽物であるとすぐ見抜けるはずであるが、何故朝廷に奏上したのであろうか。四天王寺には寛弘4年(1007年)に、慈運という僧侶によって金堂から発見された『四天王寺縁起』(国宝)という書物がある。『四天王寺縁起』には「乙卯歳正月八日」の日付と「皇太子仏子勝鬘」の署名があり、手形まで押されてある。『四天王寺縁起』は、推古3年(595年)に聖徳太子自身が書いたことを示しており、人々の関心を集め、当時の権力者の藤原道長が参詣するまでになり、四天王寺の発展に大きく寄与した。『四天王寺縁起』には、「欽明天皇」「敏達天皇」の奈良時代末期から使われた漢風諡号があり、完全な偽書であることは明白だ。このような前科のある四天王寺にとっては、「太子御記文」を偽物と決め付ける訳にはいかなかったのであろう。

 

『古事談』・『太子伝私記』から、私は次のように考える。天喜元年(1053年)に河内国石川郡の磯長谷に私堂を建てた僧忠禅は、近くにある古墳の石室を発見した。石室は磨き上げた切石造りで、三基の棺があることから、忠禅はこの古墳が聖徳太子廟であると悟った。そこで、此の地に聖徳太子の墓前寺を建立しようと、大理石に国王・大臣が寺塔を発起するようにとの銘文を刻んで埋め、翌年の9月に掘り出して、「太子御記文」が出土したと、ことの次第を四天王寺に届け出た。

 

四天王寺から奏上のあつた朝廷は、「太子御記文」については四天王寺に、聖徳太子廟については法隆寺に調べさせた。四天王寺は「太子御記文」を本物とし、法隆寺は古墳を聖徳太子廟と治定した。四天王寺と法隆寺は、忠禅の画策を寺の繁栄のために利用したが、忠禅がのさばることを恐れ、理由をつけて投獄されるようにし向けた。叡福寺が創建されたのは、その後のことである。聖徳太子墓が叡福寺古墳であると比定された年代は、平安時代の中頃のことと考える。


61-7.孝徳天皇陵はなぜ円墳に治定されたか? [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

「天皇家と蘇我氏の系譜」(Z193)には、継体天皇から天智天皇までの天皇家14代と蘇我稲目から蝦夷・入鹿までの系譜と陵墓の墳形を示している。ただし、崇峻天皇陵は赤坂天王山古墳、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳、蘇我稲目は都塚古墳、蘇我馬子は石舞台古墳、聖徳太子は叡福寺北古墳、来目皇子は塚穴古墳と通説に従っている。また、蘇我蝦夷・入鹿の墓は「61-4.小山田・菖蒲池古墳は蘇我蝦夷・入鹿の双墓」に依っている。飛鳥時代の舒明天皇以降の天皇陵は、孝徳天皇以外全て八角墳である。難波豊崎宮に八角殿を造った孝徳天皇の御陵は、八角墳であることが相応しいと思われるが、孝徳天皇陵に治定されている山田上ノ山古墳は円墳である。一方、聖徳太子の父母は二人とも蘇我稲目の孫で、二人の妃も稲目の孫と曽孫であり、蘇我氏と最も関わりの深い人物である。また、聖徳太子は推古天皇の皇太子として、蘇我馬子と共に仏教の興隆に貢献している。これらからすると、聖徳太子墓は方墳であることが相応しいが、聖徳太子墓に治定されている叡福寺北古墳は円墳である。孝徳天皇陵と聖徳太子墓が円墳であることに疑問を持つ。

 

Z193.天皇家と蘇我氏の墳墓.png

『書紀』によると孝徳天皇は白雉5年(654年)10月に崩御し、12月に大阪磯長陵に葬られている。孝徳天皇の大阪磯長陵は大阪府南河内郡太子町大字山田にある円墳、山田上ノ山古墳に治定されている。江戸幕末期に文久の修陵(1862年)が行われ、修陵前(荒蕪)と修陵後(成功)の天皇陵の絵図「文久山陵図」が残されている。『文久山陵図』(学生社)から、大阪磯長陵の荒蕪(Z194)と成功(Z195)を引用した。また『陵墓地形図集成』(宮内庁書陵部編)にある孝徳天皇陵の現在の地形図をZ196に示した。これらの3図を見ると、文久の修陵で山頂を利用して、径約35mx高さ約7mの円墳が成形され、孝徳天皇陵(大阪磯長陵)が造られたことが分かる。

Z194-Z196.大阪磯長陵.png

 

『河内国陵墓図』(天保12年:1841年)の大阪磯長陵には、「石棺露頭ノ所高三尺余幅六尺余アリ」とある。確かにZ195には石棺らしきものが露頭しているところが描かれている。石棺と云われているのは、刳抜式の横口石槨の蓋石で、幅1.8mx高さ0.9mであると理解する。奈良県斑鳩町の御坊山3号墳の刳抜式の横口石槨、蓋石は長さ約2.7mx幅約1.6mx高さ約0.9mで、山田上ノ山古墳の蓋石と幅と高さはほぼ同じである。御坊山3号墳は径8mx高さ2.5mの小さな円墳であり、山田上ノ山古墳も現在の円墳よりも、もっと小さな円墳だったと思われる。

 

Z197.磯長谷の延喜式陵墓.png表197は、大阪府太子町の磯長谷にある天皇陵・聖徳太子墓の墳丘規模と、平安時代に編纂された延喜式諸陵寮に記載された陵墓の兆域(陵墓域)と守戸(墓守)の戸数を記載している。兆域は町の単位で表わされており、平安時代は1町=107mである。陵墓の治定が確かと思われる仁徳天皇陵(8町x8町)と応神天皇陵(5町x5町)では、兆域の範囲が、前方後円墳の周濠を含めた範囲にほぼ収まっている。天智天皇陵(14町X14町)では、後背の山を含めた広大な地域が兆域に含まれており、現在でもその範囲には「御陵○○」との地名が見られる。

 

