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63-7.『書紀』は900年歴史(編年)を延長している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』は、神武天皇を釈迦より昔に我が国を建国した天皇であるとするために、綏靖天皇から開化天皇の崩御までの「欠史8代」と呼ばれる天皇を創作して、484年間を挿入している。それでは、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までの歴史(編年)が延長された時代は、何を目的に延長したのであろうか。『書紀』は、神武天皇を「始馭天下之天皇」(始めに国を統一した天皇)とし、崇神天皇を「御肇国天皇」(始めに国を治めた天皇)としている。崇神天皇の元年、紀元前97年も意味のある年のはずである。『書紀』が記した日本(倭国)の歴史で、朝鮮半島の三国(新羅・高句麗・百済)との関係が随所に出てくる。この三国の建国は、新羅が紀元前57年、高句麗が前37年、百済が前18年である。「御肇国天皇」とする崇神天皇元年を、朝鮮の三国で最も古い新羅の建国より前にしている。崇神天皇から允恭天皇までに、歴史(編年)が延長されているのは、このためであると考える。

 

『書紀』に記載された記事のうち、欠史8代と挿入記事を取り除いた記事には、潤色はあるだろうが、伝承されてきた事柄が記載されていると思う。『書紀』に記載された記事を信じるが、編年された年月は信用出来ない。この矛盾を解決する解は、記事と記事の間の空白期間で編年を延長していると考えることだ。空白期間を短くすることだけならば、『書紀』に記載された記事を恣意的に選別することなく、全ての記事を含んだ編年を作成することが出来る。

 

空白期間を調べる作業に取り掛かる。Sheet4のJ列の先頭行に「記事無」の見出しを付け、A列からJ列までをドラッグして、「並び替えフィルター」の「ユーザー設定並び替え」を選択。「先頭行をデータの見出しとして使用」にチェックをいれ、最優先キーに「記事有」を選び、「OK」をクリックする。すると「記事有」が「1」と「0」、そして「スペース(空白)」の3グループに分かれる。「0」と「スペース」のグループの「記事無」のJ列に「1」を書き込み、そのあと最優先キーを「皇紀」、順序を「昇順」にとして並び替える。K列の先頭行に「空白年数1」の見出しを入れ、2行目(皇紀1年)に「0」を書き込み、3行目に「=IF(J3=1,K2+1,0)」の命令をインプットし、それをコピーして最後の行(皇紀1357年)まで貼り付ける。K列をコピーして、どこかの列に値だけ貼り付け、その列を切り取ってK列に貼り付け固定化する。

 

A列からK列までをドラッグして、最優先キーに「皇紀」、順序を「降順」にして並び替えを行う。L列の先頭行に「空白年数2」の見出しを入れ、2行目(皇紀1357年)に「0」を書き込み、3行目に「=IF(J3=1,L2+1,0)」の命令をインプットし、それをコピーして最後の行(皇紀1年)まで貼り付ける。L列をコピーして、どこかの列に値だけ貼り付け、その列を切り取ってL列に貼り付け固定化する。最優先キーに「皇紀」、順序を「昇順」にして並び替えを行う。  

 

M列の先頭行に「空白期間」の見出しを書き込み、2行目に「=K2+L2」の命令をインプットし、コピーして最後の行(皇紀1357年)まで貼り付ける。A列からM列までをドラッグして、最優先キーに「空白期間」で順序「降順」、次に優先キーに「皇紀」で順序「昇順」として並び替えを行う。この作業によって、記事と記事の間の空白年数の大きい順に並ぶことになる。私は、空白の期間が4年以上(M列の値で5以上)は編年を延長している期間であると考えた。M列の値が「5」以上のものを切り取ってSheet6に貼り付ける。

Z220.編年延長の空白期間.png

 
Z219.延長された空白期間.pngheet6のJ列「記事無」の最後に「=SUM(J2:J417)」の命令を入れると416の答えが出て、延長された空白期間の合計が416年であることが分かる。Z219に天皇ごとの延長された空白期間を示す。「欠史8代」の期間が484年間で両者を合わせると、『書紀』が歴史(編年)を延長した年数は、驚くことに丁度900年となる。900年は干支の60で割り切れる値であり、偶然に積み上がった数字ではなく、『書紀』の編纂者が意図的に積み上げた数字であると思う。


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63-6.『書紀』は挿入記事で編年を正当化している [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までが歴史(編年)が延長された時代である。『書紀』は『魏志』倭人伝や『百済記』『百済新撰』『百済本記』から引用した記事を、延長された編年の中に挿入して、延長された編年が正確であるかのように偽装している。その典型が神功39年の「この年太歳己未、魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に倭の女王は・・・」記事である。エクセルSheet2のデータを見れば、神功39年は西暦239年であり、明帝の景初三年は239年である。『書紀』の編年と「魏志倭人伝」の年を一致させ、編年がさも正確であるかのように見せかけている。

