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63-4.『書紀』の編年は3期に分かれている [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z216-2.日本書紀の編年.png表Z216の記事記載率(記事数/在位)で見ると、安康紀を境に大きく変化していることが分かる。言語学者の森博達氏は、『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、全30巻をα群・β群・巻30に三分した。神武紀から安康紀はβ群に属し、雄略紀から崇峻紀はα群に属している。天文学者の小川清彦氏は、『書紀』に記載された暦日は、神武紀から安康紀までが新しい「儀鳳歴」で書かれ、雄略紀から持統紀までが古い「元嘉歴」で書かれているとしている。記事記載率、言葉と表記(音韻・語彙・語法)、暦日のいずれも、『書紀』は安康紀を境に表記の仕方が異なっている。

 

記事記載率から見ると、1代の神武天皇から9代の開花天皇までの9代の天皇は15%以下(平均9%)で、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までは、成務天皇の12%と履中天皇の100%を除く9代の天皇・皇后では22%~56%(平均36%)、20代の安康天皇から40代の持統天皇までの21代の天皇では72%以上(平均95%)であり、明らかに3期間に分かれている。

 

私は1代の神武天皇から9代の開花天皇までを歴史(編年)が創作された時代、10代の崇神天皇から19代の允恭天皇までが歴史(編年)が延長された時代、20代の安康天皇から40代の持統天皇までは歴史(編年)が史実のまま(潤色はあるが)書かれた時代と考える。なお、神武天皇の記事記載率は8%であるが、磐余彦尊が日向から東征に出発した年に「太歳甲寅」の記載があり、乙卯の年に吉備国に入り、戊午の年に東に向け出発し、己未の年に長髄彦を討伐し、庚申の年に正妃を立てたとある。そして、辛酉の年に橿原宮で即位し神武元年を迎えている。日向出発から即位までの7年間のうち5年間に記事の記載があり、記事掲載率は71%である。神武天皇は実在し、歴史(編年)が延長された天皇であると考える。


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63-3.『書紀』は二倍年暦を採用していない [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z216-1.日本書紀の編年.png『書紀』の編年データのインプットが完了すると、これからはデータを駆使して編年を明らかにし、史実をあぶり出す作業である。Sheet2のI列の先頭行に「記事数」の表題を入れ、各天皇の崩御の年の行のI列に「=COUNT(」と命令を入れ、「記事有」のH列を「崩御」の行から「元年」の行まで上方にドラッグして、Enterキーを押す。すると各天皇紀に記載された記事の数がカウントされる。なお、皇極天皇は「記事数」が「4」と手動入力する。I列をどこかの列に「値」のみ貼り付け、切り取りI列に貼り付け固定化する。

 

Sheet2でA列からI列をドラッグして「並び替えフィルター」の「ユーザー設定並び替え」を選択。「先頭行をデータの見出しとして使用」にチェックをいれ、最優先キーに「元年/崩御」を、次に優先キーに「皇紀」を選び、「OK」をクリックする。各天皇の「元年」と「崩御」の行が選び出されるのでコピーしてSheet3に貼り付ける。Sheet2は優先キーを「皇紀」にして整列し直しておく。Sheet3から表Z216が作成出来る。皇極天皇の在位4年、孝徳天皇の在位10年、天武天皇の在位15年は書き改めておく。

 

天皇の年齢については記載の無い場合でも、皇太子なった時の年号と年齢が記載されている場合があり、年齢が計算出来るようになっている。年齢の列の( )は計算年齢である。表Z216を見ると、年齢が百歳以上の天皇が12名もいる。この年齢が史実であるとは到底考えられない。しかし、魏志倭人伝に倭人の年齢は「百歳あるいは八、九十歳」とあり、文末注に「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」の記述があることから、倭国の歳の勘定は、一年を春と秋とで区切る二倍年暦(1年で2歳)であったとして、『書紀』の編年を考える説が古田武彦氏により提唱され、それに賛同される方も多くいる。

 

Z217.春秋/夏冬同年記載.png四季を2分すると春・夏/秋・冬、あるいは冬・春/夏・秋である。もし『書紀』が二倍年暦を採用していたら、どちらの区分の仕方であっても、1年の間に春(正月・2月・3月)と秋(7月・8月・9月)は共存せず、また夏(4月・5月・6月)と冬(10月・11月・12月)は共存しないはずである。百歳以上の天皇について、同年に春秋・夏冬が記載されているかを調べ、表Z217に示した。『書紀』は同年に春秋・夏冬が多く記載されており、二倍年暦を採用していないこと判る。124代の昭和天皇の在位は62年で、欽明天皇以後では最長の在位年数である。『書紀』が記載する天皇には、昭和天皇よりも長い在位の天皇が8名もいる。年齢からみても、在位期間からみても『書紀』は歴史を延長していることは明らかだ。