延喜式諸陵寮には、毎年2月10日に陵墓の定例巡検をおこない、兆域の垣溝が損壊すればこれを修理し、さらに検分することなどの規定があり、延喜式諸陵寮で治定された陵墓は、その治定が正しいかどうかは別として、陵墓の兆域は正確に把握されていたと思われる。Z198は磯長谷にある陵墓の兆域を図示したものである。左上隅には応神天皇陵(5町x5町)の兆域を挿入している。これらからすると孝徳天皇陵の兆域は、不自然に大きいことが分かる。現在、孝徳天皇陵と治定されている大阪磯長陵は、延喜式諸陵寮に定めた大阪磯長陵と違っているように思える。

 

Z198.磯長谷の陵墓の兆域.png

『書紀』は大化の改新の薄葬令において、孝徳天皇が「自分も墳丘を耕作不能の地につくり、代がかわった後にはどこにあるのかわからないようにしたい。」と述べており、王(皇族)以上の墓の規格として、「内(玄室)の長さ九尺(2.7m)、広さ(幅と高さ)五尺(1.5m)、外域は方九尋(一辺約16m)、高さ五尋(9m)、一千人を役し、七日でその工を終わらせる。」と定めている。元禄10年(1697年)の陵墓の探索の時に、『書紀』の「大化の改新の薄葬令」の記述を参考にして、磯長谷の山田の山上にある、横口石槨を持つ小さな円墳を見つけ出し、孝徳天皇の大阪磯長陵と治定し、文久の修陵で現在の形に成形したものであり、延喜式諸陵寮に定めた大阪磯長陵ではないと推察する。それでは、八角墳と考えられる孝徳天皇陵は、磯長谷の何処にあるのであろうか。


61-6.八角墳の源流は高句麗の寺塔 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

天皇陵でみると古墳時代の象徴であった前方後円墳は敏達天皇陵で終わり、飛鳥時代になって推古天皇陵は方墳、舒明天皇陵は八角墳となっている。その後の孝徳天皇陵が円墳であることを除くと、斉明天皇陵・天智天皇陵・天武持統天皇陵と八角墳が造営されている。この八角墳の源流は何処に求められるのであろうか。

 

日本で最初に造られた寺院である法興寺(飛鳥寺)は、発掘調査の結果伽藍配置は、門・塔・金堂が一直線にならぶ四天王寺式(百済様式)ではなく、高句麗の清岩里廃寺に見られる一塔三金堂式の寺址であった。崇峻元年(588年)に法興寺を建築したのは、百済から来た寺院建築の工人であり、高句麗様式の伽藍配置を採用することはない。推古4年(596年)に法興寺が完成したときには、飛鳥寺は門・塔・金堂が一直線にならぶ百済様式の寺院であったと思える。

 

推古3年に高麗(高句麗)の僧・慧慈が来朝し聖徳太子の仏教の師となっている。推古13年(605年)には高麗の大興王(嬰陽王)が日本国の天皇が仏像を造ることを聞いて黄金300両を献上している。翌年には鞍作鳥が造った丈六の仏像が法興寺の金堂に納められた。このとき東西の金堂が増築され、一塔三金堂式になったのではないかと考える。慧慈は推古23年に帰国し、推古33年(625年)には高麗王から貢上された僧恵灌が来朝し僧正に任じられている。推古天皇は推古36年に崩御され舒明天皇が即位されたが、恵灌は引き続き僧正を勤めたのであろう。推古朝・舒明朝は高句麗の百済文化のみならず高句麗文化の影響を受けていた。

 

高句麗の長寿王は427年に都を平壌に遷都するが、平壌前期時代(427年~588年)の王城と見られる清岩里土城(平壌の北東郊外)のなかにある清岩里廃寺跡から八角建物址が検出された。この八角建物址は塔址であり、八角建物址の北・東・西に金堂と思われる建物址が検出され、清岩里廃寺跡は一塔三金堂式の寺址であると判った。この寺址は498年に創建されたとされる金剛寺にあてられている。清岩里廃寺跡の東南2kmにある上五里廃寺跡からも八角建物址と東西に金堂と思われる方形の建物址を検出し、北にも金堂の址があると想定されている。清岩里廃寺跡の南南東20kmにある定陵寺跡からも八角建物址が検出されている。八角建物である中央の塔を中心に東と西、そして北側に金堂を配置する1塔3金堂式とよばれる伽藍配置である。定陵寺の年代は色々議論があるが、清岩里廃寺より後の6世紀前半以降とみられている。

 

Z191.飛鳥寺と清岩里廃寺.png

舒明天皇陵(段ノ塚古墳)が八角墳となった源流は高句麗で建造された八角形の塔にあると考える。高句麗で建造された八角形の塔について、舒明天皇や皇后の宝皇女は恵灌から聞いていたのであろう。舒明天皇が崩御すると皇后の宝皇女が皇極天皇(後の斉明天皇)に即位された。乙巳の変で蘇我入鹿が刺殺され蝦夷が自害すると、皇極天皇は譲位し、弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、皇極4年を改め大化元年(645年)と改元し、都を難波長柄豊崎に移した。難波豊崎宮(前期難波宮)の造営が完成したのは白雉3年(652年)である。

 

Z192.前期難波宮.pngこの前期難波宮が大阪城外堀の南西部に接した場所にあることが、1950年代に始まった発掘調査で明らかになってきた。宮域は東西・南北とも650mで、それまでにない大規模な王宮である。図Z192は発掘調査の成果をもとにして作成された前期難波宮のCG復元図(『東アジアに開かれた古代王宮・難波宮』新泉社、引用)である。前期難波宮は唐尺を採用し、ほぼ左右対称の殿舎配置をとる点で極めて中国的(唐風)な色彩を帯びている宮である。内裏南門の左右には回廊で囲まれた八角殿が建っている。八角形の建物と言えば法隆寺の夢殿が有名であるが、夢殿の創建は天平11年(739年)であり、難波宮の八角殿よりずっと後のことだ。難波豊崎宮に八角殿が建ったのは、皇祖母尊と呼ばれた皇極天皇の進言かもしれない。孝徳天皇は白雉5年(654年)に崩御され、大阪磯長陵(大阪府太子町)に葬られた。大阪磯長陵は宮内庁により、大阪府太子町にある山田上ノ山古墳(円墳)に治定されている。難波豊崎宮に八角殿を建てた孝徳天皇の御陵こそ、八角墳であることが相応しい。大阪磯長陵が円墳であることに疑問を感じる。