 

『魏志』倭人伝を引用している記事は、神功39年のみならず神功40年に「魏志にいう、正始元年・・・」とあり、神功43年には「正始四年・・・」とある。神功40年と正始元年は240年、神功43年と正始四年は243年と一致させている。また、神功66年の記事には「晋の天子の言行を記した起居注に武帝の泰初二年十月、倭の女王が貢献したと記している。」とある。「起居注」は現存しないが、神功66年と泰初二年は両者共266年である。『書紀』は、倭国の女王が登場する「魏志倭人伝」「起居注」の記事を神功紀に挿入し、その女王があたかも神功皇后であるかのように見せかけて、延長した編年を正当化している。

 

神功55年の記事には「百済の肖古王が薨じた。」とある。神功55年はエクセルSheet2のデータを見れば255年である。現存する朝鮮最古の歴史書『三国史記』を見ると、肖古王が薨去したのは375年で、その差は120年である。神功64年の貴須王、神功65年の枕流王、応神3年の辰斯王、応神16年の阿花王、応神25年の直支王、これら百済王の薨去の年は、『書紀』の編年は『三国史記』に記載された百済王の薨去の年より120年遡らせている。『書紀』は干支が同じであることを隠れ蓑にして、延長した編年を正当化している。なお、百済王の名が無くとも肖古王の家来の登場する記事、『百済記』の引用記事も120年遡らせた挿入である。

 

雄略紀には『百済新撰』の引用記事、百済が高麗(高句麗)に滅ぼされた記事、文斤王が薨じて東城王立った記事があり、武烈紀には『百済新撰』の引用記事があり、継体紀には『百済本記』の引用記事、百済の武寧王が薨じ百済の聖明王が即位した記事がある。これらの記事の年代は、『書紀』と『三国史記』に差はない。これらの記事も『書紀』の編年を正当化するために、『百済新撰』『百済本記』に書かれた事柄を引用し、挿入した記事であると考える。

 

応神37年に「阿知使主を呉に遣わして、縫工女を求めさせた。阿知使主は高麗に渡り、高麗王から道案内人を得て、呉に行くことが出来た。呉の王は四人の縫女を与えた。」との記事があり、応神41年には「阿知使主が呉から筑紫についた。宗像大神に兄媛を奉った。これがいま筑紫国の御使君の先祖である。あと3人の縫女を連れて武庫に着いたとき、天皇が崩御されたので、大鷦鷯尊に奉った。」とある。

 

中国で呉の国といえば、三国時代に都を建業(南京)におき、江南の地を治めた呉(222~280年)がよく知られている。書紀の編年では応神37年は306年である。中国で306年頃の王朝は西晋(265~316年)で都は洛陽にあり、呉と呼ばれることはない。応神37年の記事も干支2廻り120年遡らせて挿入しされているとすれば、426年の事となる。南北朝の時代の宋は420年に建国し、都を建業においていた。阿知使主が朝貢した呉国は宋である。『宋書』倭国伝には「元嘉2年(425年)に讃が司馬曹達を遣わし、表を奉りて宝物を献ず.」とある。『書紀』は宋への朝貢を干支2廻り120年遡らせて挿入している。

 

阿知使主が訪れた高麗(高句麗)王は長寿王(413~491年)となる。そうすると、応神28年に「高麗王が使いを遣し、その上表文に高麗の王、日本国に教うとあったので、無礼であるとその表を破り棄てられた。」とある高麗王も長寿王であろう。応神28年(297年)を干支2廻り120年遡らせると417年のことになる。『三国史記』の長寿王元年(413年)に「晋に使者を派遣し、上表文を奉り、白馬を献上した。安帝は王を高句麗王・楽浪郡公に封じた。」とある。高句麗王の上表文に「日本国に教う」とあったのは、晋に朝貢しなさいということであったのだろう。応神28年の記事も挿入記事である。また、応神20年にある「倭漢直の先祖である阿知使主がその子の都使主、並びに十七県の自分のともがらを率いてやってきた。」の記事も挿入記事となる。

 

表Z218にこれらの挿入記事を示した。『書紀』はこれらの記事を延長された編年の中に挿入して、延長された編年がさも正確であるかのように偽装している。延長されていない歴史(編年)を見つけ出すためには、これらの記事を取り除かなければならない。エクセルSheet2のデータをコピーしてSheet4に貼り付ける。皇紀80年の綏靖天皇元年から皇紀563年の開化天皇崩御までを切り取りSheet5に貼り付ける。「欠史8代」が484年間であると確認できる。Sheet4を「皇紀」で並び替え、表Z218で「記事有」が「0」になっている記事については、Sheet4のH列「記事有」の「1」を「0」に変更する。これで『書紀』が延長している年数をあぶり出す準備が整った。