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63-2.「日本書紀、全文検索」からデータ抽出 [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

Z214.日本書紀全文検索.pngエクセルに「皇紀」「西暦」「干支」の準備が出来ると、D列「年号」、E列「天皇」、F列「元年/崩御」、G列「年齢」、H列「記事有」の表題を記入する。D列「年号」の2行に数値の「1」を、3行に「=D2+1」とインピットし、これを1358行までコピーしておく。『書紀』は天皇の元年の記事の最後に「太歳○○」と干支が書いてある。天皇の在位年数は天皇崩御の年の年号となる。この「元年の太歳干支」と「天皇崩御の年号」を頼りに編年を行う。ウエブサイトの「日本書紀、全文検索」に入り、表題にある各天皇の巻を呼び出し、先頭にある「このページを検索」に「元年」を書き込み検索する。その後「太歳」「崩」「年」の順に文字を書き込み検索すると、これらの文字に黄色のマークが着く。

 

神武天皇(3巻)では、「元年」のマークを探すと、元年の記事の最後には「太歳○○」が無い。記事先頭に「辛酉年春正月」とあり、干支は「辛酉」と分かる。因みに「太歳○○」の干支は東征出発の年に書かれてある。「崩」のマークは最後の記事にあり、神武天皇が崩御したのは76年であり、年齢は127歳と分かる。E列2行に「神武天皇」と記入し、年号が76年までコピーする。年号1年のF列に「元年」を、年号76年のF列に「崩御」、G列に「127」と記入する。H列「記事有」の記入は「年」のマークを頼りに元年から始める。神武天皇の巻では、「元年、2年、4年、31年、42年、76年」に記事が書かれてあるので、それぞれの年号のH列に「1」を記入する。

 

Z215.書紀のデータ.png綏靖天皇から開花天皇(4巻)では、綏靖天皇の元年の太歳干支は「庚辰」であり、33年に84歳で崩御したことが分かる。神武天皇崩御の4年後の皇紀80年に「庚辰」の干支があるので、その行のD列年号に「1」を記入、E列に「綏靖天皇」と記入し年号33年までコピー、年号1年のF列に「元年」を、年号33年のF列に「崩御」、G列に「84」と記入する。皇紀77・78・79年は空位であることが分かるので、E列の天皇名は「空位」と記入し、D列の年号をスペース(空白)にする。綏靖天皇では、「元年、2年、4年、25年、33年」に記事が書かれてあるので、それぞれの年号のH列に「1」を記入する。4巻では綏靖天皇から開花天皇までの8代の天皇の項目がインプットできる。

 

崇神天皇の5巻から持統天皇の30巻まで、同じ作業を繰り返す。異常事項を下記に列記した。「元年」のマークは通常記事の先頭に出てくるが、神功紀では「是年也、太辛巳、則爲攝政元年」と「元年」が記事の最後に出てくる。雄略天皇の元年太歳の干支が写本の記載ミスの通りの「大丁酉」となっており、検索のマークが着いていない。安康天皇と崇峻天皇は暗殺されたので「崩」マークが出てこないが、データには「崩御」と記入している。

 

『書紀』に登場する天皇で譲位されたのは、皇極天皇と持統天皇である。皇極4年の「乙巳の変」で蘇我氏が滅び、皇極天皇が譲位し孝徳天皇が即位している。孝徳天皇の元年(大化元年)の太歳干支は「乙巳」で、皇極4年と重なっている。データ処理上厄介なので、皇極3年のF列に「譲位」と記入し、皇極天皇の在位は4年間とメモを残しておく。持統天皇の譲位は『書紀』の最後の記事であり、データ処理上問題はない。孝徳天皇では在位の途中に「白雉」と、天武天皇では「朱鳥」に改元が行われている。『書紀』は改元の年の干支を書いていないのが、白雉元年は大化5年の翌年、朱鳥元年は天武14年の翌年と編年する。『書紀』は元号を表示しているため、在位中に改元があった場合は、崩御した年の年号が在位年数を表わさない。孝徳天皇の在位は10年間で、天武天皇の在位は15年間であるとメモを残しておく。

 