61-5.八角墳に埋葬された斉明天皇 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

平成22年9月明日香村教育委員会は、明日香村大字越にある牽牛子塚古墳で墳丘を取り囲む八角形(一辺9m、幅1m)の石敷遺構が見つかったと発表した。牽牛子塚古墳は三段築成の八角墳で、墳丘底辺の対辺は22m、高さ4.5m以上である。また、白色凝灰岩の三角柱状の切り石が数百個以上出土しており、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾していたと見られている。二上山の凝灰岩の巨石を刳り貫いた石室は、幅5m・奥行き3.5m・高さ2.5mで、石室中央に間仕切り壁を設け2つの墓室があり、夫々に棺を置く為の棺台が削り出しで造られている。牽牛子塚古墳からは、天武持統天皇陵にも用いられている夾紵棺(麻布を漆で何重にも貼り重ねて作る)の破片が以前に出土している。

 

Z189.牽牛子塚古墳.png

牽牛子塚古墳周辺の発掘現場を埋め戻す最中、古墳の南東約20mに埋まっていた越塚御門古墳が発見された。4m大の石英閃緑岩の上石をくり抜き、長さ2.4m、幅0.90m、高さ0.6mの石槨が造られていたが、後世の盗掘で4分の3程度失われていた。越塚御門古墳の床部分から漆膜片が数点出土し、束明神古墳や高松塚古墳・キトラ古墳からも出土した、高位の人物に使う漆塗り木棺が納められていたことが伺える。

 

牽牛子塚古墳が斉明天皇の越智崗上陵であると確実視されたのは、八角墳であること、当時の最高級の棺である夾紵棺の破片が出土していることだけではない。『書紀』天智6年(667年)2月の記事、「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女(斉明天皇娘、孝徳天皇皇后)を小市(おち)崗上陵に合葬し、皇孫大田皇女(斉明天皇孫、天智天皇娘)を陵の前の墓に葬った。・・・皇太子(称制:天智天皇)は群臣に語って、『私は皇太后天皇の勅を承って以来、万民を思いやるがために、石槨の役を起さない。どうか永代までも戒めとして欲しい。』と言われた。」と合致していたからである。牽牛子塚古墳には石室が2室あって夫々に棺台があり、斉明天皇と間人皇女を合葬したとある記述と、牽牛子塚古墳の開口部の20m先にある越塚御門古墳が、大田皇女を陵の前の墓に葬ったとある記述と、牽牛子塚古墳と越塚御門古墳がともに岩をくり抜いた横口式石槨で、石槨の役を起さない(石積みの横穴式石室は造らない)との記述と合致している。

 

宮内庁は牽牛子塚古墳から約2.5km離れた高取町大字車木にある車木ケンノウ古墳(円墳)を斉明天皇陵(越智崗上陵)として、その南約80mにある古墳(円墳)を大田皇女墓として管理している。『書紀』天武8年(679年)3月の記事に「天皇が越智に行幸し、後岡本天皇(斉明天皇)の陵を拝した。」とある。車木ケンノウ古墳を越智崗上陵と治定したのは江戸時代末の文久年間で、その根拠は地名からで、車木ケンノウ古墳が車木村と越智村の境にある「天皇山」と呼ばれる山の頂にあったからであるらしい。しかし、牽牛子塚古墳の地は天武天皇が飛鳥御浄原宮から越智に行幸する途中にあり、牽牛子塚古墳の地も越智とは無縁ではない。

 

Z190.斉明天皇陵.png

畿内で八角墳と確実視されているのは、段ノ塚古墳(舒明天皇陵)、御廟野古墳(天智天皇陵)、野口王墓古墳(天武持統天皇陵)、束明神古墳(草壁皇子?)、中尾山古墳(文武天皇陵?)の5古墳で、被葬者(推定者を含め)は7世紀半ばから8世紀始めに亡くなった天皇やその近親者である。斉明天皇陵が八角墳の牽牛子塚古墳とすると、推古天皇以降の天皇陵は徳天皇陵を除いて、舒明天皇陵・斉明天皇陵・天智天皇陵・天武持統天皇陵と八角墳である。徳天皇陵のみが円墳であることが気になるところである。


61-4.小山田・菖蒲池古墳は蘇我蝦夷・入鹿の双墓 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z184.小山田遺跡.png今年(平成29年)3月1日橿原考古学研究所は、奈良県明日香村川原の小山田遺跡で横穴式石室の羨道遺構の一部が見つかり、遺跡は方墳であると確定され、一辺約70mとなる可能性が高まったと発表した。墳丘盛土中からは、6世紀後半代の土器類とともに、7世紀前半の軒丸瓦片が出土しており、小山田遺跡(古墳)の築造時期が7世紀前半以降であるとしている。同時代の大型方墳である推古天皇陵とされる山田高塚古墳(長辺約60m)、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回っており、小山田古墳は飛鳥時代の最大級の方墳である。

 

Z185.小山田古墳イネージ図.png平成25年には、小山田遺跡からは長さ約48m、幅は上部約7m、底部約4m、残存する深さ約1mの石材を敷き詰めた掘割が発見されている。墳丘側の斜面には板石が階段状に積まれ、2段目までの板石が緑片岩で、その上の板石は榛原石であった。掘割には崩れ落ちたと見られる板石が多量に堆積していた。橿考研は図185のようなイメージ図を作成している。掘割を埋めた土中に含まれる土器の年代から、古墳は築造からあまり年月を経たない7世紀後半には廃絶したと考えられた。

 