Z218.挿入記事.png

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63-5.欠史8代 の天皇は創作された天皇 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

『書紀』は何故、神武天皇の建国を紀元前660年にしなければならなかったのだろうか。通説では、大和朝廷の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色がないように、日本書紀編纂時に脚色されたとされている。神武天皇に対応する中国の皇帝といえば、約550年にも及ぶ春秋・戦国時代に終止符を打ち、初の統一王朝「秦」を作り上げた秦の始皇帝であろう。秦の始皇帝の治世は紀元前221から210年である。中国の歴史に比べて遜色がないよう脚色するのに、神武天皇の建国を紀元前660年まで遡らせる必要はない。

 

Z216-3.日本書紀の編年.png神武天皇が建国した年が「辛酉」であることから、日本書紀の編者は、元来、年代の伝えていなかった日本の古伝を中国流に形を整えるとき、中国の漢代に流行した「辛酉の年ごとに、中でも21度目の辛酉の年に大いに天の命が改まる。」という思想に基づき、日本史上の大変革というべき神武天皇即位を、推古天皇9年(辛酉:601年)から数えて、1260年前の辛酉の年においたとする辛酉革命説が、明治時代の学者那珂通世氏によって唱えられた。それほどまでに考えて、編者が日本書紀に取り入れた辛酉革命説であるならば、大変革の起こるべき推古9年に、特別な事件が起こっていないのは何故だろうかと疑問が残る。

 

表Z216の中で、29代の欽明天皇を見ると、皇紀は1200年、西暦は540年、干支は庚申となっている。1200は干支の基本数字60で割り切れる数字で、庚申の翌年が辛酉の年にあたる。欽明天皇元年は、『書紀』編年の要となる年となっている。欽明紀の中で特記すべきことは、欽明13年に百済の聖明王から仏教が伝来されたことだ。『書紀』が記載する日本(倭国)の歴史の中で、仏教が伝来し興隆したことは大変革であったと言える。仏教が伝来した頃、仏教を起した釈迦の誕生(諸説あるが紀元前566年頃)が、千百年位前であると伝わっていたと考える。神武天皇は釈迦より昔に我が国を建国した立派な天皇であるとするために、神武元年を欽明元年の1200年前、紀元前660年とする編年が出来たと考える。

 

歴史(編年)が創作された時代の天皇は、皇紀80年の綏靖天皇元年から皇紀563年の開化天皇崩御までの484年間で、「欠史8代」と呼ばれている。なお、古事記にも綏靖天皇から開化天皇までの記載があり、記紀の編纂以前の帝紀・旧辞にも書かれていたと考えられる。帝紀・旧辞の成立について、津田左右吉氏は、古事記の旧辞を出典として考えられる物語の多くが、23代顕宗天皇の御世までであることを理由に、「それらからあまり遠くない時代、しかしその記憶がやや薄らぐくらいの欽明朝頃、6世紀の中頃には一通りまとまっていたのだろう。」と述べている。仏教が伝来した翌年の欽明14年の記事には、内臣を百済に遣わして、勅に「医博士、易博士、暦博士は当番制により交代させよ。」とある。帝紀・旧辞は欽明朝に来日していた百済の暦博士の指導の下に作成され、神武天皇の建国を釈迦誕生以前とする編年が出来上がったと思える。


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63-4.『書紀』の編年は3期に分かれている [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z216-2.日本書紀の編年.png表Z216の記事記載率(記事数/在位)で見ると、安康紀を境に大きく変化していることが分かる。言語学者の森博達氏は、『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、全30巻をα群・β群・巻30に三分した。神武紀から安康紀はβ群に属し、雄略紀から崇峻紀はα群に属している。天文学者の小川清彦氏は、『書紀』に記載された暦日は、神武紀から安康紀までが新しい「儀鳳歴」で書かれ、雄略紀から持統紀までが古い「元嘉歴」で書かれているとしている。記事記載率、言葉と表記(音韻・語彙・語法)、暦日のいずれも、『書紀』は安康紀を境に表記の仕方が異なっている。

 

記事記載率から見ると、1代の神武天皇から9代の開花天皇までの9代の天皇は15%以下(平均9%)で、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までは、成務天皇の12%と履中天皇の100%を除く9代の天皇・皇后では22%~56%(平均36%)、20代の安康天皇から40代の持統天皇までの21代の天皇では72%以上(平均95%)であり、明らかに3期間に分かれている。

 