天皇の即位は、元年に即位するのが普通であるが、前天皇が崩御した年に即位し、その翌年が元年となっている事例は多くある。また、天智天皇・持統天皇のように称制(即位せず政務を執る)の期間があり、即位が元年より数年遅れることもある。天武紀には元年(28巻)に太歳干支の記載がなく、また「即位」「即天皇位」の言葉も無い。2年(29巻)の記事の最後に「是年也、太癸酉」とある。元年(壬申:672年)は壬申の乱により大海人皇子(天武天皇)が大友皇子(天智天皇の長子)を破り、政権を獲得した年である。天武2年の8月の記事に「天皇、新平天下、初之卽位」とあり、天皇が即位したのは2年のようである。明治3年に大友皇子を弘文天皇と追号したため、天武元年を癸酉(673年)とし、天武天皇の在位を14年間とする年表もあるが、私は『書紀』の記載の通り、天武天皇元年は壬申(672年)としている。

 

各天皇の年号は記事の先頭にあるので分かりやすいが、特に景行紀の日本武尊が能褒野で亡くなった記事では、記事の最後に「是也、天皇踐祚卌三年焉」(天皇が皇位につかれて43年の年なり)とあり、最も見落とし易い年号である。また、記事が短いときは、前年の文章に引き続き書かれているので年号を見落とし勝ちである。允恭10年、仁賢4年・5年、武烈3年・6年、継体18年、欽明28年、敏達8年・9年、舒明7年などがこれらにあたる。データのインプットが終われば、コピーしてSheet2に「値」のみ貼り付ける。ウエブサイトの「日本書紀、全文検索」からデータ抽出する作業は、集中すれば1日、ボチボチすれば3日の作業である。実際に挑戦していただければ、『書紀』が緻密に編年されているのを感じていただけると思う。


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63-1. 『書紀』の歴史(編年)をデジタル化する [63.『日本書紀』の編年をエクセルで作る]

「歴史をデジタル化する」と言うと、歴史資料をコンピューターに載せ、検索システム等が使用出来るようにするとの意味合いに取れるが、私がこれから述べようとするデジタル化は、古墳・飛鳥時代の編年を数値化するという意味合いである。私のモットーは「事実に即して考える」であり、多くの歴史資料をパソコンに取り込み、そのデータから古代の歴史について考えて来た。昨年、パソコンの故障から、バックアップをしていなかったこともあって、多くのデータを失った。特に『日本書紀』の編年、古墳の年代の編年に関するデータの消失は大きな痛手であった。しかし、これらのデータを再現することが出来れば、より進化出来ると、新たな作業に取り掛かった。

 

まず、初めに取り組んだのがエクセルによる『書紀』の編年である。私は、『書紀』は時間軸を引き伸ばしていたり、物語化していたり、誇張があったりして潤色されており、また後世に使われた語句を使用したりしていて、歴史書として信頼されていないが、その根底には史実が書かれていると考えている。その隠れている史実を引き出すために、『書紀』に即してその編年を作成し、「日本書紀は歴史を900年延長している。」という答えを過去に導き出していた。これらの再現が、パソコンソフトの「エクセル」とウエブサイト「日本書紀、全文検索」から容易に出来た。その過程をここに紹介するので、読者の方々が実際に挑戦していただければ幸いである。

 

初めに『書紀』が記した編年を作成する。エクセルの先頭行に見出しをA列「皇紀」、B列「西暦」、C列「干支」と付ける。A列の「皇紀」は2行に数値の「1」を、3行に「=A2+1」とインピットし、これを1358行までコピーする。皇紀1年(元年)は神武天皇が橿原宮で即位した年であり、1357年は持統天皇が皇太子(文武天皇)に譲位した年である。B列の「西暦」は2行に「-660」を、3行に「=B2+1」とインプットし、これを1358行までコピーする。神武天皇の即位は紀元前660年であることはよく知られている。注意することは、皇紀661年が「0」となっているので、「1」を書き込むこと。数学には「0」が存在するが、西暦には「0年」は無く、「-1年」の次の年は「1年」である。持統天皇の譲位は697年である。

 

『書紀』は編年を「干支」で記載しているので、紀元前660年から697年までの全ての年に「干支」を入れなければならない。干支を理解するために、十干と十二支から合成した。エクセルのどこかの列(例えばJ列)に十干の「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」を一文字ずつ10行インプットし、それらを下方に5度コピーする。次にその隣の列(K列)に十二子「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」を一文字ずつ12行インプットし、それらを下方に4度コピーする。十二子の隣(L列)に「=CONCATENATE(J1,K1)」の命令をインプットして干支「甲子」を作る。この命令を下方にコピーすれば60個の干支が出来る。表Z213に干支の一覧表を示している。

神武天皇の即位の干支は後から3番目の「辛酉」であるので、後3つの干支を切り取り、一番の「甲子」の前に挿入する。先頭が「辛酉」で最後が「庚申」の干支の60列をC列「干支」に値のみ貼り付け続けると、持統天皇が譲位した697年の干支は「丁酉」となる。これで、『書紀』の編年の準備が整った。次回にウエブサイト「日本書紀、全文検索」からのデータ抽出について解説する。

Z213.干支.png

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62-5.『書紀』の仏教伝来記事は粟田真人が書いた [62.仏教が伝来したのはいつか?]