 榛原石を使った板石積みは、舒明天皇陵とされる桜井市忍阪の段ノ塚古墳と共通しており、橿考研の菅谷文則所長は被葬者について「642年に最初の陵に葬られた舒明天皇が候補」と説明している。一方、同時期に天皇に匹敵する強権を誇った蘇我蝦夷が642年に築いた墓と考える研究者もいる。 『書紀』は舒明天皇の陵と蘇我蝦夷の墓について、次のように記している。

舒明13年(641年)10月:舒明天皇崩御、宮の北で殯。

皇極元年 (642年)12月:舒明天皇の葬儀を行い、滑谷岡に葬る。この年蘇我蝦夷は国中の民や
    多くの部民を徴発して双墓を今来に造る。大陵を蝦夷大臣の墓とし、小陵を入鹿臣の墓とした。

皇極2年(643年)9月:舒明天皇を押坂陵に葬った。

 皇極4年(645年)6月:蘇我入鹿が大極殿で誅殺され、翌日蝦夷が自宅で自害した。蘇我蝦夷・入鹿
   を墓に葬ること、哭泣が許された。

 

今回発見の小山田古墳の羨道に使われていた石の抜き取り穴は、長さ1.2mx幅1.4mと長さ1m以上x幅1.5mで穴間の距離(羨道幅)は2.6mであった。さらに北に約10メートル離れた場所にも抜き取り跡が見つかり、羨道が北に延びていることも分かった。石の高さは不明であるが羨道に巨石が使用されていたと考えられる。石舞台古墳の羨道幅2.1~2.6mと比較すると、小山田古墳の石室は石舞台古墳と同等あるいはそれ以上であると推察される。

 

Z186.蘇我蝦夷・入鹿双墓.png小山田古墳が舒明天皇(在位19年)の初葬墓であるという見解に対して、1年間しか埋葬しなかった初葬墓が、36年在位した推古天皇の陵よりも大きな方墳であること、石室が舞台古墳なみの大きさであることに疑問を感じる。私は、小山田古墳は蘇我蝦夷が国中の民や多くの部民を徴発して今来に造った双墓の内の大陵であると考える。それならば、入鹿の墓とされる小陵が近くになければならない。図Z186は橿考研が平成25年と平成29年に造った小山田遺跡の図面を合成したものである。小山田古墳から小さな谷をへだてた西100mのところに、方墳の菖蒲池古墳が小山田古墳と同じ向きに存在する。平成29年3月の橿考研の「小山田遺跡第8次発掘調査報告書」と平成27年1月の橿原市教育委員会の「埋蔵文化財報告 菖蒲池古墳」とを比較すると、両者の石室中軸線が北より14度傾いて一致していることが分る。菖蒲池古墳と小山田古墳は双墓の関係にある。

 

菖蒲池古墳は墳丘の封土の流失・改変が著しく、横穴式石室の玄室天井石は地表に露出しており、羨道の天井石も失われていたが、数度の発掘調査により、一辺30mのほぼ正方形の方墳で、二段築成と考えられている。上段・下段の墳丘裾には基底石が並べられ、基底石の前面には幅2.2~2.5mの石敷(3~5㎝の河原石)の平坦面がある。墳丘の東側と北側には幅6m以上、深さ2m以上の濠(掘割)があるが、掘割には石敷はなく地山が露出している。墳丘・掘割の仕上げ方は菖蒲池古墳と小山田古墳は同じではなく、小山田古墳の方が豪華であるように思える。出土遺物から古墳の築造は飛鳥Ⅱ古の時代、640年~660年代の間と見られ、小山田古墳と同時期である。

 

Z187.菖蒲池古墳の石棺.png菖蒲池古墳の玄室は半加工の自然石を使用し、長さ7.2m、幅2.6m、高さ2.6mで漆喰が厚く塗布され、家形石棺が2基縦一列に並べられており、石棺の内部は2基共に漆で塗られている。石棺の内部が漆で塗られていることは、他に類例のないことだ。私は、この2基の石棺には蝦夷と入鹿が葬られていると考える。乙巳の変によって入鹿が誅殺され蝦夷が自害したが、葬儀(哭泣)が行われることや墓に葬ることが許されている。蘇我蝦夷・入鹿は自らが造っていた双墓の小陵・菖蒲池古墳に埋葬され、大陵・小山田古墳は取り潰されたのであろう。巨大方墳である小山田古墳が築造後あまり年月を経たないうちに廃絶しているのはこの為であろう。『書紀』は双墓を今来に造ったとあるが、「今来」とは雄略紀7年条にみえる百済から新たにやって来た工人(陶部・鞍部・画部・錦部)、「今来才人(いまきのてひと)」が住んだ土地を指し、高市郡南部の檜隈を中心とした地で、小山田古墳・菖蒲池古墳も含まれている。


61-3.塚穴古墳は聖徳太子の弟・来目皇子の墓 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

『日本書紀』によると、来目皇子は用明天皇の第2子で聖徳太子の同母弟である。推古10年(602年)の2月に新羅征伐の将軍となって2万5千の軍勢を授かり、4月に筑紫の島郡(福岡県糸島郡志摩町)に駐屯していたが、6月に病臥し翌年の2月に薨じた。推古天皇は土師連を遣わし、周芳の裟婆(山口県防府市佐波)で殯を行い、後に河内の埴生山の岡の上に葬られている。宮内庁は羽曳野丘陵にある大阪府羽曳野市はびきの3丁目の塚穴古墳を「埴生崗上墓」として来目皇子の墓に治定している。

 

『書紀』には履中天皇前紀に「河内の埴生坂」が出て来る。仁徳天皇が崩御されたとき住吉仲皇子が反乱を起し、皇太子であった後の履中天皇は難を逃れて難波宮から大和へ向かい、その途中で河内国の埴生坂で燃えさかる難波宮を見て驚かれたとある。履中天皇が通ったのが羽曳野丘陵を越えて大和に向かう丹比道(竹内街道)である。竹内街道の東除川の伊勢橋から古市駅までの行程をZ181に、その行程の標高をZ182に示した。羽曳野丘陵を越えるのが埴生坂(①~⑫)であると考える。