私は1代の神武天皇から9代の開花天皇までを歴史(編年)が創作された時代、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までが歴史(編年)が延長された時代、20代の安康天皇から40代の持統天皇までは歴史(編年)が史実のまま(潤色はあるが)書かれた時代と考える。なお、神武天皇の記事記載率は8%であるが、磐余彦尊が日向から東征に出発した年に「太歳甲寅」の記載があり、乙卯の年に吉備国に入り、戊午の年に東に向け出発し、己未の年に長髄彦を討伐し、庚申の年に正妃を立てたとある。そして、辛酉の年に橿原宮で即位し神武元年を迎えている。日向出発から即位までの7年間のうち5年間に記事の記載があり、記事掲載率は71%である。神武天皇は実在し、歴史(編年)が延長された天皇であると考える。


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63-3.『書紀』は二倍年暦を採用していない [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z216-1.日本書紀の編年.png『書紀』の編年データのインプットが完了すると、これからはデータを駆使して編年を明らかにし、史実をあぶり出す作業である。Sheet2のI列の先頭行に「記事数」の表題を入れ、各天皇の崩御の年の行のI列に「=COUNT(」と命令を入れ、「記事有」のH列を「崩御」の行から「元年」の行まで上方にドラッグして、Enterキーを押す。すると各天皇紀に記載された記事の数がカウントされる。なお、皇極天皇は「記事数」が「4」と手動入力する。I列をどこかの列に「値」のみ貼り付け、切り取りI列に貼り付け固定化する。

 

Sheet2でA列からI列をドラッグして「並び替えフィルター」の「ユーザー設定並び替え」を選択。「先頭行をデータの見出しとして使用」にチェックをいれ、最優先キーに「元年/崩御」を、次に優先キーに「皇紀」を選び、「OK」をクリックする。各天皇の「元年」と「崩御」の行が選び出されるのでコピーしてSheet3に貼り付ける。Sheet2は優先キーを「皇紀」にして整列し直しておく。Sheet3から表Z216が作成出来る。皇極天皇の在位4年、孝徳天皇の在位10年、天武天皇の在位15年は書き改めておく。

 

天皇の年齢については記載の無い場合でも、皇太子なった時の年号と年齢が記載されている場合があり、年齢が計算出来るようになっている。年齢の列の( )は計算年齢である。表Z216を見ると、年齢が百歳以上の天皇が12名もいる。この年齢が史実であるとは到底考えられない。しかし、魏志倭人伝に倭人の年齢は「百歳あるいは八、九十歳」とあり、文末注に「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」の記述があることから、倭国の歳の勘定は、一年を春と秋とで区切る二倍年暦(1年で2歳)であったとして、『書紀』の編年を考える説が古田武彦氏により提唱され、それに賛同される方も多くいる。

 

Z217.春秋/夏冬同年記載.png四季を2分すると春・夏/秋・冬、あるいは冬・春/夏・秋である。もし『書紀』が二倍年暦を採用していたら、どちらの区分の仕方であっても、1年の間に春(正月・2月・3月)と秋(7月・8月・9月)は共存せず、また夏(4月・5月・6月)と冬(10月・11月・12月)は共存しないはずである。百歳以上の天皇について、同年に春秋・夏冬が記載されているかを調べ、表Z217に示した。『書紀』は同年に春秋・夏冬が多く記載されており、二倍年暦を採用していないこと判る。124代の昭和天皇の在位は62年で、欽明天皇以後では最長の在位年数である。『書紀』が記載する天皇には、昭和天皇よりも長い在位の天皇が8名もいる。年齢からみても、在位期間からみても『書紀』は歴史を延長していることは明らかだ。


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63-2.「日本書紀、全文検索」からデータ抽出 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z214.日本書紀全文検索.pngエクセルに「皇紀」「西暦」「干支」の準備が出来ると、D列「年号」、E列「天皇」、F列「元年/崩御」、G列「年齢」、H列「記事有」の表題を記入する。D列「年号」の2行に数値の「1」を、3行に「=D2+1」とインピットし、これを1358行までコピーしておく。『書紀』は天皇の元年の記事の最後に「太歳○○」と干支が書いてある。天皇の在位年数は天皇崩御の年の年号となる。この「元年の太歳干支」と「天皇崩御の年号」を頼りに編年を行う。ウエブサイトの「日本書紀、全文検索」に入り、表題にある各天皇の巻を呼び出し、先頭にある「このページを検索」に「元年」を書き込み検索する。その後「太歳」「崩」「年」の順に文字を書き込み検索すると、これらの文字に黄色のマークが着く。

 

神武天皇(3巻)では、「元年」のマークを探すと、元年の記事の最後には「太歳○○」が無い。記事先頭に「辛酉年春正月」とあり、干支は「辛酉」と分かる。因みに「太歳○○」の干支は東征出発の年に書かれてある。「崩」のマークは最後の記事にあり、神武天皇が崩御したのは76年であり、年齢は127歳と分かる。E列2行に「神武天皇」と記入し、年号が76年までコピーする。年号1年のF列に「元年」を、年号76年のF列に「崩御」、G列に「127」と記入する。H列「記事有」の記入は「年」のマークを頼りに元年から始める。神武天皇の巻では、「元年、2年、4年、31年、42年、76年」に記事が書かれてあるので、それぞれの年号のH列に「1」を記入する。