奈良時代のはじめ養老4年(720年)に、舎人親王により撰上された『日本書紀』は、日本の最古の正史であるが、『書紀』を実際に執筆した人物は明らかになっていない。『書紀』を科学的に分析されたのが、『日本書紀の謎を解くー述作者は誰がー』(1999年 中公新書)を書かれた森博達氏だ。氏は漢文で書かれている『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、『書紀』30巻をα群・β群・巻30に三分した。α群は唐人が正音・正格漢文で執筆し、β群は倭人が倭音・和化漢文で述作したとしている。因みに、α群は雄略紀から崇峻紀までのB1と、皇極紀から天智紀までのB2に二分され、何故か推古紀・舒明紀がβ群となっている。もちろん、仏教伝来の記事がある欽明紀はα群B1に属している。

 

森博達氏は、α群は持統朝(687~696年)に書かれたとし、述作者を正音・正格漢文が書ける唐人として、α群B1(雄略紀から崇峻紀)の述作者は、660年の唐と百済の戦いで百済の捕虜となり、661年に献上されて来朝し、音博士(漢音による音読法を教える)として朝廷に仕えた唐人の続守言としている。しかし、欽明紀の仏教伝来の記事(α群B1)に引用されてある『金光明最勝王経』が漢訳されたのは、持統朝より後の703年であり、α群B1は持統朝に書かれたとする森博達氏の説は成り立たないと思う。

 

森博達氏・藤井顕孝氏・井上薫氏・皆川完一氏のそれぞれの意見より、『書紀』α群B1の述作者は、『金光明最勝王経』と関わりがあった者で、長期に渡って唐に留学した倭人で正音・正格漢文が書け、そして、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であるとすることができる。道慈は「後に還俗した人」の条件以外は、これらの条件を満足する。『金光明最勝王経』を持ち帰ったのは、養老2年(718年)12月に遣唐使船で帰国した道慈であると唱え、『書紀』の仏教関係の記事の述作に道慈が関わったと考えるもが通説となっている。『金光明最勝王経』と関係あるα群B1は、雄略紀から崇峻紀であり、その間には12代の天皇が在位しており、道慈が帰国後1年5ヶ月で、それらの全てを述作したと考えるには無理がある。また、森博達氏の言われる唐人の続守言が持統朝(687~696年)に書いたものを、道慈が帰国後仏教関係の記事を書き直したとするのも考え難い。

 

粟田真人はα群B1の述作者としての条件を全てクリアーしている。白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修めた。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下の位を授かり、大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として唐に渡っている。遣唐使執節使として出向いた唐で、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し」と言わせたことからしても、唐人と同等の正音・正格漢文が書けたと思われる。粟田真人が704年に『金光明最勝王経』を持ち帰ってから、『書紀』の完成までに17年間もあり、『書紀』のα群B1の述作者は粟田真人であると考える。

 

粟田真人が亡くなったのは、『日本書紀』が舎人親王により撰上される1年3ヶ月前の養老3年(719年)2月5日である。本来、推古紀・舒明紀は粟田真人が書く予定であったが、天武紀を書いた紀清人が代りに記述した。α群は雄略紀から崇峻紀までのB1と、皇極紀から天智紀までのB2に二分され、何故か推古紀・舒明紀がβ群となっているのはこのためである。なお、α群B2は粟田真人がα群B1より先に書いたか、森博達氏がα群の述作者とする唐人の薩弘恪あるいは続守言かもしれない。

 

仏教伝来において、聖明王が「仏を広く礼拝する功徳」をのべた『書紀』の原史料には、曇無讖が421年頃漢訳した『金光明経』の初めの部分が書かれてあったと想像する。

「是金光明 諸經之王 若有聞者 則能思惟 無上微妙 甚深之義」

『金光明経』の「是金光明 諸經之王」(これ金光明経は 諸經の王であり)と、『金光明最勝王経』の「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝。」(金光明最勝王経は諸経の中で最も優れたものである。)とは同じことを言っており、粟田真人は唐から持ち帰った『金光明最勝王経』を引用しながら、欽明13年の仏教伝来の記事を述作した。粟田真人は仏教の有難味を表現するために『金光明最勝王経』を引用しただけの話であり、歴史を捏造したわけではない。仏教伝来は『書紀』の通り、欽明13年(552年)に百済の聖明王から伝えられたと考える。


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62-4.『金光明最勝王経』は粟田真人が持ち帰った [62.仏教が伝来したのはいつか?]