 

Z181-Z182.竹内街道.png

因みに仁賢天皇は埴生坂本陵に葬られているが、埴生坂本陵とは埴生坂の本(ふもと)の陵のことであろう。仁賢天皇の陵に治定されているボケ山古墳の標高は40mからすると、埴生坂本陵は日本武尊の白鳥陵に治定されている標高28mの前の山古墳の方が似つかわしい。それは別として、この行程で標高が48mと最も高い⑤から、仁徳天皇高津宮候補地の大阪市内の法円坂付近(標高16m)を見ると、その間は古代河内湖があったことからして眺めを遮るものは何も無い。履中天皇が埴生坂で燃えさかる難波宮を見たというのは史実であろう。塚穴古墳のある場所は標高65mであって、埴生坂の最高地点より17mも高い。来目皇子の墓を「埴生山の岡の上」と表現していることとぴったり合っている。塚穴古墳が来目皇子の墓だと確信する。

 

塚穴古墳は一辺約53mx高さ約10mの三段築成の方墳である。平成22年羽曳野市教育委員会は塚穴古墳の墳丘北側を発掘したところ、粘土や砂などを交互に積み重ねた厚さ約1m築山状遺構が幅22mにわたって確認されたと発表している。平成18年の墳丘南側の調査では高さ2.5m、長さ約100m、幅約16mの外堤が見つかっている。今回の調査や現在の地形をもとに推定すると、外堤を含めた古墳の規模は130メートル四方で、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(奈良県明日香村)の85m四方を大きく上回り、国内最大級になるという。

 

Z183.来目皇子石室.png塚穴古墳の埋葬施設については、宮内庁書陵部所蔵の「来目皇子御墓石槨百分一ノ畧圖」(明治23年)に石室略図が描かれている。それによると玄室が長さ5.5mx幅3.6mx高さ3m以上で羨道は長さ7.6mx幅1.8mであることが分る。また、石室は直線的で壁の石は四角形に描かれ、玄室の石積みは、右側壁は上下2石ずつの4石で、左側壁は上が3石で下が2石の計5石、奥壁は上2石で下1石の3石となっており、羨道は1段済みで左右とも3石である。これらより花崗岩を精緻に加工した切石で造られた岩屋山式石室を思わせる。江戸時代後期に河内の金剛輪寺の住職であった覚峰阿闍梨がこの墓に入り記録をとどめている。それには「上下左右ノ石ハダへ美シテ削カ如シ」と書かれてあり、岩屋山古墳の美しい切石を彷彿させる。塚穴古墳の石室構造は岩屋山式石室であると考えられている。

 

「60-8.岩屋山横穴式石室と横口式石槨の年代」において、花崗岩の切石を使い、漆喰を使って仕上げている横口式石槨のシシヨツカ古墳の築造年代が600年前後と考えられることから、岩屋山式横穴石室の実年代も通説の7世紀第二四半期とか7世紀の中葉前後からそれ以降とかでなく、7世紀第一四半期ということになると考えた。塚穴古墳が602年に亡くなった来目皇子の墓となると、岩屋山式横穴石室の実年代が7世紀第一四半期と確定できる。


61-2.シシヨツカ古墳は大伴狭手彦の墓 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z174.シシヨツカ古墳推定図.png葛城山西麓にある平石谷の下流より上流へかけて築造された平石古墳群にシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳がある。三基とも3段築成の大型方墳で埋葬施設は花崗岩の切石で造られた横口式石槨であり、いずれの古墳も天皇陵に匹敵する規模である。古墳の築造順位はシシヨツカ古墳→アカハゲ古墳→ツカマリ古墳である。3基の古墳から出土した漆塗籠棺片の漆片から加速度質量分析法(AMS法)によって放射性炭素年代測定が行われた結果からシシヨツカ古墳の築造年代は600年、アカハゲ古墳は625年、ツカマリ古墳は650年と定めることが出来た。

 

大阪府教育委員会の上林四郎氏は、『加納古墳群・平石古墳群』(2012年)の中に「平石古墳群の被葬者像」を掲載している。上林氏は欽明朝から孝徳朝にかけてのおよそ百年間(6世紀中葉~7世紀中葉)を中心として、この地に関連すると思われる4氏族(蘇我氏、波多氏、河辺氏、大伴氏)を抽出し、それぞれの氏族について検討を行い、平石古墳群の被葬者の候補として大伴金村の子であった磐・狭手彦・糠手子・咋子と咋子の長子長徳を挙げている。

 

上林氏は、平石古墳群のある大阪府南河内郡河南町と大伴氏との関係については、『書紀』敏達12年(583年)の記事を挙げている。その要約は「火葦北国造の子であった日羅が百済で高官になり、敏達大王に請われて日本に来るのだが、百済人の随伴者に暗殺される。その時、大伴糠手子連が日羅の妻子や水夫を石川百済村(富田林市新堂・緑ヶ丘付近か)と石川大伴村(富田林市北・南大伴)に置いて、捕縛した百済人らを下百済河田村(富田林市甲田か)に置いた。」という内容であり、三ヶ所の村が大伴氏の勢力範囲であることを如実に示しているとしている。富田林市は平石古墳群のある河南町に隣接する市である。

 

平石古墳群のシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳が大伴金村の子孫の墓であるか検証してみる。大伴氏の系図を見ると、大伴金村の息子は磐・狭手彦・糠手子・咋子の4名としているものと、磐・狭手彦・糠手・阿被布古・宇遅古の5名で、咋子は阿被布古の息子としているもがある。後者の阿被布古・宇遅古は『書紀』には登場しないので、検証のしようがなく、大伴金村の息子は磐・狭手彦・糠手子・咋子の4名として検証する。なお、検証にあたっては、「55-3.武内宿禰7人の息子の検証」で仮定した条件、男性に子供が生まれる時の年齢は18歳から53歳まで、孫が生まれる時の年齢は38歳から100歳まで、職務に携わる年齢は、国政を担うのは23歳から63歳まで、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳まで、女性が皇后・妃となるのは18歳か30歳までを採用した。