 

Z215.書紀のデータ.png綏靖天皇から開花天皇(4巻)では、綏靖天皇の元年の太歳干支は「庚辰」であり、33年に84歳で崩御したことが分かる。神武天皇崩御の4年後の皇紀80年に「庚辰」の干支があるので、その行のD列年号に「1」を記入、E列に「綏靖天皇」と記入し年号33年までコピー、年号1年のF列に「元年」を、年号33年のF列に「崩御」、G列に「84」と記入する。皇紀77・78・79年は空位であることが分かるので、E列の天皇名は「空位」と記入し、D列の年号をスペース(空白)にする。綏靖天皇では、「元年、2年、4年、25年、33年」に記事が書かれてあるので、それぞれの年号のH列に「1」を記入する。4巻では綏靖天皇から開花天皇までの8代の天皇の項目がインプットできる。

 

崇神天皇の5巻から持統天皇の30巻まで、同じ作業を繰り返す。異常事項を下記に列記した。「元年」のマークは通常記事の先頭に出てくるが、神功紀では「是年也、太辛巳、則爲攝政元年」と「元年」が記事の最後に出てくる。雄略天皇の元年太歳の干支が写本の記載ミスの通りの「大丁酉」となっており、検索のマークが着いていない。安康天皇と崇峻天皇は暗殺されたので「崩」マークが出てこないが、データには「崩御」と記入している。

 

『書紀』に登場する天皇で譲位されたのは、皇極天皇と持統天皇である。皇極4年の「乙巳の変」で蘇我氏が滅び、皇極天皇が譲位し孝徳天皇が即位している。孝徳天皇の元年(大化元年)の太歳干支は「乙巳」で、皇極4年と重なっている。データ処理上厄介なので、皇極3年のF列に「譲位」と記入し、皇極天皇の在位は4年間とメモを残しておく。持統天皇の譲位は『書紀』の最後の記事であり、データ処理上問題はない。孝徳天皇では在位の途中に「白雉」と、天武天皇では「朱鳥」に改元が行われている。『書紀』は改元の年の干支を書いていないのが、白雉元年は大化5年の翌年、朱鳥元年は天武14年の翌年と編年する。『書紀』は元号を表示しているため、在位中に改元があった場合は、崩御した年の年号が在位年数を表わさない。孝徳天皇の在位は10年間で、天武天皇の在位は15年間であるとメモを残しておく。

 

天皇の即位は、元年に即位するのが普通であるが、前天皇が崩御した年に即位し、その翌年が元年となっている事例は多くある。また、天智天皇・持統天皇のように称制(即位せず政務を執る)の期間があり、即位が元年より数年遅れることもある。天武紀には元年(28巻)に太歳干支の記載がなく、また「即位」「即天皇位」の言葉も無い。2年(29巻)の記事の最後に「是年也、太癸酉」とある。元年(壬申:672年)は壬申の乱により大海人皇子(天武天皇)が大友皇子(天智天皇の長子)を破り、政権を獲得した年である。天武2年の8月の記事に「天皇、新平天下、初之卽位」とあり、天皇が即位したのは2年のようである。明治3年に大友皇子を弘文天皇と追号したため、天武元年を癸酉(673年)とし、天武天皇の在位を14年間とする年表もあるが、私は『書紀』の記載の通り、天武天皇元年は壬申(672年)としている。

 

各天皇の年号は記事の先頭にあるので分かりやすいが、特に景行紀の日本武尊が能褒野で亡くなった記事では、記事の最後に「是也、天皇踐祚卌三年焉」(天皇が皇位につかれて43年の年なり)とあり、最も見落とし易い年号である。また、記事が短いときは、前年の文章に引き続き書かれているので年号を見落とし勝ちである。允恭10年、仁賢4年・5年、武烈3年・6年、継体18年、欽明28年、敏達8年・9年、舒明7年などがこれらにあたる。データのインプットが終われば、コピーしてSheet2に「値」のみ貼り付ける。ウエブサイトの「日本書紀、全文検索」からデータ抽出する作業は、集中すれば1日、ボチボチすれば3日の作業である。実際に挑戦していただければ、『書紀』が緻密に編年されているのを感じていただけると思う。


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63-1. 『書紀』の歴史(編年)をデジタル化する [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「歴史をデジタル化する」と言うと、歴史資料をコンピューターに載せ、検索システム等が使用出来るようにするとの意味合いに取れるが、私がこれから述べようとするデジタル化は、古墳・飛鳥時代の編年を数値化するという意味合いである。私のモットーは「事実に即して考える」であり、多くの歴史資料をパソコンに取り込み、そのデータから古代の歴史について考えて来た。昨年、パソコンの故障から、バックアップをしていなかったこともあって、多くのデータを失った。特に『日本書紀』の編年、古墳の年代の編年に関するデータの消失は大きな痛手であった。しかし、これらのデータを再現することが出来れば、より進化出来ると、新たな作業に取り掛かった。