『日本書紀』の欽明13年の仏教伝来の記事が、後世の捏造であるとされ信頼されないのは、仏を広く礼拝する功徳をのべた文章が、当時存在していなかった『金光明最勝王経』(唐の義浄が長安3年、703年に漢訳)をもとに記述されているからである。『書紀』の仏教伝来の記事が、『金光明最勝王経』をもとに記述されていることは、明治時代から明らかにされている。大正14年に「欽明紀の仏教伝来の記事について」を発表した藤井顕孝氏は、『金光明最勝王経』が日本へ伝来した機会は3回あるとした。

 1)慶雲元年(704年)7月、遣唐使執節使粟田真人の帰国

  2)慶雲4年(707年)5月、学問僧義法・義基等が新羅より帰国

  3)養老2年(718年)12月、道慈が遣唐使とともに帰国

井上薫氏はこれら一つ一つを吟味して、昭和18年に発表した「日本書紀仏教伝来記載考」で、義浄が漢訳した『金光明最勝王経』を日本にもたらしたのは、養老2年(718年)12月に遣唐使船で帰国した道慈であると唱え、それ以後この説が定説化され、『書紀』の仏教関係の記事の述作に道慈が関わったと考えられるようになった。

 

近年「道慈と『日本書紀』」の論文を発表した皆川完一氏は、道慈が『金光明最勝王経』を日本にもたらしたという直接的史料はなく、状況証拠による推論である。大宝律令制定以後は、政務に関わるには官人でなければならず、僧侶の道慈が政務の一環である『書紀』の編纂に参画するようなことはありうるはずはないと述べている。そして、『金光明最勝王経』その他の仏典を用いて『書紀』の文を述作した人物は、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であるとして、粟田真人と山田史御方をあげ、山田史御方を一押している。

 

山田史御方は学問僧として新羅に留学していたが、『金光明最勝王経』に関係あるのだろうか。『三国史記』新羅本紀によると、聖徳王2年(703年)に、日本国から総勢204人の使者が来た。同3年(704年)3月、入唐していた金思譲が帰国し『金光明最勝王経』を献上したとある。続日本紀にも703年の遣新羅使のことは記載されており、この一行に山田史御方が居たとすれば、帰国は学問僧義法・義基等と同じ慶雲4年(707年)5月となり、『金光明最勝王経』を写経し、新羅より持ち帰ったことの可能性は十分ある。しかし、『続日本紀』の慶雲4年(707年)4月に、「賜正六位下山田史御方布鍬塩穀。優學士也。」とあり、慶雲4年(707年)5月に帰国した船には、乗船していなかったことが分かる。山田史御方は『金光明最勝王経』を新羅より持ち帰ってはいないと考える。

 

粟田真人は白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修めた。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下の位を授かっている。大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として出国し、10月には唐の朝廷に宝物を献じている。この船に、道慈も乗船していた。『宋史』日本伝には、「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ、律師道慈に経を求めしむ」とある。粟田真人・道慈が唐に到着した翌年の長安3年(703年)10月に、義浄が『金光明最勝王経』を完成している。

 

『書紀』には、宮中や諸寺で『金光明経』を読むことが、天武朝で2回、持統朝で4回行われたと記載してある。『続日本紀』には、大宝3年(703年)7月に、「四大寺に金光明経を読む令」が発せられている。『金光明経』は「護国経典」として尊重され、経典を宮中や諸寺で読むことが行われていた。粟田真人は朝廷の中枢にいて、「護国経典」としての『金光明経』を理解していたと思われる。なお、これらの『金光明経』は、曇無讖が421年頃漢訳した経典であろう。

 

粟田真人は遣唐使執節使として書籍を持ち帰る任務を持っていたこと、過去に遣唐使船に留学僧として随行し唐で学問を修め、帰国後還俗して朝廷に仕えていたこと、宮中で曇無讖が漢訳した『金光明経』を読み合わせていたことを考えると、『金光明最勝王経』が義浄により漢訳されたという情報を長安において得たならば、その経典を持ち帰ろうとしたのは当然のことである。703年10月に完成した『金光明最勝王経』を、新羅の金思譲が704年3月に新羅に持ち帰っていることからすると、702年10月から長安にいて、704年7月に帰国した粟田真人が『金光明最勝王経』を持ち帰ることは可能である。粟田真人が『金光明最勝王経』を日本に持帰ったと考える。

 


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62-3.仏教の伝来は『書紀』が記す552年 [62.仏教が伝来したのはいつか?]