 

Z175.大伴金村の生年.png仁賢11年(505年)に仁賢天皇が崩御されたとき、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにして日本の王になろうとしたので、大伴金村は真鳥を討伐し武烈天皇を即位させた。金村はその功績で大連となっており、その時の年齢を23歳から40歳と仮定した。金村は武烈・継体・安閑・宣化・欽明天皇に大連として仕えている。最後に大連に就任したのは、宣化4年(539年)である。仁賢11年に28歳で大連になったとすると、宣化4年には63歳である。これらより表Z175に示すように、金村の生年は478年~483年であることが分かる。

 

Z176.金村の息子と孫.png表Z176は、金村の息子、磐・狭手彦・糠手子・咋子が初めて『書紀』に登場する年(初出)に、年齢が23歳から50歳であると仮定すると、息子達の生年が分かる。息子達の誕生の年(生年)に父・金村(生年は478年~483年)が何歳であったかを調べたものである。表176に見るように、磐と狭手彦は金村の息子で、糠手子と咋子は孫であることが分かる。大友氏の系図では、大友氏本宗家は大伴金村→咋子→長徳となっている。しかし、咋子は金村の孫であることが明らかで、大伴金村→○→咋子→長徳が本宗家と考えられ、○は磐か狭手彦となる。

 

Z177-Z178.狭手彦.png宣化2年(537年)に磐は筑紫に、狭手彦は任那に派遣されている。磐はそれ以降『書紀』には登場しないが、狭手彦は欽明23年(562年)に数万の兵を率いて高麗(高句麗)を撃破し、勝ちに乗じて宮殿に入って珍宝・財貨などを奪い帰還し、七織帳を天皇に献上し、甲・金飾刀・銅鏤鐘・五色幡と美女媛・従女吾太子を蘇我稲目大臣に送っている。表Z177に示すように、大伴狭手彦の生年は507年~515年であることが分かる。狭手彦と糠手子・咋子・長徳(馬飼)の関係を調べZ178に示した。糠手子と咋子は狭手彦の息子であり、長徳(馬飼)は狭手彦の孫であることが分かる。これらより、大伴金村の子孫、4代の系図(Z179)を作成した。

 

Z179.大供氏系図.png築造年代を600年としたシシヨツカ古墳の被葬者は、大伴狭手彦の墓に比定する。狭手彦の生年は508年~515年であるので、埋葬されるまでに2年かかったとするならば、83歳~90歳で亡くなったことになり、可能性があることが分る。狭手彦は高麗(高句麗)の美女媛と従女吾太子を蘇我稲目大臣に送っている。大伴狭手彦の墓は、570年頃に築造された蘇我稲目の墓、方形階段式の都塚古墳を真似て造られたのであろう。シシヨツカ古墳の横口式石槨は、山背国に住んでいた高麗人・頭霧唎耶陛から花崗岩の切石加工技術、石灰岩を焼いて漆喰を作る方法を習得し造られたと考える。

 

Z180.大伴咋子.png築造年代を625年としたアカハゲ古墳は、大伴狭手彦の息子咋子の墓に比定する。表180にあるように、咋子の生年は549年~565年であり、咋子は58歳~73歳の間でなくなったことになる。築造年代を650年としたツカマリ古墳は、大伴咋子の息子長徳(馬飼)に比定する。長徳が『書紀』に登場する最後は、右大臣に就任した大化5年(649年)であり、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録である『公卿補任』には、白雉2年(651年)に薨去したとある。長徳が亡くなった時期と、古墳の築造時期とピッタリ一致する。平石古墳群のシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳は大伴金村の子孫、狭手彦・咋子・長徳も3代の墓である。


61-1.都塚古墳は蘇我稲目の墓 [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

Z170.都塚古墳のイメージ.png平成26年8月明日香村教育委員会と関西大学が、明日香村阪田にある都塚古墳は一辺が約40mの方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状の形をしていると発表して、考古学者や考古学フアンを驚かせた。階段ピラミッド状の形をしているとしたのは、墳頂部に近い東斜面から石積みの階段が4段見つかったからだ。1段の高さは30~60cmで、段の部分には拳大から人頭大の石を垂直に積み上げている。その後の発掘調査で、墳丘の南東コーナー部分からも階段状遺構が3段分確認され、古墳は高さ7m、5段以上の階段ピラミッド状の方墳であることが確認された。発掘を担当した関西大の米田文孝教授は「階段状構造については疑問を持つ考えもあったが、少なくとも墳丘上部は階段状をしていたことが裏付けられた。高句麗の積石塚などの影響を受けた可能性もある。」としている。

 

都塚古墳の埋葬施設は全長12mの両袖式横穴式石室で、長さ2.2mの刳り抜き式家形石棺が収められている。石棺の蓋は6個の縄掛式突起を持ち、その形状から古墳の築造年代は6世紀後半から6世紀末と比定されていた。蘇我馬子とされる石舞台古墳に近いこと、両者とも周濠をもつ方墳であることから、欽明31年(570年)に亡くなった蘇我稲目の墓でないかと考えられている。

 

階段ピラミッド形の都塚古墳のルーツは、高句麗の王陵・将軍塚に代表される方壇階梯積石塚(方形階段式積石塚)に求められている。方形階段式積石塚は高句麗の都が鴨緑江流域の集安(中国吉林省)にあった国内城(342年~426年)の時代に盛んに造られ、都が大同江流域の平壌に遷都した427年以降は造られていない。ソウル市石村洞の石村洞古墳群にも数基の方形階段式積石塚がある。これは百済の都が漢江流域にあった漢城(~475年)の時代、3世紀末から4世紀に造られたと見られている。

 