 

まず、初めに取り組んだのがエクセルによる『書紀』の編年である。私は、『書紀』は時間軸を引き伸ばしていたり、物語化していたり、誇張があったりして潤色されており、また後世に使われた語句を使用したりしていて、歴史書として信頼されていないが、その根底には史実が書かれていると考えている。その隠れている史実を引き出すために、『書紀』に即してその編年を作成し、「日本書紀は歴史を900年延長している。」という答えを過去に導き出していた。これらの再現が、パソコンソフトの「エクセル」とウエブサイト「日本書紀、全文検索」から容易に出来た。その過程をここに紹介するので、読者の方々が実際に挑戦していただければ幸いである。

 

初めに『書紀』が記した編年を作成する。エクセルの先頭行に見出しをA列「皇紀」、B列「西暦」、C列「干支」と付ける。A列の「皇紀」は2行に数値の「1」を、3行に「=A2+1」とインピットし、これを1358行までコピーする。皇紀1年(元年)は神武天皇が橿原宮で即位した年であり、1357年は持統天皇が皇太子(文武天皇)に譲位した年である。B列の「西暦」は2行に「-660」を、3行に「=B2+1」とインプットし、これを1358行までコピーする。神武天皇の即位は紀元前660年であることはよく知られている。注意することは、皇紀661年が「0」となっているので、「1」を書き込むこと。数学には「0」が存在するが、西暦には「0年」は無く、「-1年」の次の年は「1年」である。持統天皇の譲位は697年である。

 

『書紀』は編年を「干支」で記載しているので、紀元前660年から697年までの全ての年に「干支」を入れなければならない。干支を理解するために、十干と十二支から合成した。エクセルのどこかの列(例えばJ列)に十干の「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」を一文字ずつ10行インプットし、それらを下方に5度コピーする。次にその隣の列(K列)に十二子「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」を一文字ずつ12行インプットし、それらを下方に4度コピーする。十二子の隣(L列)に「=CONCATENATE(J1,K1)」の命令をインプットして干支「甲子」を作る。この命令を下方にコピーすれば60個の干支が出来る。表Z213に干支の一覧表を示している。

神武天皇の即位の干支は後から3番目の「辛酉」であるので、後3つの干支を切り取り、一番の「甲子」の前に挿入する。先頭が「辛酉」で最後が「庚申」の干支の60列をC列「干支」に値のみ貼り付け続けると、持統天皇が譲位した697年の干支は「丁酉」となる。これで、『書紀』の編年の準備が整った。次回にウエブサイト「日本書紀、全文検索」からのデータ抽出について解説する。

Z213.干支.png

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62-5.『書紀』の仏教伝来記事は粟田真人が書いた [62.仏教が伝来したのはいつか?]

奈良時代のはじめ養老4年(720年)に、舎人親王により撰上された『日本書紀』は、日本の最古の正史であるが、『書紀』を実際に執筆した人物は明らかになっていない。『書紀』を科学的に分析されたのが、『日本書紀の謎を解くー述作者は誰がー』(1999年 中公新書)を書かれた森博達氏だ。氏は漢文で書かれている『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、『書紀』30巻をα群・β群・巻30に三分した。α群は唐人が正音・正格漢文で執筆し、β群は倭人が倭音・和化漢文で述作したとしている。因みに、α群は雄略紀から崇峻紀までのB1と、皇極紀から天智紀までのB2に二分され、何故か推古紀・舒明紀がβ群となっている。もちろん、仏教伝来の記事がある欽明紀はα群B1に属している。

 

森博達氏は、α群は持統朝(687~696年)に書かれたとし、述作者を正音・正格漢文が書ける唐人として、α群B1(雄略紀から崇峻紀)の述作者は、660年の唐と百済の戦いで百済の捕虜となり、661年に献上されて来朝し、音博士(漢音による音読法を教える)として朝廷に仕えた唐人の続守言としている。しかし、欽明紀の仏教伝来の記事(α群B1)に引用されてある『金光明最勝王経』が漢訳されたのは、持統朝より後の703年であり、α群B1は持統朝に書かれたとする森博達氏の説は成り立たないと思う。

 