仏経伝来の年は『書紀』に書かれた壬申の年(552年)か、『法王帝説』に書かれた戊午の年(538年)かを明確にするために、両者の編年に注目した。聖徳太子の薨日については、『書紀』は推古29年(辛巳:621年)2月5日としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘は、推古30年(壬午:622年)2月22日となっている。「59-13.聖徳太子の命日を解く」で記したように、『書紀』は、聖徳太子と仏法の師僧恵慈の関係を物語化するために、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われており、聖徳太子の薨日は、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘に記された、推古30年(壬午:622年)2月22日が正しいと考える。

 

聖徳太子誕生の年については『書紀』に記載はないが、推古元年に「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とされ、国政をすべて任された。太子は用明天皇の第二子で、母は穴穂部間人皇女である。皇后は御出産の日に宮中をご視察され、馬司のところで厩の戸にあたられ、難なく出産された。」とある。聖徳太子が「厩戸(うまやと)」皇子と呼ばれていたのはこの故事によっている。聖徳太子誕生の年が「甲午」の年とする『法王帝説』に疑問が残る。

 

Z211.法王帝説と日本書紀.png

 

表Z211に欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の崩御の年について、『法王帝説』と『書紀』に記載された年を比較した。5代の天皇の崩御の年が全て一致している。また、表Z212に『法王帝説』と『書紀』に記載された仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の4項目について、それぞれの年の干支を示した。仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の年が二つの書で全て異なっているのは不自然である。表を見て気がつくことは、『法王帝説』の仏教公伝・聖徳太子誕生・勝鬘経講話・聖徳太子薨去の4項目の干支が全て「午」の年となっていることである。『法王帝説』は、仏教の興隆を聖徳太子が成したとするために、聖徳太子の薨去が「壬午」の年であることから、聖徳太子の勝鬘経講話と誕生、そして仏教伝来の全てを、聖徳太子に関わりのある「午」の年に捏造したのではないかと思える。

 

『三国史記』百済本紀によると、聖王19年(541年)に「王は使者を梁に派遣し、毛詩博士、涅槃などの経義、ならびに工匠・画師などを要請し、梁はこれを許した。」とある。このことは『梁書』百済記に記載されている。百済の聖明王が欽明天皇に献上した経論はこの時に入手したものであろう。仏教伝来は『書紀』にある欽明13年(552年)壬申の年で、蘇我稲目・蘇我馬子・聖徳太子が我が国に仏教を根付かせる基盤を作ったと考える。

 


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62-2.仏教伝来538年の源は『法王帝説』 [62.仏教が伝来したのはいつか?]

仏教伝来を戊午の年(538年)とする『元興寺縁起』と『法王帝説』の史料としての信頼性を検討する。『元興寺縁起』の原文・訳文を読んでいくと、奇妙に思える文章が何ヶ所も出てくる。まずは冒頭に、「桜井豊浦宮で天下を治められた豊御食炊屋姫命(推古天皇)が生まれてから百年目の癸酉(613年)正月九日に、聖徳太子が天皇の勅を受けて、元興寺等の本縁及び推古天皇の発願を記したものである。」とある。また後半にも、「大々王天皇(推古天皇)が天下を治められたとき、天皇がお生まれになってから百年目の癸酉の年(613年)の春正月元旦に、善事を仰せになった。同日、聡耳皇子が申された。今、我らが天朝の生年を数えると、まさに百の位に達し、・・・」と、同じことが書いてある。推古天皇が百歳以上であったことに疑念が残る。

 

それでは『元興寺縁起』の年代はデタラメかと言えば、そうでもない。欽明天皇の崩御は辛夘の年(571年)、敏達天皇の崩御は乙巳の年(585年)、用明天皇の崩御は丁未の年(597年)、推古天皇の即位は癸丑の年(593年)となっており、『書紀』と一致している。『書紀』には、推古天皇は敏達天皇が崩御されたとき34歳であったとあり、誕生は552年となる。『元興寺縁起』に従うと推古天皇の誕生は514年となり、その差は39年となる。『元興寺縁起』が、なぜ推古天皇の誕生を約40年も遡らせなければならなかったのだろうか。

 

吉田一彦氏の「元興寺伽藍縁起并流記資財帳の研究」の論文を読んで、その疑問が解けた。『元興寺縁起』の大部分は元興寺(法興寺、飛鳥寺)の縁起が書かれたものでなく、豊浦寺(建興寺)の縁起が書かれている。平安時代の元慶6年(882年)頃、豊浦寺の帰属をめぐって、宗岳氏(蘇我氏に繋がる石川氏が改名)と元興寺が争っている。豊浦寺は蘇我稲目の作った寺で蘇我氏の氏寺であると主張したのが宗岳氏であり、豊浦寺は推古天皇の発願した寺であると主張したのが元興寺である。『元興寺縁起』は元興寺がその証拠書類として提出したもので、『建興寺縁起』をもとにして捏造したものであった。『建興寺縁起』は現存しないが、その逸文が鎌倉時代の『天王寺秘決』という文章に残っている。