Z171-Z173.集安積石塚と将軍塚.png

蘇我稲目の墓が、高句麗の方形階段式積石塚の影響を受けて、階段状ピラミッド形に築造されたとなると、蘇我稲目あるいは息子の蘇我馬子が高句麗あるいは百済の方形階段式積石塚の知識があったことになる。その可能性はあるのだろうか。『書紀』欽明23年(562年)の記事に、「大伴連狭手彦が数万の兵を率いて、百済の計略を用いて高麗(高句麗)を撃破した。狭手彦は勝ちに乗じて宮殿に入って珍宝・財貨などを奪い帰還し、七織帳を天皇に献上し、甲・金飾刀・銅鏤鐘・五色幡と美女媛・従女吾太子を蘇我稲目大臣に送った。大臣は二人の女を召入れて妻とし、軽の曲殿に住まわせた。」とある。

 

『書紀』の編纂者は、この記事が史実かどうかを見極める史料が無かったのであろう、文注には「一本(或る本)云う、欽明11年(550年)に大伴連狭手彦が、百済国とともに高句麗王陽香(陽原王)を比津留都(未詳)に追い退けた。」とある。『三国史記』百済本紀、聖王28年(550年)には、「聖王は将軍の達己に一万の兵を率い、高句麗の道薩城(忠清北道槐山郡槐山面)を攻め落とさせた。」とある。欽明11年に大伴連狭手彦が、百済国とともに高句麗を退けたことは史実であろうが、欽明23年の記事とは別のことであると考える。

 

『書紀』欽明紀には「百済本記云」と、『百済本記』の引用記事が14ヶ所出てくる。その引用の最後は欽明17年(556年)正月で、百済の聖明王(聖王)が新羅に殺された2年後のことである。これ以降『書紀』は『百済本記』を引用していない。『百済本記』は聖明王の時代までが書かれてあったと思われる。欽明23年(562年)の大伴連狭手彦の活躍の記事は史実であったが、それを伝える歴史書がなかったと考える。大伴連狭手彦の攻め込んだ高句麗の宮殿は、都のあった平壌ではなく、475年以降高句麗が支配していた百済の旧都・漢城にあったと思われる。大伴連狭手彦あるいは蘇我稲目の妻となった美女媛は、ソウル市石村洞の石村洞古墳群にある数基の方形階段式積石塚を見ていて、蘇我稲目にその話をしたのかも知れない。

 

欽明26年(565年)の記事に「高麗人・頭霧唎耶陛等が筑紫に来朝したので、山背国に住まわせた。今の畝原・奈羅・山村の高麗人の先祖である。」とある。山背国の奈羅については、平安時代の『和名抄』に「山城国久世郡奈羅郷」が見え、現在の京都府八幡市上奈良・下奈良の地であるとされている。八幡市奈良から北東6kmの宇治市菟道にある隼上り瓦窯跡からは、飛鳥寺(法興寺)の後に創建された豊浦寺に使われていた高句麗系軒丸瓦が出土している。また、『新撰姓氏録』には、「長背連、高麗の国主鄒牟[一名、朱蒙](高句麗始祖)より出るなり、天国排開広庭天皇[諡、欽明]の御世、衆を率いて投下す。」とある。欽明26年の記事は史実であると考えられる。蘇我稲目は頭霧唎耶陛から、高句麗の広開土王(好太王)の墓・将軍塚は、方形階段式積石塚であると聞いたのかも知れない。

 

蘇我稲目が薨去した欽明31年に高麗の使いの船が越の浜に漂着した。高麗の使いは近江に着いたあと飾り舟に迎えられ、山背の相楽館(京都府相楽郡)で饗応を受けた。欽明32年に欽明天皇が崩御され、翌年に敏達天皇が即位し、蘇我馬子が大臣となった。高麗の使者は敏達天皇に上表文を奉り、7月に帰国の途についている。蘇我馬子は父・稲目が亡くなった前後に高麗人と接しており、稲目が望んだ方形階段式積石塚が、高句麗では王や高位のものの墓であったことを知ったのであろう。馬子は都塚古墳を、邸宅の方形池の石組みを行った倭漢(東漢)氏の配下の渡来人に造らせたと考える。蘇我稲目の都塚古墳が造営されて以降、蘇我氏との関わりある天皇や氏族、そして崇仏派の豪族が大型方墳を造営するようになったと思われる。


60-8.岩屋山式石室と横口式石槨の年代 [60.古墳時代の終焉]

前方後円墳終焉とともに古墳時代が終わり、飛鳥時代に入っても円墳・方墳を中心とした古墳が作られ終末期古墳と呼ばれている。終末期古墳の横穴式石室の構造においては、精微に加工された花崗岩の切石で造られた横穴式石室が登場する。この代表的な古墳が奈良県明日香村大字越にある岩屋山古墳(方墳)と大阪府太子町にある聖徳太子墓とされている叡福寺北古墳(円墳)である。その他にムネサカ古墳(円墳:奈良県桜井市)、小谷古墳(墳形?:奈良県橿原市)、嶺塚古墳(円墳:奈良県天理市)が挙げられる。

 

Z167.岩尾山式石室.pngこのような石室構造を持つ横穴式石室を白石太一郎氏は「岩屋山式石室」と呼び、1967年発表の「岩屋山式の横穴石室について」では、その実年代を7世紀第二四半期と考えられていた。これは叡福寺北古墳が聖徳太子墓であり、聖徳太子の没年が621年頃であることが根拠となっている。しかし、白石氏の1982年発表の「畿内における古墳の終末」では、「岩屋山式の絶対年代は7世紀の中葉前後からそれ以降に下げざるをえないことになるのである。」としている。岩屋山式石室の年代が揺れ動いている。

 

終末期古墳の横穴式石室の形状においては、羨道幅と玄室幅が同じ無袖式が増加している。そして、玄室幅が羨道幅あるいは前室幅より小さい横口式石槨が奈良・大阪を中心として登場してくる。横口式石槨には石槨の小口部が開口する羨道の無いタイプのものもある。横口式石槨の構造には、①横穴式石室の延長で自然石を積み上げたもの、②家型石棺に横口を開けたものを石槨に転用したもの、③花崗岩・閃緑岩の切石で造ったもの、④凝灰岩・安山岩の切石で造ったもの、⑤石材磚を積み上げて造ったもの、⑥蓋石を刳り抜き底石に被せたもの、⑦石を刳り抜き石槨を造ったものなどがある。これらの横口石槨のなかで③④⑤⑥には漆喰が使われている。横口石槨の代表的な古墳を下記に列挙した。