森博達氏・藤井顕孝氏・井上薫氏・皆川完一氏のそれぞれの意見より、『書紀』α群B1の述作者は、『金光明最勝王経』と関わりがあった者で、長期に渡って唐に留学した倭人で正音・正格漢文が書け、そして、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であるとすることができる。道慈は「後に還俗した人」の条件以外は、これらの条件を満足する。『金光明最勝王経』を持ち帰ったのは、養老2年(718年)12月に遣唐使船で帰国した道慈であると唱え、『書紀』の仏教関係の記事の述作に道慈が関わったと考えるもが通説となっている。『金光明最勝王経』と関係あるα群B1は、雄略紀から崇峻紀であり、その間には12代の天皇が在位しており、道慈が帰国後1年5ヶ月で、それらの全てを述作したと考えるには無理がある。また、森博達氏の言われる唐人の続守言が持統朝(687~696年)に書いたものを、道慈が帰国後仏教関係の記事を書き直したとするのも考え難い。

 

粟田真人はα群B1の述作者としての条件を全てクリアーしている。白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修めた。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下の位を授かり、大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として唐に渡っている。遣唐使執節使として出向いた唐で、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し」と言わせたことからしても、唐人と同等の正音・正格漢文が書けたと思われる。粟田真人が704年に『金光明最勝王経』を持ち帰ってから、『書紀』の完成までに17年間もあり、『書紀』のα群B1の述作者は粟田真人であると考える。

 

粟田真人が亡くなったのは、『日本書紀』が舎人親王により撰上される1年3ヶ月前の養老3年(719年)2月5日である。本来、推古紀・舒明紀は粟田真人が書く予定であったが、天武紀を書いた紀清人が代りに記述した。α群は雄略紀から崇峻紀までのB1と、皇極紀から天智紀までのB2に二分され、何故か推古紀・舒明紀がβ群となっているのはこのためである。なお、α群B2は粟田真人がα群B1より先に書いたか、森博達氏がα群の述作者とする唐人の薩弘恪あるいは続守言かもしれない。

 

仏教伝来において、聖明王が「仏を広く礼拝する功徳」をのべた『書紀』の原史料には、曇無讖が421年頃漢訳した『金光明経』の初めの部分が書かれてあったと想像する。

「是金光明 諸經之王 若有聞者 則能思惟 無上微妙 甚深之義」

『金光明経』の「是金光明 諸經之王」(これ金光明経は 諸經の王であり)と、『金光明最勝王経』の「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝。」(金光明最勝王経は諸経の中で最も優れたものである。)とは同じことを言っており、粟田真人は唐から持ち帰った『金光明最勝王経』を引用しながら、欽明13年の仏教伝来の記事を述作した。粟田真人は仏教の有難味を表現するために『金光明最勝王経』を引用しただけの話であり、歴史を捏造したわけではない。仏教伝来は『書紀』の通り、欽明13年(552年)に百済の聖明王から伝えられたと考える。


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62-4.『金光明最勝王経』は粟田真人が持ち帰った [62.仏教が伝来したのはいつか?]

『日本書紀』の欽明13年の仏教伝来の記事が、後世の捏造であるとされ信頼されないのは、仏を広く礼拝する功徳をのべた文章が、当時存在していなかった『金光明最勝王経』(唐の義浄が長安3年、703年に漢訳)をもとに記述されているからである。『書紀』の仏教伝来の記事が、『金光明最勝王経』をもとに記述されていることは、明治時代から明らかにされている。大正14年に「欽明紀の仏教伝来の記事について」を発表した藤井顕孝氏は、『金光明最勝王経』が日本へ伝来した機会は3回あるとした。

 1)慶雲元年(704年)7月、遣唐使執節使粟田真人の帰国

  2)慶雲4年(707年)5月、学問僧義法・義基等が新羅より帰国

  3)養老2年(718年)12月、道慈が遣唐使とともに帰国

井上薫氏はこれら一つ一つを吟味して、昭和18年に発表した「日本書紀仏教伝来記載考」で、義浄が漢訳した『金光明最勝王経』を日本にもたらしたのは、養老2年(718年)12月に遣唐使船で帰国した道慈であると唱え、それ以後この説が定説化され、『書紀』の仏教関係の記事の述作に道慈が関わったと考えられるようになった。

 

近年「道慈と『日本書紀』」の論文を発表した皆川完一氏は、道慈が『金光明最勝王経』を日本にもたらしたという直接的史料はなく、状況証拠による推論である。大宝律令制定以後は、政務に関わるには官人でなければならず、僧侶の道慈が政務の一環である『書紀』の編纂に参画するようなことはありうるはずはないと述べている。そして、『金光明最勝王経』その他の仏典を用いて『書紀』の文を述作した人物は、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であるとして、粟田真人と山田史御方をあげ、山田史御方を一押している。

 