「建興寺縁起云、広庭天皇御世治天下、七年十月十二日、百済国主明王、太子像并灌仏器一具及説仏起書巻一送度□□云々(後略)」

 

Z210.仏教公伝.png表Z210に『法王帝説』『日本書紀』『法王帝説』『建興寺縁起』『元興寺縁起』に記載された仏教公伝に関する記事を比較した。『元興寺縁起』は基本的に『建興寺縁起』をもとにしているが、「干支」は『法王帝説』から、「百済王名」は『日本書紀』から引用しており、「月日」は転記ミスであると思え、一番新しい史料であると考える。『建興寺縁起』では、聖明王から献上された仏像が、「太子像」となっている。「太子像」は聖徳太子を救世観音とみる太子信仰が定着した奈良時代以降に生まれた言葉である。『法王帝説』には、聖徳太子の経歴・業績・人柄・知性は書かれているが、宗教的な信仰対象としては書かれていない。これらより『法王帝説』が『建興寺縁起』よりも先に成立していたことが分かる。仏教伝来を戊午の年(538年)の源は『上宮聖徳法王帝説』であると考える。


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62-1.仏教の伝来の年はまだ確定していない [62.仏教が伝来したのはいつか?]

古墳時代と飛鳥時代の大きな画期は仏教伝来である。しかし、仏教が公伝された年月については、まだ明確になっていない。『日本書紀』の欽明13年(552年)10月の記事には、「百済の聖明王が金堂仏像一体と幡蓋若干・経論若干を献じ、仏を広く礼拝する功徳を上表した。」とある。『上宮聖徳法王帝説』(以後、『法王帝説』と表記)には「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年(538年)十月十二日、百済国の主(聖)明王、始めて仏像・経典、併せて僧等を渡り来て奉る。勅して蘇我稲目宿祢大臣に授け興隆させしむ。」とあり、また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(以後、『元興寺縁起』と表記)には、「大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年、戊午の年(538年)十二月、渡り来たるよりはじまれる。」とある。

 

欽明天皇の御世に百済の聖明王から仏教が伝わったことは、『書紀』と『法王帝説』・『元興寺縁起』は同じだが、伝わった年が「壬申」(552年)と「戊午」(538年)と違っている。『三国史記』によれば、百済国の聖王(聖明王)の治世は523年から554年で、「戊午」の年(538年)、「壬申」の年(552年)の両者は存在している。なお、聖明王の父の武寧王の陵墓が忠清南道公州市の宋山里古墳群から発見され、出土した墓誌には523年に崩御したとあり、『三国史記』の聖明王の在位は正しいことが分かっている。『書紀』の編年によれば、欽明天皇の治世は540年から571年で、「壬申」の年は存在するが、「戊午」の年は存在しない。

 

『書紀』の欽明13年の仏教伝来の記事にある、仏を広く礼拝する功徳をのべた文章、「この法は諸法の中で最も勝れております。解かり難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無情の菩提を成し。」が、唐の義浄が長安3年(703年)に漢訳した『金光明最勝王経』をもとに記述されており、欽明13年(552年)当時には存在していなかったことから、記事の信憑性が疑われ、仏教公伝の年は『法王帝説』・『元興寺縁起』にある戊午の年(538年)が有力視されている。

『日本書紀』   :「是法於諸法中最爲殊勝難解難入。周公・孔子、尚不能知

           能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提

『金光明最勝王経』:「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝難解難入。聲聞獨覚、所不能知

           能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提

 

戊午の年(538年)が仏教伝来の年となると、『書紀』の編年に従えば仏教伝来は宣化3年となり、欽明朝に仏教が伝来したという大前提が崩れてしまう。また、『元興寺縁起』にある「(欽明)七年、戊午」を採用すると、欽明即位は継体天皇崩御の年531年(継体25年、辛亥)の翌年の532年となり、安閑天皇・宣化天皇は存在しないことになる。それを補うため、安閑天皇・宣化天皇と欽明天皇は異母兄弟であり、継体天皇が崩御された直後に、天皇出自を背景として安閑・宣化朝と欽明朝が並立していたとする説がある。こんな説でも考えなければ「欽明天皇の戊午の年(538年)に仏教が公伝した」とする『法王帝説』・『元興寺縁起』の整合性が取れないのである。仏教伝来は538年とすることに、軍配はまだ上がっていないと思える。


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61-14.桑原遺跡が阿武山古墳の年代を解明した [61.後期古墳・終末期古墳の被葬者を比定する]