   ①平尾山13-1号(大阪府柏原市)、雁多尾畑古墳(大阪府柏原市)、オウコ1号(大阪府羽曳野市)、
    獄山古墳(奈良県宇陀市)
 ②お亀石古墳(大阪府富田林市)、松井塚古墳(大阪府太子町)、徳楽山古墳(大阪府羽曳野市)、
    鉢伏山南峰古墳(大阪府羽曳野市)
  ③御嶺山古墳(大阪府太子町)、シシヨツカ古墳(大阪府河南町)、アカハゲ古墳(大阪府河南町)、
    ツカマリ古墳(大阪府河南町)
  ④観音塚古墳(大阪府羽曳野市)、平野塚穴山古墳(奈良県香芝市)、束明神古墳(奈良県高取町)、
    高松塚古墳(奈良県明日香村)、キトラ古墳(奈良県明日香村)
  ⑤花山西塚古墳(奈良県桜井市)、舞谷3号(奈良県桜井市)
  ⑥石宝殿古墳(大阪府寝屋川市)、御坊山3号墳(奈良県斑鳩町)、鬼の雪隠俎(奈良県明日香村)、
    越塚御門古墳(奈良県明日香村)
  ⑦牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)、小口山古墳(大阪府羽曳野市)、益田岩船(奈良県橿原市)

 

葛城山西麓にある平石谷の下流より上流へかけて築造された平石古墳群にシシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳がある。三基とも大型方墳で埋葬施設は花崗岩の切石で造られた横口式石槨である。表Z169に墳丘・周濠・埋葬施設・副葬品を掲げた。いずれの古墳も天皇陵に匹敵する規模である。アカハゲ・ツカマリの両古墳が終末期古墳の様相を呈しているのに対して、シシヨツカ古墳は後期古墳と終末期古墳の両方の様相を呈し、後期古墳から終末期古墳への過渡期に築造された古墳と考えられている。古墳の築造順位はシシヨツカ古墳→アカハゲ古墳→ツカマリ古墳である。

 

Z168.Z169.平石古墳群.png

アカハゲ・ツカマリ古墳の出土した遺物は少ないが、シシヨツカ古墳は平成11年に発見されたこともあって盗掘されていたが豊富である。装身具ではガラス玉・金糸・垂飾部品・銀製帯金具・指環、武器では鉄刀・刀子・鉄鏃、大刀では象嵌の柄頭・鞘尻・装具など、武具では挂甲小札類、馬具では鞍金具・轡・鐙・杏葉・雲珠、容器では漆塗籠棺がある。大刀の柄頭・鞘尻・装具の文様は、銀象嵌の亀甲繋鳳凰文で古墳時代後期半ば(6世紀半ば)のものと、金象嵌の雲竜文で飛鳥時代のものがある。また、漆塗籠棺は明らかに飛鳥時代のものだ。シシヨツカ古墳が後期古墳と終末期古墳の両方の様相を呈している。

 

シシヨツカ古墳から出土した須恵器は、前室出土の須恵器四耳壷(陶邑Ⅱ/4)1点、羨道の須恵器甕(陶邑Ⅱ/4・5)とその1点に納められた高杯(陶邑Ⅱ/4)4点がある。これらの須恵器はその出土状態から、この古墳の葬送礼に伴って用いられた土器であると考えられている。これらより、シシヨツカ古墳の築造年代は陶邑Ⅱの4段階と5段階の境頃と考えられる。中村浩氏の須恵器の編年で、陶邑Ⅱ4段階はTK43、陶邑Ⅱの5段階はTK209に相当する。須恵器からみてTK43とTK209の境は、古墳時代(後期古墳)と飛鳥時代(終末期古墳)の境である。シシヨツカ古墳が後期古墳から終末期古墳への過渡期に築造された古墳と考えられているのはこのためであろう。私の須恵器の編年でいうと600年前後ということになる。

 

シシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳の3基の古墳から、漆塗籠棺片が出土している。これらの漆片の加速度質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定が行われている。漆はAMS法による年代測定には良い試料とされている。

          暦年代範囲(確立68%) 暦年代範囲(確立95%)  

シシヨツカ古墳  618年~654年  595年~665年

アカハゲ古墳   640年~666年  610年~685年

ツカマリ古墳   599年~644年  555年~655年

3基の古墳の築造順位はシシヨツカ古墳→アカハゲ古墳→ツカマリ古墳である。3基の古墳の築造年代は測定された値の信頼性が95%の確立である歴年代範囲の中にあるとすると、シシヨツカ古墳の築造年代は600年、アカハゲ古墳は625年、ツカマリ古墳は650年と定めることが出来る。

 

シシヨツカ古墳・アカハゲ古墳・ツカマリ古墳の3基の古墳は花崗岩の切石を使い、漆喰を使って仕上げている。精微に加工された花崗岩の切石で造られた横穴式石室(岩屋山式石室)にも目地に漆喰が使われており、花崗岩・閃緑岩の切石で造られた横口式石槨と切石・漆喰の2点が共通している。古墳時代・飛鳥時代を通じて、漆喰が使われている古墳は40基程見つかっている。その古墳の墳形には前方後円墳は一基も無い。このことからして、花崗岩・閃緑岩の切石で造られた横穴式石室(岩屋山式石室)と横口式石槨の年代は、前方後円墳終焉後の600年以降、飛鳥時代のものであることは確かである。シシヨツカ古墳の築造年代が600年頃となると、岩屋山式横穴石室の実年代も7世紀第二四半期とか、7世紀の中葉前後からそれ以降とかではなく、7世紀第一四半期ということになるのではなかろうか。


前の10件 | -