山田史御方は学問僧として新羅に留学していたが、『金光明最勝王経』に関係あるのだろうか。『三国史記』新羅本紀によると、聖徳王2年(703年)に、日本国から総勢204人の使者が来た。同3年(704年)3月、入唐していた金思譲が帰国し『金光明最勝王経』を献上したとある。続日本紀にも703年の遣新羅使のことは記載されており、この一行に山田史御方が居たとすれば、帰国は学問僧義法・義基等と同じ慶雲4年(707年)5月となり、『金光明最勝王経』を写経し、新羅より持ち帰ったことの可能性は十分ある。しかし、『続日本紀』の慶雲4年(707年)4月に、「賜正六位下山田史御方布鍬塩穀。優學士也。」とあり、慶雲4年(707年)5月に帰国した船には、乗船していなかったことが分かる。山田史御方は『金光明最勝王経』を新羅より持ち帰ってはいないと考える。

 

粟田真人は白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修めた。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下の位を授かっている。大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として出国し、10月には唐の朝廷に宝物を献じている。この船に、道慈も乗船していた。『宋史』日本伝には、「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ、律師道慈に経を求めしむ」とある。粟田真人・道慈が唐に到着した翌年の長安3年(703年)10月に、義浄が『金光明最勝王経』を完成している。

 

『書紀』には、宮中や諸寺で『金光明経』を読むことが、天武朝で2回、持統朝で4回行われたと記載してある。『続日本紀』には、大宝3年(703年)7月に、「四大寺に金光明経を読む令」が発せられている。『金光明経』は「護国経典」として尊重され、経典を宮中や諸寺で読むことが行われていた。粟田真人は朝廷の中枢にいて、「護国経典」としての『金光明経』を理解していたと思われる。なお、これらの『金光明経』は、曇無讖が421年頃漢訳した経典であろう。

 

粟田真人は遣唐使執節使として書籍を持ち帰る任務を持っていたこと、過去に遣唐使船に留学僧として随行し唐で学問を修め、帰国後還俗して朝廷に仕えていたこと、宮中で曇無讖が漢訳した『金光明経』を読み合わせていたことを考えると、『金光明最勝王経』が義浄により漢訳されたという情報を長安において得たならば、その経典を持ち帰ろうとしたのは当然のことである。703年10月に完成した『金光明最勝王経』を、新羅の金思譲が704年3月に新羅に持ち帰っていることからすると、702年10月から長安にいて、704年7月に帰国した粟田真人が『金光明最勝王経』を持ち帰ることは可能である。粟田真人が『金光明最勝王経』を日本に持帰ったと考える。

 


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62-3.仏教の伝来は『書紀』が記す552年 [62.仏教が伝来したのはいつか?]

仏経伝来の年は『書紀』に書かれた壬申の年(552年)か、『法王帝説』に書かれた戊午の年(538年)かを明確にするために、両者の編年に注目した。聖徳太子の薨日については、『書紀』は推古29年(辛巳:621年)2月5日としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘は、推古30年(壬午:622年)2月22日となっている。「59-13.聖徳太子の命日を解く」で記したように、『書紀』は、聖徳太子と仏法の師僧恵慈の関係を物語化するために、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われており、聖徳太子の薨日は、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘に記された、推古30年(壬午:622年)2月22日が正しいと考える。

 

聖徳太子誕生の年については『書紀』に記載はないが、推古元年に「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とされ、国政をすべて任された。太子は用明天皇の第二子で、母は穴穂部間人皇女である。皇后は御出産の日に宮中をご視察され、馬司のところで厩の戸にあたられ、難なく出産された。」とある。聖徳太子が「厩戸(うまやと)」皇子と呼ばれていたのはこの故事によっている。聖徳太子誕生の年が「甲午」の年とする『法王帝説』に疑問が残る。

 

Z211.法王帝説と日本書紀.png

 

表Z211に欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の崩御の年について、『法王帝説』と『書紀』に記載された年を比較した。5代の天皇の崩御の年が全て一致している。また、表Z212に『法王帝説』と『書紀』に記載された仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の4項目について、それぞれの年の干支を示した。仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の年が二つの書で全て異なっているのは不自然である。表を見て気がつくことは、『法王帝説』の仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の4項目の干支が全て「午」の年となっていることである。『法王帝説』は、仏教の興隆を聖徳太子が成したとするために、聖徳太子の薨去が「壬午」の年であることから、聖徳太子の勝鬘経講話と誕生、そして仏教伝来の全てを、聖徳太子に関わりのある「午」の年に捏造したのではないかと思える。

 

『三国史記』百済本紀によると、聖王19年(541年)に「王は使者を梁に派遣し、毛詩博士、涅槃などの経義、ならびに工匠・画師などを要請し、梁はこれを許した。」とある。このことは『梁書』百済記に記載されている。百済の聖明王が欽明天皇に献上した経論はこの時に入手したものであろう。仏教伝来は『書紀』にある欽明13年(552年)壬申の年で、蘇我稲目・蘇我馬子・聖徳太子が我が国に仏教を根付かせる基盤を作ったと考える。

 


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