阿武山古墳から南西に山を下った安威川の側に桑原遺跡・桑原西古墳群がある。この古墳群からは6枚の塼を敷いた竪穴式小石室が発見さされた。また、安威川の対岸には横穴石室に20枚の塼を敷き詰めた横穴石室を持つ、一辺が約10mの方墳である初田1号墳があった。これらの塼は阿武山古墳の塼と多くの特徴を共有しており、同じ窯で焼かれた同時代のものであると見られている。

 

安威川が大きく屈曲する微高地にある桑原遺跡は、安威川ダム建設に伴い平成16年度から大阪府教育委員会により発掘調査が開始され、古墳時代終末期を中心とする桑原西古墳群の姿が現れた。古墳群では少なくとも21基の古墳が確認され、その多くは周溝を共有した状態で密集して築造されていた。墳丘は方墳か円墳で一基のみ八角墳である。埋葬施設のほとんどが無袖式の横穴式石室で、玄室が墓道に直接繋がっていた。

 

大阪府埋蔵文化財調査報告2007-4『桑原遺跡』によると、8基の石室は非常に良好な残存状況にあり、杯や平瓶など飛鳥時代前後の須恵器が多数出土している。横穴式石室の形状および石室内より出土する副葬土器から、造墓は7世紀初頭から7世紀第3四半期までの短い期間に集中的に形成されたとしている。調査報告書では形成過程を桑原Ⅰ期~Ⅴ期に分類しているが、Ⅱ期からⅤ期は極めて短期間であるとされていることから、桑原前期(Ⅰ期)・桑原後期(Ⅱ~Ⅴ期)として見て行くことにした。

 

Z208.桑原遺跡H杯セット.png調査報告書『桑原遺跡』には、杯(杯蓋・杯身)の種別(H杯・G杯・B杯)、直径・口径と器高、図面が記載されていた。杯身の口径と器高の測定箇所は「60-3.須恵器の杯は年代のものさし」で示した植田隆司氏の図表157と同じであった。また、大阪府教育委員会は高槻教育委員会より阿武山古墳出土のH杯、杯身1点・杯蓋3点の須恵器を借り受け、その測定値を記載している。杯蓋の直径と器高に対応する杯身の口径と器高を求めることが出来れば、阿武山古墳出土の杯の年代がより明確にできる。桑原遺跡から出土したH杯には、杯身と杯蓋がセットになったものが11セットある。杯蓋と杯身と直径と口径の差、器高の差の平均(MaxとMinを除く)は、それぞれ1.6cmと0.3cmであった。この値を使って、阿武山古墳出土の杯蓋に対応する杯身の口径・器高を換算した。表Z208に示すように、出土した杯身の口径と器高は3点の杯蓋より換算した杯身の口径と器高の範囲に入っていた。

 

Z209.阿武山杯身法量.png桑原前期(青)と桑原後期(緑)のH杯の杯身、阿武山古墳出土のH杯の杯身(赤)、H杯の杯蓋より換算した杯身(ピンク)の口径と器高を、植田隆司氏の「杯身法量の変遷」にプロットしZ209を作成した。これらから見ると阿武山古墳の杯身は桑原後期と同じで、須恵器の型式はTK217新段階(飛鳥Ⅱ)であることが分かる。私が定めた須恵器の編年表によれば、TK217新段階(飛鳥Ⅱ)は640年~670年となる。

 

桑原遺跡の調査では、桑原Ⅲ期とされるA3号の石室床面より検出された木棺材の一部と見られる炭化物の加速度質量分析法(AMS法)による放射性炭素年代測定が行われている。その結果は68%の確立で645年~670年であり、95%の確立で635年~685年であった。桑原Ⅲ期は桑原後期(640年~670年)の中頃と考えると、須恵器から導きだした年代と、放射性炭素年代測定の値には矛盾がない。

 

桑原西古墳群の6枚の塼が敷かれていた竪穴式小石室は、桑原Ⅴ期とされており、塼の年代はTK217新段階(飛鳥Ⅱ)の終り頃、670年頃と見られる。この塼は阿武山古墳の塼と同じ窯で焼かれ、同時代のものであると見られており、阿武山古墳が670年頃に築造されたことが分かる。藤原鎌足が亡くなったのが天智8年(669年)であるから、阿武山古墳は藤原鎌足の墳墓といえる。桑原西古墳群にはその築造時期が桑原Ⅳ期である八角墳が1基(C3)存在する。その築造時期は藤原鎌足の薨去の時期と重なっており、八角墳は鎌足の遺骸を阿武山古墳に本葬する前に、仮葬した古墳かも知れない。


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